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カタリ


作家になってから研究者、科学者という人たちがとお話をする機会が多くなった。自分にできないことを探求している方に憧れとリスペクトがあり、いまもそうだが……研究という職業は職業として、ふだんのその方たちが四六時中、科学的態度で生きているわけではないことは、簡単に予想がつくはずなのに、そんなこともわからず子どもじみた誤解をしていた。

作家は物語を書くのが仕事で、私の場合は私小説というジャンルの作品を多く書いている。やっている事は私語りである。語り……という言葉の本質を、坂部恵さんという哲学者がとてもわかりやすく書いている。

話す、しゃべる、語り、は違う。どう違うか。語るという場合は話す側はあらかじめ筋みたいなものをもっている。

自分を振り返ればよくわかる。語り手は時として自分の筋を通すためにちょっとした嘘をつく場合がある。その嘘が小説になっていく。だから「カタリ」という言葉には人をだます……という意味合いもある。

自分が科学的だと言っている人、科学的態度をとっていると自負している人のなかに「語る」人がけっこう多いことには驚きだった。それが良い悪いではなく人間としてあたりまえの行為だと思うのだが、おおむね、そういう人は自分は科学者だと信じており、自分が語っていることには頓着せずに、平気で「カタリ」をするのだ。そういう人たちは表現力があり、もちろん頭もよく優秀であるのだけれど、いかんせん、自分の存在を科学的だと信じているものだから、自分の「カタリ」に無自覚なのだ。

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