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それでも、「この世界は生きるに値する」と言わなければならない

少子高齢化社会にあって、いまどこの企業も労働者の管理に苦労している。

年金制度の維持という社会的課題も重なり、企業は今後70歳までの何らかの雇用保障を行なっていかなければならない。

高齢者を雇用し続けることでポストに空きが発生せず、若い人を雇用することができない現状がある。

ところが高齢者は、加齢による体力や気力の衰えにも襲われ、若い頃のような十分なパフォーマンスを発揮できない。

そうなると会社の中では、高齢労働者への風当たりが強くなる。

「あの人辞めさせられないんですか?」

風当たりが強くなるのは、高齢労働者ばかりではない。

現役世代にあっても、十分なパフォーマンスが発揮できない社員や障がい者(発達障がいだと周囲に「診断」されている人を含む)への風当たりは、年々強まっているように感じる。

「あの人を異動させてください!」
「あの人辞めさせられないんですか?」
「あの人をこのまま置いておくなら、私が辞めます!!」

会社やそこで平均以上に働いていると自覚している社員にとって有益性が低いとみなされた人は、排除されなければならない、あるいは排除されても仕方ないという考えが蔓延っている。

人が人を無益認定する社会

それもこれも、余裕がないからだ。

会社に余裕がないし、社会にも余裕がない。

社会的無益認定された人を排除しようとする言説は、ぼくたちの社会では間欠的にわき起こる。

最近も有名メンタリストが、ホームレス排除の発言を行なって炎上した。

有名になって、お金持ちになって、たくさんの本を読み知識を得て、その果てに行き着く先が、優生思想や排他主義的思想なのだとしたら、さらにその思想を社会的に発信することが「個人的感想」として許容されるのだとしたら、そんな社会はやっぱりおかしいのだ。

じゃあ、どんな社会に生きていたいのだろうか?

どんな社会を未来に残したいのだろうか?

少なくともぼくは、他人の生命の価値を軽んじない社会であり、一人ひとりが大切にされる社会に生きていたい。「この世界は生きるに値する」と誰もが思える社会を残したい。

ぼくたちはどうも目先の経済的利益を生み出す短期的な有用性にこだわり過ぎているのではないか?

意識や思想がシステムをつくっているのではなく、システムが意識や思想をつくっているのだとしたら、短期的に経済的利益を追求するシステムを変えるべきではないか?

少なくとも、もう少しゆとりのある働き方や生活をするべきではないか?

社会的に有用かどうかは短期的にはわからない

そう考えていたとき、「働かない働きアリ」という話を思い出した。

アリの中には働かない働きアリが存在すると指摘するのは、進化生物学者の長谷川英祐だ。

長谷川によると、働かない働きアリには「直近の未来の効率ではなく、遠い未来の存続可能性に反応した進化が起こっている」といい、次のように指摘している。

みながいっせいに働くシステムは直近の効率が高くても、未来の適応度は低いのです。

1日あたり10人の労働者がいるとして、それぞれがフルパワーで10ポイントの仕事をこなせたら全体で100ポイントの仕事ができる。

一人が有給休暇なりで休みをとれば、残りがフルパワーで働いたとしても90ポイントの仕事しかできない。

だから、みながいっせいに働く方が労働効率はいいというのは、誰でも理解できる話だ。

しかし、人間は機械ではない。必ず疲れるし、疲れを回復するためには食事と睡眠と休養がバランスよく必要となる。

であれば、常に全員が全力全開フルパワーで働くことは困難なのだ。

みながいっせいに働く方が労働効率はいいが、みながいっせいに働くことはできない。

したがって、働かない労働者がいる場合、短期的な労働効率は低下することになる。

ところが、その仕事が社会的に必要とされる仕事であり、一定期間以上の稼働がないと社会の維持が困難になる場合、働かない者がいるシステムを採用する社会の方が長い時間存続できることがわかったのだ。

つまり誰もが必ず疲れる以上、働かないものを常に含む非効率的なシステムでこそ、長期的な存続が可能になり、長い時間を通してみたらそういうシステムが選ばれていた、ということになります。働かない働きアリは、怠けてコロニーの効率をさげる存在ではなく、それがいないとコロニーが存続できない、きわめて重要な存在だといえるのです。

ここでいう働かない働きアリとは、いわゆるフリーライダー(タダ乗りする人)ではなく、「働きたくても働けない」存在を指す。

10ポイントの仕事がこなせる労働者だけではなく、2〜3ポイントの仕事しかこなせない労働者やお休みする労働者などさまざまな人がいて、しかし悪意を持ってサボろうと思っている人はいないという状態があれば、会社はうまく回っていくのだ。

全員が常にフルパワーでは、会社はダメになるのである。

この世界は生きるに値する

だとすれば、高齢労働者や十分なパフォーマンスが発揮できない職員や障がい者を、会社への貢献度が低い人と切り捨てる発想は、長期的には会社をダメにするかもしれない。

むろんフルパワーで働く人々に何か起きた場合に、高齢労働者などが完全に同じことをできるわけではないだろう。

けれども、そのときいるメンバーで最適な運営が行われるはずだ。

完全に同一のアウトカムを期待すれば、不満はあるだろう。

でも、それは当たり前のことだと割り切ることができないだろうか?

チームのメンバーが代われば、仕事のやり方は変わるし、仕事のアウトカムも変わりうる。後退する面もあれば、前進する面もある。

こうであらねばならないという姿勢を崩せない組織やチームというのは、異論や反論、異質なものを受け入れる余裕がない。

そして、いま多くの会社がそうした余裕がない状況に陥っているのだ。

ワンチームとか、フレキシブルな対応とか言いながら、実は排他的な組織やチームをつくっていることが多いのである。

自戒を込めてそう思う。

ぼくたちの社会もまた同様である。

ダイバーシティーだ、ソーシャル・インクルージョンだという横文字が浸透しないのは、ぼくたちの社会の実際が多様性を受容するゆとりを持っていないからだ。

それは心がけの問題なのだろうか?

智に働けば角が立ち、情に棹させば流れ、意地を通せば窮屈となる、人の世の定めなのだろうか?

それとも、資本主義システムの問題なのだろうか?

精神論でも運命論でもなく、システムの問題だとぼくは思う。

いずれにしろ明らかなことは次のことだ。

対象が労働者であれ、障がい者であれ、ホームレスであれ、生活保護受給者であれ、他人を社会的有用性の有無をもって切り捨てる会社や社会に未来はない。

何よりそんな偉そうな、クソったれた人間になってはいけない。

社会にはさまざまな矛盾があり、決してきれいごとだけで済まされないことなど百も承知だ。

それでもぼくたちは言わなければならない。

「この世界は生きるに値する」、と。

それが人間としての矜持だ。

何よりも自分が肝に銘じておきたい。


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