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『西の魔女が死んだ』 隠れた傑作、これいかに? 第16回

『西の魔女が死んだ』  2008年 / 日本
 監督:長崎俊一 出演:高橋真悠、サチ・パーカー、りょう、他

第15回で書かせていただいた通り、ゼロ年代以降の日本映画で、特に私が重要な傑作だと考えているのが、
長澤雅彦監督の『ココニイルコト』と、
紀里谷和明監督の『CASSERN』、
そして本作、長崎俊一監督の『西の魔女が死んだ』です。

本作を含めいずれの作品も、総合芸術としてのクオリティが著しく高く、ありきたりの型を用いない点で共通していますが、
作品ごとの理由は『ココニイルコト』について前回、『CASSERN』については第11回で説明させていただきました。

要点をかいつまめば、
『ココニイルコト』はオリジナルなキャラクターを作り上げるという点、
『CASSERN』は映画全体がギリシャ劇のような神話的悲劇性を帯びている点で、
ここ二十年ほどの日本映画史の中で特筆すべき作品だと私は思います。

本作はどうでしょう。
これは小説を原作とする映画の在り方について、瞠目すべき傑作だと思うのです。

邦画であれ洋画であれ、原作物の映画はほとんどの場合、どうやったら原作に近づけるか、原作の魅力をいかに映像に移し替えるかに総力が注がれているように見えます。

本作はどうも、ひたすら映画としての魅力を追求しているように見える。
それもすこぶる丁寧に、誠実に。

それで、場面によっては、いやそれどころか映画そのものが、原作を越える事だって当然ありうると(実際はともかく、出来上がった作品からは)作り手が考えているように見えるのです。

もちろん小説と映画は全く別の表現手段ですから、「映画が小説を越える」というのはおかしなレトリックです。

要は、小説が表現しようとしている物を、映画がより深く、より雄弁に表現しうる事は、長崎監督にとってはごく自然な事なのではないかという気がするのです(ご本人がそう発言しているわけではありません)。

梨木香歩の原作は、私も含め多くの読書好きに愛されている名作。
当然、映像化は困難です。
著者はファンタジーの本場イギリスで児童文学を学んだ人で、他の著作は今に至るまで一作も映画化されていません。

表向きは淡々とした暮らしを描いているようで、それは一番上の目につくレイヤーにすぎず、隠れているテーマはずっと重層的です。

映画の上辺もやっぱりそうで、一見した所では、原作の世界がそのまま具現化されたような感触を受けます。
実際、原作のセリフをそのまま使っている箇所もあります(郵便配達人のエピソードなど、映画オリジナルの工夫もあります)。

原作には、梨木香歩が小説、エッセイを問わず初期作品で追求していた問題意識が、すでに表れています。
それは物理的・心理的な「境界線」の概念と、理解できるできないに関わらず「相手を尊重して受け入れる」という発想。

長崎監督が著者の他の作品も読んだのかどうかは分かりませんが、物語が内包するそれらの隠れたテーマを、彼は逃さずキャッチしています。

私は原作物の映画で、最後まで何の違和感もなく観られた事はかつて一度も無かったと記憶しますが、
本作はそこを難なくクリアした上、映画としての出来映えがとにかく素晴らしい。

長崎監督は自主映画出身らしく、映画表現のあらゆる側面に精通している才人ですが、長編デビュー作『九月の冗談クラブバンド』から一貫しているのが、映像設計、わけても構図に対する類いまれな美的センスです。

冒頭10分間を観ただけでも、あらゆるカットが図抜けて情感豊かで、それらが全く無駄のない、美しいリズムで編集されている事が見て取れます。
それだけで、この映画の作り手がいかに研ぎ澄まされたセンスを備えているかがよく分かる。
そんな映画には、なかなか出会えるものではありません。

原作物でも、例えば『死国』では、小説から特定の要素を抽出してストーリーを独自に再構築していて、長崎監督の映画化の手法は毎回同じではありません。

本作では原作にぴたりと寄り添い、そのエッセンスを丹念に取り上げてゆきますが、それはそのまま、主人公まいのおばあちゃんの生活スタイルでもあります。

周りの自然を注意深く観察し、法則性を発見し、呼吸や足取りを一致させて共生する、そんな毎日を丁寧に積み上げてゆく事で、彼女は魔法を扱う力を得る。

この映画の作られ方も、彼女の生き方と同じなのです。
素材をよく観察し、慎重に積み上げる事で、本作は目を見張るような素敵な魔法を私たちに見せてくれる。

例えば、もやもやを抱えたまいが森の中の自分の聖域で、自身の内面が呼び寄せたような不穏な空気に怯える場面。

映画はそれを、突然の嵐という自然現象に翻訳しつつ、恐ろしいような樹々のざわめきと山全体から伝わるような雨音の振動を、まるで観客がそこに居合わせているかのようにヴィヴィッドに体感させます。
小説では表現できない、実に映画的な描写です。

それに、ラストへの伏線でもある、おばあちゃんがまいにある約束をするくだり。

演出にこれみよがしな強調は何一つないけれど、トベタ・バジュンによるポエジーと幻想味に溢れた音楽が画面を彩っていて、これが何かとても特別で、マジカルな瞬間なのだと伝えてくる。

もっとシンプルに俳優の芝居で言えば、まいがおばあちゃんに学校の状況を説明するくだりで、「簡単だよ。みんなで誰かひとりを敵に決めればいいんだよ」と言う所。

脚本を書いた長崎監督と矢沢由美(奥さんで俳優の、水島かおりのペンネーム)はここで陳腐な会話をさせず、ただ沈黙によって、おばあちゃんが全てを理解した事を観客に伝えます。
こういう空気感と間合いによる表現も、映画でしか成しえないものです。

これらの瞬間において、この映画は原作の限界を、ごく自然に凌駕しています。
音と映像のメディアである映画においては、誠実に作れば当然そういう瞬間は訪れるとでもいうように。
しかし実際には、それはまったく希有な事なのです。

 
まいを演じた高橋真悠は、年齢的にもキャリア的にもまだ未成熟な所(特にセリフ回し)はあるものの、ラストの表情などは映画を締めくくるにふさわしい卓抜な表現。

おばあちゃんを演じたサチ・パーカーは、シャーリー・マクレーンの実娘。
日本に住んでいた事があるそうで、日本語のセリフにもほとんど違和感はありません。
穏やかな口調や優しい眼差しなど、役のイメージによく合っていてキャスティング成功といえます。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。(見出しの写真はイメージで、映画本編の画像ではありません)

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