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マリンスタジアム誕生秘話(1)

 ZOZOマリンスタジアムに建て替えや改修の話が出てきて、千葉市に「マリンスタジアム再整備推進課」なるチームまで発足し、現実味を帯びてきたので、今のスタジアムへの想いと理解を深める意味で、「マリンスタジアム誕生秘話」を蒸し返してみよう。

 東京ドームにしろ、福岡ドームにしろ、新しいスタジアム計画が公にされた時はいつもメディアを通じ、その経過やイメージ画に思いを馳せるものである。マリンスタジアムも、新しい時代のプロ野球にふさわしい堂々たるイメージを見せていた。しかし、東京ドーム、グリーンスタジアム神戸に比べ、この球場の計画は私にとってあまりに唐突だった。東京ドーム、神戸がイメージ的に「すんなりと」「光を当てられ」誕生したのに対し、である。しかも、オリックスが西宮から神戸に移転した時と比べ、ロッテが川崎から千葉に移転するまでの経緯があまりにもシークレットであったことも、この球場に対する、何か釈然としない感情を抱かせる一因になっていた。単に情報の少なさか?それもあるだろう。しかし、新スタジアムの建設や、大都市のプロ球団誘致運動の背景には、必ず「ファン」の純粋に野球を求める声が多かれ少なかれ反映されている。私がマリンスタジアムの誕生を「唐突に」感じたのは、普段からそういった地元のファンの動きが、メディアを通して見えてこなかったせいだと思う。

 確かに、スタジアムと球団を熱望する市民の声はあったのだろう。しかし、少なくとも市民サイドの動きが感じられなかったことは確かだ。だから身近なメディアからは伝わってこなかったマリンスタジアム計画の経緯について詳しくのべられている資料を求めたのは自然な欲求だった。案の定、マリンスタジアムは、「政治の駆け引き」の産物だったのである...。

 1981年7月、千葉市長・松井旭は、市民のシンボルたる多目的スタジアム建設構想を、記者会見において公にした。前年度の80年、千葉市が市民に対して大々的に行ったアンケートで「千葉市には"顔"がない」ということが明らかになったのだ。つまり、市民が自分の街に「杜の都仙台」「ミナト横浜」といったステータスを持っていないということである。

 そんな出来事が、松井に千葉のステータスとなり得る「モノ」を作らねば...と思わせた。しかし、旭川出身であまり千葉と関係の深くない松井は、早く目に見える形で何らかの業績を残したかった。「目に見える形で」とは、形のある「モノ」つまりハコモノのことだ。私が思うに、日本人は、知恵とか政策といった、無形の財産の価値は軽視し、形あるものの価値は重視するという傾向がある。それが松井の「ハコモノを作る」という発想につながったのではないかという気がする。

 翌82年4月、松井は、今度はそのスタジアムの基本構想をまとめたものを明らかにした。主な概要は次の通り。

「国鉄千葉駅から徒歩15分、千葉公園内。収容人員42,000人~45,000人。市、県、民間から成る第三セクター。昭和59年4月にはオープン。 5,000人収容のアリーナを併設」この頃は、まだ幕張のまの字も出てこなかったことだろう。

 また、スタジアムを採算ラインに乗せるには、プロ球団の誘致が不可欠だ。それについても、すでに複数の球団と水面下で交渉中。来てくれればふるさと球団として迎えたいという意向も明らかにした。

 普通、市長がそこまで言えば、世間は本気にする。しかし、これは松井とその周辺の勇み足だった。松井は「功をあせった」のだろうか。

 県が怒ったのである。おりしもこの時は第二次オイルショックの影響で、景気がどん底だった。そんな時に、市が県にスタジアムへの出資要請をしたのはこの発表のほんの数日前。「出る杭は打たれる」この日本では、確かに「根回し」が足りなかったのだろう。千葉県知事・沼田武がこの発表から3日後の記者会見で難色を示した。

 ところで松井が誘致したかった意中の球団とはロッテ、ヤクルト、そしてなんと日本ハムだったという。この頃の日本ハムと言えば、常に首位戦線に顔を出すチームだった。本拠地移転の話が出てくる時というのは、得てしてチームが弱体化して経営難の時なのだが...やはり本拠地が巨人と同じというのが理由だろう。

 それは置いといて、松井と沼田は元々あまり仲が良くなかったという。普段心証が良くないと、何かささいな諍いがあっても、メディアを通じて「俺は怒ったぞ」と主張したくなるものである。

 松井はスタジアム計画をひとまず諦めざるを得なかった。これは、単に「仲が悪い」ということに起因しているわけではないようだ。それだけなら二人を仲裁できる人物は周囲にいたことだろう。問題はもっと複雑だった。

 97年12月に開通した、川崎-木更津を結ぶ「アクアライン」。国家レベルの開発事業の中でも最大規模のものである。82年のこの時、このプロジェクトは非常に微妙な状態にあったという。

 この千葉と神奈川を結ぶ道路の開通は、神奈川より経済力で劣る千葉に、多大なメリットをもたらす。この事業は、どちらかというと神奈川より千葉の方がマジだったようだ。しかし前年の「首都圏サミット」では、神奈川側は「横断道路は神奈川県にとってはそれほど必要ではない」との見解を述べていた。要するに、千葉の神奈川に対する「片想い」だったわけだ。千葉は神奈川の機嫌を損ねることはできない立場にあった。

 そんな時に松井は川崎のロッテに「千葉に来ませんか」と水面下で交渉していることを自ら公にした。大洋ホエールズを横浜に持っていかれた川崎市は、やっときてくれたロッテだけは死守したかった。また沼田にしてみればこういうナーバスな時に、神奈川の神経を逆なでするようなことはして欲しくなかったのだ。

 時期が悪かったと言えばそれまでだが、一兆五百億円のビッグプロジェクトと二百億円程度の野球場計画では喧嘩にならない。横断道路の方は国家の必須事業とされていた。以後、松井はスタジアムのことについては口を閉ざすようになる。(続く)


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