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マリンスタジアム誕生秘話(2)

 松井は、スタジアム建設と千葉市民球団の実現を諦めたわけではなかった。ロッテ誘致がだめなら、新球団を旗揚げしてセ・リーグに加盟しようという程に。

 そして松井は県内の識者、市議会議員、各種団体職員、行政機関職員らを集め「多目的千葉スタジアム計画懇談会」を発足させる。その上部組織として県の有力企業の役員らで構成される「顧問会議」を置いた。ここで一番苦労したのはある顧問の一人。計画を推進すれば県の反感を買うし、チャラになれば市長のメンツをつぶす。両方の顔を立てなければならない。

 そして顧問会議が松井に手渡した建議書の内容は...

「多目的スタジアムではなく市民スタジアムを建設すべきであり...千葉公園以外にも場所を検討すべし。さらに県知事は、スタジアムの必要性、有効性を理解し、スタジアム建設に支援協力を」というものだった(別にこの通りの文面ではない筈だが)。つまり、興行ではなく、あくまで市のスポーツ文化推進が目的であり、民間の出資とプロ球団誘致は諦めてくれ、と暗に言っているのである。

 松井のビジョンは、先のスタジアム基本構想発表からは大幅に後退したと言える。野望は消えたのか?

 千葉県は、この「東京湾横断道路」と「成田国際空港都市」、そして「幕張新都心」を、国際経済先進県へと脱皮するための「千葉新産業三角構想」として力を入れていた。松井のスタジアム構想をうやむやにすることに「成功」した沼田は、松井がスタジアム実現に焦っていたように、この三角構想に躍起になっていたのだ。しかし今度は沼田の方が松井に足を引っ張られることになる。

 昭和60年5月1日、『幕張メッセ』の建設費は、市と県が負担することになるという事業計画素案が発表された。これは松井、沼田、他地元経済界有力者2名の協議で決定したものだった。その9日後に、松井が「メッセ建設による経済効果を表す具体的なデータがない。地元経済界の足並みも揃っていない。経済界や国からの補助金を求める努力も必要なはずだ」と、県への不満を公にした。資料にも書いてあるが、これはスタジアム構想を潰された怨みだと、私も思う。なにしろ自分が決定に加わったはずの素案を、後で自ら否定したのだから。

 しかし意外にも、このメッセ計画が、スタジアム計画復活のキッカケに なる。

 つまり、当初はメッセの中にスタジアムなど建設する予定はまったくなかったということか...。なぜこんなに野球場にふさわしくない場所に...と感じた人も多かったことだろうが、こういう背景があったのである。

 松井のこの態度に、周囲は混乱する。このままではメッセ計画も進展しない。そこでまた多くの人が二人の間を取り持つことに奔走する。その「功労者」が、先の「懇談会」の会長・角坂仁忠と、政治サロン「千葉交友倶楽部」の会長・石毛博。いつの時代も、こういう苦労をするのは、「最高権力者」の直下にあたる人達なのだ...。

 石毛は松井に、沼田に頭を下げることを勧めるが、メンツにこだわる松井はこれを拒否。結局石毛が、沼田と直接交渉するわけだが結果的にはこれが吉と出る(ということだよな)。

 そして石毛は松井に「三点セット案」を持ち帰る。三点セット案とは、メッセ本体を県、ホテルなどを民間、スポーツ施設を市が受け持ち、推進して行こうという案である。これが、一度は消えたスタジアム計画が復活するキッカケとなった。千葉のスタジアムが「マリン」スタジアムになったのには、そういう理由がある。「海辺はオシャレ」などというノーテンキな思想が入り込む余地はおそらくなかったと思われる。

 その後、松井と沼田は何度か会談を重ね、関係は修復の方向に向かう。松井は念願のスタジアムを幕張メッセの中に作らせてもらうかわりに、メッセの方には口を出さないという、いかにも政治的な「取り引き」をしたのである。

 そして、今度こそ本格的なスタジアムの概要が同年暮れに発表される。運営方式は第三セクター、県は出資せず、市と外郭団体が50%、民間が50%を分担。資本金は約2億円。

 それにしても「市民球場」が幕張メッセのような、「生活の匂い」がまったくしない所にできるのはどうかという気がしたが、関係者はそれを大方好意的に考えているという。ビジネス色が強すぎる幕張メッセにスタジアムがあれば、老若男女、いろんな人が来てくれるからだそうだ。

 そして、一方の横断道路の件も、何ら障害がなくなると、プロ野球誘致の話題が、公然と語られるようになる。「市民球場は興行が目的ではなく云々」という話はどうなったんだ?

 ともかく、松井は「プロ野球を誘致したい」という意向をまた表面に出すようになる。さて、当時誘致の本命とされていたロッテは、当時からその件について「ノーコメント」を通していたが、川崎球場の老朽化に手を打たない川崎市に不満を抱いていた。資料は、建設当時のものであるため、マリンスタジアムに来るのがオリックスとか、ダイエーとか、大京観光、ジャスコなどの新球団とか色々憶測を飛ばしていたが、私も当時から「ロッテが来るのではないか」と思ってはいた。

 かくして、マリンスタジアムは、その採算性が手探り状態であるが故に、プロ球団誘致を焦らず、オープン戦、公式戦を少しづつ行うことで手応えをつかんでいく道をとった。確か最初の試合はロッテと巨人のオープン戦で、かの長嶋茂雄が祝辞を述べに来た記憶がある。何事もなかったかのような華やかなムードの裏に、こういう経緯があったのだ...。

 以上が私の知る限りの、マリンスタジアム誕生までの顛末である。

 ところで、ある一つの事がどうしても引っかかる。それは、先にも述べたが、「地元のファンの反応が見えてこない」ことである。

 どうも、すべてが政治の駆け引きの中で行われ、市民の声が球場のコンセプトに反映されず、結局、県の保有地の、いつも強い海風が吹く、およそ野球には不向きな場所にできてしまうという...。だから私にとっても、このスタジアムが「唐突に」現れたような気がしてならないのである。しかし、松井が自分の功績のために作ったとは言え、それが「スポーツ施設」という発想につながったことは評価されて良いのではないだろうか。

 マリンスタジアムは、決して地元ファンの強い要望から産まれたものではないのかもしれないが、今となっては、それは大した問題ではない。一人の人間の価値が、生れや血筋ではなく、その行いで決まるように。

 先に地元のファンの熱意があって、スタジアムができるのも、先にスタジアムができて、後から熱狂的なファンが育つのも、どちらが良い悪いというものではない。スタジアムとロッテマリーンズは既に千葉になくてはならないものに成長している。

 マリンスタジアムの老朽化を早めているのがそもそも「海辺に」あることなのだが、なぜそんな場所に?という点には何となく合点がいった。松井市長の「基本構想」にあった千葉公園に関しては既に「ない」と公言されている。では今の場所に立て替えてまた早く老朽化するか?しかし海のすぐ近くだから好きだというファンもいるだろう。誕生の経緯とは裏腹につくづく魅力的なスタジアムだったのだと思う。

参考資料『別冊宝島93 プロ野球の悩み』(89年5月発行)から「千葉マリンスタジアムの黒いプレイボール」(斉藤貴男)


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