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日本人はなぜプロ野球帽を被らないか

 昔のある野球雑誌の冒頭記事で、日米の野球ファンの違いを、街中でのいでたちという側面から論じていた。

 アメリカの野球ファンは、街中で普通に地元チームの帽子をかぶっているのに、日本では、地元チームの帽子を被って街を歩くファンがいないと言うのだ(最近は都内でヤクルトの帽子やTシャツ等を着用している人をたまに見かけるようになったが)。

 確かに、広島や大阪、福岡といった、地元のチームを熱心に応援するファンを多く抱える街でさえ、カープやタイガース、ホークスの帽子を堂々と被って歩いている人はあまり見かけなかった。それどころか、日本人はメジャーリーグのチームの帽子をファッションとして被っている。例の雑誌はこの現象から「アメリカではプロ野球チームがそれだけ文化として根付いている」と結論づけた。そしてその後、お決まりの「それに較べて日本は..」という論調になっていくわけだが、実際「それに較べて日本は」どう違うのか。ちょっと真面目に考えてみる価値はありそうだ。

 メジャーリーグのチームの帽子はカッコ良くて、日本のチームの帽子はカッコ悪いのだろうか。まず前提としてそれはあり得ない。少なくとも日米の帽子の間にデザイン上の優劣は存在しない(特に岡本太郎デザインによる近鉄のマークは意匠史に残る傑作と言える)。

  帽子の役割自体は改めて言うまでもないが、色々な形状や素材、色、装飾がある以上、ファッションの役目もしている事は確かだろう。帽子に限らず、無数にある中から一つを選び、身に付けるという行為は、ファッションそのものである。日本人がメジャーリーグの帽子を被り、日本のチームの帽子を被らないという事は、日本人にとってメジャーリーグの帽子はファッションであり、日本のチームの帽子はファッションではないという事になる。では日本のチームの帽子は何なのかというと「私は○○ズのファンです」という単なる意思表示の手段でしかない。

 ファッションの目的は、他者に自分を良く見せる事、自分に興味を持ってもらう事だと思う。それには意思表示のようなものも反映されるが、それは「自分に興味を持ってもらう事」に含まれ、どこそこのファンですという意思表示とはまた別物だと思う。

 ファッションの性質にはたぶん二つある。一つは「ブランド」である事。もう一つは「ブランドでない事」。前者は言うまでもない。メジャーリーグの帽子が持っている効果は主に後者のものである。

 街中でメジャーリーグの帽子を見て、どこのチームのものかすぐにわかる日本人はそういない。しかしそれを被っている日本人の多くは単純にデザインの好みでそれを選んでいる(レッドソックスの帽子を被っている日本人がいたからといって、彼がレッドソックスの熱心なファンだとは考えにくい)。それを被る意義は、自分と同じようにそのデザインに興味を持つ人にアピールし、「それ、何の帽子?」と興味を持ってもらう事にある。それがファッションなのだ。もし周囲の誰もが、それがどのチームのものかわかってしまうのなら、その時点でファッションではなくなるのである。

 対して、日本のチームの帽子は、どのチームのものもたいがいの日本人に認識できる。つまり、日本人にとって日本のプロ野球の帽子は、あまりにも存在が身近すぎてファッションとして成立しないのである。巨人の帽子ですら街中であまり見かけないのはそういう理由だと思う。単に「ダサい」というのとは違う。

 では、日本人に広く知られているヤンキースの帽子が日本人に人気があるのはなぜだろう。それは前記「ファッションの性質」の前者である「ブランド力」によるものと思われる。ヤンキースだけは、ファッションの有名ブランドに匹敵する力を持っている。そこが他のチームと違うところである。

 では話をアメリカ人に移す。彼らにとってはメジャーリーグの球団こそが「地元のチーム」である。しかし件の雑誌によると彼らは街中で堂々と地元のチームの帽子を被っているという。それがどこまで本当なのかわからないが、本当の方が話が面白いので本当の事とする。彼らが堂々と地元のチームの帽子を被っているなら、ここまでの話とは矛盾する。しかし好きなチームの帽子を被るという行為が、ファッションではなく意思表示であるという考えは譲れない。つまり彼らは堂々と街中で「意思表示」を行っているのだ。それを日本人は行わない。「それに較べて日本は..」どう違うのか、見えてきた。

 早い話が日本人とアメリカ人の違いなのだ。普通に考えて、日本に野球が根付いていないわけがない。ただ、「違い」の一言で片付けるには何か釈然としない「違い」ではある。

 確かに、まだ野球が娯楽の中心であった時代は、野球場以外の場所でもプロ野球チームの帽子を被っていた人は結構いた。今は何が娯楽の中心かと言うと、はっきり「これだ」と言えるものはない。そんな今という時代を「娯楽や価値観の多様化」というだけで片付けられるかというと、それも違う。「○○が好きだ」という意思表示をする人がいなくなった事と「娯楽の多様化」は関係ないからだ。つまり「好き」を主張する人間がいなくなったという事である。

 その代わり「嫌い」を主張する人間はやたらと増えた。人が、嫌いなものでしか自己を主張しなくなれば、世の中は荒れる。野球が根付いているかどうかよりも余程深刻な問題だろう。ファッションは時代がどう変わろうと不滅なのだから放っておけば良い。アメリカ人が「ファッション」として日本のチームの帽子を被る事も普通にあり得るだろう。日本人が地元チームの帽子を被らないからと言って、その問題を野球の浸透度や住人の地元意識といったレベルの中で完結させられるものではない。どんな現象も、人の心が反映されている。そこまで辿らなければ、考察はできない。

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