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野球選手のタレント活動に見るファン気質の変化の話

 元日本ハムの杉谷拳士がテレビのバラエティ番組で活躍した。彼は現役時代からそういう素質を見せていたが、「88試合出場」がいわゆるキャリアハイの彼に対して「タレント活動に現をぬかして」云々と批判する声はあまり聞かれなかった。

 そうした様子を見ると、ファンの気質にも変化が表れているように思う。

 プロ野球選手のタレント活動というと、自分にとってもっとも印象が強いのは同じ日本ハム出身の岩本勉のそれだった。現役晩年は振るわなかった彼だが、稀なタレント性があり、オフにはテレビのバラエティに出演する事もあった。
 そんな岩本の「タレント活動」に批判的なファイターズファンは結構いた。彼らの主な言い分は、「野球で駄目だったくせに、けしからん」というものだったが、この言い分には、たぶん二つの意味がある。

 ひとつは、「タレント活動に現をぬかして、練習をおろそかにするから成績が振るわないのだ」というものだが、これは外部がどうこう言う問題ではない。テレビに出たからと言って、それでどれだけ練習をおろそかにしたかなど、他者に把握できるものでもないし、プロなのだから、野球選手としての活動に支障をきたすと判断したら、自制できるはずだ。選手がテレビのバラエティ番組に出演したからと言って、それで成績が落ちるのではと心配する必要はないし、落ちたとしても、テレビのせいだとは限らない。

 もうひとつが本題。「野球で駄目なくせに、けしからん」という心理の根底にあるもの、である。

 言うまでもなく、野球とタレント活動はどちらが上で、どちらが下というものではない。言い換えれば野球選手とタレントはどちらが上で、どちらが下というものではないという事。しいて言うなら、野球選手にとっては野球が上で、タレントにとってはタレント活動が上、というくらいだろう。
 しかし「Aが駄目だったのに、Bなどと」という台詞には、AをBよりも下に見るという心理が反映されている。今回の例に当てはめると、「野球で駄目だったくせに、テレビに出るなんて」の根底にあるのは、言うまでもなく、「芸能人コンプレックス」である。

 が、テレビのバラエティ番組が、例えば野球選手なら野球、サッカー選手ならサッカーの分野ですぐれた成績を収めなければ出演できないというほど大層なものとは思えない。しかし彼らはなぜか「芸能人」に対し、本来まったく不要であるはずのコンプレックスを持っている。そうでなくとも、基本的にはメディア信仰の日本人である。さほど才能があるとも思えないが、なぜか周囲からチヤホヤされる「芸能人」に対し、羨望と憎悪を募らせる反面、いざ贔屓の選手が彼らと共演となるとそれを檜舞台にでも立ったかのように言う。

 考えてみて欲しい。メディアに持ち上げられ、作られた「人気タレント」と、150km/hの速球を投げたり、それを打ち返してしまう野球選手と、どちらが凄いか。
「どちらが上でどちらが下か、というものではない」と先に述べたのは、あくまで世の中の暗黙のルールであって、客観的に見ても、テレビで視聴者を笑わす野球選手はいても、150km/hの速球を投げたり、それを打ち返せるタレントというのは見た事がない。もちろん野球選手の場合、タレントの助けを借りてはいるが、タレントがプロ野球選手と同じ事をするのは誰の助けを借りても無理だろう。

 誇り高き大衆は、本来、中途半端なタレント程度のものにコンプレックスを抱く必要はない。そして高い技能を持って我々に最高の娯楽を提供する野球選手は、大衆の側にあるもの。結論を言うと、タレント活動は「結果を残したものの特権」ではなく「余芸」で充分。批判される程の事ではないのである。
 つまり、野球の成績がどうであろうと、タレントとしての素質があるのなら、タレント活動をすれば良い。
 岩本の場合、「ファイターズをアピールしよう」という責任感のようなものからか、無理に面白い事を言おうとしているフシがあったが、客観的に見て彼は、必要以上に力まなくても、バラエティやスポーツ番組の分野で充分活躍できるタレント性を持っていた。お笑い系タレントには、特殊な技能を持っているから面白いというタイプと、個性そのものが面白いというタイプがあり、岩本は幸い、後者の素質に恵まれていた。その後経験を積んで彼は、坂東英二のような活躍を続けるタレントになった。

 昔あるディベート番組で、楽天の初代GMにもなったマーティ・キーナートが「アメリカにはメジャーリーガーとして活躍した後、医者や弁護士として活躍できる者もいる」と言った。それに対して日本球界の「代表」が、「野球をやるだけでも大変なんだ」と反論していた。間違ってはいないが、それはそれで悲しい。
 キーナートは、「アメリカ人は日本人よりも優れている」などと言っているのではなく、「人間にはもっと凄い潜在能力がある」という事を言っていたのである。しかし日本人には、二つ以上の事に打ち込むのを「不実」とする傾向がある。それが、岩本のような選手への批判と無関係ではないように思えた。

 そんな過去の風潮を思うと、今の野球ファン、というか日本人には、大谷選手の名言ではないが「憧れるのをやめた」感がある、と言うか、憧れる価値のあるものとないものを見分けるようになったと言った方が良いだろうか。
 これは、今まで雲の上の存在のように思われたタレント達が、ちょっとした失言や問題行動で炎上するようになった、つまり大衆の側からすれば「直接叩ける」「叩けば稚拙な本性を晒す」存在である事、崇めるような存在ではない事が知られてしまった事が大きいように思う。

 だから今の世の中は一見、大衆がちょっとした事で発狂し、コミュニティが炎上するギスギスしたもののように見えるが、「自我を持った大衆」も着実に増えているという、成熟した断片も見せている。「プロ野球のファン気質」といっても、それはプロ野球のファン限定のものではなく、社会を見るひとつの窓なのだと言える。

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