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「永久欠番」の弊害?

 数字とは無機質なものである筈だが、なぜか愛着とかこだわりを持たれやすい。なぜかというと「数値」ではなく数「字」という、「姿」を持った存在だからだと思われる。ただの数値であれば10進数の「2」も2進数の「10」も同じだが、例えば背番号3番を熱望する選手に「11」番を与え「それは2進数の"3"だよ」とは言いにくい。
「姿」があるからこそ、背番号はその選手の姿や活躍とセットでイメージされ、思い出される。背番号は決して無機質な「数値」ではない。「0」と「00」が、値としては同じなのに別物として扱われるのがその証拠と言える。
 一軍半だった元阪神の亀山務の走る姿を見て当時の島野コーチが「何か刺激が必要だ」と球団に亀山の新背番号を検討してもらった。
「亀山の後ろ姿を見てて、何か重いイメージがあったんだよな。足が速くすばしっこい選手なのに。プロ野球選手ってのは、その背番号なりの仕事をしてしまうものなんだ。だから、もっと軽い番号にした方がいいとアドバイスしたんだよ」と。
 背番号にまつわるそんなエピソードは尽きない。選手は皆、そのチームではユニークな背番号を付けているから、自分という個性を主張しやすいのだと思う。私がプロ野球の選手だったら、自分と同じ背番号Tシャツを着たファンがいたら嬉しいに違いない。
 誰にでも、好きな数字、憧れる数字というものがある。そんな数字は、付けていて気分がいいから、体にもフィットするような気がする。そうすると動きも自然と良くなる。背番号は一番わかりやすい自分だけのステータスでもある。
 運良くそんな数字を得られた選手は幸せだ。そうでない選手も、虎視耽々と好きな数字を狙う。
 しかし、その数字が最初から一生手の届かないものだと決まっていたとしたら...。

「永久欠番」は、そのチームで偉大な功績を残した選手の背番号に敬意を表し、文字通り誰にもその背番号を継がせないという慣習である。
 その数字がチームにとって特別な存在である事は理解できるのだが、欠番である事が「永久」で良いのだろうか。
 若手が、自分が大ブレイクするのに背番号なんて関係ないと意識では思っていても、永久欠番などというものが立ちはだかっていたら、それは無意識の壁にならないだろうか。なぜなら、例えば巨人なら若手に対し「君たちは王、長嶋になってはいけない」と言っているのと同じ事だから。
 そのくせ評論家やオールドファンは、自分たちと同世代のスター選手〇〇の名を挙げ「今のプロ野球は〇〇のようなスターがいない」などと嘆いて見せるのだから世話はない。彼らに「〇〇を超えるスターが現れて欲しいの?欲しくないの?」と問うたら、たぶん口を噤むだろう。
 だが野球界全体の立場で言えば、「〇〇を超えるスター」が常に現れなければ野球界の未来がないのである。
「〇〇のような選手は二度と現れないだろう」という常套句は、その選手を称えてのもの言いには違いないが、「〇〇のような選手」が現れるか現れないかで言えば、現れる。少なくともイチローと大谷は既に王、長嶋以上のスターである。

 大スター選手の背番号を特別扱いする事自体は賛成なのだが、「欠番」という発想を、後に続く選手たちのモチベーションになるように運用できないものだろうかと思う。
 その意味では、古田の「27」を、リーグを代表する捕手に成長した中村悠平に継がせたような運用が理想だと言える。つまり「(暫定的な)欠番」に指定した番号は、新人には付けさせない。その番号を継ぐに相応しい選手が現れたら継がせる、というものとして位置付ける。案外FA流出の歯止めにもなるかもしれない(?)。

 本来「永久欠番」は、何らかの理由で禁忌となってしまった番号を、公表はせずに運用するべきものだと思う(そう思われる番号は実在する)。そのくらい「永久欠番」という言葉にネガティブな響きを感じてしまうのは変だろうか。次代の選手が超えるべき壁を「超えてはいけない壁」にしてしまっているのだから。

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