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バッドエンドとハッピーエンド

どうしてもバッドエンドになってしまうのだ。
1ページずつ選択肢があって、選択に従ってページの行き来をする漫画があった。
小さい頃、その不思議な形態の漫画が面白くて、何度も挑戦したのだが、どうしてもバッドエンドになってしまうのである。

はて、どうしてこんな事になるのだろう。
不思議に思い、ハッピーエンドになるページを探してから、逆に辿って行ってみた。
そうしたら何と、そのページに行くための選択ページが無い事が分かった。
衝撃だった。
絶対に、ハッピーエンドにならない仕組みだった。
いま思えば、DSが作った漫画だったに違いない。

同僚Tが入院した。
Tは、わたしが半年もかけて危険性を説いた例のアレを3回も打った上、合間にインフルのアレも打っていた。

Tは賢い人だった。人格も穏やかで、気が利くタイプだった。
わたしは打つ前のTが好きだった。

そのTが入院した。
心臓がおかしくなってしまったらしい。
どう考えても例のアレが原因だと思うのだが、もちろんTは、そんな事はつゆほども思い当たらないのだろうと思う。

なぜあれだけ賢く聡明な人が、今回のアレにだけは、あれだけ盲目になってしまうのだろう。
わたしは悩んだ、うまく説明できないせいではないのかと。
しかし実態はそういったレベルの話ではなく、なぜか例のアレの話になった途端、靄がかかったみたいに、Tは急に白痴になるのだった。

「あれだ、あの漫画だ」
ある時、ふとそう思い至った。
必ずバッドエンドになる例の漫画。
Tはもう、生まれついた時から、打って亡くなる事が決まっていたのではないか。
ハッピーエンドになる選択ページが無い状態で生まれてきたのではないか。
Tの白痴ぶりを考えた時、そう考える方がしっくり来るのだった。

そして、そう思い至った時、人の魂の経験の邪魔をしてはいけないのだなぁと感じてしまった。

だからもう、少し話してみて響かなそうなら、さっさと退散する癖がついてしまった。
どれだけ親しくても、何の分野でも、だ。
非人情ではなく、淡々と「そうあるべき」と悟ってしまったのだ。

魂(相手)が望んでないのに何かをしたくなるのは、自己満足で偽善なのだろう。
そう感じて以降、わたしも自分の対人関係において何かが確かに変わった。
禍は、確かに成長の場だった。

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