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多様性を受け入れるってどういうこと??

最近、「多様性」という言葉を目にする機会が多くなりました。

以前の私の多様性に対するイメージは、すごくぼんやりしていて、

世界がグローバルになって、

世界中の誰とでも繋がれる社会になって、、

多様性を受け入れる必要があって、、、

様々な国籍の人たちが集まって笑顔で談笑しているシーンが頭に浮かぶ。

そんな程度のものでした。

私同様に、「多様性」というワードが一人歩きして、

実際に多様性を受け入れるということがどういう行為なのか

いまいち言語化できていない人に向けて、

現在の自分の考えを紹介するので、考えるきっかけにしてもらえたら嬉しいです。

多様性を受け入れる目的


そもそもなぜ多様性を受け入れる必要があるのか。

結論、他人と良い関係を築くためだと思います。

「多様性を受け入れる」とは「相手に共感して、相手の立場になって考える」

ということだと思います。

こう言い換えると、多様性を受け入れることは人間関係の基本で、

グローバル社会だとか、SDGsだとかそんなことより前に、

誰かと友達になりたい時、恋人になりたい時、仕事をしたい時、

あらゆるコミュニケーションで必要なことです。

この考えを持つきっかけとなったエピソードをいくつか紹介していきます。

障「がい」者と書く違和感


小学校の授業で、障害者ではなく障「がい」者と書くべきと教えられたことを覚えています。

私はその頃からどこか違和感を感じていました。

今考えるとその理由は、

障害者ではなく障「がい」者と書くことを、
障害を持った人たちが本当に望んでいるとは思えなかったから

だと思います。自分が障害者と呼ばれる人の立場になったとしたら、

書き方なんてどうでも良いから、「健常者」と「障害者」みたいな区別をするのではなくて、

自分を、一つの個性を持った人間として接して欲しい、と思うはずです。

自分とは異なる人と接する時、

「多様性を受け入れる」ということを先行させて考えるのではなく、

相手の立場に立って共感することが結果的に多様性を受け入れることに繋がって、

お互いにとってより良い関係を築くことができるのだと思います。

感動ポルノ


「あいのり」という番組で、

自らを「ウガンダで最も醜い男」と呼ぶウガンダのコメディアンが取り上げられていました。

ウガンダは人口の16%が障害者という国で、

彼も、病気が原因で頭部の骨格が異様に大きくなってしまったそうです。

彼はその顔を武器にコメディアンとして、多くの人たちを笑顔にさせていました。

彼のショーを見た番組の出演者が感想として

「感動しました。」

と伝えた時、彼は感動されることが最も嫌いだと答えました。

その答えを聞いた時、すごく共感しました。

彼は自分の顔を武器にして、誇りを持って人を笑わせていて、

他のコメディアンと同様に、醜い顔という個性を持ったコメディアンとして、「面白かった。」と言って欲しかったのだと思います。

「感動ポルノ」という言葉があります。

これは2012年に障害者であるステラ・ヤングさんが初めて用いた言葉で、

障害を負った経緯やその負担、障害者本人の思いではなく、

「清く正しい障害者」が懸命に何かを達成しようとする場面ばかりをメディアで取り上げることを表す言葉です。

自分の未熟さを痛感した経験


かくいう私もまだまだ未熟で、多様性に対する受容力の低さを痛感した経験があります。

最後にその経験を2つ紹介したいと思います。

①旅先での出会い


コロナ以前の長期休暇に、1人でバックパックしていたのですが、

その宿泊先での出会いの話です。

自分と同じバックパッカーが集まるドミトリータイプの宿で、2段ベッドに横になっていると、

突然下段のベッドから女性に話しかけられました。

そちらに目をやると、その女性は目が見えておらず、

明後日の方向を向いて私に話しかけていました。

話していくと、アジアにルーツを持っている方らしく、そこに親近感を持って話しかけてくれたようでした。

宿では基本的に私から話しかけてコミュニケーションをとっていたので、

突然話しかけられることが珍しい上に、

目の見えない方と話すことも初めてだったために、

初めは少したじろぎながら話していたことを覚えています。

その後、宿泊者同士での夕食にその女性も同席していました。

宿泊者のほとんどはバックパッカーであるため、2、3日で人は入れ替わっていくので、宿泊者同士はみんなほぼ初対面です。

しかし、その女性は驚くほど宿泊者たちの中に溶け込み、他の宿泊者も平然とした面持ちで彼女をサポートし、談笑していました。

お互いに過剰な気遣いがなく、すごく自然なコミュニケーションだったことを覚えています。

みんな障害者としてではなく、目が見えないという個性を持った1人の旅人として接していたんだと思います。

私にはその光景が新鮮で、自分の受容力の低さを痛感した経験でした。

②バイト先のアメリカ人


私は以前からアメリカ人に対して、

目の前に困っている人がいた時、迷わず手を差し伸べる方が多いなという印象を持っていました。

バイト先の同僚にアメリカ出身の方がいたので、

この傾向について話をしてみました。

そうするとその同僚は、

「もちろん、宗教や育った環境でそういった傾向があるのかもしれないし、同じアメリカ人として認めたい気持ちもあるけど、実際にはそうでないアメリカ人もいるはずで、ひとまとめにして考えたくない。」

と答えました。

私としては「日本人は勤勉」という賞賛と同じレベルで、

悪気なく投げかけた質問でしたが、彼は多様性をものすごく大切にしているのだなと気づきました。

別の日にその同僚の見た目に関する話をしている時、

私は、「欧米の人は顔が若く見える」ということを伝えたかったのですが、

以前の経験から、「欧米の人」を主語にした発言を避けようとした自分は

少し言葉に詰まりました。その結果、

「○○○さんって童顔だよね」

という表現を絞り出しました。

そうすると、その同僚はすごくうなずいてくれて、

自分の姉がバーに行くといつまで経っても年齢確認をされてしまう話をしてくれました。

仮に「欧米の人の顔は若く見える」という表現をしたとしても、

そこに悪気は一切ない上に、ある程度関係値も築いてきていたので

相手の気分を害するということはなかったと思いますが、

その表現では彼の姉の話は引き出せなかっただろうし、

彼をアメリカ人としてではなく、彼自身にフォーカスして考えることで

2人の世界が広がったような気分がして嬉しかったです。

「主語を複数のグループ名にするのではなく、個人にして表現する」

ということは、多様性を受け入れる上での一つの方法論になるかもしれません。

最後に


長々と書いてきましたが、全体を通して言いたいことは一つで、

「多様性を受け入れる」とは「相手に共感して、相手の立場になって考える」

ということです。

世界中の人々が一人一人に共感して、相手の立場になって考えられたら、

世界はもっと生きやすい場所になると思います。


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