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お詫びとホンダF1の歴史

ご無沙汰しております。らむねびん。です。

みんなが言いたいことは重々承知しております。

更新さぼってほんんっとにもうしわけありませんでしたぁぁぁぁぁ!!

共通テストしかり、弟の大学受験しかりで全く更新しておりませんでした。

これからは失踪と思われない程度に更新していきますので、今後ともよろしくお願いします。

さて、先週日曜日は芦澤サキさんの1周年ライブ、富士24時間などイベントが盛りだくさんでしたが、F1でも大きな話題がありました。

ホンダが29年ぶりにモナコを制しました!!!パチパチパチパチ!

レッドブル・ホンダのマックス・フェルスタッペンが初のモナコ優勝を果たし、ホンダF1として通算80勝目の優勝となりました。

時事ドットコムから引用

このマックスのガッツポーズとリアウィングに描かれた「HONDA」のマークが眩しいですね!!これでドライバーズランキングは1位のメルセデスのルイス・ハミルトンを抜き、事実上トップになりました!!ホンダF1最終年にチャンピオンがとれれば、有終の美となるのではないでしょうか。

ホンダF1は今年の最終戦アブダビGPをもって、F1からの参戦を終了し、第4期ホンダF1の活動に終止符を打ち、そして二度とF1には戻らなくなります。

2020年10月2日。ホンダの八郷社長は、記者会見で、2021年シーズンをもってF1からの参戦を終了すると発表しました。

社長いわく、「再参戦はしない。」と断言しているので、もう二度とF1にホンダは戻ってこないんだな。と僕は思いました。当時はホンダに対するファンからの批判がすごかった。一部は撤回させようと資金を募っていた人を見かけました。それほどファンは熱心なんだなと思う一方、時には牙をむいてしまうことがあるということを知りました。

ホンダの生みの親、本田宗一郎が主体となって始まった第1期、音速の貴公子、アイルトン・セナの怒涛の疾走が輝いた第2期、日本人として、期待を背負い走り抜けた佐藤琢磨とワークスチームとして闘ったホンダの第3期、そして、パワーユニットという新しいもので闘い、苦しみながらも走り、輝きを取り戻した現在の第4期を1テキストずつに分けて紹介していきます。

全てはここから始まった。ホンダF1第1期(1964年~1969年)

世界最大のエンジンメーカーであり、最も多くのモータースポーツに参加している自動車メーカー、ホンダ。

その歴史は22歳で独立し、修理工場を経営し始めた創始者、本田宗一郎が自分でレーシングカーを作り、レースを始めたところから、ホンダのモータースポーツの歴史の時計は動き始めます。

1936年にピストンリングの生産を開始して、修理工場から製造所へ転身した、宗一郎の会社。太平洋戦争後の1948年、モーターサイクルの生産を開始し、ここに、本田技研工業株式会社が誕生します。ホンダが産声を上げた瞬間です。

当時、国内のモーターサイクルメーカーは、レースに参加して、優位性をアピールしていました。その中でもホンダはその強さを発揮していたんです。1954年に日本メーカーとして初めてブラジルのサンパウロにて行われた国際モーターサイクルレースに出場しました。1959年から、あの有名なマン島TTレースに参戦します。1961年には125㏄クラス、250㏄クラスの両クラスのタイトルを獲得し、世界最大のモーターサイクルメーカーになったのです。

マン島TTレースは本当に歴史あるレースですよね。僕も動画とかでよく見てます。去年は新型コロナで中止になりましたが・・・。

当時の写真です。今と昔では、全く違いますね。時代を感じます。

1962年、バイクの次は自動車だ、とホンダ社内の社員たちがそう思っていたころ、ホンダはプロトタイプのスポーツカーを発表します。その翌年にはホンダ初のスポーツカーS500 が誕生しました。

産経ニュースから引用。

かわいらしいですよね。当時は赤い車は消防車に似ているから、だめだという風潮があり、それを言った人に「赤い車がダメだって!?どうして赤色の車を販売しちゃいけないんだ!!」と激怒したというエピソードがあるそうです。宗一郎さんは小さいころから赤色が大好きだったそうです。

S500の発売後、次はレースです。「やるなら頂点を目指す。」という宗一郎さんの目標のもと、世界最高峰のF1に参戦することになったのです。

当初エンジンサプライヤーとして、ロータスの作ったマシンの車体に積む予定でした。しかし、突然ホンダの作ったエンジンを積まないとドタキャンされてしまいます。このままではF1に参戦できないじゃないか・・・。とホンダF1の担当者は動揺しました。宗一郎さんは考えました。するとある考えが思いついたのです。

なんと、エンジンだけでなく、マシンも作ってしまったのです!!

livedoorから引用。

最初のF1マシン、ホンダRA270。開発は非常に短期間でしたが、制作作業は手際よく進んだそうです。ちなみにこの時に積んでいたエンジンは規定に沿ったホンダ1.5L V型12気筒自然吸気エンジンが積まれました。回転数は1万2000回転だったそう。しかしRA270がレースに出ることはありませんでした。

エンジンのダイナモテスト、実走行におけるテスト、そして新しいマシンとレース用エンジンの開発と3つのプロジェクトが同時進行で進められました。

そして1964年8月2日、ドイツ・ニュルブルクリンクにて行われたF1西ドイツGPにてホンダはF1の舞台に立ちました。ホンダF1の初陣です。

アイボリーホワイトの車体に日の丸が描かれたRA271がサーキットに現れました。

HONDA公式サイトから引用。

デビューレースは最後尾スタートから9位まで順位を上げましたが、12周目でクラッシュしてしまいリタイアとなりました。しかし、レギュレーションにより完走扱いとなり、13位完走となりました。

参戦初年度の3戦の苦心のうちに学んだことを活かしてエンジニアたちはオフシーズン中、懸命に研究開発に専念しました。四輪レースの経験の浅さをカバーしようとしたのです。

そして1965年10月24日、1.5LエンジンでのF1規定最後のレース、第10戦メキシコGPにて、リッチー・ギンサーが駆るRA272が初優勝を果たしました。

引用元:https://sf-boon.jp/2017/07/10/honda-cb160%E3%81%A8%E3%83%90%E3%82%A4%E3%82%AF%E4%BE%BF%E3%81%AE%E6%80%9D%E3%81%84%E5%87%BA/

1966年、3.0Lエンジン規定の初年度であり、後継のRA273は他社に引けを取らないほどに大型化、重量化してしまい、競争力はありませんでした。

引用元:https://www.honda.co.jp/Racing/gallery/1966/01/

翌年1967年にはジョン・サーティース率いるチーム・サーティースと提携を結び、車体はローラ社の協力を得てRA300を開発して参戦。9月10日の第9戦イタリアGPにてデビューウィンを飾り通算2勝目を挙げました。

引用元:https://www.honda.co.jp/Racing/gallery/1967/01/

1968年には水冷エンジンのRA301、空冷エンジンのRA302という2種類のマシンを同時開発するという常識では考えられない取り組みを行ったものの、今までのノウハウが生かしきれない年となりました。

RA301 引用元:https://www.honda.co.jp/Racing/gallery/1968/01/

RA302 引用元:http://gita.holy.jp/hdr/?p=15963

翌年1969年には早めに開発をスタートしたものの、小型乗用車開発のためのエネルギーの必要性、環境問題や排ガス規制などの問題解決のため、活動を休止することを決定。

6年間の第1期の活動はこれで幕を閉じることになります。独自開発によるF1活動によって培われた技術は今後の市販自動車開発に大きく貢献し、ホンダをさらに成長させました。しかし、15年間、F1から遠ざかることになりました。

ここでちょっとした余談なんですが、皆さんはツインリンクもてぎの敷地内にある「ホンダコレクションホール」という建物をご存じですか?ホンダが今まで手掛けてきた車やバイク、実際にレースで使用されたマシンなどが展示されております。もちろん、アイルトン・セナの乗ったマクラーレンMP4/4、マクラーレンMP4/6、佐藤琢磨が乗ったジョーダンEJ12も展示されていますよ!ツインリンクもてぎに来たときにぜひ立ち寄ってみてはいかがでしょうか?ツインリンクもてぎの入場料等はかかりますが、ホンダコレクションホールの入館は基本無料なのでぜひ行ってみてください。

引用元:https://ymgch.exblog.jp/8081717/

ここからは僕の自論ですが、新型コロナウイルスが蔓延し、外出の自粛が推奨され、また環境問題について政府がいろいろと議論するようになりました。2050年までにカーボンニュートラルを実現させるという目標のもと、2030年までに販売する車をすべて電気自動車にするという法案が出されました。

僕なりの考えとしては、少し難しいと思います。たった10年でそこまで技術が進歩してすべて電気自動車にするには少し無理があると感じたからです。また、コスト面でも課題が残ります。電気自動車はいまのガソリン車とくらべ、価格が高いです。また水素の方も水素ステーションの開発が進まず、車の方でもまだ市販できるレベルには達していません。なのでいまは環境面でも大事ですが、二酸化炭素の排出量をバランスよくコントロールしていきながら、ゆっくりと転換していくべきだと考えます。

ここまで読んでくださり、ありがとうございました。次回は第2期ホンダF1活動についてお話します。

記事の参考にさせていただきました。引用元:https://f1-gate.com/honda/f1_56237.html

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