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前略草々 蝶−生ける物質?

 ヒヨドリは早朝から訪れて勇ましく鳴いていた。早く起きろと言いたいのかもしれない。午前中の仕事を終えた頃にもやってきて、ベランダの苺をいくつか食べ、そのうち突っついたものを落としてしまった。その土が着いてしまった欠片を葉の上に残して、食べずに見せた。綺麗好きな事をアピールしたいのか、あるいは何か別の事を伝えようとしたのだろう。上の蝶の写真を再現したか?

 昨日から米田翼さんの新著『生ける物質』を読み始めた。物質とは何か、精神とは何か、意識とは何かと考えるのは哲学の基本テーマであるが、哲学者でなくともひとたび考え始めると止まらなくなる。
 たとえば石は物質で蜻蛉は生き物だと決めつけていたとしても、石が何か意味を持って語り掛けてくるように感じることもあるし、昆虫採集家は蜻蛉や蝶をあたかも物質であるかのようにみなして標本にする。こちらからの視線や受信の状態によって、そこにあるものの属性は変化している。
 ここまで書いてみて、生ける物質とは昆虫採集家にとっての蝶や蜻蛉の事ではないかと思い当たった。
 昨日、森の入り口でナミアゲハが樹木の間を舞うのに遭遇し、その羽根の美しさに見とれた。この羽根に血や神経は通っているのだろうか、それとも羽根を支える軸のようなものがあって、その軸には血や神経が通って羽根を動かしているのだろうか。
 しかし私たちが感嘆のため息を漏らすのは軸の方に対してではなく、羽根の美しさの方にだ。羽根の物質的な美しさを手に入れたくて昆虫採集家は蝶を捉えて毒薬を注射で打ち入れ、軸や足にやどる生命を奪った後に標本にするのだ。静止させるのだから、そもそも欲しかったのは蝶の命ではなく、物質としての羽根だったのだろう。
 ここまで書けば、私が昆虫採集家というものを心底嫌っていることはわかると思う。生き物の物質性を求めて命を奪うとは、考え得る欲の中で最も下品なものに思える。
 すっかり話が逸れてしまったが、米田翼さんの新著『生ける物質』にはそのような事は書いていないだろう。序章を読んだところによると、創造的進化がテーマとなっているようだ。哲学者ベルクソンの書籍等から考察する試みらしい。その進化とはゴールイメージもなく、予定された運命もなく、その都度起きる結合の集積が引き起こす。このテーマに対して、どうして『生ける物質』とのタイトルが付いたのかは大変興味深く、これから読んで探索する所存。

草々

(米田素子)
 

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