見出し画像

解読 ボウヤ書店の使命 ㉗-外伝-1

短編小説『螺旋 改訂版』の読み直し。
これは『鍵屋の男』の外伝となるもので、当時存在した『BOC』という雑誌に応募したもの。これもなぜ応募したのかよくわからないのだが、この頃はまだそれなりに応募する意欲があったようだ。
今、このタイミングで読み直し、多少の誤字などを直してみたのだが、それもこのタイミングに起きることとして、ぴったりだったなと思う。
一気に掲載する。

《『螺旋 改訂版』  文 米田素子

この作品は完全にfictionです。

《プロローグ》
 魔法と言えば子ども騙しのようだが、ジンクスと言ってしまえば、「スポーツ選手が右足から靴を履くと勝つ」とか、「知り合いの奥さんが紫の服を着ているのを見た翌日には雨が降る」とか言って、世間話にもなりやすい。根拠がない点に関しては迷信も似たようなものだと言えるけれど、ジンクスの方はちょっとした仲間うちだけで頷き合っている験担ぎのようなものと言って差し支えない。
 また、もともとの「jinks」は悪いことが起きる場合に使う言葉だそうだが、この界隈でジンクスと言えば、先述した通り、もたらす結果は「勝てる」場合もあれば「雨が降る」場合もあって、良い悪いの決まりはない。根拠はないがAが起きればBとなる場合に、結果の良し悪しに関わらずジンクスだと言うのである。
 厳密に考えてみれば、物事はどんな結果であったとしても、ある側面からみると良いともいえるし、別の側面から見れば悪いともいえるのだから、俗語として使うのならば、どちらでもよいではないか。
 いずれにしても、周囲で「あれはジンクスだ」と一旦囁かれ始めると、科学で証明されていないことに関しては信じないように注意深く気を付けている人でさえ、無意識下では「ひょっとしたら」と考えてしまう。その無意識とやらは集団化すると事実を呼び寄せてしまうのか、不本意であったとしても結果を伴ってしまうことも多い。そう考えてみると、ジンクスなんて最初から存在するというよりは、作り込まれていくものだと言えるだろう。

 私の住んでいるみどり町にも、そんなジンクスが一つあった。ある物語本にまつわるものである。
 それは「どのような本でも置いてあります」と銘打った本屋が登場する物語で、この界隈では知る人ぞ知るアングラ小説。町の中にある個人経営の本屋やカフェ、音楽堂、美容室、歯医者などの本棚の隅っこにはほぼ間違いなく置いてある。置いてはあるが誰も表立って宣伝はしない。というのも、小説の帯に「取り立てて宣伝しないように」と断り書きがあるからだった。「※この本を読んだ人は、誰かとこの本に関するよもやま話をしても構わないが、雑誌や地元のケーブルテレビなどに紹介したり、勝手に何かに応募したりしないように」
 本心かどうかはわからないけれど、表向きにはそのように消極的な建前なので、たとえ装丁の品の良さに釣られた人がそっと手に取って一つ目の物語を読み、そこそこおもしろかったなと思ったとしてもすぐに棚に戻す。そして恐らくは忘れる。どうして多くの人が一つ目を読んだらすぐに棚に戻してしまうかと言うと、物語の長さが待ち時間や立ち読みにちょうどよい分量であり、たとえば歯医者の受付で予約の確認をして治療室に入る順番が回ってくるまでの間や、美容室でカラーリングの液が染み込むまでの間、あるいはパーマのカールが定着するまでの間といったほんの隙間にでも、通常の読解力さえあれば充分に読み終えることができるからだろう。
 さて、その本にまつわるジンクスは何か。それは、ひとたび待ち時間などにおいて物語の一つ目を読んだ人は、本を読んだことなど忘れているにも関わらず、必ずもう一度その本が置いてあった場所にやってくるというものだった。どうしてそうなるのかはわからない。敢えて言うなら、物語になにか磁力のようなものがあるからではないかというのが、ジンクスを共有している街の個人事業主協会のメンバーたちの間で導き出された結論だった。長老の花屋の亭主が言ったのだ。「この物語には陰陽の調和、あるいはむしろ、決定的な不調和があるのではないか。それともサブリミナルな磁力!」
 そんなジンクスには気付かれないように、密かにその本を読ませる工夫をしている。もしも客が手に取ったなら、少なくとも一話目を読み終えるような頃合いを見計らってから、お待たせしましたと呼びかけるように仕向けている。いつの間にか店をリピート利用してもらうことを目的としているので、突き詰めれば全くやましい気持ちがないわけではなく、個人事業主協会側ではそっと耳打ちしながら効力を話すようになって、結果、やや大げさな知る人ぞ知るアングラ小説となったのである。
 待ち時間などの都合上、ほとんどの人が一つ目の物語を読んだところで本を閉じる目論見ではあるが、もちろん、時間があれば一つ目だけではなく、二つ目以降の話を読んでいけないわけではない。中には、店のソファにどっかりと腰かけてしまい、じっくりと二つ目も読んだ人もいるのかもしれない。
 どうあれ、個人事業主協会としては一話目を読ませさえすれば、明確な根拠はないものの、その客が再び店に現れることほぼ間違いなしというわけで、そっと待合室などに置いておくことを各店舗に勧めているのだった。
 さて、私の友人である谷中トンボはその本を「購入した」という珍しい男である。彼に言われるまでは、ジンクス本がどこかで売っているとは聞いたことがなかった。こんなもの、一体どんな本屋に売っているというのだ! 


 私とトンボは頻繁に落ち合うカフェに居た。そこでトンボはカフェの棚から一冊の本を引っ張り出して、表紙を撫で回した後、唐突にこんなことを言った。
「実を言うと、町はずれにある、どのような本でも置いてありますという本屋で、これと同じ本を買った。この物語の中に存在している、まさしくその本屋で」
 その時、私は大人気なくも飲んでいたお茶を吹き出してしまった。
 あのしたたかな個人事業主協会の思惑にまんまとはまり込んで物語を読まされただけならともかく、この物語の中に出てくる本屋にそっくりな本屋に出向いて行って、あろうことか、その物語本を実際に購入したというのだから、吹き出さずにはいられないだろう。
「買わされたと言っても過言ではない。その時には積極的に買ったのではあるけれど、なぜそれを買う事態になったのかはなんだかよくわからない。いつの間にか買うことになっていて――、しかし、おもしろい内容ではある。君も読んでみないか」
 思いも寄らない本屋で、しかも買わさた感じで手に入れたのが本当だとすると、お楽しみ程度のまじない話ではなく、いっそ魔術、いや詐術と言っても差し支えない状況が起きているのじゃないか。子どもじゃあるまいし、そんなことをすぐに信じるわけにはいかない。
「で、どこにあるのだよ、その本屋は」
 私が笑うと、
「おそらく、偶然にしか行き得ない。最初に偶然辿り着いて、二回目はどうしても見つからず、三回目にも偶然辿り着いた。道がどうしても覚えられない。そして、これを買ってしまってからは、どうやってもそこに行くことができないのだな」
 トンボは真面目な顔で答える。「この本を買った後、もう一度行ってみようとなんどもチャレンジしたのだが辿り着けない」
「何を馬鹿なことを言っているんだ、君はこの辺りに何年住んでいるんだよ。地図を探してみたらどうか。だいたいの道筋はわかっているのだろう?」
 私が問い詰めても、首を横に振る。
「道がわからないから地図を見ても探しようがない。ボウヤ書店と看板にはあったけれど、それで検索して探しても出てこない。説明しがたくもうあの本屋には行くことができない。ところで草介さんはこれ読んだことがあるの?」
「いや、ない」
 私は即答した。
 手にしたことはある。個人事業主協会の古株である花屋の親父さんからジンクスの説明を受けて店にこの本を置くよう勧められて、プラモデル屋で立ち読みする客などいないだろうからと断ったが、置いておくだけでも験がいいとの噂だからと言い張るので、置くだけならいいですよとプラモデル制作のノウハウ本のコーナーにそっと紛れ込ませた。だけど、その後、一度もページを開いたことがない。本を読むこと自体は嫌いではないが、ジンクスなどと言う妙な曰くつきのものを読む気は起きなかった。だから、何年もそこに置いたまんま埃をかぶって、今となってはどこにいったかわからなくなっているのだった。
「どうして、読まなかったの」
 トンボは残念そうだった。「もしも読んでいたら、あることに気付いたのに」
「あることって?」
「ぱらぱらと頁を開いてみてくれ」
 言われたとおりに分厚い表紙を開き一ページ目から順に捲っていくと、黒いインクで印刷された文字と、ところどころに銅版画めいた挿絵があった。丁寧に眺めていったが、それほど注目すべきことが書いてあるようには思えなかった。
「これがどうしたの? オーソドックスな物語本にしか見えないけれど」
「そうじゃないのだ。その挿絵の男だよ」
 よく見ると、カンカン帽をかぶった中年男性の絵だった。
「これがどうした?」
「似ているだろう?」
「誰に?」
 トンボは大袈裟に咳ばらいをし、かぶっていた帽子を一度脱いで、丁寧にかぶりなおした。
「まさか、君だって言いたいのか」
 トンボは顔を赤くして少々下を向き、小さく首を縦に振った。
 大声で笑ってしまった。どうしたんだ、トンボ。いつもは冷静な君なのに。
「君、大丈夫か?」
 笑いすぎて咳込みつつも、下を向いている彼の肩を揺らすように叩きながら言った。「しっかりしなさいよ」
 そこで私が、実はこの本は個人事業主協会のジンクスにより水面下にて配られているものである、ジンクスというのは――、と告げると、
「なんだって? じゃあ、どうして私の雑貨屋には配られなかったのだ。それに、どうして、その話は私の――」
 トンボは急に激高し、声を大きくしてカンカン帽を脱ぎ、帽子の頭の部分を握り拳で腹いせのようい潰した。
「私の? 君のなんだ? 挿絵のことか? 帽子を被っているから君だというのか」
「それだけではない、この本には、私の物語が書いてある」
 今度は何を言い出すのだろう。挿絵の男が自分に似ているというだけではなくて、物語の内容までが彼自身の話だと言うなんて。もうそこまでおかしなことを言い始めるのだったら、それ以上は何も聞けないと思った。きっと、道に迷ってある本屋に行き、この本を手に入れたけれど、その後どうしてもその本屋が見つからないものだから、気が動転しているだけだろうと考えた。あるいはジンクス本が彼の手元に配られていないので気を悪くしたか。
「この本が君の店に配られなかったのは、君が境界線ぎりぎりで隣町の住人であり、個人事業主協会に加盟していないからだろう。私はこの町に住んでいて、しかもちゃんと加盟しているのでこの本は持っている。君だけがのけ者にされたわけじゃないよ。気を悪くしないでくれよ。今度、私が持っているこの本を出してきて、君に会うまでに目を通しておくから」
 どうにか慰め、動揺しているトンボをとりあえず落ち着かせ、帰宅させたらほっとして、後は本の存在のことはすっかり忘れてしまっていた。実のところ、自然にふるまっていると私にその本を読むチャンスはほとんどない。というのも、若いころから、歯医者にしても散髪屋にしても、いつでも予約している時刻ぎりぎりに出向いて行ってなるべく待たないようにしている。待つのが嫌いなのだ。工夫して待たないようにしているにも関わらず待ち時間があろうものなら、なるべく瞬時にキャンセルし、新たに予約して一から出直すようにし続けた。ある程度町の古株となった今となっては、ほとんどの店において私が訪問する場合にはなるべく一分でも遅れないようにと配慮されているらしく、近頃ではもはや待たされることがなくなって、結果的に待合室で何かを読むような隙間は皆無となっている。従って、もはやジンクス本を目にする機会はない。もちろん、私自身の店のどこか一角にも、花屋の親父の持ってきたジンクス本が転がっていることはわかってはいるが、トンボの話を聞いたからと言って、わざわざそれを探し出してまで読む気にはならなかった。


 ある晩夏のこと――。
 それまでには一度もやって来たことのない青年が店の扉を開けた。真っ黒の短髪に黒縁眼鏡、ほっそりとした色白の姿は高校生くらいに見える。普段は、私の店に来るのは旧モデルだけを好む世代の男たちばかりで、このようにいまどきの世代が客として訪れることはほとんどなかった。というのも、私の店ではプラモデルと近い距離にありそうなカードゲームやテレビゲーム、フィギュアなどの遊具を一切置かず、純粋に組み立てて塗装して仕上げる昔ながらのプラモ用品しか並べないので入り口もシンプルであり、模型に興味のない人がふらりと立ち寄ってみるといった訪問の仕方はほぼあり得ないのだ。そのような駄菓子屋件おもちゃ屋的な店は大通りの向こう側に一軒あり、主に中高生はそちらに行く。似たような商売をする者同士、互いに邪魔し合わないよう気を遣いながら商売をしていたものだから、このような青年が入って来たら、きっとそちらの店と勘違いしたか、あるいは道を聞こうと思って入って来たかだろうと思わずにはいられなかった。なんだったら、大通り向こうの店を紹介することになるかもしれないと、預かっている店案内のリーフレットの方へと即座に手を伸ばしかけたほどだった。
 ところが予想に反して青年は、プラモデル用の塗料を買いたいと言い、それも、ドイツ製の特殊な銘柄を指定して、この店に置いていないかと言った。
「そういったものはありません。おそらくそれはもう日本では売っていないのでは?」
 むしろマニアックなものを欲しがったので驚いた。実を言うと、私はその塗料について詳しくは知らなかった。聞いたことはあると思ったが、正確にはどこに行けば買えるのかを紹介することもできず、少々悔しい気にもなって、他でも売ってなさそうだが、と言ってしまった。「何に塗るのですか?」
「屋根です」
「屋根って、家の屋根?」
 まさかと思いつつ聞くと、色白の青年は黒縁の眼鏡をかけ直しながら、ええ、そうです、屋根です、とうなずいた。
「屋根ならペンキ屋に行くべきでしょう?」
 ――若いからものを知らないのか?
「いえ、屋根と言っても、模型の家の屋根」
 ああ、それはそうか、当たり前か、最初にプラモデル用の塗料と言ったのだったな、と反省する。一応ここは模型屋ではある。「そうか。でもここは飛行機と自転車の模型を主に取り扱っていて、申し訳ないがジオラマ作りのためのものは置いていない。すまないね」
「こちらこそ、すみません。ちゃんと看板に『飛行機と自転車の模型屋』と書いてあるのに」
 青年は眼鏡の奥で目を細めて笑う。そうすると大人びて見えた。なんだか年長者が子どもを見下ろしているような笑顔だ。
「ここは小さな町のプラモマニアのための個人店だからね」
 舐められてはいけないと感じて、少しだけ強気に出てみる。「ホームセンターにでも行って問い合わせてみたらどうかな」親切ぶって地図を出し、「ほら、この先を行って、大通りに出たらありますよ」紹介してみた。
 青年はというと、それはどっちでもいいのだといった風に地図から目をそらして儀礼程度にうなずき、「それより、この店には、あの本、ありますか」と言う。
「あの本って?」
「あの本ですよ。どのような本屋でも置いてありますと銘打った本屋の物語」
 驚いた。
「君、知っているのかね」
「はい。水面下で配られているのでしょう?」
 若くは見えるが、そんなことまで知っているのか。
「そうだけど――」
 頭を掻くしかなかった。「実を言うと、置いてあったのだけど、私はなくしてしまったんだな。この店では待ち時間なんかないでしょう? 客があれを読む時間なんてどこにもないからね」
「あなたは? あなたは読まないのですか」
 青年はまっすぐにこちらを見た。
「もう読んだ。それで、その後なくしてしまったの」
 読んでもいないのに、読んだと嘘をついた。そんな嘘をつく必要はなかったのに。見据えられると、そうせずにはいられない気分になったのだ。
「あの本、実は僕が書きました」
 まじですか? そうか。私が思わず嘘をついてしまったのはそのせいかもしれない。なんとなく、あれは読んでおくべきだろうと言いたげな圧力を彼の方から掛けられているのを感じてしまったのだ。著者だというのなら、強引になってもおかしくはない。なるべきであろう。
「そうでしたか。あなたが。へえ。あれは実におもしろかった」
 嘘を重ねてしまう。「水面下で配られるだけのことはある」どういうわけか、おせじまで言ってしまった。
「それはよかった。両方とも読みましたか?」
「両方って?」
「一つ目と二つ目。どうですか?」
 顔を近付けて私の眼を見据えるので、おどおどしてしまった。もう嘘はつけそうにない。
「一つ目だけだな。二つ目を読もうとしたところで客が来て、それで、その後なくした」
 青年はなるほど、と言って、
「ならば、これをお貸しします」
 一冊の本を鞄から取り出した。「二つ目はあなたの物語ですから」また上から目線調の涼しさで微笑む。
 は? 私の? 何を言っているのだ。
 そこでトンボの言ったことを思い出した。あの時、この本にはトンボ自身のことが書いてあったのだと言った。何を馬鹿なことを、と思って笑い飛ばしたけれど、この青年の言うことが本当だとしたら、一つ目がトンボの物語で、二つ目が私の物語だということになる。
 どう言葉にすればよいかと困っていたら、青年は、
「じゃあ、この本いつか取りに来ますので」
 机の上にぽんと本を置くと、さっさと店を出て行ってしまった。
 私はあっけに取られて、机の上に置いた本の表紙に手を乗せたまましばらく動けずにいて、やっと我に返って本を持ち、後を追い掛けようとして店の外に出た時には青年の姿は既になかった。路地では二台の車が速度を落としながら、なんとかぎりぎりボディ擦り合わずにをこすり合わずにすれ違って通り抜けている。その横を通る自転車が、傾きかけた太陽を背にして影を長くしながら去っていった。カラスが鳴き、屋根から屋根へと飛び移っている。涼しい夕風が吹いている。
 手に持っている本の表紙を見ると、「螺旋」と書いてあった。
「あれ? 『鍵屋の男』じゃないのか? 確か、配られているジンクス本はそんな名前の本だったと思うけれど」
 独り言を言い、パラパラとめくる。中身はトンボから見せられたものとだいたい一緒だった。文はひとつも読まなかったのでわからないけれど、挿絵は見た覚えがある。あの日トンボが、これは自分ではないだろうかと言ったカンカン帽をかぶった男の挿絵が続き、二つ目の物語に入ると、リュックを背負っている男の挿絵に切り替わっていた。
 リュックか。青年が「二つ目はあなたの物語です」と言ったのを思い出す。確かに、私はリュックを背負うことが多い。ということは、やっぱり青年の言う通り、この絵は私か? そう言われてみれば、似ていなくもない。
「なんてこった」
 向かいの薬屋の屋根に止まっていたカラスが、長く引き伸ばした声で鳴いた。
 店に戻って本を机の上に置いて座り、改めて表紙の絵を眺めた。白い砂浜に水色の灯台があり、その灯台の周りには黄色の螺旋階段が巻き付いた絵が描かれている。その螺旋階段を上っている男が一人いて、黒いリュックを背負っている。確かに、リュックの色や形も愛用しているものと似ていなくもない。机の後ろのフックに引っ掛けてあるビニール製のリュックを見た。細長い台形であるところも似ている。だとしたら、この挿絵の男はやはり、ひょっとしたら私だろうかという気にさえなる。だけど、これは一体どこだろう? こんな灯台を見たことがある気もするし、初めて見る気もする。白い砂浜の向こうには青い海が広がっていて、水平線の辺りにはヨットがいくつか浮かんでいる。
 物語のタイトルは一つ目が鍵屋の男、二つ目がボックであった。ボック? なんだろう。何か身に覚えがあるだろうかと考える。わからない。読んでみようかと思うけれど、なんだか恐ろしくなった。もしも読んでみて、やはり主人公が私自身だとわかり、最後にはあまりよくない結末でも書いてあったらショックだ。あの冷静な谷中トンボが「私の物語が書いてある」と真面目な顔をして言った時のことを思い出すと、まんざら冗談でもない気がしてぞっとする。
 肩をすぼめて身震いまでして、とにかく、愛用しているリュックの中に本をぽんと投げ入れると、早めに店を閉めて知り合いの飲み屋にでも行こうと決めた。妙なことがあってね、と聞いてもらいたい。店内のディスプレイに布を被せ、パソコンやペンなどを片付けて引き出しに仕舞うと、窓にはブラインドを下して外に出た。
 まだ四時半だった。空はほんのりと薄紅色に染まり始めている。もう屋根にカラスはいない。そろそろ秋に向かうと言っても、日が沈むまでにはあと少し待たなければいけない季節で、さすがに日の高い時間帯から飲み屋の扉を叩くわけにもいかないから、少し歩こうと決めて店の玄関に鍵を掛け、シャッターを下ろした後、リュックを背負って歩き始めた。
「今日はもう店じまい? 早いですね」
 向かいの薬屋の奥さんが声を掛けてくれた。入り口に並べた植木の水やりをしているようだった。私に気を取られて話しかけるので、じょうろから放物線上に出る水は目標の鉢を外れてアスファルトをふんわりと柔らかく濡らしている。「夕方から山に行くわけでもないんでしょ? 登山家さんだからと言って」少しからかって言う。
 少し前、休日の明け方にリュックを背負って出掛けようとしたところ、店に忘れものをしたのを思い出して取りに来たところを、その時にも水やりをしていた彼女に見られたことがあったのだ。それで登山家とからかっているのだろう。実際には山と言っても電車で二時間ほどのところにあるハイキング程度の山であり、春から秋の気候のよい時にしか行かないのだから、当然だが登山家といった大それたものではなくて気恥ずかしくなる。
「具合でも悪いの?」
 彼女は水やりの手を止めて言う。じょうろの放物線が止まる。
「ただ何となく。いい夕方の風が吹いているし、遠回りして帰ろうかなと思いまして」
 遠回りの道草なんて子どもみたいだろうか。だけど妻は数年前に亡くなってしまったし、帰ってもどうせ一人だ。それからはいつだって帰り道は何かしら遠回りして、知り合いの店を転々とすることで道草を食って何年もやり過ごしてきた。もの寂しさを感じる時には、せめて息子か娘がいればよかったかなと思うけれど、同年代の人の話を聞くと、子どもがいても成長してひとたび出て行ったらほとんど家に帰ってくることなどなく、六十過ぎたもの寂しさは誰でも似たようなものらしいし、実際、遠回りの道草は子どもみたいだと言ったって、大人の方こそ誰からも叱られたりしないで許される特権みたいなものだ。
「具合が悪いわけじゃないのならいいですけど。あ、あれ持って行って」
 薬屋の奥さんはじょうろを下に置いてから自分の店に入って行き、ビニールに入ったものを持ち出してきた。入浴剤のサンプルであるらしい。「夏でもお風呂には入った方がいいから。使って頂戴」私の背中側に回ってリュックのポケットにギュギュッと入れる。「主人も気に入っている新商品なのよ。大丈夫、草介さんには無理に買ってくださいとは言っていませんからね」リュックをポンと叩いてから前に回って、少し背中を反らして陽気に笑う。
 それはどうもと礼を言い、じゃあ、また明日とその場を後にした。
 大通りまで行くと、いつも渡る信号の角に煙草屋があって、その横にある細い路地に見たことのない看板が立っているのを見つけた。「海の草原」という展覧会をやっている案内だった。日付はない。
「おばさん、いる?」
 煙草屋の窓を開けて声を掛けると、店主が奥から出てくる。顔や声は変わらず元気なのだが、腰だけは年々曲がっていく。
「何? あんた、煙草吸うんだっけ?」
 窓からひょこっと顔を出して、「そんなわけないよね。ライター?」答える前に棚をごそごそし始めた。
「そうじゃなくて、この看板、何? 海の草原って何よ。展覧会って」
「ああ、それ? それねえ。昨日から置いてあるんだけど、わからないのよ。どこの団体がやっているのかもわからないし、明日にも交番に言って撤去してもらおうと思うけど、今日のところは置いたままにしてあるの」
「この横の路地って、おばさんの私道?」
「まあ、そうだけど、なんで? 行ってみるの? 展覧会があるんじゃないかって?」
 茶化すようにくしゃくしゃとした笑顔を見せる。「あんたならここ通っても構わないけど、なんもないと思うよ。向こう側の洋品店の前に出るだけだから。でも、あのあたりにある仏具屋がひょっとしたら、そこの仏像展示場を貸して展示会でもやっているのかもしれないし」店の窓から身を乗り出して路地を指さした。指をくいくいと曲げて方向を示す。「暇なのだったら、ここずっと通って行ってみなよ」
 おばさんの許可が出た。よしっ、とばかりに看板横の細道に入って行った。
 聞いていた通り洋品店の前に出ると、確かに仏具屋はあったがシャッターが下りていた。展覧会をやるような喫茶店でもあるのかと思うがそれもない。それでもずっと行って、その先の郵便局を過ぎたら町と町の境界線となり、さらにそこを超えると、もはや常々回覧板を回すことのないエリアだった。お祭りの準備を共にすることもない。そうなると近所とはいえ恐ろしく知らない町のように思えた。幼児を後ろのシートに乗せた自転車が危なっかしく何台か通り過ぎ、学校帰りの中高生のはしゃぐ姿も見られる。
 しばらく行くと、またあの看板があった。今度は制服屋の隣。「展覧会 海の草原」と書いたポスターが木製の看板立てに貼り付けてある。この界隈にギャラリーでもあるのだろうかと思いながら歩を進めると、また、同じ看板がある。文房具屋の角。ギャラリーってどこだ。一体どこでその展覧会をしているというのだ。きょろきょろしながら、歩いたことのない歩道をどんどん進んでいった。また、看板がある。しばらく行くと、ここにも、また、ある。
 そんな風にして、半分やけになったように歩いていると、いつの間にか隣町の端の、さらに隣町との境目までたどり着いてしまった。気付くと、空は濃い橙色に染まっている。


 突然、学校の鐘の音が鳴り始めた。下校時間の案内だろうか。中学校の時計台の方から鳴り響いて、部活動を終えた生徒たちの列がぞろぞろと現れ、そうなると、なんとなく居場所がなくなりブロック塀の角に身を隠した。私など場違いだろう。
「わたくしどもの生徒が列で遮ってすみません」
 後ろから急に声を掛けられ振り返ると、一人の男が立っていた。暑いのにぴしりと背広を着て、頭のてっぺんが少し薄く銀縁の眼鏡を掛け、おなかがふっくらと前に出ている。やせっぽちの私とは正反対のころっとした風貌だが、おそらく同年代だろう。
「あ、いや――」
 ブロック塀に身を隠していたからといって変質者じゃあるまいし、何もおどおどする必要もないが、この男性は列を行く学生を見て「わたくしどもの生徒」と言ったことから想像すると学校の偉い先生であるらしく、それだけで条件反射的に緊張してしまう。子どもの頃によく教室で叱られたことを思い出すのだ。観れば観るほど校長とか教頭とか、そんな立派な風貌だとの気がしてくる。
「展覧会の看板を見つけて歩いているうちに、ついこの辺りに紛れ込んでしまいました」
「展覧会? ああ、それはわたくしどもの学校で企画しているものです。海の草原でしょう? あちこちに生徒たちが看板を置きました。興味がおありですか?」
「そりゃあ、もう」
 学校の企画であるならば、とにかくまともなものだろう。文化祭の季節でもないと思うが、もしも見せてもらえるなら見てみたいと思った。「ちらっとでも見てみたいものです」
 校長かもしれない男は、いいですよ、この列が去ったらお連れしましょうと言って真横に立ち、子どもたちの列が切れるのを黙って待った。
「さあ、こちらです。おいでください」
 行列が途切れると、こちらの返事を待たずに男はすたすたと歩き始めた。慌てて後を追う。表門は閉じていたので裏門に回り、どうぞと言われて中に入っていく。糸瓜の植えてある裏庭や掃除道具入れの隙間を抜けてどんどん行く。こんなに広い学校もあるのだろうかと訝しく思いながらも、今更引き返すこともできず後を行くと、円柱型の建物が現れた。
「これが図書館です」
 男が立ち止まって言った。「変わった形の図書館でしょう。我が校自慢の建物でして。展覧会はここから行きます」
 建物には重々しい木の扉があり、がっしりと閉まっているように見えた。もう下校時間は過ぎているし、図書館も閉めてしまったのだろう。
「もう閉まっているように見えますけれど開けることができるのでしょうか、えっと、あなたは校長先生だから?」
「私は校長ではありませんが――」
 男は体をゆすって笑い、ずり落ちかけた眼鏡をかけ直しながら、「この学校はわたくしどものものでありまして」真面目な顔になる。「誰にも叱られませんよ。さあ、どうぞ」
 歩き始めた。付いて行くと、扉の前ではなく、その裏側にある階段の前に出た。「これを上ります」鉄製の簡単に備え付けられたように見える階段を見上げた。螺旋階段だ。
 あ、あの本! 私は店に現れた青年から貰った本の表紙を思い出した。リュックの中に入っている。やはり、あれは、私の物語なのか!
 どうしようかと迷っていると、もう男は階段を上り始めていた。今更断ることもできず、引きずられるようにして上り始めた。
 長い。いくら上っても階段は終わらない。
 男は振り返りもせずどんどん上っていく。いくら山登りが好きだからと言って、このまま上り続けては本気で疲れてしまいそうだ。汗が吹き出し、足裏が痛くなり始めた。「待ってください」と言ったが、男はずっと先を歩いていて声が届かない。鳥が何羽か空を渡り、夕日の色は濃くなる一方だった。いつまで上るのだ。腕で汗をぬぐい、もうだめだ、これ以上着いていけないと思って、ふと階段から下を覗いた。
 なんだ、あれは!
 下界には青い海が拡がっている。まるでどこかに存在していたグラスの海を辺りにこぼしてしまったかのようだった。この塔は学校の図書館じゃなかったのか。涼しい風が渡り、頬を撫でていく。
「すみません!」
 思い切って大声で男の背中に声を掛けた。「なんですか、あれは!」
 黙って上っていた男がようやく足を止めて、まだ下の方にいる私に振り返った。
「ああ、見えましたね。海です。ここはずっと昔、海だった」
「昔って?」
「ずっと昔。古代と呼ばれる時代です。土地が変形して盛り上がって、そして新しい大地ができた」
「それはそうだとして、どうして今ここに見えるの?」
 声を張り上げて言う。
「そういう展示企画ですから」
 男の方も大声で言い、「さあ、上まで行きますよ」また歩き始めてしまった。
 まだ行くのか。私は階段の途中で座り込んでしまった。もう無理だ。歩けない。悪いけど、私は降りよう。そう考えていると、男が上から
「途中で降りないで。ちゃんと上まで来て」
 呼びかけてくる。こちらの様子など考慮しようとする気配もない。もうやけになり、むしろ覚悟した。よし、行けるところまで行ってやる。薬屋の奥さんからもらった入浴剤もあることだし、帰ったらゆっくりと風呂に入ればいいだろう。重い腰を上げて再び上り始めた。一歩一歩、汗を拭き拭き。
 とうとうてっぺんまで登り切った時には、すっかり日が落ちて、空には一番星が明るく灯っていた。
「よく来ましたね。途中で降りるだろうと思っていたのに」
「だってあなたが、上まで来るようにと言ったんじゃないですか」
 ぜえぜえしながら恨みがましく言う。
「見えますか、町」
 男は下を指さす。町の灯りが灯り始めて、もう海ではなかった。むしろ夜空のように見える。高いところまで来たせいか風が吹く。
「海じゃなくなりましたね。さっきまで海が広がって見えたのに。海の草原じゃなかったのですか。展覧会の名前は」
「展覧会は、上っている途中では海に見えるように企画してあったのです。あれは映像です。もちろん、古代の風景を想定して、いろいろと調査した結果、あのような映像を制作し、町に映したのです」
 なるほど、そうだったかとうなずいた。夜風が心地よく、飛行機が点滅しながら飛んでいていた。
「上まで来てよかった」
 思わずそう言ってしまう。
「そう言ってもらえたら、こちらとしましても嬉しいですよ」
 男は手を背中に回して握り合わせ、塔の天辺の屋上の縁を手すりに沿ってぐるりと歩き、ところどころで止まっては満足そうに街を見下ろしていた。「さあ、真っ暗になる前に降りましょう」
 また男は黙って前を歩き始めた。その後を追って階段を下りるのも楽ではなかった。一歩ずつ、一歩ずつ、疲労で震える足に言うことを聞かせるようにして下りる。
「あ、海だ」
 途中で外を見下ろすと、再び海が広がった。町の灯りは消え、その代わりにイカ釣り漁船が浮かんで見える。藍色に沈んだ海はところどころ波が跳ね返ってしぶきを上げ、岩場を濡らしている。遠く水平線も見え、海は果てしなく広がっていた。これが映像だとはとても思えない。しかし、考えてみれば、町に映像を映すなんて、いったいどういった仕組みなのだろう。
 ちらちらと映し出された海を見ながら、そろりそろりと階段を下りる。男はどんどん先を行く。ようやく最後までたどり着いて、大地に足を着けると、もちろん海は見えなくなった。最初に上り始めた螺旋階段前のコンクリートだった。
 その後、男に教わった通り、学校前のバス停でみどり町行きに乗って、もっとも家に近い停留所で降りた。すっかり夜になっていた。
 歩きすぎて疲れたので飲み屋に行くことは諦め、家の冷蔵庫に入っていた胡瓜とハムとチーズで簡単なサンドイッチを作って食べた。飲み物はウィスキーソーダ。味気なくも腹が減るのでむしゃむしゃと飲み込むように食べていると、先ほどあったことが本当にあったことなのか夢だったのか、よくわからなくなった。
 食べ終わり、店であの青年から受け取った本をリュックから取り出してしみじみと表紙を眺めると、やはり、最初に見た時と同じように、灯台と螺旋階段、そして私自身と思われるリュックを背負った男の絵が描いてあった。しかし、あの塔に連れて行ってくれた男の絵はない。とすると、あれは誰だったのだろう。確か、あの学校のことを「わたくしどもの学校」と言った。ということは、経営者とか理事とかそういうことなのだろうか。名前を聞くことも忘れていた。
 それから本の頁をパラパラとめくった。私の話が書いてあるのだろうかと思うと、心臓がどきどきする。だけど、ここまでくると無関係とは言えないだろう。とりあえず。二つ目の話である「ボック」という物語を読み始めた。


 翌日の夕方、店を早めに閉めて、もう一度交差点の信号の角にある煙草屋に行くと、まだ「海の草原」という展覧会の看板はあった。そうか、今日もやっているのか、あの図書館にもう一度行ってみることができると思い、もう煙草屋のおばさんには断りもせずに店の横の路地を入っていった。やはり、洋品店があり、仏具屋がある。ところどころに「海の草原」と書いた看板があり、昨日と同じように自転車や学校帰りの子どもたちがいた。町と町の境界線も越えて、やはり下校時間を知らせる鐘の音がする。そして部活動を終えた子どもたちの列。しかし、あの男は現れなかった。
 なるほど。本に書いてあった通りだ、と思った。
 ここまでくれば、間違いなく私自身のことが書いてあると考えてよいだろう。「ボック」という物語では、「本を受け取り、それをリュックに入れて散歩に出た人がある看板を頼りにさまよっていると、一人の男が現れて図書館の塔の頂上へと連れて行く」話が書いてあった。「塔の螺旋階段では海が見えるけれど、頂上と地上では見えない」ところも当たっている。もちろん、それだけでもぎょっとしたのだが、話はそこまでではなく、その先があった。その本の主人公(つまり、私)は、翌日にもその図書館へと向かうと書いてあったのだ。私は昨夜、それを読みながら、この本に書いてある通りにはできないだろうと考えていた。実のところ、その時は歩きすぎたせいで足の筋肉がパンパンに腫れて痛く、翌日は店を開けることすらできないのではないかと思われたからだ。しかし、薬屋の奥さんにもらった入浴剤を使って風呂に入り、足をよく揉んでみると回復し、朝起きてみたらすっかり良くなっていて、だったら、この本に書いてある通り、もう一度行ってみようかと思えたのだった。
 さて、前日にはてっぺんまで案内してくれた学校の理事か何かの男は、本に記載されてある通りもうそこには現れず、部活動を終えた子どもたちの列が行ってしまった後、私は自力でその図書館へと向かった。「ボック」に書いてあった通りだ。学校の裏門から入り、裏庭を抜け、円柱型の建物を探す。見つかるだろうか。私はずんずん歩いていく。
 ああ、あった。今日もあった。
 そして、これだ。本に書いてある通りだ。昨日も来た円柱型の建物の隣に、小さな平屋の建物がある。物語の中では、主人公はこの建物の存在に気付き興味を惹かれながらも、無視をして円柱型の建物の螺旋階段を上り始めるのだ。そして二日目もてっぺんまで上っていくと、今度はそれが家の前に通じていたというファンタジー仕立てとなっている。まさかそんなことはあり得ないだろうと思う。そんな不思議なこと、いくら何でも無理だろう。
 私は悩んだ。昨日、あんなに大変な思いをして螺旋階段を上った。今日、足が動くのは、ひょっとしたら薬屋の奥さんがくれた入浴剤のおかげかもしれない。今日もこれを上ったりしたら途中でばててしまって動けなくなって、降りてきたはいいものの、よくあるSF小説みたいに時空間がすっかり変わってしまっていて、家にも帰り着けなくなるのではないかという気がした。うまくして、どうにか帰れたとしても、入浴剤がないから何日か休む羽目になるのかもしれない。そう思わせるほど、螺旋階段を上るのは大変なことだったのだ。昨日は男が前を歩いていたから登り切ることができたのだろう。
 どうしようかと悩んだ結果、私は路地を超えて、図書館の塔の横にある平屋の建物の真ん前まで行ってみた。すると、これは!
 建物の前に「どのような本でも置いてあります」という看板が立て掛けてあった。
 ――なんだって! 
 一つ目の物語の中にある本屋じゃないか。これか。あのトンボも訪れて本を買い、買ったのはいいが、もう一度本屋に行こうとすると見つからなかったという本屋。しかし、なんてシンプルな本屋なのだろう。この隣にある天にまで届きそうな図書館の塔に比べると本当にささやかだ。しかし、見たところ店は営業しているようだった。一方、図書館の扉は昨日と同じようにがっちりと閉じられている。もう時間外なのだろうか。
 結局、勇気がなくて、螺旋階段も上らず、その本屋の扉を開けることもせず、その日はバスに乗って家に帰った。
 その後、私はそんなことを何度も繰り返した。いつでも、立派な図書館の塔とちっぽけな本屋の前まで出掛けて行って、その二つを見比べて帰ってくる。自分でも情けないと思いながら、どうにもその先には進めずにいた。そのうち「海の草原」という看板もなくなっていた。
 ある時、いつもと同じようにその二つの建物の前に立っていたら、それまでに見ていた風景と何かが違うような気がした。ほんの少しだが違和感がある。なんだろう。目をこすってよくよく眺めた。どこが違うのだろうか。
 ああ、これか! 
 屋根だった。ちっぽけな本屋の屋根が、それまでは薄茶色の、さらに日焼けして褪せたような色だったのに、その日は艶々とした緑色に塗り替えられている。本屋の店主が塗り替えたのだろうか。そんな風にやる気があるというなら入ってみようか。店の前まで歩いていって中を覗き、でもやっぱり入ることはやめて、いつも通り家に帰った。ひとたび入ってしまうと、物語世界の住人になってしまって、二度と出てこられなくなるのではないかと恐れた。
 その翌日――。
 普段なら見かけない青年が入って来た。いや、あの青年だ。いつか現れて、この「螺旋」と書いたジンクス本を置いて帰った青年だ。相変わらず髪をつんつんと上に立て、青白いとまで言える顔に黒縁の眼鏡。彼だ。間違いない。
「お久しぶりです」
 青年は言う。
「ああ、君か。本を、取りに来たのか」
 なんとなく癪に触って、読んだことを言わなかった。円柱の図書館を実際に見たことや、ちっぽけな本屋を見つけたことも。「まだ、読んでいないんだ」今度も嘘をついた。この青年には嘘を言いたくなるのだろうか。
「それはよかった。あれは実は、間違ってお届けしてしまって」
「間違って? どういうこと」
 いや、だいたい合っていたよ、と言いたいところだったが、読んでいないと嘘をついたところだったので言えなかった。
「まあ、どうあれ、持って帰ります。ところで、これ、見てください」
 紙袋の中に手を入れてごそごそとしている。「ほら、前にお話しした、ジオラマ模型の家の屋根、ネットで注文した塗料で塗りました。ドイツ製のあれはなかったけれど」
 紙袋から取り出したのは、小さな家の模型だった。あっ、これは! まさか。
「この緑色の屋根、艶々してきれいでしょ」
 言葉が出なかった。まさに、あの本屋の模型だった。小さくあの看板も作って台に貼り付けてある。どう見ても円柱型の図書館の横にある本屋の模型だ。屋根までちょうどよく塗り替えてある。どう答えるべきか。こちらがしどろもどろでいると、青年はそれをさっさと紙袋に戻し、「さて、あの本、返してください。替わりをお持ちしましたから」と言う。
 替わり? どういうことだろう。
 青年の顔をじっとみる。にこりともしない。まじなのだろうかと思う。見つめ合ったまま、数秒時間が過ぎる。
「じゃあ、これ」
 リュックに入れたままになっていた「螺旋」を取り出して、青年に返した。少し、惜しいような気がする。あんなに昨日は物語を怖がっていたのに、返さなければいけないとなると、寂しいのだった。しかし青年は無情にもさっと受け取り、
「そしたら、こっちをどうぞ。改訂版です。どうか、僕の本、読んでくださいね」
 にっこりと微笑み、机の上に一冊の本を置くと、じゃあまた、と言って、以前来た時と同じように、さっさと出て行ってしまった。もう追いかける気にもならない。
 私は青年が置いていった本を手に取った。「螺旋 改訂版」と書いてある。なるほど。表紙の絵は同じだった。何気なく裏返す。この前の本では裏はただの水色だったはず。
 今度は――。ちっぽけな本屋の絵が描いてあった。しかし周囲は海で、まるで楽し気に浮かんでいる船のようにも見える。屋根は艶々とした緑だ。
 いきなり最後のページを開いてみた。なんて書いてあるのだろう。この後私はどうなると言うのか。いっそ読んでしまってやる。

 ――ああ、そうか、それがいい!

 私は携帯電話を取り出して、友人である谷中トンボの店に電話をした。
「トンボくん。この前の本の話だけどね、あの本屋、見つけたよ。そう。どのような本でも置いてあります、の本屋。道もわかる。だからね、今度一緒に行ってみないか。ああ。休みにね。そうしよう。うんうん、じゃあ」
 電話を切る。
 そこで気付く。
 しまった! ジンクス通りじゃないか!

《エピローグ》
 ひとたび店に置いてあるその本を手にしたら、再びその店に行かずにはいられなくなる。あの青年の方から出向いてまで持ってきたのだとは言え、ジンクスは有効だったのだろう。実のところ、何を隠そうあの青年は、ジンクス本の著者であっただけではなく、なんと、あの本屋の店主だったのだ。こちらとしても、つい読んでしまったのだが、それ以来、個人事業主協会が密かに語るジンクスの状況にあてはまってはいないとは言えない。いやむしろ、もうばっちりはまってしまっている。実際、彼がここに来て本を置いていった初日から毎日、少なくともあの本屋の前までは行ってしまっているのだから。
 そしてお恥ずかしいことに、そうだ、まんまとジンクスの通りなのではあるが、何度もトンボと一緒に出掛けていって、数冊本を購入さえしている。なんとなく、これからもずっと、あの本屋には通う羽目になりそうな予感がする。ああ、
「なんてこった!」

(了)》


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?