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小説1 駅名のない町

小説『駅名のない町』 作 米田素子


〖本編 全編掲載〗 

 本編文字数 約37000字
 ジャンル  ソフトホラー
 制作開始  2010年
 私の最初に書いた小説。

目次

1.あらすじ
2.プロローグ
3.第一章 前任者のノート
4.第二章 絵描きの男 現る
5.第三章 暇人同盟
6.第四章 マネキンと最終電車
7.エピローグ
8.あとがき


《あらすじ》
 主人公の永尾祐一は十九歳の春、とある駅の駅員になった。
 不安に思いながらも意味不明に湧き上がる希望を抱き、誰もいない駅員室の掃除をしていると前任者のノートを発見した。ノートにはなんとも不思議な記述がある。永尾祐一は引き込まれるように読んでいった。
 そんな中、熊川と名乗る絵描きが駅にやってくる。永尾祐一はその男に前任者のノートを見せ、何か知らないかと尋ねた。
 熊川も謎めいた「あるはずのない」ノートを見て首を傾げたが、熊川の知人たちが集まる喫茶店みなみに永尾祐一を誘った。そこに集まるみんなで謎について考えようと言うのだった。……


 
 道可道非常道(道の道とすべきは常道にあらず)
 名可名非常名(名の名とすべきは常名にあらず)
               ― 老子 ―
   人生観の方は「常道」でよいが、
   物理では非「常道」をさがす必要があると私は思う。
               ― 湯川秀樹『創造への飛躍』より ―


―プロローグー

 線路が一本ある。
 線路の北側には山があり、南側には海がある。
 線路から海へとなだらかに傾斜して、隙間なく建つ家々の瓦屋根が艶やかな光を反射していた。ちらほらと鯉のぼりも風に泳いでいる。細い道が家々の間を縫い、そこをバイクが器用にすり抜け、自転車が逞しく走り抜けていった。子どもと手をつないで歩く大人の姿もある。

 永尾祐一はその線路のプラットホームに立っていた。十九歳になったばかりだというのに、今日からここで駅員として働くことになっている。真新しい制服にはぴしりとアイロンがかかって希望の匂いがした。
 背筋を伸ばし、まっすぐ海の方を見ていた。海と空の接する辺りが目の高さで一致している。ほとんど凪いでいるように波は小さく、潮の匂いを含んだ風がこんな山側の駅にまでも優しく穏やかに届き、薄い雲で遮られた太陽の白くまばゆい光は海面にゆらゆらと映り込んでは弾けた。
 しばらく眺めていると、永尾祐一の中で空と海は溶け合ってしまい、その二つを分けているはずの水平線は一本の細い糸になって、手を伸ばせば触れることさえできそうに思えた。その糸をずっと見ていたいような気もするが、いつしか祐一自身の存在さえもそこに繋がって海にまで流れ込んでいきそうで怖くなる。
 安楽の中に潜む危機感。危うさの中の安らぎ。

 やっと海を眺めるのにも退屈し始めたところで、今度は線路の行く先に目をやった。二本のレールが最後には一点に繋がっていた。少し上り坂になっているせいか一点は空の中に吸い込まれている。レールに挟まれた枕木が几帳面に地面を刻み、その間隔は遠くへ行くほど狭くなっていった。
 時々鳥の声がする。それ以外は風の音以外何も聞こえない。
 均等に遠ざかっている枕木を見ていると、電車が線路を行く時に奏でるリズムが湧き起こってきそうだった。
 ガタンゴトン、ガタンゴトン。
 一定の間隔で鳴り響き、近付いては遠ざかっていく。

 永尾祐一は職業安定所でこの仕事を勧められた時、
「その鉄道には駅が三つしかない、それも全部で十キロほどの距離しかない」
 と聞いて、そのささやかさにあきれてしまった。そんな鉄道に駅員が必要なのかと。
 しかし、こうして瓦屋根の町並みや海やまっすぐな線路を眺めていると、この鉄道にも、移動のための乗り物や線路が必ず備えている威厳がきちんと保たれていることが分かった。

 ――だって。まるで理想的な車窓風景ではないか。

 よくある鉄道と何ら変わりなく、どこか遠くへと連れ去ってくれる予感がする。
 むしろ複数の線路が乗り入れている駅のプラットホームなんかよりも、ここの方がずっと遠くをイメージさせる。
 多くの場合、主要ハブとなる駅の場合では線路がたちまちカーブし、その先がビルとビルの間に入り込んでしまうので、どんなにこれからの行先に思いを馳せようと試みても、非常なる潔さでぷっつりと遮ってしまう。湧き出ようとした旅情らしき思いはあっという間に旅行の計画へと変わり、淡く描き始められていた夢は唐突に現実へと突き当たってしまうのだが――。
 今、永尾祐一の立つ駅、そこから続く鉄道には遮るものがない。

 ――よいではないか。

 遮るものがなければ、遠くまで行ってよいと承認しているようなものだ。承認しているというより、遠くまで行こうと誘っているように見える。
 祐一は腕組みをしながら線路が見えなくなる辺りを眺め、うんうんと一人うなずいていた。

 さて、そんな外面的な特徴だけではなく、どういうわけか、この駅には駅名を表す看板がなかった。
 実際、祐一が職業安定所でこの仕事を見つけた時にも「ある鉄道の真ん中の駅の駅員募集」という触れ込みで、募集要項には「駅名は不明」という注意書きがあった。
 もちろん、祐一は
「駅名が不明だなんて、一体どういうことですか」
 と担当者に尋ねてみたが、
「分からない」
 と返答された。
「分からないなんていい加減すぎやしませんか」
「不満なら他の仕事にすればどうですか」
 それはそうだろう。勧められた仕事にはいくつかの候補があり、祐一の普段の生活態度や学校の成績からすれば、どれにでも受かりそうだった。他の仕事にしてもよかったのかもしれない。
 それでも彼は様々な条件を見てこの職場に興味を持ち、現地に行けばきっと駅名の看板くらいあるだろうと考えてやってきたのだが、結局、職業安定署の担当者が言った通り、プラットホームにも線路脇にも、ホームと山の間にあるフェンスにも、駅名を示すものはなかった。
 両隣の駅名もわからない。
 どこからどこへいくのかという矢印案内もない。
 さらには、自動販売機も町案内の地図も広告もない。
 つまり、行先を示さないだけではなく当駅で降りてみないかとの誘導もない。
 まるで、ご勝手にどうぞといった風情。
 永尾祐一の配属された駅とその両隣にひとつずつしか駅はなく、さらには駅同士の間は五キロほどしかない。
 つまり、現実的にも、ほとんど間違いなくこの線路は世界中に存在するものの中で最も短い部類に入っている。
 にもかかわらず、線路の行き先が空に消える辺りを眺めていると、なんだかずっと遠くまで行けるような気持ちになるのだった。
 東から西へ。
 西から東へ。

 永尾祐一は堪能するまで海と線路の行き先を眺めた後、振り返って山側を見た。すると、ベンチがあった。薄水色のプラスチック製であり、ところどころひび割れている。背もたれに白抜きされていたらしき文字も掠れて消えかけ、今ではもう読み取ることが出来なかった。もしも不用意に勢いよく座るなどすると、ぐしゃりと壊れそうだ。
 恐る恐る近付いて行き、そっと触れてみると、錆びついた鉄製パイプの足は歪んでぴったり揃って立つことが出来ず、コンクリートの上では必ずどちらかに傾いてぐらぐらと揺れるのだった。
 座面も驚くほど均等に色褪せ、際立って部分的にこすれている場所はない。ずっと長い間ここに置いてあったのだとしても、多くの人が腰かけたわけではなさそうだ。単に海風や年月に晒されているうちに、少しずつひからびるようにして古びていったのだろう。
 そのベンチ真上のトタン屋根を支えている四本柱のひとつには、字の消えかけたブリキの時刻表が釘で打ち付けられているが、どうやら一日に七回ほど行き来する本数しかなく、わざわざこの予定を眺めて車両の到着を待った客がいたかどうかさえ疑わしい。ブリキの縁もすっかり茶色く浸食されている。

 彼は溜息を着いた。
 もうごまかしようもなかった。ここは寂れ果てた駅でしかない。
 やや肩を落とし、再び海の方を見た。

 ――僕はどうしてここへ? 

 海は相変わらず青く、また白く揺らめいてカモメが群れをなして波間を渡っている。潮の香りも漂っているし、遠くには亀の形をした緑の島もある。線路の行き先を眺めるとやはり先程と同じように遠くを予感させている。
 しかし、あのベンチだ。彼は振り返りもせず海の方を向いたまま目を閉じ、先程見た椅子の姿を思い浮かべた。古びているだけではなく、これまでに訪れた乗客たちの往来さえ想像できない。

 ――どうしてここに来たのか。ここを選んでしまったのか。
 
 職業安定所で紹介され、
「ずっと遠くの町にある鉄道だが、住むところも無料で貸すし、給料も申し分なく出す」
 と言うので、幸いとばかりに引き受けたことは覚えている。家を出たかったというのもあるし、鉄道が嫌いなわけではなかった。

 ――でも、それだけの理由? 

 潮風が渡り、山の木がさわさわと木の葉を鳴らした。 
 どうにかして素晴らしいものだと考えようとしても、現実的に見れば、この駅は「山と海の間に漫然と線路が敷かれ、ただ無造作にプラットホームが置かれている」だけに他ならない。
 これといって目立った取り柄はない。
 あえて言うならば、この上なく身軽ではある。

 ――そうか。それはいい。

 彼はまた一人うんうんとうなずく。
 身軽でなければ遠くまで行けないのだから。


第一章 前任者のノート

 腕時計を見ると午前六時十五分だった。
 水曜日だから平日運行だろう。文字が掠れてよく見えないものの、どうにかしてブリキの時刻表で列車が来る正確な時刻を確認しようと目を凝らすと、ともかく第一便が七時台であることはわかった。七時、九時、十一時、午後一時、三時、五時、七時にそれぞれ一本ずつ走行するらしい。備考として「まれにその間にも××××することがある」と書いてある。

 ――なんだろう? ××××の部分は消えてしまって見えないが。

 どうあれ始発が七時台だとすると、到着するまでに一時間程ある。その間にやるべき業務内容を確かめようと考えた。
 実を言うと、永尾祐一はまだ具体的に何をすればよいかを知らなかった。それも仕方がない。職業安定所で仕事の内容を尋ねたところ、
「行けばきっと前任者の書き留めたノートがあるだろうからそれを見て行えばいい、とにかく始発前には必ず行って、終電までそこにいればよい、当方としてはそれだけしかわからない」
 と返されたのだから。
「それでは退屈なのではないですか」
「仕事というものはなんでも退屈であり、とても疲れるというものでなければ、それだけでもありがたいものだ」
 担当者の男はなんだか白けた表情を見せたのだった。

 時刻表は時刻すら読めなくなっている。こんな古ぼけた、ほとんど役に立たないものを見てしまうと、やはり当初心配した「退屈過ぎる」ではないかとの不安が急激に増幅して襲い掛かってきたが、あの時「仕事というものは――」と言った職安の担当者の表情を思い浮かべる。何を甘えたことをと言いたげだった。
 祐一はやっとの思いで、そうだな、こんな僕にも仕事があるのだからよかった、と考え直す。

 ――まずは前任者のノートを探すとするか。

 ホームの東にある階段を一段飛ばしで勢いよく下り、踏切の傍にある直方体の駅員室の扉の前に立った。
 駅員室の扉には鍵はかかっていなかった。長い間閉めたままになっていたのか、開けようとすると錆びついてぎしぎしと抵抗する。
 しばらく格闘した後、どうにか激しく軋む音と共に開き、中を見ると、窓はひとつしかなかった。天井に裸電球がひとつ、デスクと椅子が一組、丸椅子がひとつ。隅に簡易キッチンと薬缶、急須、湯呑、紙ファイルの並んだ書棚があった。デスクの上にはウィスキーボトルが一本あり、ボトルを手に取って逆さまにすると、残っていた一滴が床にポトンと零れ落ちた。
 どこもかしこも埃っぽく、まるで長い間忘れ去られていたものが発掘されかのようだ。

 ――これは、まさしく、遺跡だな。

 遠い昔に何かが営まれており、何かが起きて、突然そこに居た住人達が消え去った。片付けられることもなく、そのまま封じられた光景。

 ひとまず窓を開けようとしたが、ここでもでこぼこした擦りガラスの窓枠にじゃりじゃりと砂が溜まって軋み、永尾祐一は大いに苦労した。耳を引っ掻く嫌な金属音もする。網戸には蜘蛛の糸がふわりと張られ、小さな虫の死骸がいくつかくっついていた。

 ――なんだ、この部屋は。
 ――最初の仕事は掃除だな。

 祐一は大きく溜息をついた後、簡易キッチンの前に立ち、水道の蛇口を捻ってみた。意外にも水が勢いよく流れ出た。赤水も出ない。窓の汚れ方を見た時には、長年駅員は不在だったのだろうかと考えされられたが、水の状態を見る限りそうでもなさそうだ。とりあえず置いてあった湯呑に水を汲み、窓の桟にそろそろと流してみる。黒い水がたらたらと外側に流れ落ちていった。

 ――少しはましになったか。

 網戸をぎしぎし開けると海が見える。柔らかい風も入ってきた。
 そこでようやく、そもそも前任者のノートを探していたことを思い出した。しかし、空になったウィスキーボトルを机の上に置いたままにしていくような人間が業務内容や日誌を書き残したりするものだろうか。実に妖しいものだと祐一は訝しげに顔を顰める。
 とはいえ、書棚の扉を開け、日誌らしきものはないかとファイルの隙間や中身を確認し始めた。
 ファイルには水道代や光熱費の明細、日々の気温や天候などありきたりな記録が淡々と記されている書類と、鉄道が建設された時の設計図や権利書の控えなどを綴じている書類があり、それらの紙はというと、どれもざらついて茶色く変色していた。それ以外には町で開催されるお祭りの案内や地図、広告紙もあったが、どれもこれも日付は古いものばかりだった。

 ――これだけでは、ここでどんな仕事をすればいいかわからないな。

 デスクの上に広げた書類を見渡す。
 またもや「ただそこにいればいいのでは」と言った職業安定所の男の言葉と表情を思い出して、ぞくっとした。

 ――本当に? それだけでいいの? 

 喜ぶべきか悲しむべきか。もしも本当にすることがないのならば、大量に本を持ち込んで読んでいても構わないことになる。幸いにして読書が趣味でもあるので、いればいいだけと言われても、それほど暇を持て余すことはないだろう。
 さて、どうしようかと腕組みをしたところで、デスクに引き出しがひとつあることに気が付いた。

 ――ノートはこの中か? 

 引き出しを開けると、予想通り、ノートがびっしり入っていた。どれも表紙はグレーの厚紙、端に黒い製本テープが張ってある。ごく普通のノートだ。

 ――これが前任者の業務日誌か。

 さっそく一番上の一冊を取り出しパラパラとページをめくってみた。しかし中身は白紙。淡く印刷された罫線だけが続く。

 ――なんだ、ただの新品のノートじゃないか。 

 ノートを引き出しに仕舞い、デスクに置いていた紙ファイルも書棚に戻して腕時計を見た。

 ――六時四十分。どうしよう。

 さきほど開けた窓を見て、まずはあそこから掃除だろうと判断した。網戸は汚れが着いているだけではなく潮風も届くのでところどころ錆びついている。デスクや床、キッチンはそれほど汚れていないようだったが、そうはいっても一通り雑巾で拭かなければ椅子に座る気にもなれない。
 デスクの下にバケツと雑巾もある。建物の横に水道があったことを思い出し、やるか、とバケツと雑巾を持って外に出た。
 外に設置されている蛇口からもキッチンと同じく綺麗な水が流れ出た。

 ――よかった、使えるじゃないか。

 制服の袖口を綺麗に折りたたむようにしてまくり上げ、バケツに水を汲み雑巾を絞り、デスク、椅子、書棚、キッチンの扉、窓、床という順番で拭いていく。雑巾が汚れるたびにバケツの中で洗い、バケツの中の水でさえ真っ黒になると、外の排水溝に捨てて再び新しい水を流しいれた。網戸は取り外して蛇口まで持って行き、直接水を掛けながら雑巾でごしごしと擦って付着した汚れを落とした。
 気が付くと七時過ぎ。

 ――そろそろ掃除は一旦やめよう。

 洗った雑巾をバケツの縁に掛けて干し、手をハンカチで拭いて、捲り上げていた袖口を戻してボタンを掛けると、一度室内に戻ってデスクの前の椅子に座ってみた。

 ――こうして綺麗になってみるとなかなかよい部屋じゃないか。

 窓から入る風すらも先程よりは透き通ったものに感じられる。
 デスクが綺麗になったところで、もう一度引き出しを開けた。
 中に入っていたノートを全てデスクの上に取り出して、さて全部で何冊あるのだろうと並べ、一冊ずつ開いて中を見る。何も書かれていない新品のものは上にあった数冊だけで、それらの下に入っていたものには何やらぎっしりと文字が書き込まれているのだった。一冊取ってパラパラと捲っては横に置き、次の一冊を取り上げてはまたパラパラと捲る。
 ノートは全部で二十冊あり、そのうち新しいものは三冊だった。使用済みのノートは表紙の右端に小さく数字が書いてある。その書き込まれた数字を見ながらノートを順番に並べた後、最後の十七番のノートを手に取り最後の頁を開いてみた。
 日付は九月十二日火曜日とだけ書いてあり、年代はわからなかった。文字は恐らく引き出しの中のシャーペンで書いたと思われ、黒鉛がところどころで擦れ、歪みがちな字体は罫線からはみ出しつつ続き、消しては書き直した跡もあった。消しゴムのカスも残っている。読み取りにくいものではあったが、どうにか文字を追った。

[九月十二日火曜日。今日はよく晴れている。夏は暑かったが、雨がそれほど降らなかったせいで雑草たちに勢いがなく刈り取るのも楽なものであろう。だけど、昨夜見た最終電車はどういうことだ。あの車両は一体何だったのだろう。いつものたった二両しかない水色電車とは大違いだった。立派なメタリックシルバーの車体で、しかも数えきれないほどの車両がつながっていて、中は乗客で一杯だった。満員電車というやつだ。運転手の野郎がとぼけやがって、何を言っているのですか、毎日こんな風じゃないですか、なんて言いやがった。夢か? 飲み過ぎたか。とにかく、今朝の始発電車がどうなるか、それが問題だ。また突拍子もないことが起きやがったら、その結果によっては、俺はここをやめる。やめると言うか、こっそり出て行ってやる。]

「なんだ、これは?」
 思わず口に出してしまう。デスクの端に置いたままになっているウィスキーボトルが目に入る。

 ――そうか、前任者はアルコール中毒だったのか。
 ――それで幻覚でも見たのだろう。
 ――そうでないと言うならば、この記述は一体なんなのだ?


第二章 絵描きの男、現る

 永尾祐一がプラットホーム横の草刈をしていると、駅に続くだらだら坂を一人の男が上ってくるのが見えた。洗い込んだチェックのネルシャツにブルーデニム。黒い布バッグを肩から斜め掛けにし、首から一眼レフカメラを下げている。

 ――電車に乗るのだろうか。

 だとすれば初めて見る乗客となる。
 祐一は草刈の手を止めて男の様子を目で追った。残念ながら男は乗客とならず、途中で横道に入って行ってしまった。どうやら駅を目指していたのではないらしい。
 男が入り込んで行った細い道はすぐに行き止まりになっていて、そこには大きな海棠のある家が存在している。

 ――ということは、男はあの家の住人なのだろうか。

 その邸宅はがっしりとした岩の塀で囲まれており、海棠の植えられている門は重厚な木で造られている。ちょっと押しただけでは開きそうにもない門。祐一は初めてその建物を見た時、まるで山上のお城のようだと思い、住人はどんな人間なのだろうと感嘆したのだった。
 駅員として働き始めたこの一週間ほどの間に、門が開閉して誰かが出入りしているのを一度も見かけたことはないが、塀の上に顔を出している茅葺屋根は手入れが行き届いており、庭に植えられている松の枝が丁寧に剪定されていることから察すると、無人というわけではなく、誰かが暮らしていると考えてよさそうだった。門には表札もないが、朝方には海棠の下に箒で掃かれたような跡も見かけた。やはり空き家というわけではない。
 駅のごく近くでは家らしい家はここしかなく、あるものと言えば栗林と材木置き場、それから、岩が積んである六角形の空き地があるくらいだ。人影もなくしんとしている。時々、野良猫が材木置き場周辺を歩いたり、六角形の空き地に積まれている岩の上に数羽のカラスが止まっていたりするくらいで、生き物の姿を見かけることはほとんどない。祐一はせめて海棠の家の住人と顔見知りになりたかった。
 草刈で汗ばんだ額をシャツの袖で拭く。しばらく、男が消えていった方向をぼんやりと眺めた。
 その後、草刈をしつつ、時々だらだら坂の方に目をやっていると、再び男が細い横道から現れた。そのまま下り坂の方へと折り返して帰ろうとしたものの、ふいに振り返ってこちらの駅を見ている。目が合うかと思って一瞬ドキッとしたが、線路沿いの柵が邪魔しているのか、向こうからこちらの姿は見えないようだった。祐一の存在には全く気づかないまま、ゆっくりと駅の方に向かって歩いてくる。

 ――電車に乗るのだろうか。

 どうやら男は電柱に立て掛けている祐一の自転車に心が惹かれたようだった。祐一は寮からその自転車で通勤している。
 男は珍しいものを見たかのように首を傾げた後、ぶら下げていたカメラを持ち上げファインダーを覗き、自転車を撮影しようとしている。恐らく数枚シャッターを切っただろう。

 ――どうして僕の自転車の写真なんか撮るのだ、不謹慎ではないか。

 話しかけてみようと考え、手に持っていた草刈用の鎌をプラットホームの脇に置き、祐一が歩き出したところで、男は写真を撮ることをやめて坂を下り始めてしまった。

 ――なんだ、もう行くのか。

 どうしようかと迷ったが、この駅に次の電車が来るのはもう少し先のことになるし、時間を持て余していたので男の後を追ってみることにした。あまりにも人の気配がないことにそろそろうんざりし始めていたのだ。
 ネルシャツを着た男はアスファルトの坂道をてんてんと慣れた調子で下って行く。栗林に太陽を遮られた道は薄暗く、樹木の隙間から日光が差し込む時だけフラッシュのように男の姿を浮かび上がらせた。体を心地よくゆすりながら、うねうねと曲がりくねっている道を小走りで降りていく。やっと林が途切れ、バス停のある十字路に出て遮ることのない太陽に照らされたところで、唐突に右に曲がってしまった。大急ぎで駆け寄って行ったが、十字路に立った時にはもう男の姿は見えず、状況から考えると、道沿いにある喫茶店に入っていったと思われた。
 見ると玄関前の道上に看板が置いてあり《喫茶みなみ》と書いてある。二階建ての住宅の一階部分が店になっていて、木の扉には営業中のプレートが掛けてあった。辺りに珈琲のいい香りが広がっている。そうか、ここまで来れば人がいるのかと得も言われぬ安心感を覚え、このまま店に入ってみたいような気がしたが、暇とはいえ仕事中であり、そう長く持ち場を離れるわけにはいかない。腕時計をちらりと見た後、再び駅までの坂を上って行った。
 それから三日ほど過ぎた金曜日の朝。
 始発電車を見送った後、ミルク色に霞んでいる海の方を向きながら欠伸をし、草刈も順調に終わったし、次に草が生えてくるまでは何もすることもなさそうだと考えていると、再び例の男がだらだら坂を上がってくるのが見えた。先日と色違いのネルシャツを着て、やはりカメラを持っている。
 祐一は欠伸のせいで滲んだ涙目を手のひらでこすり、今日も男は海棠の家に行くのだろうかと眺めていると、脇道に向かうポイントが過ぎても折れず、こちらに向かってくる。

 ――この駅にくるのか? 

 じっと伺っていると、今度も男は自転車の前に立って不思議そうに眺め、その後、祐一のいる駅の方に目を向けた。それでもやはり、祐一の存在には気付かないようだ。カメラを構えてファインダーを覗き、初めに線路の辺りにレンズを向け、それから駅員室、プラットホームへと方向を変えながら撮影を始めた。
 祐一はなんだか居てもたってもいられない気持ちになって、プラットホーム横の階段を一つ飛ばしで降りていき、踏切を渡って柵の向こうにいる男の近くまで行った。
「あの――」
 声を掛けると、ファインダー越しに永尾の姿を見た男は、「わあっ」と声を上げた。
「なんだ、びっくりした」
 カメラを持っていた手を降ろし、「居たのか」自転車と永尾を見比べている。
 男の背丈は永尾と同じくらいでやや小太り、年齢は四十代くらいと思われ、近付くと衣類や髪からはじっとりと染み込んだ煙草の匂いがした。
「その自転車は僕のものです。最近、駅員としてここに来ました」
「やっぱりそうか。この前これを見つけて、まさか駅員でもいるのかと思ったところよ。これまでは貨物列車が行ったり来たりしているだけかと思っていたのに」
 男はプラットホームの方を見た。「それで、昨日、みなみのマスターに聞いたら、あの電車は一応人も乗ることが出来るって言うし」
 沈黙する二人の間を蜜蜂が飛び、羽音がやたらと大きく聞こえたが、追い払うことなく互いの顔を見ていた。 
「で、なんで、そんな若いのに、こんなとこいるの?」
 男の声がすると、蜜蜂は栗林の方に向かって飛び去った。
「ですから、仕事です。駅員の」
 姿勢を正して胸を張る仕草を見せた。ネルシャツを着た男は永尾の姿を上から下までじろじろと見て、
「駅員の仕事と言っても、君はやたらと泥だらけですな」
 と言った。「トンネルでも掘ってるの?」にたっと笑う。

 ――まさか。

「草刈をしているだけです。一週間ほど前に来たばかりですけれど、プラットホームの横は雑草がぼうぼうで、駅員室は砂だらけでしたから、ひたすら掃除ばかりやりました」
「その様子じゃ、そうだろうね」、男はカメラを構えてファインダーを覗き、駅のあちこちを望遠レンズで眺めた。「実に古めかしいっす」うほほと妙な笑い方をする。
 少々むっとしながらも
「お聞きしたいのですけれど、僕の前任者をご存知ですか」
 思い切って尋ねてみた。
「直接的には知らん。知らんけれども、昨日、坂の途中にある喫茶店のマスターにちょっと聞いてみた」
「どんな方でしたでしょうか。僕は全く知らなくて、引き継ぎすらなく、職安でここを紹介されて、行けば前任者のノートを見れば仕事内容が分かるだろうって言われてきたもので」
「引き継ぎ? 前任者のノート? そりゃ、言いにくいけど、無理だな」

 ――どうして?

「でもノートはありましたよ」
「あり得ね。悪いけど、それは、あり得ないと思う」
 再び沈黙が訪れる。
 祐一は数日前に車両の運転手にノートの話をした時も「あいつが記録なんかとるもんか」と笑われたことを思い出した。
「だって何年もプラットホームには――」
 男は祐一から視線を外した。
「プラットホームには、何ですか?」
 男はカメラを弄り回しつつ「それはだな――」と言いかけた後、「いや、言えね」唇の上下をきっちりと合わせて、祐一の目を見つめたのだった。首から掛けているカメラの紐を親指と人差し指でこするように触っている。
「何か不都合でもあるんですか。秘密というか」
 こちらも引き下がらない。しかし男も言おうとしない。
「前任者の書いたノートがあるんですよ、よかったらお見せします」
 男は困ったなあというように頭をポリポリと掻いて目をそらし、ごまかそうとしたのか
「あれは何?」
 乗車賃箱を指さして聞いた。
「乗車賃を入れる箱ですよ。規定を読むと料金は自由だそうです」
「規定なんかあるの?」
「ありますよ」
 祐一は駅員室を指さした。「だから、前任者のノートもあるんですよ。さっきから言っているじゃないですか」苛々した気分を抑えきれなくなってきた。「あの部屋の中に」
 男は唇を尖らしてうなずき、ふうんと言った。
「そこまで言うのなら、見てみようか。そのノートとやらを」

 ――よかった。

 急に明るい気分になる。
「僕は永尾祐一と言います」
「知ってるよ。自転車に書いてあったから」
 男は微笑んだ。
 二人は駅員室に入り、祐一は前任者の書いたと思われる古ぼけたノートを男に見せた。男は「ほんとだね」と呟きつつページをめくる。
「こうしてノートはあります。内容はどうということはない、草刈をしたとか、乗客が二人いたとか、そういう記録ですけれど、でもこうして記録はあるのです」
 祐一も横から覗き込んだ。
「確かにね。あるね」
 不思議そうに一枚ずつページをめくっていた。「だったら、マスターの言った話はなんだったのかなあ」
「マスターの話って?」
「この鉄道が出来た時のこととか、出資者の話とか、それと、駅員として立っていたものとか」
「駅員ではなく、”駅員として立っていたもの”、ですか」
 二人はしんとしてしまった。
 答えを聞くまでもなく、祐一にはピンときてしまった。

 ――何か置物だろう。
 ――出資者の銅像か、駅員の形をした銅像か。
 ――ひょっとしたら……。

「それ、案山子、ですか」
 勇気を出して聞いてみたが男は唇を一文字に結んでいる。そうであるとも、違うとも言わない。しばらくしてやっと口を開き、
「それがなんであれ、永尾祐一君はある置物の代わりにここに呼ばれたわけで、それはここがその置物じゃ成り立たなくなったからだ。そしてノートがあるってことは、ずっと昔には置物ではない駅員がちゃんとここに居たってことかもしれないなあ。その頃の方がよかったから、きっと君は呼ばれたのさ」
 静かに言った。
 祐一は男の言葉を聞きながらも上の空だった。自分の前任者がただの案山子だったかもしれないことについて考え始めてしまったからだ。
 あのプラットホームのどこかに、駅員の帽子を被った案山子が立てられているところを想像してみる。それは海を眺め、風に吹かれ、年に数人の乗客にさえ気付かれもせずに立っている。誰が立てたのだろう。ひょっとしたら、ノートに不思議な記述を残した前任者がこの駅をそっと抜け出す時、不在がばれないようにと立てたのだろうか。
「どれくらいの間、その、置物は置いてあったのですか」
 ひきつりながらも笑顔を作り出した。すると男はノートを閉じ、人差指でこめかみの辺りを掻いた。
「マスターの話だと、随分長い間」
 ノートの角を指でいじっている。
「それでも鉄道は成り立っていたのでしょうか」
「どうかな。成り立っていたのじゃないかな。いつも電車が東から西へ、西から東へとは動いていたから」
「だったら、僕はどうしてここへ来たのでしょうか」
 目の前の男にそんなことを尋ねても仕方がないことは分かってはいたが、「ここの駅員なんて、そのまま案山子か何かでよかったのではないかと思います」 少しふくれっ面を見せながら、男にぶつけても仕方がない不満をぶつけた。
 すると男は、
「えっと、君が嫌なら、ここをやめてもいんじゃね?」
 しどろもどろになり、すっかり笑顔は消えて眉毛を八の字にした。「せっかく、こうして君と会えたけど――」小声で言う。怯えているように見えた。
 祐一は改めて不満そうな顔をした。「僕がここに来た理由は、僕達が会うためですか。そんなことですか」
 駅員室の中には、この緊迫した空気に不似合いな、潮の香りを含んだ風がふわりと入ってきた。窓から柔らかい光も差し込んでいる。
「時々交替してやろうか。君、その間は、みなみに行って珈琲飲む?」
 男はノートをデスクの上に置いた。「案山子に出来るなら、きっとこんな僕にも駅員だってできるさ」名案のつもりらしい。言ってから「あ、ごめん」手のひらで口を押えた。

 ――やっぱり、

「案山子だったんですね」
 祐一はデスクの前の椅子に座り込んだ。
「ごめん。言うつもりはなかったのだけど。でも正確に言うと、案山子ではなくマネキンが置いてあったらしい」
 男はますます悲しそうな顔になって、カメラのベルトを指先でいじり続けている。

 ――なんだよ、

 「マネキンで間に合うのであれば、マネキンに任せればいいじゃないか」
 デスクの上に置いたノートを手に取り、パラパラとめくった。「きっとこいつだ。この前任者だ。こいつが、こっそり抜け出す時に、マネキンを置いたのさ」
 男はうなずく。
「うんうん、そうだね、きっとそうだ」
「でも、どうして、僕はここに呼ばれたのでしょうか。マネキンが居ると言うのに」
「あれはマネキンじゃないかと、やっと気付いたんだよ。えっと、鉄道の持ち主が。マネキンに気付くまでは、ちゃんと駅員が仕事していると思い込んでいたんじゃね?」
「鉄道の持ち主というのは、僕にお給料を振り込んでくれている、山上鉄道組合のことですね」
 祐一は男の目を睨み付ける。
「そういうのかな、詳しくは知らないんだ」
 男は慌てて黒目を上げて天井を見つめ、考えている様子を見せた。
「ちょっと待ってください。マネキンになってからも、前任者にお給料は振り込まれていたのでしょうか」
「さあ、でも、随分前から駅員は不在だったって、マスターが言ってたからなあ。そうだ!」
 男はベルトをいじるのをやめて大きな音でパチンとひとつ拍手した。「その組合とやらに電話してみたらどうだろか」
「してみたことはあるんです。でもつながらないのです。一度だけ、向こうからかかってきました、『お給料を振り込みました』と女性の声で。やはり『行けば仕事内容はわかりますから』って言って」
 男はふうんとうなずいた。
「ノートには何か手がかりになることは書いてないのかな?」

 ――そういえば。

「最後のページに、妙な記述があるのです」
 やっとそのことを思い出した。
 机の引き出しから十七番目のノートを取り出し、最後のページを開いて男に手渡した。
「読んでください。メタリックシルバーの電車がきたとか、満員だったとか、奇妙なことが書いてあります。今はもう片付けてしまいましたが、最初にこの駅員室に来たときには机の上にウィスキーボトルが置いてあり、それで前任者はアルコール中毒にでもなっていたのだろうと考えました」
 男は唇を突き出し、眉間に皺を寄せて読んでいる。
「なんだこりゃ」

 ――何か分かるだろうか。

 書棚の横に置いてあった丸椅子を持ってきて男に勧める。
 男は、ありがと、と言って素直に座り、丁寧に一文字ずつ目で追って読んでいるようだった。
「確かに幻覚っぽい記述だ」
 ポツンと言う。「もし君が嫌でなければ、この辺りの暇人を集めて一緒に考えてみようか」
「ほんとに?」
 祐一は目を見張る。「ありがたいですけれど、暇人なんて集めるほどたくさんいますか」この駅の周りはひと気が全くないけれども――。
「たくさんはいないけど、マスターと僕とリタイア組の男と――」
 指を折って数えている。「それから、えっと、その――」言いにくそうだ。

 ――まだいるのか?

「誰なんですか?」
「えっと、君」
 男は懐っこい笑顔を見せた。「ごめん」また口を手で押さえて、真面目な表情を作っている。
 祐一はそんな男の顔をしばらく眺めてから、なるほど、とうなずいた。
「そうですね。僕です。そうそう」
 はっきりと言われてしまうと、不満と怒りで一杯だった気分がむしろすっと収まって、
「ちょうど都合よく、暇ですね」
 納得してしまった。

 簡易キッチンでお湯を沸かし、買っておいたティパックで二人分の緑茶を淹れた。男は大げさに恐縮しながら湯呑を受け取り、猫舌なのか何度もふうふうと冷ましてからやっと一口飲んだ。
「僕は熊川。名前を言うのを忘れていたね」
 丸い手のひらで湯呑を包み込むように持っている。「絵描き。自称だけど」
「写真家かと思いました」
 祐一は机の上にあるカメラをちらりと見た。
「僕は写真を撮って、それを絵に描く。二流っぽいかな」
「撮った写真を見て描くと二流なんですか?」
「そういうことはないと思うけど、本物を見ながら描く方が一流っぽいかと思って。でも、お蔭で二十年近くこの辺りの写真をたくさん撮っているよ。今度見せようか。ひょっとしたら前任者の姿がどこかに入っているかもしれないし、マネキンさんの姿がどこかに入っているかもしれない」
 祐一は熊川の顔をぽかんと眺めた。
「どうしたの? 見たくないの? 写真」
「いえ。願ってもないことですけど、熊川さんは親切ですね」
 そう言うと、熊川は照れ臭そうに顔を赤くして、
「ここは都会じゃないから、わりとみんなおせっかいだよ。何度も聞くけど、君は若いのに、どうしてこんな辺鄙なところに? 他にも仕事はあったのでは?」
 熊川は人差指でこめかみを掻いている。
 祐一は何かそれらしいことを答えようとしたが、電車が来る音がしたので、
「よくわからないけど、僕の仕事のためです」
 答にはなっていないが元気よく言い、立ち上がって制帽を被り直した。「じゃあ、今日はこのくらいで」目を細めて笑う。
 湯呑のお茶を飲み干した熊川も立ち上がって
「近いうちにみなみの常連と一緒にここに来るよ」
 嬉しそうに言った。「前任者が見たものが何だったか、みんなで確かめようよ」机に置いていたカメラを首からぶら下げた。
 祐一はにっこりと笑い、はい、と言って軽く礼をすると、熊川よりも先に外に出て、プラットホームに向かう階段を急いで駆け上がった。


第三章 暇人同盟

 最終電車を見送り、駅員室の掃除を終えて鍵を閉め、帰ろうとして自転車の前に立った時、祐一はサドルに一枚のメモが貼り付けてあることに気付いた。

 【時間が空いたら坂下の喫茶みなみにおいでください】

 貼ったのは熊川だろうか。いつの間に来たのか。
 その紙をポケットに押し込むと、少し迷いったが、自転車を押して喫茶みなみに向かった。
 辺りは既に薄暗く、昼間には長閑だった栗林がすっかり固い塊のようになり、闇に沈み込んで、透明な紺色の空には一番星だけが明るく照っていた。月はまだ見えない。
 時計を見ると午後八時すぎだった。こんな時間にも喫茶みなみは営業しているのだろうか。列車の行き交う本数は多くないものの、いつでも最終便が八時頃にやってくるので、祐一はそれを見届けないことには帰れず、こんな時間になってしまった。いや、実際には帰っても誰からも叱られないだろう。運転手だけがそのことに気付いて、あいつはサボってもう帰りやがったな、と思うだけのことだ。それだけなのだが給料をもらっている限りはサボる気にもなれず、必ず最終を見送って掃除をし、毎日この時間に帰路に着いているのだった。
 栗林の途中にある六角形の空き地にはカラスがたくさん集まっていた。身体をくねらせて毛繕いをしたり、真ん中に積み上げられているごつごつした岩の上で空を見上げたり、どこで拾ってきたのかビニール袋を数羽で突きまわしたりしているのだ。好き勝手しているだけなのに一緒にいるなんて、鳥なのに寂しがり屋なのだろうかと思う。

 ――鳥なのに? 

 そもそも鳥が寂しがり屋じゃないなどとの決め事はない。むしろ彼らこそは道端や空の一画で頻繁に集合しているのじゃなかったか。
 みなみという喫茶店にて熊川の言う「暇人たち」が集まろうとするのも、人間だって寂しがり屋だという証拠なのだ。
 鳥も人間も一緒。

 ――でも、本当に寂しかったっけ? 

 振り返って駅の方を見た。常夜灯が一本立っている。青白い光を放っており、何も出て来やしないのに小さな虫たちがもあもあと集まっている。それから空を見上げ、ひとつだけ光っている一番星を見た。空には薄く雲が掛かっているせいで、星の光が滲んで見えた。
 坂を下り、喫茶みなみに向かう横道まで辿り着くと、道の両側に数件ある家の窓に明かりが灯るのが見え、やがてそれぞれの家からカレーライスと焼き魚と浴槽洗剤の匂いが風に乗って押し寄せてきた。さらにテレビの音と、子どもたちが笑う声が開け放った窓から漏れ出してきて祐一の耳に届き、胸がきゅっと痛む。母と二人っきりだった子ども時代と、母が再婚して、義父を加えた三人暮らしだった頃のことを思い出した。笑い声なんて縁遠い家だった。
 慌てて逃げるようにして自転車にまたがり、後ほんの数十メートルだったが、力一杯喫茶みなみの前まで漕いだ。急ブレーキをかけて止まる。木の扉には営業中と書いたプレートがぶら下がっている。

 ――よかった、まだ営業中だ。

 自転車を止め、扉を開けるとドアベルが鳴り、中から珈琲の匂いがうわっと押し寄せて、先程までのカレーや焼き魚や洗剤の混ざり合った空気をあっという間に消してくれた。
 ロッジ風の内装だった。外から見たときの様子よりずっと新しい。直したばかりなのだろうか。壁の木は艶のある茶色で、天井から吊るされている電燈はランプの形をしていた。白熱球を使っているのか暖かい光を放っている。
 カウンターにサイフォンが三つあり、バーナーの火が一つだけ灯って小さな泡を立てている。テーブルも三つで、アジアンタイムとシダ植物を活けた小さなガラスの花瓶が一つずつ置いてあった。椅子はカウンター席も入れて十席ほど。狭いと言えば狭いけれど、人の気配すらない町では満席になることもなさそうだ。振り子時計が壁に掛けてあり、食器類を並べている棚の一画に笑顔を見せている年配女性の写真が飾ってあった。レジの横には水槽があり、ネオンテトラが水草の周りをゆらゆらと泳いでいる。音楽はない。
「ああ、来てくれたんだね」
 ソファに座っていた熊川は祐一が来たことに気付くと、嬉しそうに立ち上がって、こっちこっちとソファを指さした。「オムライスか何か作ってやってよ」カウンターの中に立っている男に言い、それから祐一をソファに呼び寄せた。
 カウンター席にもう一人客が居て、
「それはいいね、俺にもオムライスを」
 と便乗し、吸っていた煙草の火を灰皿で捻り消した。「君が永尾祐一君ね。俺、石川」振り返って笑顔を見せる。
 祐一は黙ってうなずき、戸惑いながらも勧められたソファに座ると、マスターと呼ばれた男が、
「君が永尾君ですか。僕は水野と言います。永尾君のことは熊川さんから聞きました。オムライスでいいですか」
 と聞いた。どう答えればよいかわからず熊川の顔を見ると、「遠慮しなくていいんだ」と言う。
「じゃあオムライスを作って下さい」
 と言い、三人の顔を順番に眺めた。マスターと常連の二人といったところだろう。これが熊川の言った「暇人」なのだろうか。
「本当は八時で閉店だけど、君のことを待っていたんだ」
 熊川がグラスに水を入れて祐一の前に置き、隣に座った。「もちろん、来てくださいと君に頼んだのは僕の方で、そのことは二人にも話してあるよ。それに、見せてもらった『前任者の業務日誌』のことも話した。最後のページは妙な記述があったね」
 カウンター席に居た石川も自分のカップと皿を持ち、熊川と祐一のいるソファの方に移ってくる。
「マスター以外は他所からの移住者だけど、君もここに移住しようと思って駅員の仕事に就いたわけ?」
 石川がせっかちに聞いた。
 祐一は石川の問いにはすぐに応えることが出来ず、熊川と石川の顔を交互に見ながらやっとグラスの水を一口飲んだ。熊川が、
「まあ、そう急かさないでやってよ」
 と、貧乏ゆすりをしている石川の太ももを軽く叩いた。
 カウンターの奥では卵を割り、野菜を刻む音がしている。

 やがて、オムライスが出来上がり、カウンターに皿が四つ並んだ。
 薄く焼いた卵がラグビーボール形になっている。赤いケチャップが数字の2を描くように掛けてあり、湯気がふわふわと立っている。マスターがエプロンを取りながら「他にはサラダも何もないけれど」と言い、「充分だよ、充分すぎるよ」と熊川が返した。
 比較的大きなテーブルに四皿とも運び、四人で子どものように「頂きます」と手を合わせてから食べ始めた。それぞれ半分くらいなくなるまでは黙って食べ続け、最初にマスターが、「ところで、どうして君はあの駅に?」と口火を切った。
「仕事です。普通に、職安で勧められて。寮も用意されています。隣町に小さくて古いけれど一軒家があって、無料で貸してくれると言うから決めました」
 マスターが食べかけの手を止めスプーンを皿に置き、メガネをしっかりと掛け直して祐一の顔をじっと見つめた。五分刈りの頭は半分くらい白髪が混ざっている。
「じゃあ、どうして寮に入りたかったの? 家を出たかったの?」
 そう言われてスプーンを置いた。
「数年前に母が再婚しましたから、その方がいいかなと思って。義父も優しかったし家に居ても叱られはしなかったけれど、僕としても居心地がいいわけではなかったから、寮のある職場を探しました。お酒を仕込む職人とか、マンホールの内側を点検する仕事とか、いろいろと面白そうなものはありました。でも、ここに決めました。海が見えるということと、一軒家に一人で住むことが出来るということが決め手でした。他はだいたい相部屋だったし、ここが一番実家から遠くて、一度も来たことのない町だったから。どういうわけかその中では給料も一番よくて、来るまでは、こんなに暇な仕事だとは思いもしませんでした」
「お給料と家と町と海で決めたんだね。仕事の内容そのものじゃなくって」
 熊川が紙ナプキンで口を拭きながら言う。「そういうことでもいいんだよ。何か決める時には、なんでも理由があればいいよ。後で何か悩んだ時にもその理由を思い出せば、そうだったと納得がいくのだもの」拭いたはずなのに右の頬にケチャップが着いている。
 マスターと石川は黙ってうなずき、再び残りのオムライスを食べ始めた。それを見て祐一もそうする。四人のスプーンが皿に当たる音と、ネオンテトラの泳いでいる水槽のエアーポンプの音が部屋に響いていた。時計の振り子もカチカチと揺れている。
「ところで、前任者の業務日誌のことだけど」
 熊川はみんなが食べ終えたところで話を切り出した。「もちろん持ってこなかったよね」
 祐一がうなずくと、熊川はそうだろうなというように何度も首を縦に振って、
「そんなことだろうと思って、前もって用意しておいたよ」
 ソファに置いてあった鞄から一冊のノートを取り出した。「ごめん、君が駅員室から出て行った後、悪いと思ったけどこれ持ち出してきた」
 祐一はあっと声を出した。こっそり持って帰っていたなんて全く気づかなかった。
「みんなで最後のページについて考えたいと思ったのだ」
 熊川は顔を赤くして頭を掻いている。「この変な記述。一体何年のことなのかは分からないけれど」頁を繰ってひとつ咳払いをしてから声を出して読み始めた。

 ――九月十二日火曜日。今日はよく晴れている。夏は暑かったが、雨がそれほど降らなかったせいで雑草たちに勢いがなく刈り取るのも楽なものであろう。…… ――

 熊川が読み終えると、少しの沈黙の後でマスターがノートを手に取った。
「この駅員は一体何を見たのでしょうね。以前、あの坂上の邸宅で聞いた話によると、いつのまにか駅員はいなくなっていて、代わりに駅員を模したマネキンが立っていたらしく、山上鉄道組合はそれに気付かずお給料を振り込み続けていたそうです。長く珈琲屋をしていても全く気付きませんでした。駅員がいたことすら知らなかったのですから」
「そのマネキンは今どこにあるのでしょうか。捨てられたとか?」
 祐一は恐る恐る聞いた。
「坂上の邸宅の前にそっと置かれていたそうです。去年の夏くらいに。それでやっと山上鉄道組合の方も駅員の不在に気付いたらしく、会社が職安に求人広告を出した。マネキンは今邸宅にあるそうです」
 マスターが言うと、残りの三人は、なるほどと目を合わせ、うなずき合った。
「ところで、写真を見せる約束だったよね」
 熊川は鞄から一冊のアルバムを取り出した。緑色の表紙で、一頁に四枚ずつプリント写真が貼っていた。厚みは十センチほどもある。「長年僕がこの町を撮影してきた写真のアルバムだよ。毎年海棠の写真を撮っていたから、駅周辺も時々写っている」
 石川がさっそく身を乗り出して眺め、
「おもしろいことになってきたね。で、そのマネキンとやらは写っておりますかね」
 ポロシャツのポケットに差していた老眼鏡をかけた。
「一応家で見てみたら何枚かに駅員らしき人が写っていたものを見つけたよ。ほら、これ」
 一枚目は百葉箱に似た乗車賃入れの横にしゃがみこんでいる姿だった。ヨークが薄水色のワイシャツと紺の帽子は、祐一の着ている制服と全く同じデザインで、やはり周辺の清掃に励んでいたのか腕まくりをしている。業務日誌の文面や駅員室に残されたウィスキーの空瓶からはややだらしない人間をイメージしていたが、袖口のまくりかたは几帳面な人間のするようにきっちりと折り畳まれているものだった。
 二枚目はプラットホームのベンチに座っている。そして、三枚目以降は、ホームのベンチの横に立っているものばかりで、何枚も同じ写真が続いた。
「なるほど、このベンチの横に立っている写真が、マネキンのものかもしれないな。でも、一枚目と二枚目の駅員にそっくりだけど」
 石川が眼鏡を頭の上に持ち上げ、写真に目を近付けた。
 熊川はそうだねとうなずき、祐一の方を見た。
「ここに写っているのがマネキンだとしたら、この駅員を模して作ったことになると思う。ただ、このマネキン風の写真の後、つまり、最近撮ったものに近いショットの中にも、草刈をしている駅員らしき人が写っている。去年か一昨年のものだから、祐一君でないことは確かだよ」
 石川は「いよいよ不思議だ」と言ってアルバムを手に持った。
「だとすると、駅員がこっそり出て行ったとして、その後、何者かがこっそりマネキンを置いたとしても、次に、また別の駅員がいたということになる。しかも、こうしてみると、またもや、最初の駅員とそっくりな気がする。つまり、今度は、マネキンを模して作った駅員ということになるのか。一体どうなってるのだ」
「悲しいことに」
 祐一は目を閉じた。「その駅員やマネキンは、僕に似てさえいますね」
 石川と熊川は、写真の中の駅員とマネキンらしきものと祐一を順番に見比べ、あからさまにそうだなとは言わないものの、ふんと申し訳なさそうにうなずいた。
 マスターも小さくうなずき、再び残りのオムライスを食べ始めた。それを見て祐一もそうする。石川と熊川もそうする。
 四人のスプーンが皿に当たる音と、ネオンテトラの泳いでいる水槽のエアーポンプの音が部屋に響いていた時計の振り子もカチカチと揺れている。  
 すっかり食べ終えた後、マネキンや駅員以外の写真を順番に眺めていった。これは郵便局、これは三年前にひどい台風が発生した時に倒れてしまった栗林の木、これは近頃ではすっかりふてぶてしく大きく育ってしまった野良猫の子猫時代のものと、一枚ずつ熊川が説明している。マスターはテーブルの上に残されていた皿を片付け始め、サイフォンにも湯を入れて温めている。
「栗林の途中に六角形の空き地があることをご存知ですよね」
 祐一はアルバム写真の中にそれがないことに気付いて、熊川と石川に聞いてみた。二人は顔を見合わせて「そんなものあったかな」と声を揃えて言う。
「小さな空き地だから見落とされたのかもしれません。白っぽい岩が真ん中にあって、いつもカラスが集まっている」
「ありますね。知ってますよ」
 皿洗いをしていたマスターは水道の水をいったん止めて三人の方を向いた。「駅からここに下って来る途中です。ある角度からしか見えないはずです。何が遮っていたかな」
「何も遮ってはいないはすです。でも、確かにいつも駅から下に向かって坂を降りる時に見るような気がする。何度も坂を上ったことがないから分かりませんが、下るときにだけ見えるのかもしれない」
 祐一が言うと、熊川が、どこかに写ってないかな、と悔しそうにアルバムの頁を最初から繰り始めた。
「ないなあ。順番的に、駅の方から下ってくる途中で撮影したと思われる写真も何枚かあるけれど、白い岩のある六角形の土地なんてどこにも写っていない」
「見落としたんだよ。画伯でも見落とすことはあるさ」
 石川がにやにやしながら言う。煙草に火を点けて吸い始めた。
 マスターは再び水を出して皿を洗い始め、サイフォンが温まったところで珈琲豆を挽いて珈琲を淹れる準備を始めた。熊川は、「僕としたことがとんだミスだな」と頭を掻いている。この町のどこもかしこも撮影したはずだと思っていたのだろう。
 祐一は、余計なことを言ってプライドを傷つけてしまったのだろうか、と思いつつ壁の方をぼんやりと眺めた。
 振り子時計の横に一枚の絵が掛けられている。桜の絵か。そうではなく、邸宅前に咲く海棠だろう。花のひとつひとつが大きい。実際にあの位置から見えるよりも海が大きく描かれている。熊川は祐一が絵を見つめていることに気付いたらしく、
「撮影した写真を組み合わせて頭の中にある風景を描いてみた。抽象画もどきかな」
と、恥ずかしそうに瞬きをする。
「絵の中の海沿いに白い花がありますね。あれは?」
 祐一は立ち上がって絵の方まで行き「これ」と指さした。「花びらは六枚だし、木の緑に埋もれてしまって、まるで六角形の空き地みたいです」
「これは木蓮の花。写真はないけれど、子どもの頃庭にあった花だから、抽象画を描く時には季節に関わらず描いてしまう癖があって」
 熊川も立ち上がって絵の前に来た。「だけど、その空き地に似てるのかな」
「もしも木蓮の花だとしたら、花びらと同じ色の額があります」
 洗い物を終えたマスターがサイフォンで点てた珈琲をカップに注ぎながら言った。「だから、木蓮ならば六角形ではなく八角形に見えなければいけない。そうすると、見ようによっては、その絵に描かれているのは木蓮ではないとも言えます。熊川さんは写真撮影をしながら、なんとなく目にしていた空き地を描き込んでしまったのかもしれません。木蓮の花だと思いつつ。ちなみに、僕が子どもの頃には、六角形の空き地はありませんでした。病気の母親の代わりにここの店主をするようになってから気付いたのです。なんだ、この空き地は? というように。十年以上前のことです。初めて見た時はちょっと滑稽なものに見えました。あったはずの栗の木が数本なかったから。ないといっても切り倒されたのではなくて、引き抜かれてなくなっていたから。根っこもなかったのです。祐一君が言うように、岩が真ん中にぽんと置いてありました」
 テーブルに四つのカップを並べる。
 祐一はマスターの淹れた珈琲を飲みながら、六角形の空き地と前任者の駅員とその駅員を模したマネキン人形について考えた。

 ――いつ、だれが、なんのために? 

 わからない。わからなくてもどうということはないけれど、あまりにもはっきりと目にすることの出来るノートや空き地やマネキンであるにも関わらず、それらにまつわる情報はかなり曖昧だ。
「で、我ら暇人同盟にてこれらの謎について考えようっていうの?」
 石川は短くなった煙草を灰皿で消した。「熊ちゃんの提案によると、そういうことだよね」貧乏ゆすりをする。
 熊川はうなずき何度も瞬きをして、だめですか、と言い他の人の表情を伺っている。
「だめってことはないけれど、俺はまだ空き地を見たことがないし、マネキンはみんなも見たことがないだろう? とりあえず、そいつらを確認して、それからだな」
 石川はマスターの淹れた珈琲を啜る。マスターも静かに一口飲んで、
「月曜日に邸宅の女主人にケーキを届けますから、マネキンを見せてもらえるかどうか頼んでみましょうか。僕としてもちょっと気になりますから」
 と提案した。
 全員一致でそれがいいなと納得し合い、六角形の空き地に関しては各自、暇な時間に見に行っておくことになった。
 振り子時計を見ると九時半を過ぎている。
 それぞれ珈琲を飲み終えると、来週の火曜日の午後八時に再びここに集まろうと言った。
 帰り際、祐一がオムライスと珈琲の代金を払おうとすると、
「暇人同盟の会合においては俺が支払うよ」
 石川が言った。「面白そうだから、祐一君、これからも飯食うつもりで来てよ。でも会合の時以外は自腹でよろしくな」声を上げて笑う。
 祐一がマスターと熊川の顔を見ると、そうすればいいと微笑んでいる。出しかけた財布を鞄に仕舞い込むのも気まずかったが、一回目の初任給が振り込まれただけでそれほど余裕もなく、正直ありがたく感じて、素直に従った。
 三人に見送られて外に出ると、空一面に星が煌めいていた。来る時に見た一番星もこの中にあるのだろうけれど、もうどれが一番星なのか分からなかった。周辺の家々から漂っていた焼き魚やカレーライスの匂いは綺麗になくなり、テレビを見て賑やかに笑っていた子どもたちは眠ってしまったのか、辺りはしんと静まり返っていた。耳を澄ませば波の音さえ聞こえてきそうな気がする。
 自転車に乗った。気合いを入れて駅の方までの坂道を上ると線路沿いの道をしばらく西に向かってからトンネルに入り、山の向こう側に出て随分と坂を下ったら繁華街のある通りになる。
 山上鉄道や、栗林や喫茶みなみのある海側の風景とは時代すら異なって見える。コンビニがあり、ゲームソフト屋があり、学習塾がある。辺りを満たしている排気ガスと食べ物の混ざり合った風の匂いには季節を感じさせるものはなにもなく、夜の十時を過ぎても、若い学生どころか、幼い子どもですら道路脇に置かれたマスコット販売機の前で意識を失ったようにぼんやりと立っているし、仕事帰りに一杯飲もうとしているサラリーマンやこれから二次会となりそうな女子会グループが歩道に広がって歩くので、自転車のスピードを落としてゆっくりと行くしかない。間を潜り抜け、潜り抜け、彼らにぶつからないように気を付けて進む。
 歩道の突き当りにある児童公園を通り抜けると、ひっそりと稲荷が祭られている神社が現われ、その対面に祐一の住んでいる一軒家がある。古くてぼろぼろだが二階建てで風呂もトイレもある。裏は蕎麦屋で隣は印刷屋の倉庫。蕎麦屋は挨拶に行って以来一度も顔を出していないし、印刷屋の倉庫は時々従業員が紙の束を手押し車で運んでいるのを見かけるだけで、互いに挨拶をする気分にはならなかった。
 鍵を開けて中に入り、敷いたままになっている布団に寝そべる。すっかり慣れたとは言えないけれど、それでも仰向けになって休むとほっとする。天井からぶら下がっている蛍光灯の周りには昨日もいた羽虫が飛んでいた。
 暇人同盟か、と思い出して笑う。

 ――彼らは一体何者なんだ? 
 乗客のいない駅に駅員として勤めることになったかと思うと、妙な人たちと出会う羽目になった。でも、どうあれオムライスは美味しかった。少なくともあの味に惹かれて、きっと来週の火曜日には同盟の約束通り喫茶みなみに行くことになるだろう。
 そうだ。謎とオムライスがあるなら、行かない理由はない。 


第四章 マネキンと最終電車

 喫茶みなみのマスター水野が海棠のある邸宅の女主人からマネキンを見せてもらう約束を取り付け、そこで申し合わせて、永尾祐一と熊川、石川、マスター水野は約束の日に女主人の居る邸宅の前に集合した。邸宅の外観は瓦屋根や土壁、庭の椿や竹細工の格子によって完全に日本家屋だったが、中に入ると、完全に西洋趣味で シャンデリア、ジャガード織のソファ、珈琲テーブルには洋酒の瓶が置いてある。
 部屋に通された後、マネキンを目前にした石川は、ぎょっとした様子で方々を見渡した。
「こんなインテリアでは、まるでヒッチコックだね」
「あの映画に出てくるのはマネキンじゃなくてミイラでしょ」
 熊川は指先で頬をゆるく掻く。
 女主人は二人の言葉を聞いて、ほほほと笑っていた。九十歳を過ぎているらしく、近寄って見ると顔に皺が刻まれている。ところどころに染みがあるものの上質な絹のブラウスを着て、カーテンを想像させる重たい生地で出来た長いスカートを履いていた。永尾祐一はこれまでに、この女主人ほど年老いた人を見たことがなかった。ぎこちない動きは生きている人形を思わせる。それとは対照的に、そばに置かれたマネキンはというと、死んだ人間を思わせた。
 マスターはマネキンに顔を近付けてあちらこちらを眺めていた。「それほど汚れていませんね」制服のジャケットの裏側も見ている。
「洗いましたの。全部脱がせて、マネキン自体もお風呂場で綺麗に洗ったのよ」
 女主人の声は喉奥が転がり震えるので、笑いながら話しているように聞こえた。「ここに持ってきたときはこのような状態でした。わたくし、写真に撮っておいたの」手に持っていた写真をマスターに渡す。
「砂だらけですね」
 次は石川が見る。「ほんとだ。きったねえ」
「よっくこれだけ綺麗にされましたね」熊川は写真と実物を何度も見比べていた。「見てごらんよ」熊川に言われて、祐一は写真を手にした。
 確かに写真の中のマネキンはとても汚れている。紺色の制服が白っぽく見えるほど埃をかぶっていた。初めて駅員室に入った日のことを思い出す。確かに駅員室の中もこれと同じように砂だらけだった。
「僕は春から駅員として毎日立っていますけれど、まだそれほど長い年月を過ごしたわけではないですから、はっきりと断定することはできませんが、これだけ汚れているということは、プラットフォームに長い間放置されていたことになるでしょうね」
 祐一の言葉を聞いて、女主人ははっきりと否定した。
「最初はわたくしもそう思ったのですけれど、見て頂戴、制服を洗ってみたらこの色でしょ。紺色の鮮やかなこと。日焼けしていない」
 水野がうなずく。「洗濯をしてシャツを陰に干しておくだけでも、色はすぐに褪せますからね。あんなに日当たりのいいプラットホームに立ち続けて、これだけ生地が色褪せず綺麗なままだったなら、実際にこのマネキンが放置してあった期間は短いのかもしれない」
「僕の撮った写真のことを考えてみると――」
 熊川は持参してきたアルバムを取り出した。「それほど汚れているものはなかったよなあ。しかも、直近の駅員写真はちゃんとした人間の駅員でしたよね、えっと、前回眺めた時にはね」頁を繰っている。「ほら、草刈をしている」
「おかしいわね、わたくしどもがマネキンを撤去しましたのは、永尾祐一さんが駅員として来られる少し前のことですのよ。その写真はいつのものかしら」女主人は身を乗り出して熊川の写真を見ようとした。「あら、まあ、ほんとに、人間だわ」と口を押えた。それから祐一に向かって、「申し遅れましたけれど、わたくしも山上鉄道組合の一人なのですよ」と言った。
 祐一が、はあ、と気の抜けた返事をしてマスターの方を見ると、そのようだよ、と言いたげに小さく頷いて微笑んでいる。
 その後、女主人は鉄道の出来た経緯をかいつまんで、とても短く話してくれた。 

***

 まだ山道の舗装がなされていなかった頃、朝早く、ある新聞配達の青年がこの邸宅に向かっていた。青年はその前日にたまたま出会った女性と成り行きで一夜を共に過ごし、仕事を終えた後でもう一度会う約束をしていた。山道を自転車で上って配達を終えた後、女性の所に行くためにいつもとは違った慣れない山頂沿いの凸凹した道を走ろうとして転んだ。運悪く骨折をしたところを女主人が発見し、家まで連れてきて介抱した。青年はその日、出会った女性の所には行けず、後日訪ねて行った時にはすでに引越してしまった後だった。
 たまたま青年が転んだその日に、あるドイツ人の男もこの邸宅に来る予定になっており、道中青年が自転車に乗っている音を聞いたという縁から、尾根伝いに鉄道を敷いたらどうかと提案された。自転車等ではなく、もっと楽な方法で隣町との往来がしやすいように。わけあってそのドイツ人はほとんど尽きることのないと思われる財産を有しており、邸宅に匿ってもらう引き換えとしてその一部を鉄道建設と運営に注ぎ込んでもよいとした。それが山上鉄道組合の発端だった。山頂に住む人々が男を匿ったのは、戦後の様々な問題を抱えてドイツから亡命してきたという理由であり、今は平和を取り戻したので帰国している。

***

「全く知りませんでした。駅員として勤めることにしたというのに、この駅の歴史というと何も」
 祐一が言うと、熊川と石川が「こっちだって、長年住んでいるのに何も知らなかった」うんうんとうなずく。マスターの水野は「僕だって、先日お伺いしましたばっかりです」と、やはり頭を掻く。
「特に隠しているわけじゃありませんが、公表しておりませんから、ご存知なくて当然なのですよ。たまたまマネキンのことを聞かれましたから、お伝えしただけですの。それに、わたくしももう年ですから、少しはどなたかにお話しておいてもよいかと思いまして」
 転がるような声のせいか、朗らかな調子だった。
 駅員の姿をしたマネキンははっきりと目の前にあるのだが、それにまつわる多くのことがまだ分からないままだった。
 一体誰が用意しそこに置いたのか、一度撤去されてまた置かれたのはどうしてか、熊川が撮影したものと目の前にあるものは同じものなのか。
 邸宅に居る五人はひたすら「わかりませんね」と繰り返し、最後はどこを見るともなく無表情のままで立っているそのマネキン人形をぼんやりと眺めているしかなくなった。
 祐一がかつての駅員が書いたと思われる業務日誌を見せると、女主人は「あら、これについては全く知りませんでした」と言い、最後のページに食い入るように見入っていた。

[九月十ニ日火曜日。今日はよく晴れている。夏は暑かったが、雨がそれほど降らなかったせいで雑草たちに勢いがなく刈り取るのも楽なものであろう。だけど、昨夜見た最終電車はどういうことだ。あの車両は一体何だったのだろう。いつものたった二両しかない水色電車とは大違いだった。立派なメタリックシルバーの車体で、しかも数えきれないほどの車両がつながっていて、中は乗客で一杯だった。満員電車というやつだ。運転手の野郎がとぼけやがって、何を言っているのですか、毎日こんな風じゃないですか、なんて言いやがった。夢か? 飲み過ぎたか。とにかく、今朝の始発電車がどうなるか、それが問題だ。また突拍子もないことが起きやがったら、その結果によっては、俺はここをやめる。やめると言うか、こっそり出て行ってやる。]

「このために出て行ったの? あの駅員は」
 女主人は紙の表面を撫でている。「相談してくれたらよかったのに」
 マスターの水野は眼鏡をきっちりと掛け直した。
「その駅員のことをご存知ですか」
 祐一はそんなこと当たり前だろうと言いたかった。だって彼女は雇い主なのだから。
「直接お話したことはございません。わたくしは組合員の一人であるだけで、業務に関することは機械的に電話連絡があるだけですのよ」
 祐一は給料のことで問い合わせた時に応対した女性の声を思い出した。確かに必要以上に淡々とした声で事務的な話し方をしていた。
「あの組合の電話連絡係の女性にも会ったことがないのですか」
 女主人は「一度もありません」と言ってノートを祐一に戻す。
「山上鉄道組合の一員だと言ってもわたくしはほんの名前だけです、そもそもこの家には養女として来ましたから、町の方々とも縁がございませんし、もう亡くなりました養父の残してくれたものでひっそりと暮らしております」
 部屋の扉をノックする音が聞こえた後、お茶の支度を持った女性が部屋に入ってきた。
「彼女がわたくしの世話をしてくれています。どうぞお茶を召し上がれ」
 女性が一礼して外に出て行くと、五人はテーブルの上に並べられた紅茶を飲みながら、またマネキンを眺めては、「なにがなんだかわからないね」と言い合った。
 石川はしばらくがまんしていた貧乏ゆすりをやり始めた。
「さきほど業務日誌を見て、『このために出て行ったの?』と仰ったけど、それはどういう意味?」
 ずずずと音を立てて飲む。「俺だったら、こんなことがあったら、この駅員と同じように、とっととずらかろうとすると思うけど。なあ」
 と、他のメンバーに同意を求めた。「永尾君どうよ」
 祐一は答えにくかった。様々な事情があって就職し、定期的に頂ける給料もありがたく思っている。
「先程、このために出て行ったの? と仰いましたけど、ということは」
 熊川は丸い手のひらでカップを包むように持っている。「こういう現象があることを、ひょっとして、あのお、ご存知だったのですか」目をしばしばと瞬かせた。「満員電車という幻覚みたいなことが起きるというか、そういった――」
 女主人は手に持っていたカップを皿の上に置き、膝の上で皺だらけの手を組み合わせ、下唇を軽く噛み眉間に皺を寄せてどこを見るというでもない眼差しをした。
「あなた、どうかしら? 見たことない?」
 水野の方を見る。「喫茶みなみを長くやっていらっしゃるでしょう? お母様は入院中ですけれど、お母様は何か仰っていなかった?」
 水野は、「いいえ」と答えた。「特に何も。僕自身もこんな現象を見たことは一度もありませんし――」
「あなたがたはどうかしら?」
 熊川と石川の顔を交互に見ていた。
 二人とも首を横に振る。
 女主人は一呼吸おいてから、一瞬、魔女のように無敵な笑顔を見せ、四人の顔をひとりずつきちんと確認するように見た。
「こんなことは、ごく頻繁に起きていますの。実を言うと」
「なんですって?」
 四人が声を揃えて言う。「なんだって?」「え?」「まじで?」互いの顔を見合わす。
「でも、これまでに見たことがあると言った人はごくわずかですわ。亡くなった養父も見たことがないと申していました。見たと仰ったうちの一人は、実はあなたのお母様ですのよ」
 水野の顔を見る。
 突然そのようなことを言われて驚いたらしく、水野は他のメンバーの方を見て、何かを聞かれる前に、「そんな話は聞いたことがない」と言い、顔の前で疑念を打ち消すように手のひらを大きく横に振った。
「お母様はあなたには内緒にしていたのかしら」
 女主人はまた喉の奥が転がるような声を出して朗らかに言い、紅茶をひとくちおいしそうに飲んだ。「見た人は他にも何人かいます。ある時、あの車両がメタリックになってたくさんつらなって、そして乗客が満員になって走って行ったのを見たという人が。でもね、このノートに書いてあることで驚いたのは、ここよ。『運転手の野郎がとぼけやがって、何を言っているのですか、毎日こんな風じゃないですか、なんて言いやがった。』とあるでしょう。ここが他の話とは違う。というのも、これまでに見たことがある人の話では、電車がメタリックに変化しているのを見るのは遠くからだから、その瞬間に運転手に何かを聞いた人は一人もいませんでした。よくやったとしても、不思議な満員電車を見た人が翌日プラットフォームまで行って、運転手に『昨日の夜――』と話し掛けるのが精いっぱいだった。でも必ず、『何を言っているのですか、毎日車両はガラガラですよ』と言いますのよ。つまり、ノートの話とは全く逆。ですから、遠くからあの現象を見た人々の間では、あの満員電車が走る時には運転手は乗っていないのだろうと考えていた。それなのに、この日誌を書いた駅員がこの瞬間にプラットフォームに居て、この運転手に話し掛けたというのは画期的な出来事だと思います」
 全員黙り込み、壁時計の秒針の音が部屋中に響いた。
 水野は全員の沈黙を率先して破り、女主人に六角形の空き地のことを知っているかと尋ねた。彼女はすぐさま知らないと言った。知らないと言った後、そのことを知りたいという様子も見せなかった。その質問がなかったかのように速やかに通り抜けられて、運転手が見た満員電車の話へと戻された。彼女にとってはこの業務日誌の記述だけが特別に新しい発見であるらしい。すごいわ、すごいわと言って、少なからず興奮した様子を見せたのだった。

 邸宅を出た四人は喫茶みなみに向かう道すがら、栗林の途中にあるその六角形の空き地の前に立ち、熊川が
「マスター、どうして彼女にこの六角形の土地のことを知っているかと聞いたの?」
 と言い出した。
「何人も満員電車を見た人がいると言っているけれど、本当だろうかと思ってね。彼女はきっと、ある時期から、あの家から一歩も外に出たことがない。町にそれほど知り合いもいないと言っているのに、満員電車を見た人はたくさんいるのだと言っているのはおかしくないかと思って」
「それで六角形の空き地のことを?」
「だって、知らなければ、本当にあの家からほとんど外に出たことはないのだと思った。少なくとも、ここが空き地になった後からは」
 石川と熊川は土の上を歩きながら、
「ほんとだ、ほんとに六角形だ」
 驚いた様子を見せて、これまで自分たちがまるで気付かなかった理由について調べ始めた。上り坂から見て六角形を隠す場所に一本の杉の樹が生えている。それが遮っている。だから気付かなかったのだ。ただそれだけだ。
「長年あの場所に住んでいて、あの女主人は本当に気付かなかったのか? やたらめったら近くにあるというのにさ。永尾君が探し当てた業務日誌の最後の記述には興奮しまくっていたけれどもな」
 石川は杉の樹を見上げた。「坂の上からならこの樹も関係ないから何度も通っていれば、この空き地を見ない訳にはいかないと思うけど」
「嘘をついているか、よほど行動範囲が狭いか、のどちらかでしょう」
 マスター水野も杉を見上げている。
 祐一は空き地の中に入って、
「ここに以前は栗の木が植えられていたなんて思えませんね。ほんとに跡形もない」
 その土に触れた。しっとりとしてきめ細やかな土だった。握りしめて、さらさらと落として見せる。
 熊川は、「ほんとだっ」とやはり空き地の中に入ってきて土に手をやり、「だけどやたら平らにならしてあるね、少し意図的な感じがする」土の表面をぺたぺたと叩く。
 石川は杉を見上げながらその幹を叩いていた。「それにしても、どうして、一本だけ杉の樹なわけ? 辺り全部栗の樹なのに」
 風のない夜で葉の擦れ合う音もせず空には灰色の雲が薄く掛かって、どこかにある月明りを遮っている。道の途中に数本だけある常夜灯の明かりが、舗装された山道をぼんやりと照らしていた。
「杉は目印」
 唐突に熊川が言った。「きっと」
「何の?」
 石川が聞く。
「この六角形のある場所の」
 水野がたった今気付いたと言わんばかりに呟く。
「あるいは、目隠し」
 熊川が付け足す。
「何から?」
 石川は熊川の顔を見た。
「わからない」
 熊川は首をぶるぶると振った。水野も同じように首を横に振る。
 祐一は真ん中に置いてある岩に腰掛けて空を見上げていた。雲の切れ間に苛々するほど微かな光の星がある。あるのだけど、はっきりと見えない星。「だけど、その杉の樹は栗林が作られる前から生えていたのでしょうか。ずっと昔からあったのだろうなと思わせるほど、背の高い樹だけれど」
「そういや、そうだ」
 熊川が両手をぱちんと合わせた。
「一本だけ杉の樹が生えていることには子どもの頃から気付いていたような気がします。でもそのことに疑問を持たなかった」
 水野は残念そうに言う。
「普通はそうでしょ。生えている木を見て、いちいち疑問を持ったりしないよ」
 熊川が慰めるように言い、「だけど、よく育った栗の樹が根こそぎ引き抜かれたというのなら、樹の方が欲しかったのではなく、この場所の方を欲しかったんだね。だって、樹木だけが欲しいのなら切って持って行くか、まだよく育っていないものを引き抜いて持ち去って植えるかのどちらかだから」
「この場所?」
 祐一が再び土を触る。「何かを建てる予定だったのかな。それとも――」
 それ以外に何も思いつかない。少し風が吹いて空の雲がゆるゆると移動している。
 もうひとつ淡く光る星を発見した。

 四人はそれ以上考えるのをやめて喫茶みなみに移動し、水野の作ったオムライスを食べ、また火曜日に会おうと約束して別れた。
 祐一は帰路、自転車で坂道を上りながら、女主人の話してくれた鉄道の出来た経緯について考えていた。ずっと昔、新聞配達の青年が自転車で転んだことがきっかけになって建設されたと言った。出資者はドイツ人? じゃあ、今もらっている給料はそのドイツ人の底知れない財産からのおすそ分けということか。あの鉄道にはほとんど乗客なんて見かけやしないのだから。
 上りながら、ちょうど六角形の空き地の前を通り過ぎようとしたとき、この位置からはやはり大きな杉の樹に隠されて空き地の存在には気付きようがないと再確認した。

 ――つまり、ここは《上り坂では遮られている場所》か。
 ――言い換えると、《下りでなければ見ることの出来ない空き地》だ。

 立ち漕ぎをして六角形の空き地辺りを越え、振り返って一瞥する。夜なのにカラスたちがいた。暗闇のせいでよく見えないけれど、数羽が岩の周りに集まって餌のようなものをつついたり毛繕いをしたりしている。ブレーキを掛けて止まり、しばらく彼らの様子を眺めて再び発進。どうということはない。ただのカラス達だ。喫茶みなみに集まる暇人同盟みたいなものか。逆に言うと、暇人同盟はカラス達みたいなものか。苦笑してしまう。
 一層力を込めて自転車を漕ぐ。しんとした夜道にタイヤが擦れる音が響く。駅の前の常夜灯にはいつものように虫たちが集まっているのが見え、後ろではカラス達が羽ばたいた音がした。鳴きはしない。カアとひと声も上げない。そんなものだったか? まるで何かを心得ているかのように鳴かない。家に向かう細いトンネルに入った。

 それからは、いつも火曜日の夜になると四人は集まり、決まったようにオムライスを食べながらマネキンのことや六角形の空き地のことを話した。熊川が撮影した写真を一枚一枚虫眼鏡で確かめながら何か手がかりになるものはないかと探し、ありとあらゆるケースについて洗い出したけれど、結局真実は何も分からないままだった。

 とっくに春は去り、あっという間に夏が来て、秋が近付いてきた。
 ある八月の終わりの火曜日。祐一はいつもと同じように喫茶みなみでオムライスを食べながら写真を眺めていて、あることに気付いた。
「どの写真のプラットフォームにも雑草が生えていないのは不思議です。誰が刈り取ったのでしょうか」
 本件の謎について考えることにも興味を失いつつあった他の三人は、その年の日本シリーズの行方について語りながらオムライスを頬張っていたところだったが、祐一の言葉を聞いて黙り、揃って食べるのを止めた。
「そういや、そうだな」
 熊川が数枚の写真を見比べる。
「僕は五か月間、あのプラットフォームに立ち続けましたが、主な仕事は雑草を刈り取ることだと言えるほど、草はどんどん生えてきました。あの場所だけは草が伸びる速度が早いのかと思うほどです。右側を刈り取っている間に、左側が伸び、左側を刈り取っていると、右側が伸びる。あるいは真ん中にも生え出してくる。それなのに、写真の中のプラットフォームは右も左も中央も、草らしい草はほとんど見当たりません」
 石川も、ほほお、おっしゃる通りだな、と言い、「熊ちゃん、どうなの? これ、ほんとにあのプラットフォーム?」とからかう。熊川は「ありゃりゃ」と目を丸くする。
「駅員がいる時ならともかく、マネキンがいる間は草が生えていなければおかしいと思うけれど、何枚かあるマネキンの写り込んだ写真の中にも雑草はありません」
 祐一は食べ終えたオムライスの皿を脇に寄せて、マネキンの写り込んでいる写真をトランプの神経衰弱のように並べていった。「ほら、これも。これも――」
「ということは、マネキンが置いてあったのは、ほんの一時期ということじゃないですか。邸宅の女主人も制服を洗ったら色が褪せていなかったから、長く着たものじゃないと言っていたし」
 水野が一枚を手に取った。「これ、季節はいつだろう?」
「あ、コスモス」
 熊川がテーブルに置いてある写真に顔を近付けて叫んだ。「踏切のそばに」
 他のみんなも顔を近付けた。確かにコスモスだ。プラットフォームに向かってやってくる電車に焦点が合い、手前辺りはぼやけてはっきりとは見えないが、薄桃色の花が映り込んでいる。そして、ベンチにマネキン。
「こっちのにも、駅員室の隣に」
 熊川が大声で言う。
 石川が貧乏ゆすりを始めた。「アルバムにはバラバラに入っていたみたいだけど、じゃあ、ほとんど連続写真だったってこと? マネキンが入っているものは」
「そんなはずはないよ」
 ばつが悪そうに熊川が口を尖らせた。「こう見えて几帳面なんだ。フィルムナンバーの順に入れている」
「僕を雇っている山上鉄道組合がこっそりマネキンの入れ替えをやっているのかな。駅員がいなくなったらそっとマネキンを置いておき、誰かが来てくれたら、そっと除けるということを繰り返してきたかもしれません。たまたまいなくなるのが秋口であることが多かったとか」
 石川は煙草に火を点けた。「じゃあ、あの邸宅のばあさんが言っていることはなんなの? 偶然マネキンが置いてあったみたいに言ってたけど」
「知らなかったのでは?」
「山上鉄道組合がマネキンの件を女主人に隠す意味が分からないでしょ」
「あ、わかった!」
 熊川がパチンと両手を打った。「駅員はずっと存在した。マネキンは駅員室の中に入れておいたのだ。こっそり休みたい日にはそれをベンチに置く。通常は駅員室に入れておき、草刈をする。永尾君の言うところによると仕事と言えば草刈さえ終わればいいのだからほとんどがマネキンの出番なんだけど、春から夏にかけては草の伸び方が激しいからマネキンは駅員室の中。そういうわけであまり制服は日焼けしない。山上鉄道組合は全部知っていて容認かな」
「ドイツ人の懐から出ているという給料は?」
 石川の靴裏がカタカタと床を叩いている。「容認しているのなら、駅員に渡ってるの?」
「逆に、そもそも固定的な駅員なんか存在しなくて、山上鉄道組合のメンバーで交替して草刈をしつつお給料だけ頂いていたということも考えられるな。それが何かお上のようなものにばれそうになって、慌てて、『長い間、駅員が出て行ったままマネキンを置いていたらしい』ということにした、そしてわざと砂埃を付着させて長年そこにあったことにした。とか。そうなるとあの業務日誌も捏造かな」
 水野はそこまで言い終ると、「珈琲を淹れましょう」と言って立ち上がった。「これで解決ですね。名ばかり組合員の女主人さまが知らないだけ」
 なあんだ、そんなことか、と石川も熊川もやっと気が緩んだかのように笑い、おしまい、おしまい、と言って写真をアルバム帳に入れ始めた。
「だけど満員電車の件は? 女主人も見たことがあると仰っていた」
 祐一はまだ納得出来なかった。「女主人以外の山上鉄道組合が業務日誌を捏造したというのなら、日誌に書いてある満員電車の件だって捏造ですよね」
 珈琲豆を挽く音がして、その香りが室内を満たし始める。
「ばあさんの、もうろくじゃないか。単純にそんな気がしていた、とか、見たというと俺たちの関心を引けるだろうとか――」
 石川は面倒そうに顔をしかめて煙草を吸い、他の人に直接かからないようにと気をつかって煙を斜め後ろに吐き出した。
 祐一はマスターに、水野さんのお母さんも見たという話は? と聞こうとしてやめた。入院中で、もうそんな話は出来ないのだと言っていた。水野もその件に触れずに黙って珈琲を淹れている。テーブルに四つの珈琲カップが並んだ。
 それを飲みながら、誰と言うでもなく話をつなぎ、会話が続いて行く。
「そういえば、もうすぐ九月十ニ日だね。業務日誌の最後の日」
「ちょうど火曜日だ」
「何年前のその日に満員電車が通り過ぎたんだろう」
「さっき、それは捏造だって話になったのでは?」
「そっか」
「何か起きたりしなければいいけど――」
 ほとんど冗談交じりでそんなことを語り合った。
 祐一はあることを思いついた。
「みなさん、その日プラットフォームに集まりますか。ひょっとして、ということを考えて、もしかしたらやってくるかもしれない最終電車を見送りに」
 他の三人は、ほほお、それも面白いかもしれない、そうだな、そうしようと口々に言って、七時前にプラットフォームに集合することを約束した。
「それでケリが着きそうな気もするし、次回のプラットフォームでの会合を暇人同盟最後の集合としよう」
 石川が言う。「後は好きな時にここで会うことにしようじゃないか」
「寂しいけどね」
 熊川が少し残念そうに言った。「でも、永遠に続けるわけにはいかないし。じゃあ、これで御開きだね」
 祐一は自転車に跨り、三人に見送られながら坂道を上っていった。少し振り返ると手を振っている。こちらからも軽く手を上げて挨拶を返し、九月十二日に会えるのだし、これで永遠のお別れというわけでもないのに大袈裟だなと考えた。細かい雨が降り始めていたので、六角形の空き地の近くを通っても見向きもせずに自転車を漕いで行った。

 約束の九月十ニ日の前の日、仕事を終えた永尾祐一は邸宅の女主人の家を訪れた。玄関先に現われた女主人は大変喜んで家の中に入るようにと促したけれど、永尾は要件を伝えに来ただけだからと言い、玄関先で話を済ませた。
「明日、マネキンを見せて頂いたメンバーがノートに書いてあった最終電車の時間に合わせてプラットフォームに集まります。業務日誌に書いてあった最後の日付がちょうど九月十ニ日の火曜日で、それが明日だから。ひょっとして、その前日にまた同じことが起きないだろうかと話していて。よかったら、来ていただけませんか」
「集まってどうしようと言いますの?」
「どうということでもありません。ただ、ひょっとして、満員電車がやってくるのではないかと、そんな風に話しています」
「そんな、あれは突然現れるものだし、予定通りに見られるかしら――」
 祐一は何か具体的な質問をしようとして止めた。聞けば喜んで話してくれそうではあったけれど、話を聞いたとしても、どうせそれが真実かどうかなんて確かめようのないことだ。聞いても仕方がない。
「満員電車を見ることができなくても構いません。僕たちの禊みたいなもので、満員電車なんてやってこないと分かって集まるのですから」
 女主人は「そう」と柔らかく微笑んだ。
「そういえば六角形の空き地のことだけれども、先日見に行きましたの。確かに、ありました。昔はあんなものはなかった。それで、杉の樹は、ずっと前からあったことは分かっています。だって、あれはわたくしが植えたのですもの。養父に頼んで植えてもらった」
「なんのためにですか?」
「目印として」
「なんの目印?」
 祐一の心臓は早く打ち始めた。
「あの位置に届く道がありましたの。横道と言いますか、石段があって、今ある道を舗装する時に壊してしまいました。埋め立てたというのかしら。でも、そもそも存在していた道が無くなるということがなんだか恐ろしくて、養父に頼んで印だけは残したいと思い杉の樹を植えました。先日お話しましたドイツ人の方も、最初にその石段を上ってここまで来られたのですから、失くしてしまうのは、なにか寂しいような気もいたしましたし。でも、どうして、その横の栗の樹が抜かれて六角形の空き地が出来ているのかはわたくしにはわかりません」
 祐一は黙ってうなずいた。わからないと言っている老女の表情を見て、嘘をついているとは思えなかった。きっと、満員電車が来るのを時々見るのだというのも本当なのだろうと信じられた。
「とにかく、明日、よかったらいらっしゃってください」
 一礼して玄関を出る。
 そのまま一人で六角形の空き地に行き、カラス達を自転車のベルを鳴らして追い出してから、しんとした空き地の中に入ってみた。借りている寮の部屋と同じ六畳くらいの大きさか。雑草すら生えていない。プラットフォームほどではないにしても栗林のあちこちには雑草が溢れているというのに、空き地の土には何もない。
 真ん中にある岩の横で寝そべり、その土に耳を当ててみた。地下に何かあるのではないか。
 
 ――あ、水の音? 
 ――さらさらと流れている? 
 ――どこからどこへ? 
 ――川があるのか。
 ――いや、林にある樹木の根が大地から水を吸い上げる音か。
 ――何かに繋がっている? 

 土の匂いが立ち上がってきた。
 しばらくそうしていると、カラス達の羽の音がして近くに止まったのがわかった。いつまでもこうしているわけにもいかないだろう。祐一は立ち上がって、手のひらについた土をぱんぱんと掃った。ズボンやシャツの土も。

 翌日、祐一が駅員としてプラットフォームに立っていると、約束した時間に熊川と石川、水野の三人は駅に現れ、邸宅の女主人もやってきた。
 五人はプラットフォームに立ち、来るかどうかわからない最終電車を待った。
「永尾君、なんだかドキドキするよね」
 熊川が指で頬を掻いている。
 石川はベンチに座り、貧乏ゆすりをしながら煙草に火を点けていた。水野は黙って暗闇に沈んでいく海を見つめ、女主人は永尾祐一の傍に立って、
「どうしましょう、もしも満員電車が来てしまったら」
 コロコロと喉の奥が鳴る声で不安そうに言った。
「来ませんよ。いや、来たとしても、みんなで見ればそれほど怖くはないから」
 祐一は女主人のか細い肩に手を当てた。

*****

「永尾、ここの仕事、もう慣れたか」
 先輩の声がした。仕事に慣れたかのチェックに来たらしい。
 そろそろ始発電車が来る。出勤する会社員たちが耳にイヤホンを付けてやってくる。席を確保するためにプラットフォームに並ぶのだ。扉番号ごとに列が出来る。
「あ、はい。駅員の仕事も随分慣れました。朝はいい方です。酔いつぶれて線路に落っこちそうな客はいませんから」
「そうか。それでも、閉まりかけのドアに無理やり乗り込もうとする人は朝の方が多いから、事故のないようによく見てくれよ」
 肩を叩かれた。「はい、がんばります」と言い、プラットフォームの端から端まで歩きながら異常がないか点検していた。屋根と塀の間から微かに見えるのはもう秋の空だ。熱さも和らいでほっとする。四月に配属されて約五か月、無我夢中で仕事を覚えた。駅員なんて、ぼおっと立っていればいいのかと思っていたけれど、とんでもない思い違いだった。電車を利用する人間なんて千差万別。優しい人もいるけれど、駅員なんて虫けらのように扱う奴もいる。嬉しいこともあったけれど、随分と屈辱的なこともあった。みっしりと詰め込まれた日々に追われて、四月に配属される前の長閑だった学生生活のことも、この四か月のことも思い出せない程大変な毎日だった。
 気が付くとプラットフォームの横には細長いペンシルビルが建設されている。

 ――ここへ来た当初はまるで出来ていなかったのにな。
 ――そろそろオープンか。
 ――屋上には展望台が出来るらしい。

 壁面に掛けてある完成図をよく見ると、

 ――ああ、へえ、六角形のビルか。本当にペンシルなんだな。
 ――ん? 六角形? 
 ――なんだったか。いや、珍しいな。
 ――珍しいというだけだが――。なぜか、気になる。

「駅員さん!」
 よく見かける男性客に声を掛けられた。六角形のビルのことなんかに囚われてはいられない。「これ、忘れ物かな、ベンチの横にありました」
「わざわざありがとうございます」
 駅はまだそれほど込み合わないので穏やかでいられる。受け取ったのは一冊のノートだった。

 ――こんなところに置き忘れて。
 ――大事なことを書いていたらどうするのだ。

 パラパラと開く。鉛筆で細かい字が書いてある。

 ――何かの日誌か。
 ――大したことなさそうだな。名前も書いていない。
 ――だけど。なんだろう? ん? 
 ――胸がざわざわする。気になるな。読んでみようか――。

「永尾、そろそろ、アナウンスの準備」
 プラットフォームの向こうから先輩が声を掛ける。それを聞いて、ノートをパタンと閉じた。
「わかりました」
 永尾祐一は急いで駅員室に入り、そのノートを忘れ物入れの中にポンと放り込んだ。


―エピローグー

 やはり来なかったわね/いつもと同じたった二両の空っぽ電車だ/これでおしまいか/わたくしは見たことございますのよ/それは、それは/僕はまた明日からここでのんびりと駅員の仕事です/暇人同盟終わっても喫茶みなみに遊びに来いよ/もちろん、行きます。自腹でオムライス頂きます/俺が払ってやってもいいぞ。大金持ちだからな/あら、それでしたらわたくしもごちそうになりたいですわ。ほほほほ/  

 線路が一本ある。
 線路の北側には山があり、南側には海がある。
 海風の音がして、本日の最終電車が行き先へと消えていく。
 明日、始発電車として戻って来るだろう。
 町の窓明かりと空の星が先を競うようにして灯る。
 そこら中、藍色に染まっていく。
 六角形の空き地には、きっとカラス達が集まり毛繕いをしたり餌を突っついたりしているだろう。猫も横切ったか。
 波の音さえ聞こえるような気がする。静かだ。

 やがて、楽しそうな五人の声がどこからともなく聞こえてくる。
 プラットフォームにいつまでも響いている。

 ああ、マネキンが一体――。
 壊れそうなベンチの上に座っている。

(了)


《あとがき》

 2010年に、手書きで一文目「線路が一本ある」を書いたのが、小説を書くことの始まりでした。
 初めて書いたものなので、すっと書けたのではなく、書き回しを悩んだり、推敲したり、書き足したりしているうちに時間が経ち、東日本大震災が起きてしまいました。精神的な打撃のせいか、書き始めた時にイメージしたものとは異なり、ホラー仕立てになってしまいました。

 テーマを決めてから書いたわけではありませんが、書いた後で解釈すれば、線路のイメージやラストの急な場面転換からパラレルワールドの話かなとも思うし、六角形の空き地や白い岩などから、私が書く時にビジョンとして見ていた場所を特定することもできました。海と空の融合を表すところでは、パラレルワールドの接点も予想できる。
 解読『ボウヤ書店の使命』では、私の小説でありながらも、私の個人的で主観的な自己解読を行い、そこに私の人生とビジョンと特定された場所に関する詳細な記述がありますが、純粋な小説としては、それぞれの読者にとって、それぞれの意味において何かを発見するために機能するだろうと思います。そのために、敢えてここではキーワードを太字化することを止めました。読む人がキーワードを探し、読む人自身の人生とのリンクを見つけてほしいと思います。
 今回、多少の推敲や、読みやすくするための改行などを加えました。そして、気付いてしまったことがあるのです。
 というのは、主人公の永尾祐一はプラットフォームに立った時、線路が消失点を持って空に消えるのを見つめます。それを「線路の行き先」と書いている。そうか、と気付いた。2010年から何度も推敲してきたのに、今日初めて気付いたのです。「線路の行き先」とは、そのプラットフォームから見てどちら側だったのか。両側だったのか。
 永尾祐一の居るプラットフォームの両側に一つずつ駅があり、一方が「行き先」ならば、もう一方は「来し方」のはずなのです。
 書き始めた時、私はきっと「行き先」ばかりを見ていた。しかし、小説の構造としてあらかじめ、明確に「来し方」を配置している。それが、ラストシーンの場面転換にも表れているのですが、書いていた当初、「来し方」は盲点となっていました。
 また、杉の樹を植えた位置には、今はないが、かつてあった横道の起点があると登場人物の女主人がほのめかしていますが、この小説には事情があってカットした箇所がいくつかあり、意図せずもそのことを暗示しています。カットした箇所は、いずれ「横道」として掲載しようと考えています。

#駅名のない町
#中編小説
#ボウヤ書店


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