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解読 ボウヤ書店の使命 ㉕-29

長編小説『路地裏の花屋』読み直しつづき。

《運河沿いの道に入り、目立たない道祖神の横まで来ると、いつだったかここで赤いランドセルを背負った女の子に出会ったことを思い出す。ランドセルにはフェルトで出来た人形がぶら下がっていた。初めは親が御守り代わりに作って括り付けたのだろうかと思った。
 あの時、女の子が道祖神の横に置いてある小さなお賽銭箱にノートを乗せて鉛筆で絵を描いているのを見て、そこは机じゃないよ、と声を掛けたのだった。すると女の子は慌ててノートを閉じて、ゆうこちゃんがここで待ってなさいと言ったのとおどおどした小さな声で答えた。時間を持て余しているのだと言いたかったのだろう。ちょうどその時も蓮二朗は菊の花を抱えていたので、だったら御絵描きをやめてこのお花を神様にあげましょうかと誘った。うん、と嬉しそうな笑顔を見せてノートと鉛筆をランドセルに仕舞い、蓮二朗の広げた花を一本ずつ道祖神の周りに置いていった。
 気を許したのか女の子の方から少しずつ話を始めた。「ドーソジンよりむこうがわは海の世界なんだよ」
「海の世界って?」菊で花輪を編んでやりながら答えた。
 ゆうこちゃんがそう言ったの。ここはもともとは海で、それがひあがってできたんだって/じゃあ今はもう海じゃないよねえ/だけど、ときどきクジラのなきごえがするんだって。だからやっぱり海の世界だよ/クジラってなくの?/しらない。向こうに生えている木はぜんぶワカメなんだと言っていたよ/ワカメ?/そう、ワカメ。落ちている石は貝殻なんだって/そういうお話を作ってくれたんだね/ちがう、ほんとうにそうなんだよ。
 女の子はクスクス笑いながら菊の花を道祖神の前に置いていった。蓮二朗の方も編み上がった花輪を道祖神の天辺に乗せると、
「いいな、かんむり、私がもらいたい」
 指を差すので、どうぞと女の子の頭に乗せてやったのだった。御姫様になったつもりなのか胸を張った。それから、横に置いていたランドセルを背負い、「じゃあ、帰る」と言う。
「ゆうこちゃんを待たなくていいのですか」蓮二朗が聞くと、
「ここに来るわけじゃないから」向こう岸の時計台を指さした。「あのとけいが五時になったら家にむかって歩くの。それまでは家に帰ってきちゃいけないよって言うから」
「そうするようにと、ゆうこちゃんが言ったのか」
 聞くとこくんとうなずいた。女の子は「ゆうこちゃんはパパのお友達だよ」と言い、蓮二朗が返答に困っていると、「お人形を作ってくれたの」と体をよじってランドセルの横にぶら下がっているものを見せようとした。親が作った御守りではなかったのだ。
「そうか、そうか、ゆうこちゃんは優しいんだね」と言うと、女の子は、うん、と笑い、「お花をありがとう」と頭に手をやって笑顔を見せ、ゆうこちゃんが「海の世界」と言った方角とは反対側に向かって歩き始めた。ゆうこちゃんの考え方に従うならば「陸の世界」へと帰っていったことになるのだろうか。
 あの日以来、この道祖神の前まで来ると、さて、これから海の世界に向かうのだと考えてしまう。運河の向こうに見える深緑色の林はワカメの大群で、手前の柳は海月といったところか。雲は鯨、鳥は魚。じゃあ、この私は? 海蛇みたいなものかなと苦笑する。美しくもなければ役にも立たない。ぬらぬらと海底を探索する奇怪な生き物だ。
 もしも、あの女の子が教えてくれた通り、道祖神よりもこちら側がいつか干上がった海の世界だとしたら、その時死んだ生き物たちの霊魂が集合して出来た「霊の海」を創っているのかもしれない。そんな気がしないでもない。実際、その先では海に繋がっている運河は流れがない分、潮を含んだ気が逆流するのか通常の河よりも海の気配を漂わせている。そして波もなく底が澱むのでなんとなく霊界めいた匂いもする。自宅として使っている木花家の離れ家に通じている門の前に着くとやはりおかしくなって一人笑う。まさに海蛇じゃありませんか。細い通路を通って巣の中に戻って行くのだ。》

つづく。

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