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解読 ボウヤ書店の使命 ㉕-26

《何度目かの絵画レッスンの日。
 一人の生徒が帰り支度をしているところにすれ違った。静子よりも年上と思われる女性で、トールペイントをするというのに和装を纏い割烹着を上から着ていた。
「木花さん、この方ですよ、先日お話をした、ほら、蓮二朗さんのお知り合いで」
 静子がその女性に言った。やっと紹介できたといった様子。
 ――木花さんって? 蓮二朗の関係者か?
 中西ですと名乗ると、女性は割烹着を脱ぎながらこちらをじっと見つめた。
「わたくし木花ですわ。蓮二朗さんのお知り合いとは奇遇ですこと。ご存知かもしれませんが、蓮二朗さんには、亡くなった主人が住んでいたお部屋に住んで頂いておりますの。空き家にしておくよりいいものですから」
 ――この女性が? 例のおくさま? 
 イメージしていたものとは随分違った。和装のせいか限りなく上品な年の重ね方に見え、まさか、絵画の裏に手紙を挟んで逢引きしていたとはとても思えない。
 それからというもの、レッスンの度に顔を合わすようになり、徐々に「おくさま」とも親しくなっていった。
 ある日のこと。
 彼女が親戚たちと麻雀をするのが趣味だと言うので、中西が手持ちの麻雀牌を見せると彼女は急に興奮し始め、テラスで話しましょうと言って中西を誘い、装っていた何かが外れてしまったかのように、その後はほとんど一人で立て続けに話し始めた。中西はいつもの如く、慌てて録音を始めた。

―録音された内容 おくさまの話―
 この發は赤いのね。麻雀は存じております。リュウファでしょう? 侍従や庭師とよく遊びましたわ。お恥ずかしいことですけれど、私はあの木花家の一人娘ということで、学校は行かず、邸宅の中に家庭教師を呼んでもらっての勉強しかやったことがございませんの。木花家がどれほどのものかは知りませんけれど、直系というと私しかいないとか。それで、大人たちに囲まれて暮らしてきました。麻雀は大変楽しいものでしたわ。いつでも大人たちが負けてくれるから、私はずっと負け知らずなのよ。お笑いくださいませ。ですけれども、邸宅からほとんど出たことがないからと言って、箱入り娘の純情派ということはございませんのよ。この赤發だって存じております。今ではわりと出回っているようですけれど、当時は珍しかったの。侍従の一人がどこかで彫ってもらってきて、ゲームに使おうと言い出しました。
 ある時、私が赤ドラを四つ揃えてカンするようなことがあったら夜中にお外に連れて行ってくれるという約束になりまして、(そうそう、今ではこうして好きにしていますけれども、長い間、夜は一歩も外に出られませんでしたの)、とうとう四つ揃えてしまいましてね、まだ夕方のことでしたけれども侍従の一人とお外に出ました。蓮二朗がまだアパートから私どもの庭に通っていた頃のことです。私がサングラスをかけて、侍従と手を繋いで歩いておりましたら、蓮二朗が切った薔薇を何本も持って川沿いを歩いているのを見かけましたの。それで私、あら、なあに? 蓮二朗よ、それにあの薔薇はきっとうちの薔薇よ、勝手に切って持ち出しているのかしら、と言って、侍従に頼んで、彼の後を追いました。すると、そうそう、先生のところに行ったのよ。静子先生。当時はまだ私は静子のことを知りませんでした。まだ移転前の高架下のアトリエでしてね、あの時、蓮二朗はというと、静子のアトリエの中に入って行きました。
 私、侍従に四つん這いになってもらってその上に乗っかって、アトリエの窓から中を覗きましたの。ドキドキしましたわ。それこそ、何か不埒な出来事でもあるんじゃないかしらって期待しましたの。あら、ごめんなさい、でも、そういう馬鹿な女でしたの、私。でも、残念ながら、特にそういうことはなかった。蓮二朗と静子はにこやかに挨拶を交わしましたら、静子がイーゼルと椅子を奥から出してきて、蓮二朗に座るようにと勧めているようでした。あら、そうか、蓮二朗は絵を習っているのか、この女性は先生なのかとわかりました。木花家にも親戚に画家がおりましてね、邸宅の一棟を使わせて油絵を描かせておりましたから、イーゼルは見たことがございましたのよ。それでね、蓮二朗は椅子に腰掛ける前に、恥ずかしそうに薔薇を静子に渡しました。絵のモチーフにということなのでしょうけれども、そう、あの時彼はね、ほんとに普段とは違った笑顔を見せていたの。ずばり、恋をしている人間のような顔つきだった。私のような世間知らずのお嬢さんでもそれくらいは分かりますのよ。それで私、その笑顔を見た時、とても嫌な気持ちがした。初めての感情でした。いえ、蓮二朗に恋をしていたとか、そういうことでもないの。そうじゃないの。蓮二朗の持っている自由が、もう甚だしく気に障った。それも、どこへでもすいすいと行ける庶民の自由とか、私みたいな豪族の末裔という堅苦しい身分の不自由と比較した自由とか、そういったものに対してじゃありません。そうではなくて、そもそも蓮二朗の持っている、好きな人にありありと好きだという顔をして笑うことの出来る人間の精神の自由というのかしら、それがほんとに腹立たしかった。私の毎日なんて、赤ドラ引いて毎日麻雀騒ぎでございましょう? 純粋に恋をするなんてことあり得ませんことよ。親の方も純粋な恋などして家を出たいと言い出したりしないようにと、わざとそんな生活をさせたままにしていたのかと思うくらいですわ。》

つづく。


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