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解読 ボウヤ書店の使命 ㉕-23

長編小説『路地裏の花屋』読み直し。
続きから。

「蓮二朗さんの紹介って言われましたわよね。随分懐かしい方のお名前ですのよ」
 サングラスを外し、左右に黒目を動かして中西の顔を隅から隅まで見つめた。なかなかの美人だった。瞳が黒々として大きく、年相応と思われる皺はあるものの、高級化粧品を連想せずにはいられない肌が蝋人形を思わせる。「あなた、彼と一体どういうお知り合い?」と言う。
「彼の働いている花屋で知り合いました。お寺のお参りに菊を買ったときに仲良くなって。蓮二朗さんの絵を見せてもらったらあまりに上手でしたから、誰かに教わったのかと聞くと、こちらのお名前を聞きました」適度に虚構を挟む。
「でも移転したのよ。蓮二朗さんが来られたのはずっと前の事だから、昔のアトリエしかご存知ないはずだけど」
「蓮二朗さんから聞いたのは昔のアトリエの場所です。たまたま出くわしたマッサージの女性からここを教わって」
「まあ、あの方、まだあそこにいらっしゃいますの?」
「そうみたいですね。僕も初めて、それもたまたまお会いしたから、どうとも申し上げにくいですけど」
「じゃあ、まだあの場所は道路になってないのね」
 静子はアルトだったハスキーボイスをメゾソプラノにして言う。
「彼女だけはあの場所を離れないと抵抗したようです。諦めたのか、そのまま空き地になっていました。すっかり雑草が生えて工事中のプレートも雨に浸食されて」
「と言うことは、私、わざわざ引っ越さなくてもよかったのね?」
 やや高い声で笑い始めた。「あそこが好きだったのよ」残念そうに眉をひそめる。
「ここの方がいいじゃないですか」中西は建物を見た。「薔薇のアーチもあって」
「私はあそこが好きだったの。だだっ広い平屋だったのよ。油絵をやっているとね、油絵の具を溶かす基材とかいろいろあるの。絵画は素敵なものだけど、あなた、制作ったら油の匂いにまみれた職人仕事なの。あそこなら何をやっても誰にも叱られなかったし、アトリエったらほんとはああいうものよ」
 サングラスを折りたたんで小振りの籠バッグの中に入れた。
「蓮二朗さんはあの場所に通っていたのですか」
「ほんの少しの期間だけれど。あの方、絵が上手でね、絵というのはね、時々そういう人がいるの、習わなくても上手な人が。老人ホームに入って初めて描いたら天才だったなんて話も普通にあるのよ。蓮二朗さんは三十代でそれが発覚」
 静子はうふふと手のひらを顔に当てて笑い、「それで、ちょっとしたテクニックだけお伝えして、後はご自分でやった方がいいですよと、こちらから修了という形にさせてもらったのよ。画家になったらどうですかと申し上げましたわ」と言った。
「そんなに初めから上手だったのですか」
「あの方の場合は習えば習うほど下手になる。だって、こちらが習いたいほどでしたの。それより、あなたは絵をやりたいの?」
「油絵というほどではないけれど、デッサンくらいはやってみたいなと」
「でもこんな時間にあなた、お仕事は?」
「自由業みたいなものです」
 曖昧な言い方をしたが意外にも簡単になるほどという様子を見せ、
「蓮二朗さんの紹介と仰るなら大丈夫ね。絵の経験はおありかしら?」
 静子は中西の手を見た。「ちょっとでも描いてみたことある?」
「いいえ」
「じゃあ、どうして急にデッサンなんか習いたくなったの?」
「ですから、蓮二朗さんの絵を見て興味が出ました」
「彼に教えたのは私じゃないのよ。彼は最初から描くことが出来たの」
「でも、蓮二朗さんは先生から教わったと仰っていました」
 それを聞いた静子は一瞬黙り込んで、薔薇のアーチを見た。「懐かしいわね」
「せっかくの縁ですから数回だけでも教わることはできますか」
 中西が言うと、
「蓮二朗さんのお知り合いというならお断りいたしませんわ。どうぞ、今お時間があるならば、アトリエにお入りになって」


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