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解読 ボウヤ書店の使命 ㉕-34

長編小説『路地裏の花屋』

《中庭の横に続いている別室に向かう扉を開けると、そこには大きな寝椅子があった。さきほどの部屋は窓がいくつかあって幾分明るかったが,
ここには窓がなく、天井からぶら下がる電燈もなく、明かりと言えば部屋の隅にあるスタンドライトが二つあるだけだった。オレンジ色の丸い明かりが月を思わせる輪郭を描いて壁上にぽっかりと映り、奈々子の顔がどうにか見える程度の光量を部屋に与えていた。
 寝椅子の横には丸テーブルと椅子があり、そこに座って待つように言われた。しばらくすると、奈々子がティカップを持って現れ、リラックスするので飲むようにと勧める。ハーブティだと言う。
「あの寝椅子に寝転がるのは嫌ですね」
 お茶を飲みながら正直に伝えた。
「無理にお勧めしません。特殊な場合のみ使います」
 奈々子はステレオに電源を入れた。旋律らしい旋律のない、風や波を思わせる繰り返しの音楽が鳴り始めた。タクシーの運転手が言っていた眠くなる音楽というのはこんな音楽のことか。
「もしも何も話したくないと思われたらそのままでいてください。話したいと思われたら話してください。ただし、私に向かっての質問はなさらないでください。今日のこの時間は木花さんのお話をお伺いする時間です。もちろん、セッションの流れや目的などで疑問が生まれたときは、どうぞ、何でも仰ってください。でも私個人のことに関しての質問は受け付けません。よろしいでしょうか」
 蓮二朗は承諾し、準備してきた「作り話」を語り始めた。
  
 ―まだ学生だった頃、下宿していた家の前にこじゃれた庭付きの家があって、そこには子どものない夫婦が住んでいました。非常に仲の良いことで有名でした。庭には夫の育てた薔薇の木がひとつあって、それには毎年秋になると綺麗に花が咲くのだけれど、ある時、一斉に花が切り取られてしまったことがあったのです。その夫は残念がって近所の人を見かけると、誰がやったか知らないかと聞いており、やはり通りかかった時、私もそう聞かれました。知らないと言ったけれど、本当は知っていました。実は、その薔薇の花が切り取られた日の朝方、下宿をしていた部屋の窓から何気なく外を見ていたのです。そして、庭先で薔薇の花をパチンパチンと切っている女を見ました。それは、その家の奥さんでした。早朝に起き出して、蕾から何から全部切り取り、新聞紙に包んでどこかに持って行かれました。しかもパジャマのままでしたから私にしてみればそれも驚きでした。普段見かける時には颯爽とした方でね、いつも身なりもきちんとしていらっしゃるのに、その時はなんとも言えないだらしない服装で道の向こうに消えた。本当にその家の奥さんかなと疑いましたけれど、薔薇の花をどこかにやってしまってから戻って来られた時にも、窓から女をじっと見ていましたら、やはりその家の奥さんでした。それを見たことがショックだったし、そのことを知らない夫が狂ったように近所の人々に『犯人を知らないか』と言っているのも見ていて辛かったですね。私自身が聞かれた時にも知らないと嘘をつくしかなかったですし――
  
 だいたいこんなところかな。蓮二朗はテーブルの上のハーブティを一口飲んだ。
「そのことを思い出されるとき、どんな気分ですか」
 奈々子はメモを取りながら尋ねる。
「その時は罪悪感がありましたね、私のせいでもないのに」
「いえ、その庭をご覧になった時の気分ではなく、そのことを思い出されるときの木花さんの気分です」
 一瞬分からなくなる。捏造した話の中の私の気分ではなく、その過去を回想している私の気分か。なるほど。しかし、作り話だからな。どう答えようか。
「虚しい感じかな」たぶん、そうだろうな。「ざわざわっと虚しい」
「なるほど。ではそれを手放しましょう」
「記憶ではなく、記憶を再生するときの虚しい気分を、ですか?」
 想像していたこととは違った。過去の記憶を消すのではないのか。だけど「虚しさって――」
 奈々子はうなずく。「難しいかもしれませんわ。虚しいって、何もない、という感じのことでしょうから。『ないこと』を手放すのは困難でしょう」
 旋律のない音楽が鳴っている。再びハーブティを一口ごくりと飲む。どこか自宅の薔薇の庭の土の匂いが漂ってきた気がした。

 セッションを終えて帰ろうとする頃には既に雨が止んでいて、窓から見える森の樹木は昼過ぎの日光を映して艶めいていた。奈々子がまで車で送りましょうと言ったが、蓮二朗はそれを断った。
「養老施設まで行けばタクシーを拾うことが出来るだろうし、少し周辺の森を歩いてみたいと思います」
 了解した奈々子は門の外まで見送りに出て来た。
「次回は木花さんの中にある『無』を手放すことを行いましょう」
 帰り際になっても、あくまでもヒーラーであることを忘れていないようだった。
「そんなことできますかな」
 蓮二朗自身は今回で終わりだと思っていたので当惑する。「無いものを手放すだなんて、まるで禅問答ですね。一休にでも登場して頂かなくては」茶化すように言った。
「もちろん任意です。ここはクリニックではありませんから。木花さんがそうしたいと思われたらいらしてください。でも、一旦奥底から浮上したテーマは解決した方がいいとは思います」
「解決ですか。無を」
 そんなこと無理でしょうとか、罪悪感の方をどうにかしたかったのですとか、とにかく何かを言いたかったけれど、そこで言葉を止めた。もう料金外だ。奈々子の表情にも疲れが見える。それはそうだろう、よく知らない人間のよくわからない精神的なテーマに触れるのだから。首元に掛けているオレンジカルサイトだけがやたらと元気を放っていた。そうなると奈々子自身にも似合わないような気がした。
「なるほど、そのオレンジの石は雨模様には調和するけれど、こうして雨が上がって晴れ間が見えると元気すぎるように思います」
 無に関しては答えず、話を逸らした。「もう別の色の石の方がいいかもしれませんね」斜めから降り注ぐ太陽を仰ぐ。
 改めて連絡しますとお辞儀をして歩き始めた。少し歩いてから振り返ると、奈々子はまだ門の前に立ってこちらを見ており、蓮二朗が振り返ったことに気付くと礼をする。蓮二朗も軽く会釈をして、また歩き始める。ヒーリングルームから養老施設に向かう道に折れるまでは舗装されていない一本道であり、まだこちらを見ているだろうかと想像しながらも、振り向かずに行くのには少々気詰まりな距離だった。気になりつつも後ろを見ずに歩いて、ようやく右側の細い道に入ろうとした時、もう一度ヒーリングルームの方を見ると奈々子はまだこちらを見ていた。蓮二朗が見たことに気付いて、また深々と頭を下げる。それには軽く右手を上げて応じ、小さく頭を下げた。

 細い道は両端を森に囲まれている。来る時には雨が降っていて、薄暗く重苦しいものに思えたけれど、今晴れてみると、木々の隙間から光が細く射し込んで、極端に明るい訳ではなかったが重圧感はなかった。雨で濡れた土と木々の匂いが淡い霧と共に辺りに立ち込めて、風が吹くと葉に残っていた雫がはらはらとにわか雨のように落ちる。時々、キーッと鳴きながら飛び立つ鳥が枝葉を揺らす音もするし、固まって飛ぶ藪蚊の大群がもわもわと近付いては遠ざかったりもする。雨が降っていた時は何もかもが息を潜めていたので、重苦しくはあったけれど立ち向かってくるものがなく平板だった。雨が止んで、それまではなりを潜めていた生命力がこうして姿を現し始めると、小さな森でもやはり威圧的な表情を見せ空恐ろしいものだったが、蓮二朗にはその方が好ましく思える。
 イタチが通る程度の細い獣道に少しだけ入り、そこに生えている楓の樹の前に出る。来る時に見当を付けておいた樹だった。スコップの代わりになるような枝はないだろうかと探し、見つかると楓の根の横を掘り始めた。すぐに根っこに当たってまっすぐには掘れず何度か場所を変更しながらようやく三十センチほどの深さまで辿り着いたので、その穴にハーキマーダイヤモンドを埋め込んだ。また土を被せて元通りの状態にする。これでよし。
 奈々子のヒーリングルームの庭にも小さな楓の木が一本植えてあることを確認していた。体験上、樹木と樹木は離れていてもある程度近所にあるものは連絡し合っていて、相互に情報を伝え合うことを蓮二朗は信している。だからこそ人間と人間は無意識で結ばれているのだと考えていた。虫の知らせなんて言葉は文字通りで、実のところ、植物だけではなく虫や鳥たちが人の奥底にある心の網を行き来して、知らせ合っているのだ。虫や鳥や樹木や草花の全く存在していない場所にでも行かなければ、誰しも心の中は他者から丸見えなのだ。
 立ち上がって、手に着いた土を掃い落した。
 もしも佐々木が言うように鉱物も植物と同じように、同じ種類であれば周波数を同調させて情報を伝え合うのなら、自宅にある小さなハーキマーダイヤモンドとここに埋めたハーキマーダイヤモンドは接続することになる。さらに、この楓の樹と奈々子の庭の楓の樹が接続するのだから、あの庭の情報はこの場所を経由して受信できるに違いない。このように配線しておけば、鉱物に関して佐々木の言っていることが少しは合っているのかを実験することも出来る。
「誰にも掘り当てられなければ、ということだが」
 ズボンにも着いた土を掃いながら呟き、楓の葉間から洩れる光を見上げて目を細めた。

 養老院の前まで行くとタクシーが数台止まっていて、車椅子に乗っている老人をどうにか立たせて車の中に乗せようとしている人や、逆に車から降ろして車いすに座らせようとしている人がいた。ベッドに横になったまま移動することのできる軽バンもあり、眠っている老人を数人で担ぎ降ろそうとしていた。アスファルトの上を鳩が数羽歩いている。
 この施設とは無関係の身なのに、停泊しているタクシーを利用していいのだろうかと迷っていると、「お客さん」と声を掛けられた。
「お客さんでしょ。ほら、さっき、送らせて頂いた運転手です」
 歩きながらハンカチで手を拭いている。「施設内のトイレを貸してもらいまして」と恥ずかしそうに笑っている。
「ずっとここに?」
「そんなわけないでしょう。お客さんをここで降ろした後、またここで別のお客さんを乗せてある病院まで送りましたら、なんと、その病院でまたここへと頼まれた。ここと病院とを行ったり来たりですよ」
 ハンカチをズボンのポケットに仕舞い、「送らせてもらえませんか。帰り道でしたら駅まで。すると私もいつの間にかこうなってしまったピストン輸送とは違う場所に向かうことができるでしょう? 同じ道ばっかりじゃ飽きてしまうんで。お客さんが嫌じゃなければお願いしますよ」駐車場に止めてある車を指さした。
 むしろありがたいと同意し、乗り込んで発車するや否や、
「どうでしたか、ヒーリング」運転手がミラーを見ながら言う。
 まだよくわかりませんと答えると、
「ということは、二回目、三回目と受けてみようということですね。まだ、というならば」
 顔を見なくてもにやにやしていることが分かる。この男の方こそ本当はヒーリングに興味があるのかもしれない。
 蓮二朗は「そうですかな」と、どちらとも言えない返事をした。実際、どうするのかはまだ決めていなかった。ヒーリングそのものにはそれほど興味がなかったのだ。》

つづく。

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