見出し画像

長編小説 コルヌコピア 10

五章 形象の意味

1 水牛の角

 中庭には主にハルが使う作業台があり、チェルナはそこを借りて、水牛の角を磨き始めていた。
「角を捕るために水牛を殺したのではなく、水牛が死んだので角を保管した」
 ヤンはすぐそばの樹木の枝を剪定していた。
 角の表面には、水牛本体より切り離されてからの年月と、それまでに水牛が生きていた年月によるものが幾重にも蓄積している。ヤンが貸してくれたやすり紙で擦っても、なかなか白い角の表面が現れてこない。焦げ茶色に変色したものは付着した汚れではなく、角そのものが変色したものかもしれない。
「どうしてグレイの嘴そのものは保管していないの? 羽根はあるのに」
 チェルナはいくら磨いても汚れが落ちそうにもない角を磨くのに疲れてきた。
「倉庫で説明した通り、グレイの遺体を見た事はない。不死鳥なのではないかとさえ思っている。羽根は死んだものではないよ。飛んでいる時に落ちるものだから」
 ヤンは剪定を終え、縦笛の手入れを始めていた。「水牛とは違って、グレイでなくても野鳥はほとんどの場合、死体を置いたままにしない」
 縦笛の調子を確かめるように滑らかな音階を鳴らす。空に音が突き抜ける。それに合わせてどこかにいる鳥達が甲高い声で鳴く。風が樹木の向こう側から起こり、テーブルの上を柔らかく撫でて過ぎていった。
「自分たちで食べてしまうの?」
「さあね。コヨーテに死体が見つかって食べられてしまうこともあって、その場合はむしられた羽根が樹木の根っこ辺りに固まって落ちていることもあるけど、そうでない場合、つまりコヨーテや肉食の鳥に見つからなかった場合、どうなるのかわからない。いずれにしても、この辺りでは生きている間に抜け落ちたと思われる羽根以外のものが残されていることはない」
「なんらかの弔いをしているのかしら」
 水牛の骨を磨きながら、グレイの嘴を創作することなんてできるのだろうかと不安になり始めた。
「グレイの場合は死んでいるのかさえもわからない。グレイが食われて羽根が散らかっているところを見たことは一度もないからね」
 再び縦笛で不思議な音の並びを演奏した。胸の辺りを哀しみで突くような音。すると、同じく、一羽の鳥が似たような声で音をなぞるように唄う。
「生き物が死なないなんてこと、あるはずがないと思うけど」
 チェルナは角を磨く手を止め、ヤンを見た。
「じゃあ、魂は?」
 ヤンも縦笛の手入れを止め、まっすぐにチェルナを見た。
「魂? それは宗教によって考え方が違うんじゃないかしら」
「チェルナ自身はどう思うの」
 ヤンの真面目な表情に、チェルナは少しうろたえた。
「肉体が死んだら何もかも終わりだと考える方が問題が少なそうに思う」
「問題って?」
「見えないものについて考えなければならない時、私達は自由奔放ではいられないでしょう」
「魂なんてないと考えれば、生きている間にやりたい放題できるってこと?」
 ヤンは肩をすくめた。
「まあ、そうとも言えるわね。逆に、こうして生きている状態を何かの罰みたいに思わなくてすむし」
 チェルナは苦笑いをし、水牛の角を磨く手をより一層強くした。死んだもののはずなのに、黴と混じり合って生き物の匂いが浮かび上がった。
「生きている人間に確かめることは永遠にできないだろうけど、僕は魂は永遠に続くと思う。そうじゃないと辻褄が合わないことが多すぎるし、グレイは肉体ではなく魂に羽根が着いたものだと思えば、納得のいくことが多いから」
「魂に羽根?」
 チェルナは博物館にあった絵を思い出した。子供に羽根が生えているモチーフのタペストリーだった。キューピッドだったか。
「そう。それより、角を磨くのを止めて、そろそろお昼にしよう。午後は洞窟に彫られた不思議な文字の解読を手伝ってよ」
 ヤンはいつものように歯を見せて笑い、やんちゃな顔つきに戻った。

2 不思議な記号の解読

 パンとスープで簡単に昼食を終わらせると、ヤンは書庫からファイルを三冊持ち出しチェルナの前に置いた。動物の裏皮で作られた表紙がいかにも古さを思わせるが、ヤンの話では写真自体は最近撮られたものだという。
「昔に撮ったものもあったけれど、カメラの性能が悪くて見えにくいから改めて撮影し直した」
 それほど明るくはないが、写っている記号の状態はよく見える。
「高感度フィルム?」
「フィルムじゃない。デジタル装備。解像度が最高レベルのカメラを調達して、僕自身が撮った。前に見せたのは調査隊が撮った写真だけど、これは僕が自分で丁寧に撮影した。調査隊は滞在期間が短いし、ここは有名でもないからそれほど重要視していないのか、雑誌のグラビア頁の写真に使う程度の気楽さで撮影して帰ることがほとんど。観光地じゃないのでね、僕の方でも雑誌に紹介されることに意味は感じていないから、軽んじている点に関してはお互い様」
 そっと頁をめくる。
「わざわざ動物の裏皮を使ったの?」
 チェルナは表紙を撫でる。
「お洒落でしょ?」
 自慢げにチェルナを見る。
「逆に装飾品に見えるけど」
「ひどいなあ。でも実際、プラスティック製のファイルを買うためにわざわざボートを出して買いに行くのも面倒なのでね。ここでは死んだ動物の皮を使う方が楽なんだ。箱の制作の為に材料として取ってあるし」
 チェルナはヤンが箱作りの仕事をしていたことを思い出した。
「箱の制作は捗ってる?」
 長引いている滞在が邪魔しているのではないかと心配になった。
「全く捗りません」
「ひょっとして私のせい?」
「そうかも」
 にやりとする。
「だったら、もう帰った方がいいのかしら。でも私、ここが気に入ってしまったし」
 しばらくは帰らないと決めていた。
「いや、居てくれた方がいい。箱作りなんてすぐにできる。今はチェルナさんのアート製作を見ていたいのと、この洞窟の記号を解読したい気持ちでいっぱいだから」
 ヤンの方もチェルナを追い返すつもりはないらしい。
 二人は向かい合うのを止め、テーブルの前で横に並んで座り、ファイルから数枚の写真を取り出し始めた。
 一枚の写真には壁面全体が写っている。それ以外の写真は一塊ずつ写したものと、一文字ずつ写したものがあり、紙の裏にはそれぞれの位置関係が分かるように割り振られたアルファベットと数字を記したシールが貼ってある。ヤンはそのコードの関連がわかるように図表にした一枚の紙もファイルから引き抜き、「これで全体と部分の関係がわかる」と言った。
「博物館の案内図みたい」
 精密な図に感心する。
「父より前の世代は解読する気もなかったけど、僕は死ぬまでに絶対に解読するつもりでいるからね」
「記号がなんらかの文字と一致する可能性は調べた? ヒエログリフとかアイヌ文字とか」
「調べた。把握できる範囲になるけど、現在発表されているどれとも一致しなかった。最新のパソコンもあるからね。検索してみて」
 ヤンはテーブルに置いたノートパソコンを指した。「僕の書斎にはもっと大きな装置もあるよ」
「心強いけど、他にはないものを解読する時に、検索はあまり意味を持たないのかも。誰も入力などしていないのだから」
 チェルナは無力感を呼ぶほどの膨大な写真の前で圧倒されつつ、それでも武者震いが湧きおこるのを感じた。
 ヤンは何枚かの写真を抜き取ってチェルナの前に並べ、
「これは同じ記号。あちこちに散らばっているよ。これもね」
 同じもの同士の山をいくつか作る。
「ヤンが付けた符号に合わせて壁面を再現するように並べた方がいいわ。全体を写した写真は記号が見えにくいから」
 チェルナは写真を手に取った。「その前に同じものには簡単な印をつけておきたい。何かいいものある?」
「石とかスパイスはどう?」
 ヤンは広間の棚からいくつかの瓶を持ち出した。「こうして写真を並べて、同じものには同じ色の石やスパイスを上に乗せていく」
「後で食事の時に片付けるのが大変よ」
 チェルナが言うと、ヤンは「少し待ってて」と奥の部屋に入って行った。
 その間にも、チェルナは記号の写真を一枚ずつ確認するように見ていく。漢字やトンパ文字のように実際の物の形を抽象化したと思われる記号はひとつもなかった。ほとんど幾何学的な図と点と線の組合せで、どちらかというと数学の記号に近い。

 ――こんな古代文字は見たことがない。

 チェルナはとてつもない発見をした学者の気分になった。

 ――どうして今まで誰も取り上げなかったのだろう。

 しばらくすると、
「この上に並べよう」
 ヤンが大きな台をひとつ滑車に乗せ、部屋に戻ってきた。「奥にしまっておいた作業台のひとつ。大きいものを作るときにしか使わないから倉庫に入れていた」
 飴色に変色した古い木製で、ビリヤード台ほどの大きさがある。
「大きいわ。解読できるまではこれに置きっ放しにしておけば、延々と考えられそうね」
 まるでカードゲームが始まるようだ。チェルナが台の表面を撫でようとすると、ヤンが制して「まずは表面を拭かないと、埃だらけだよ」にっと笑う。

 台の汚れを綺麗にし、ファイルから取り出した写真を記号の通りに並べ、石やスパイス、枝などを乗せていくと、どこかの美術館で展示されているアートにも見える。
「なかなか素敵ね」
 チェルナは惚れ惚れとし、最後の写真に緑色の石を乗せ、台に再現された洞窟壁の様子を見て溜息をつく。
「難問が並んでいるけど、こうすれば芸術的でさえあるね」
 ヤンも同意した。
「でもやっぱりこの文字は見たことがないわ」
 象形文字ではなく、数式のようだと告げた。
「だからこれまでになんの手掛かりもなかった」
 ヤンは美しくも理解できない記号を目前に途方に暮れている。
「古代文字ではなく未来文字だと考えたらどうかしら」
 チェルナは自身でも思いも寄らないことを口にしていた。
「未来文字?」
「ごめんなさい。ふと思いついただけ」
 学校の教室で思わず手を挙げて突拍子もないことを言ってしまった子供の気分になる。
「おもしろい発想だよ」
 ヤンは子供の気持ちを汲み取るのがうまい教師のようだ。
「どうしてこれまで、誰もこの壁面に興味を持たなかったのかしら」
「さっきチェルナが言ったように、象形文字ではなく数式だからじゃないかな。現実的にも数式はもっとも理解できないもののひとつじゃないか。凡人にとってはね。噂を聞いて写真を撮りにくる考古学者というのは、たいてい数式は嫌いな部類が多いと思うけど」
 ヤンの言葉に
「それはそうね」
 博物館時代のことを思い出して納得する。それはそうだ。複雑な数式が得意な人など一人もいなかった。そもそも、ほとんど数式など登場することもなかったが。「そういった状況証拠を踏まえても、これは数式である可能性が高いと思う。考古学者の心に響かなかったのだから」
「チェルナは探偵みたいだね」
「これだけわけのわからないものを目の前にしたら、状況証拠やシンクロリーディングを利用して解読する探偵にならなくちゃ」
 チェルナはまた思いも寄らないことを口にする。
「やる気だな」
「もちろん」
 二人は台の前で微笑み合い、長期戦も覚悟した。
「まずは同じ記号のもの同士を線で結んだ図を作成しましょう。きっと等高線を結んだ地形図みたいになるわよ」
 チェルナは石やスパイスの位置を眼で追いながら、仕上がった図を頭の中にイメージした。

 作業台の上に並んだ記号の写真と石やスパイスを観ながら、一枚の簡略図を作り、同じ記号同士を線で結ぶと、予想通り等高線を用いた地形図のようになっていく。単純作業だが時間はたっぷりと掛かりそうだ。
「根気がいいね」
 横で見ているヤンが感心していた。
「こんなことばっかりやってきたから」
 博物館の仕事を思い出す。展示ケースに入れている貴重品の何倍もの数のお宝が倉庫には放置されていて、事務の仕事がない時にはそれらをひとつずつ取り出しては真贋を確かめたりナンバリングをしたり、保存用の薬品を入れ替えたりするのが仕事だった。
「こんなことばかり? そりゃあ、辞めて飛び出したくなるね」
 ヤンは淹れ立ての珈琲をマグカップに注ぎ、チェルナにも渡した。
「この作業が嫌だったわけじゃないわよ」
 むしろ、倉庫にこもっての作業は好きなくらいだった。たとえば、中央アジアの破壊された神殿のものと思われる彫刻の欠片や、南米で発掘されたアンモナイトの化石などに触れていると、保存のための仕事をしておきながら、あらゆる物質は儚くて無意味だと思うことができた。博物館としては貴重品であるとしても、歴史的建造物も貝も同じ残骸だった。
「じゃあ、何が嫌だったの?」
「嫌だから辞めたわけじゃない。前にも言ったけど、鳥の嘴が入っている箱を見つけて、そしてそれが無くなるはずがないのに消えていたからよ。誰も入るはずのない部屋からよ。一瞬の出来事だったの。話さなかった?」
「そんなこと、聞いたかな」
 ヤンは本気にしていないのかもしれない。
「信じなくてもいいのよ。私だってついこの前まではあれは幻だったのかしらと疑っていた。でも、なぜかこの場所に辿り着き、ヤンの言うグレイと遭遇した後はもう疑いはない。変更したことと言えば、あれが嘴ではなく、爪だったのかもしれないと思うことだけ。とにかく、この謎に出会って以来、どうしようもなくアート製作をしたいのよ。何のために、なんて自分でもわからない」
 温かい珈琲を口にすると、神経を使う仕事の疲れが心地よく解けた。
「ひょっとして、この図、この島の地形図と同じではない?」
 チェルナは作りかけの簡略図を客観的に眺めて気付いた。なんとなく、全体の形が島に似ている。
「そう言われてみたら、そんな気もするな」
 ヤンも湯気の立つマグカップを片手に、簡略図を覗き込んだ。「ずっと古代文字だと思っていたから、こうやって繋いでいくなんて思いつきもしなかった」
「蜘蛛の巣にも見えるけどね」
 等高線のように常に並行になっているわけではなく、線は互いに渡り合ったり、行きつ戻りつしている。
「島の何かを表しているのだとすると、これを頼りに、たとえば樹木の種類や、岩、地質などを調べてみる手もないことはない」
 ヤンは真面目だった。
「調べたことはないの?」
「昔調べた文献はあるけど、僕自身はやったことはない。後で文献は探しておくよ。父の父の父、みたいな先祖がやったものになると思うから、現在のものと一致しているかどうかはわからないけど」
「この洞窟の壁面図も古いものだから、古ければ古いほど一致する可能性はある。樹木の位置を調べたいのではなく、この壁面図と島の相関を知りたいだけだから」
「なるほど」
 ヤンは心から感服したようだった。「プロだね」
「どうかしら。博物館で働いてきたに時は、私はこういうアイデアを出す身分じゃなかったのよ。事務と倉庫整理をしていただけ」
 プロだと言われると、チェルナはこそばゆい思いだった。
「もったいないね。まるで神様がチェルナをここに派遣したみたいだ」
 ヤンは目を輝かした。
「こうして壁面図の解読をしていると、思い込みに縛られてしまった先人の気持ちがわかる」
 チェルナは作りかけの図に丁寧に線を加えた。
「先人って?」
「文字の始まりを見つけようとした人たち。有名なものではヒエログリフ」
「エジプトの古代文字だね」
 ヤンは壁際に置いた書棚から一冊の本を取り出した。「本がある。解読に関する本というより、美術書だけど」
「問題はそこにもあるの」
 チェルナはヤンが持ち出した本をちらりと見て、博物館にも似たような書籍があったことを思い出した。
「そこって、どこ?」
「ヒエログリフは美しくて神秘的。だからこそ、解読者が惑わされやすかった歴史があるの。単なる文字だとは思えないから、きっと神様の言葉が書いてあるに違いないと初めから思い込んでしまう」
 図に線を引きながら、博物館時代の記憶を探っていた。
「神秘的じゃないってことか」
「そうとも言えないわ。まだわからないこともたくさんあるし、解釈もいろいろとある。実際には、私の考えでは――」
 チェルナは線を引く手を止めた。
「考えでは?」
 ヤンが顔をじっと見る。
「最初に唯一で多層的に解釈できるひとつの図柄があり、そこからさまざまな次元に展開されていった。最初のひとつの文字はとても個人的なことを、プライベートのものとして伝えようとしたのではないかしら」
「どうしてそう思うの?」
「グレイとの出会いでそう思うようになったの。鳥は枝に止まることによって、その枝と自身の姿によって私に個人的な何かを伝えようとする。『今日は赤い口紅を着けていますね』と伝えようとして、赤い花の横に止まることもある。それは私の思い込みかもしれないけれど、どんなコミュニケーションは思い込みの部分が大きいでしょう。たとえばあの人に愛されているとか嫌われているとか、厳密に言えば思い込みに過ぎない。確かめようがないのだから。文字の始まりだって、単純に一対一で概念を指しているものとは限らないんじゃないかしら。なので、共通の解を探そうとしても見つからない」
 チェルナはまた、これが自身の言葉なんだろうかと疑いたくなることを口にしていた。
「正解がないのは希望のあることなのか、あるいは、希望のないことなのかわからないね」
 ヤンは美術書の頁をゆっくりとめくった。
「ヒエログリフを美術的に捉えることが解読の正確さを妨げたとも言われるけど、ひとつの解釈に決められないことこそがヒエログリフの本性だとしたら、美術的であることは大事な事」
 チェルナはまた新しい線を引く。
 図は徐々に仕上がっていく。
 ヤンが図を上から眺めて、
「こうしてみると、どれともつながらない記号がいくつかありそうだな」
 ところどころを指した。
「それは、そうね」
 チェルナは手を止める。
「それが鍵かもしれないな」
 ヤンの言葉に、チェルナは静かにうなずいた。

3 ひとつだけの形象

 三分の二ほど仕上がった時点で、ヤンが今日はそこまでにしようと提案した。
「急ぐわけでもないから根を詰めてもよくないし、見せたいものがある」

 チェルナはヤンに導かれて中庭に出た。
 後一時間もすれば薄墨色に包まれてしまうだろう。一日の最後の日光が斜めから射し込んで、樹木と二人の影を長くしていた。土の香りを含んだ風が柔らかく吹いている。
 ヤンは泉のある森の方向へは進まず、建物に沿って中庭を東に向かって歩き始めた。
「今度は裏庭かしら」
 チェルナはもはや驚かなくなっていた。島ひとつをほとんど所有している男はいくつ庭を自在に使っているのだろう。
「庭と呼べるかわからないけど」
 わずかにふり向いて笑顔を見せた。
 五分ほど歩いた後、形だけの小さな門を開けて草むらに入って行った。
「たまに蛇が出るけど、気にしないで」
「気にしないでって――」
 チェルナはゾッとする。とはいえ、こんな草むらに分け入ったことが一度もないわけではなかった。もっと若い頃には南米の調査に同行したこともあった。
 ヤンは長い枝で草をかき分け、わざと音を立てて歩く。蛇が人間の侵入を察知して逃げていくことを想定しているのだろう。
 しばらく行くと、その先には小高い丘があった。短い草の生えた丘の天辺に石碑が立ててある。その向こうには再び深い森が横たわっているのが見えた。
「なんの石碑?」
 チェルナはヤンの後ろをついて丘を上った。
「よくわからないんだ。祖父も、父も、よくわからないと言っていた。残された文献にもこの石碑に関する記述はどこにもない」
 辿り着くと、チェルナは石の表面を撫でてみた。楕円形を半分にし、縦にした形は半分埋もれた小判のようでもある。夕暮れの太陽がここでも長い影を作っている。
「何も書いていないわね」
 文字のない石碑など見たことがなかった。
「石碑じゃないのかもしれない」
 ヤンも石の表面を撫でる。
「じゃあ、何?」
「わからないけど、さっき、あの洞窟の壁面文字の図を作って気付いた。この文字だよ」
 ヤンはポケットから一枚の写真を取り出した。
「どの位置にあったもの?」
 チェルナが言うと、全体図の写真も取り出し、「この辺りだ」と端の方を指した。
 確かに文字は石碑と同じ形をしている。
「形は似ているけど、この石碑を表していると断定できる?」
「断定してはいない。だけど、チェルナがあの文字群をつなぐと等高線を使った地形図みたいなると言ったから、島の地形図だと仮定して見ているうちに、この石碑のことを思い出した。ちょうどこの記号がある位置と、地形図が一致している」
「ひとつだけ?」
 チェルナが言うと、ヤンは大きく頷いた。
「似ているものはあるけど、こんなにそっくりな文字はひとつだけ」
「似ているものは、たとえばどれ?」
 ヤンはこれと、これと、これと、と太い指で指す。日暮れ間近で辺りは薄暗く、よく見えない。
「一度部屋に戻って見てみましょう。こうして見ると――」
 チェルナは石碑の影を指した。「日時計にも思えるけど」
「それは僕も、そう考えてみたことはある。だけど、それなら、あれだけ漏れなく島のことについて詳しく書いてある文献の中に、この石碑のようなものは日時計と記載してあってもいいと思わないか?」
 ヤンの言葉に、チェルナは「それもそうね」とうなずいた。
「とにかく戻って、夕飯の後、部屋でじっくりと見てみよう」
 夕雲の裾には最後に残された太陽の光が薄く光っていた。

 広間に戻るとすでに夕食の準備が整っていた。木の実や果物、燻製肉を使ったサラダ、白身魚とガーリックトーストの入ったカレー風味のスープ。ココナッツジュースで炊いたバターライス。
 チェルナは毎日のご馳走に驚くばかりだが、ヤンに言わせるとバターとオリーブオイル、塩、ワイン以外はほとんどは自生しているか栽培しているものから作るらしい。
「ほとんど自給自足でも豪華に暮らせるものなのね」
 つい口を滑らせると、
「島の豊かさに対して、住んでいる人の数がとても少ないから」
 ヤンは燻製肉を口に放り込んだ。
「何人住んでいるの?」
「長く住んでいる住人といえるのは僕とハルの二人だよ。僕には弟と妹が居て、年に一回くらいは遊びに来るけれど、すぐに都会の生活へと戻っていく。別に作業を手伝わせるわけじゃないんだけどね。島では他の連中もだいたいそんな感じ。僕だってもともとはここに住んでいたわけじゃないし」
「どこに住んでいたの?」
「チェルナが歩いていた港の辺り。そしてこの島は所有して、夏休みに遊びに来る程度だった。僕が子供の頃には研究者が何人か居て、この島の研究や、保存のための採取をしていた」
「今、その人たちは?」
「よくある孤島だと断定して出て行った。人生におけるバカンスを楽しんだ後、もとの生活に戻っていったってことだよ。なぜか僕は先祖代々島の所有者の息子だから、島を離れるわけにもいかず、初めは行ったり来たりしていたけれど、こうして住み着いてしまった。島は手入れをすれば豊かだし、植生に偏りがなくてオールインワンだからこうして豪華な食事もできる」
 スープの中に入ったパンをフォークで突き刺して口に入れた。
「ハルがいるから、じゃない?」
 どんなに島が豊かで何でも揃ったとしても、調理する人がいなければどうにもならない。
「それはそうだ」
 クーラーで冷やしてあるワインをそれぞれのグラスに注ぎ、ヤンはぐいと飲んだ。チェルナも一口だけ舐めるようにして飲んだ。
「ハルはいつから居るの?」
 チェルナは初めてこの質問をした。尋ねてみたいが、尋ねてはいけないことにも思える。
「わからないんだ」
「わからないって?」
「研究者たちもいなくなり、祖父母も両親もいなくなって、とうとう僕が一人で島を背負い込むことになりそうだと愕然としていた時に、文字通り岩陰から現れた」
 ヤンは再びワインをぐいと飲む。
「あまりにも出来過ぎた話ね」
「僕もそう思う。でも事実なんだ。よく考えてみて、僕たちはここでこうして一緒にワインを飲んでいるけど、どうやって出会った? 全く出来過ぎではないような、納得のいく手順だった? 思い出してみて」
 ヤンに言われて、チェルナは港で出会った日のことを思い出した。
「偶然だし、出来過ぎた話のようだわ」
「でしょ? 小説に書いたら編集者に叱られそうなご都合主義だ。だけど、よく考えてみて、そうではない出会いなんてものはない。全ての出会いは出来過ぎたご都合主義のように奇跡的。全ては岩陰からひょいと現れる」
 ヤンの言葉に、チェルナはそうではないと言えなかった。実際にはあらゆる事象を「奇跡ではない」と証明する方が難しい。奇跡ではないと証明できた数パーセントのものだけが科学的根拠のあるものと認定される。科学とは奇跡ではないことだけを探し出す発掘隊のようなものだ。
 食事中、ヤンは島にいる狸や、カラフルすぎる鳥の話をした。そのすべてと意思の疎通があるらしい。食事が終わるころにはハルがいい香りのするお茶をテーブルに届けてくれた。
「お茶を飲みながら、さっきの石碑と文字について考えよう」
 ヤンはせっかちに立ち上がり、写真を置いたままにしている作業台の前に立った。チェルナも従い、台上の作りかけの図と写真を改めてじっくりと見比べ始めた。

「やっぱり、洞窟に刻まれた記号の中に、石碑を模したかのような形の記号はひとつしかない」
 丁寧に写真を確認した後、ヤンが断言した。
「そのようね」
 チェルナも納得する。
「あんな風に石を立てた場所も、この島の中にはひとつしかない」
「そうなの?」
「僕が調べた限りでは」
 チェルナは花茶を飲み干し、夕方に見た文字のない石碑を思い出した。
「お父様もお爺様も、あの存在自体はご存知だったのかしら」
「そうだよ。あれはなんだろうねと二人が話しているのをしょっちゅう耳にしたよ」
「お母様やお婆様は?」
「女性たちが話しているのを聞いたことはないな」
 この島は男系で語り継がれているらしい。
「文字のない石碑って、ロマンティックね」
 小高い丘の上に長く伸びていた影を思い出す。「《文字がないこと》を書いて、碑として立てているのだから」
「それがロマンティック?」
「禅の不立文字みたい。悟りについては言葉で表すことができない。あの石碑がそれを著す記号、あるいは文字、だなんて、お洒落」
「なるほど、そういう意味だったのか」
 ヤンはまさに悟りを得た声を出した。
「そうとも読めると言っているだけ」
 チェルナがはにかんだように言うと、
「いや、絶対そうだよ、そうに違いない」
「どうして言い切れるの? 私が言い出しておいて、こんな風に問うのも変だけど」
 ヤンのエウレカと言わんばかりの様子にチェルナは少したじろいでしまう。
「だって、わけのわからない、なかなか解読できない大量の文字の中に、文字のない石碑を表す記号が混じっているのだから、それはチェルナの言う通り、《不立文字という文字》だよ!」
「そうね。そうか」
「それから、チェルナが博物館をやめることになった鳥の嘴の形にも似ていないかな。グレイのものだとしたら爪かもしれないけれど」
「ヤン、その通りよ。どうして気付かなかったのかしら。そっくりよ、あの嘴、いや、爪のオブジェにそっくりよ!」
 チェルナもエウレカと叫び出したかった。

(五章了)

参考文献 『ヒエログリフを解け』エドワード・ドルニック著

#連載長編小説
#コルヌコピア



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?