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長編小説 コルヌコピア 12

七章

1 アユラとそれぞれの関係

 アユラの携帯が鳴った。アポもなく、いきなり電話が鳴るのなら、ほぼ母親からだろう。見ると予想通り。受信すると、これから例の黒いオーバーコートを宅配便で送ると言う。
「それから実はね――」
 庭にイタチが来るようになった話を始めた。隣の家との仕切りになっているブロック塀の下を掘って行ったり来たりしている困るというのだ。「どうすればいいかしら」
「嫌なら役所に行って処分して貰えばいいじゃない」
「でも隣の奥さんがかわいそうだって言うのよ」
「じゃあ、イタチが掘った穴を埋めてしまって、こちら側には来ないようにしたらどう?」
「それもなんだか、お隣にバレたらあてつけがましいでしょう。イタチが来なくなったら、それはそれで寂しいような気がしないでもないし――」
 どうとも言えない曖昧な気分を延々と話始めた。
「ちょっとごめん、今、仕事中なの。コートを送ってほしいなんて面倒なことを頼んでおいて申し訳ないんだけど、その話、また今度聞くってことでいいかな」
 アユラはそう言いつつ、罪悪感を感じていた。
 文芸誌に載せる美術館論の原稿は今日中に仕上げなくてはいけないものでもない。だから、仕事中なんて嘘のようなものだ。それでも、今はイタチを巡る葛藤を延々と聞く気分ではなかった。
「あ、そう、ごめんね」
 急に目が覚めたように、他人行儀な声色になる。
「こちらこそごめん。今度その話教えて」
「いいのよ、別に。じゃあ、コートは明日着くように送るから」
 母親はそう言って、そそくさと電話を切った。
 アユアはほっとすると同時に、胸の中にじんわりとした罪悪感がしばらく居座った。

 ――聞いてもよかったんだけど。私、なんとなくいらいらしてる。

 島のツアーでチェルナと話をすることを楽しみにしていたのに、それが叶わなかったからだろうか。あるいは、チェルナが間違えて渡った島のことが気になっているのだろうか。このことを本部に報告はしたものの、その島については誰も知らないようだった。月尾チェルナから連絡が入って、ちゃんと無事が確認できているのなら、本人の意志に任せておけばいいだろうと言われたのだった。

 ――本当にいいのかしら。

 パソコンの前で首をひねり、腕組みをした。
 チェルナが間違えて渡った島。
 地図を見ると、アーティスト養成プログラムのオプションツアーの行われている島の周辺にはいくつもの小さな島が点在している。きっと綿密に調べると、これらの島の中には私有地や、公にはあまり知られていない指定保護公園が存在するのだろう。それらが、登録された私有ボートだけが中に入れる島なのだとしたら、住人の中に知合いでもいなければ永遠に入ることはできない。なんだか理不尽な気もするけれど、そもそも陸地にある家々だって同じようなものだ。誰かに買い取られて囲いをつけられ、鍵を掛けられた一画としての家はそれぞれが海に浮かぶ島と同じ。住人以外、約束もせずに侵入することができる場所ではない。そこに「島」があるとわかっていても、中に入ることは許されないのだ。

 ――なんだかチェルナさんが羨ましい。

 月尾チェルナの、それほど長くない髪を後ろできゅっと結んだだけの、飾り気のない姿を思い浮かべる。美人ではないけれど、どことなく小動物系のかわいらしさがある。

 ――そういえば、イタチか。

 電話で母親が話したイタチの姿を想像してみる。隣家とこちら側を行ったり来たりしているらしい。運がいいのか悪いのかわからないが、通常なら入れないはずのミヤデ島にすんなり渡ることのできたチェルナのことが、まるでベランダを往来する野生の生き物のように思えた。柔らかい身体をうまくくねらせて穴を潜り抜けてしまう。

 ――ミヤデ島の日記、書いておいてもらってもいいかも。

 意外としたたかそうなチェルナの姿を想像しているうちに思い付き、早速チェルナにメッセージを入れた。

《私は帰宅しました。そちらの島の様子、撮影が許されている範囲で撮影したり、スケッチを描いたり、記録を取っておいたりしたらどうかしら。制作の役にも立つし、最後の展示会で作品の産まれた道程として紹介できるかもしれない。》

 それから改めて美術館論の原稿に取り掛かる。美術館の教育的役割について書く。時間的にも空間的にも限界があるがゆえに画一的な指導を強いられる学校の美術教育をどう補填するか。その役割を、どのように美術館が担っていくのか。いろんなアートがあり得る。まずはそのことを子供たちにも知ってもらいたい。
 パソコンに文字を打ちながら、時々スマホに目をやりチェルナからの返信を待ったが音沙汰はない。無言のままだった。

 ――忙しいのかしら。

 だけど、考えてみると、アユラ自身がメッセージを入れてからまだ三十分も経っていない。制作をしているチェルナがビジネスマンのごとく即座に返信などできないことはわかっている。

 ――私、チェルナさんのことが気になっているのかな。

 諦めてスマホを横に置く。チェルナとはそれほど深い話をしたこともないし、何度も会ったわけでもない。だからチェルナ自身に魅かれているわけではないだろう。おそらく、彼女の鳥の嘴の作品や、まだ見ぬミヤデ島に魅かれている。
「いずれにしても間違いなく彼女は逸材に違いない」
 そう呟いて、再び原稿に向かった。

 原稿を書き終えた頃にも、チェルナからは返信がなかった。ひょっとしたら電源が切れているのかもしれない。
 アユラはデスク周りを片付けた後、夕食の為に外に出た。内科医院の広告が貼ってある電柱の上に雀がいて、辺りに響き渡る声で鳴いている。一羽だけであの声が出るとはすごいものだと思いながら横断歩道を渡った。暮れかかる空の一部が残照で橙色に光っている。
 頻繁に出入りしている定食屋に入ると、旅行客と思われる若い女性たちがはしゃいでいた。テーブル周りにスーツケースやリュックをはべらして、やったー、とうとう来たねー、などと言っている。近頃はこんな店が珍しくなってしまったのか。「こんな」と言うと店主に失礼だが、アユラにとっては、ずっと昔からそこに在り続ける気の張らない定食屋だった。「ごく普通の」と形容しても店主から叱られないたりしない。

 ――それが、今や珍しいのか。

 スタバックスやマクドナルドが珍しかった時代はとっくに去り、むしろ町の風景にスタバとマックがあれば、その普通さにむしろ安らぎを覚えるようになって、逆に、かつては当たり前だった個人店が珍しいものとされる時代になったのだ。
「いらっしゃい」
 それでも店主は相変わらずの調子で、厨房から声を掛けてくれる。心からありがたいと思える。
「日替わりで。それと麦酒」
 内容も確かめずに言う。確かめるまでもなく、なんだって美味しいことはわかっている。
「あいよ」
 威勢のいい声がして、それだけでも原稿書きの疲れが吹っ飛んだ。旅の女性たちはメニューを睨んで迷いつつ、ああだこうだとはしゃいでいた。
 ひとまずお水とおしぼりと麦酒を持って来た店主が、
「近頃は旅行客が増えてね」
 眉尻を下げる。嬉しいのか、困っているのか。
「おいしいことがばれちゃったの?」
 アユラはおしぼりの袋を指先で破った。
「いやあ、旅行サイトが取材に来てね、大袈裟な記事が載ったものだから。そんなことぐらいで大したことはないと思っていたら、続々と」
 囁く声で言う。
「ありがたい? それとも――」
「ありがたいっすよ。続々となんて言っても、地元の常連を押しのけるほどでもないから。そもそも今までの常連の半分はチェーンの牛丼屋に向かったから、近頃では空きはけっこうあったんでね。アユラさんはよく来てくれるけど」
 ステンレス製の盆をお腹に抱きしめてぼやいた。そうするうちに若い女性たちの注文が決まったらしく、店主は威勢よく返事をしてアユラの席から離れていった。
 よく冷えた麦酒を一口飲み、スマホの中身を確かめたが、やはりチェルナからの返信はなかった。直ちに返答を求めているわけではないけれど、遅いと気になってしまう。本部からの指示ではそれほど心配する必要もないはずなのに、何度も確かめてしまう。
 グラスの半分になるまで麦酒を飲んだ。いろいろと考えることがありすぎて、鋭敏になっている神経を和らげたかった。すると、携帯電話が鳴り、着信画面を見ると大家だった。なんだろう。出ると、
「偶然ですね」
 と言う。
「何がですか?」
「後ろの窓、見て」
 そう言われて、背中側にある窓を振り返ると、大家がにっこりと笑って手を振っている。
「やだ」
「やだって、言われても。ストーカーじゃないですよ。通りがかっただけですから」
「これからどこへ?」
「牛丼でも食いに行くかと思って出てきたところ」
 硝子越しに顔を見ながら携帯で話す。
「この定食屋も美味しいですよ」
「ご一緒していいでしょうか」
 外の風に吹かれたように目を細めて笑っている。
「どうぞ」
 アユラが言うと、さっそく入り口側に回り込んで、店の中に入ってきた。
「この店は何が美味しいんですか」
 椅子に座りながらメニューを手に取る。
「なんだって美味しいですよ。私は日替わりを注文した」
 店主がお水とお絞りを持ってきたので、「日替わりってなんだっけ?」と聞いてみる。
「今日はチキンカツ」
「だそうですよ」
 アユラが言うと、
「じゃあ、僕もそれで」
 大家は速攻で決めた。「あ、麦酒も」
「決めるの速いね」
「だって、チキンカツは普段のメニューに入ってないから」
 メニューをパタンと閉じる。
「もう見たの?」
「はい。そもそも牛丼食いに行こうと思って出てきたわけで、だからここでも鼻っから肉にしようと思ってるから、肉メニューの場所しか見ないでしょ。レギュラーメニューでのチキンは唐揚げと照り焼きしかないと確認済み」
 アユラは「凄いわね」と驚いて見せ、麦酒を一口飲んだ。
「だけど、アユラさんは確認もしないで日替わりと注文したのだったら、ここは常連ですね」
 大家の所にも麦酒ジョッキが届けられ、軽く乾杯と言ってから飲み始めた。
「相変わらず推理が細かいのね」
「ミステリー小説ファンですから」
 上唇に着いた泡をおしぼりで拭き取って、得意げに眼を輝かせた。
「正直言うと、ミステリー小説なんて変な事件の話ばっかり書かれているからくだらないと思ってきたけど、推理を鍛えるためには有効かもしれないわ」
 アユラが言うと、大家はふふんと笑い、
「有効かと思って読んだら、推理なんて鍛えられませんよ」
 もっと得意気な表情をした。「おもしろいと思って夢中になるからいいんです」
「そんなに好きなら、書いてみたらいいのに」
 そう言うと、大家は気のせいか顔を赤らめた気がした。麦酒のせいだろうか。「ひょっとして、もう書いてるの?」
「さあ、どうだか」
 肩をすくめて、言いたくないのか、それ以上は口をつぐんでしまう。
「それより、明日、例のトウジョウマキオの黒いオーバーコートが届くのよ。母が早速送ったって」
「もう早? 僕のメニュー決めと同じくらいの速さ」
 大家は麦酒のジョッキをテーブルにどんと置いた。
「母は仕事が早いのよ。話は長いんだけどね」
「コート、見てみたいなあ」
「もちろん、いいですよ。明日、うちにいらっしゃる? うちにと言っても、大家さんから借りている部屋だけど」
「そうしたいところだけど、一人暮らしの女性の部屋に、男一人で訪問するわけにはいきません。確か、マンションに集会室があったはずだから、そこで見せてください。適当な時間に電話してくれたらお伺いします。メールだと気付かないことも多いから、電話してもらえるとありがたいです」
 日替わり定食が二人分テーブルに届けられた。揚げたてのチキンカツには自家製のケチャップが掛かっている。千切りキャベツとパセリが添えられている。シジミ汁とご飯、きんぴらごぼうの小鉢。
「これはサービス」
 店主が小声で言って、鰹の煮付けを二人の前に置いてくれた。「二人で突っついて」冷かすような目つきをしながらにっこりと笑い、そそと去って行く。
「マスターはなんか勘違いしてない?」
 アユラが大家に言うと、
「僕はいいですけど」
 大家はまた、一陣の風に吹かれたかのように眼を細めて笑った。

2 トウジョウマキオの黒いコート

 トウジョウマキオの黒いコートは午前の便で届いた。アユラは母親がついでに箱に入れてくれたお菓子や果物を取り出した後、クリーニング店のビニール袋に包まれているコートを手にした。ずっしりと重い。まるで経過した時間に比例しているかのようだ。このコートを借りて以来、返す機会を得ることもなく忘却の彼方に押しやられていたのだ。ビニール袋から少し取り出して、トウジョウマキオとの思い出がそれほど多くないことに気付く。フラノの生地の柔らかな手触りも意外だった。もっとゴワゴワしたものだったような気がする。

 ――トウジョウさんったら大学生なのに、こんないい生地のコートを着ていたのか。

 袋からすっかり出してしまうと、未だに光沢さえある表面を何度も撫でた後、肩に羽織ってみた。やはり重い。トウジョウマキオの匂いがするだろうかと思ったが、十年も実家のクローゼットに入れたままになっていたせいで、実家の匂いしかしなかった。そのせいで、本当にこれは彼のコートだろうかと一瞬疑いもしたけれど、羽織って鏡の前に立った時、間違いなくトウジョウのものだと思った。彼がこのコートを着ていたのを何度か見たことがある。細いテーラードの襟に目立たないボタン。当時流行していたオーバーサイズは大柄のトウジョウでさえゆったりと着ていたが、アユラが羽織ると自身が子供になったかのように見える。
 脱いで、裏地を見ると、母親が言っていた通り背中の部分に華やかな刺繍がある。襟や身ごろに縫い付けられていたはずのブランドを表すタグは切り取った後があり、オーダーメイドではなく既製品であることがわかるものの、一体どこの商品なのかはもはやわからなかった。背中の刺繍は鳳凰と牡丹で、時代劇に登場する華やかなタトゥに見えなくもない。
 アユラはコートをハンガーに掛けて吊るし、さっそく大家に電話を入れた。数回の呼び出し音で直ぐに電話口に出て、
「待っていましたよ」
 朗らかな声で言う。コートが届いたことを話し、正午にマンションの集会室で会うことを決めた。

 集会所に現れた大家はコートを見るなり、
「いいコートですね」
 表面を気持ちよさそうに撫でた。
「そうなのよ。学生の私には気付かなかった。私なんか安物のダウンしか持っていなかったし」
「僕なんか今でもそうですよ」
 そう言えば、今日もグレーのスウェットを着ている。
「グレー好きなんですか?」
 昨日はパーカーで、今日はスウェットだから着替えていることになるが、色は同じだ。
「好きというより、いちいち色を考えなくていいから。白は汚れやすいし、黒は威圧的に見えるから苦手。それで最初は茶色とグレーで悩んだけれど、ロッキーがトレーニングをする時にグレーを着ていたから、それでグレーに決めた」
「ロッキーのファン?」
「特にそうでもないけど、人生はトレーニングの連続だから。僕は火星と土星が六ハウスに入っているからね」
 どこか不敵な笑顔を浮かべる。
「なんだ、星占いのファン?」
「信じているわけじゃない。あらゆることの言い訳に使っているだけ。たとえば、アユラさんは何座?」
「射手座」
「僕は牡羊座。だったら火の星座同士だから気が合うね、とか。もしアユラさんが蟹座だと言ったら、火と水だから互いに違う世界を観ることができるよ、とか言ってしまう」
 前歯で下唇を噛んで人懐っこそうにアユラを見た。
「なんだっていいんじゃん」
 呆れたふりをしながらも、意外にフレンドリーな大家に付き合いやすさを感じ始めていた。
「ところで、この刺繍だけど――」
 大家が本題に入った。
「表の地味さに比較して、やたらと派手でしょう?」
「学生服の裏側にこういうの入れるのが昔ワルの間で流行ったね」
「そうだっけ」
「このコート自体は品のいい上等のカシミアだから、タグは取ってあっても一流ブランドのものだろうとわかるけど、だとしたら、この刺繍が初めから入っていたわけではないだろうなあ。表と裏でイメージが違い過ぎる。裏地を外してリメイクしたのかも。うまくできていて、リメイクの跡もわからないけど」
 大家は裏地と表地を縫い合わせた辺りに目を近付けて眺めていた。「どこの刺繍のものかを調べてもいいのかも」
「トウジョウさんが手紙に書いたことが本当なら、これを捨ててほしいと言っていることになるけど、わざと思い出させたようなものね。それも大家さんが引越した時にちょうど手紙を送り付けてくるなんて意図的なものを感じる。学生時代には唐突に居なくなるし、今はこうして急に手紙を送ってくるし、なんなんだろう。彼、きっと死んでいないのだと思う」
「僕もそんな気がする。トウジョウマキオという人はまだどこかで生きている。きっと事情があって、今回、死んだことにしたんだ」
 大家はアユラの眼をまっすぐに見つめた。
「それより、コートの写真を撮らせてもらってもいい?」
 大家はリュックからカメラを取り出した。
「もちろん。コートをそのまま持って帰ってもらってもいいくらいだけど」
 アユラは本気だった。トウジョウマキオの指示通りに捨ててしまいたい気分でさえある。
「ほんとに?」
 大家はカメラを一旦リュックに仕舞った。
「ほんとよ。まだ捨てるつもりはないけれど、あの狭いワンルームにこれを置いたままにしておくのは嫌だし。あ、狭いなんて言ってごめんなさい」
「いいんですよ、本当のことだから。なんだったら、広い方のお部屋をお貸ししてもいいのだけど、今のところ広い方には空きがないし、このままあれに入っておいてくれたら助かります」
 大家は愉快そうに歯を見せて笑う。
「コートは後で実家に送り返してもいいけど、クローゼットに入ったままになっていると考えるとそれも怖い気がするから」
 アユラは愉快な気分にはなれない。
「じゃあ、むしろ僕はアユラさんからありがたがられてこれを持ち帰りましょうか」
 コートを両手で軽く持ち上げた。
「そうしてちょうだい。でも何かわかったことがあったら、連絡してね」
「もちろん」
 大家は目を輝かせた。
「全てがわかるまでは、小説に書かないでね」
 いたずらっぽく言うと、
「どうして知ってるの?」
 大家はほんのりと頬を赤らめた。「僕がミステリー小説を書いていること」
「やっぱりそうだったか」
 にんまりとする。
「なんだ、騙したな」
 大家の顔はもっと赤くなった。
「ごめん。だますつもりはなかったけど、昨日定食屋でミステリー小説のことを話した時、顔を赤らめたから。たぶん、ミステリー作家を目指しているんだろうなと思って」
「ああ、しまった。わざわざ自分から言っちゃった」
 両肘をテーブルに着いて頭を抱えている。
「そんな大袈裟な恰好をしなくても」
 アユラがそのしぐさを見て率直に言うと、
「大袈裟とはなんですか!」
 がばっと顔を上げてふくれっ面を見せた。少し眼が血走ってさえいる。ミステリー作家を目指していることに何か特別な事情でもあるのだろうか。これではまるでトラウマを指摘された人の様相ではないか。
 あまりにも反応が過剰なので、素直に謝るどころかあまりのおかしさに吹き出してしまった。そのうち、つられて大家も笑い出し、
「とにかく、コートはお借りして、刺繍の出どころなどを探します。それから、トウジョウマキオが住んで居た住所か、グーグルでもいいから地図がわかれば教えてください。メール入れてくれたら助かります」
 笑い過ぎて咳き込みながら言った。
 アユラは了解し、来週にでも、また例の定食屋で一緒にご飯を食べようと誘った。相手は借りている部屋の大家なのに、なんだかかわいらしく思えてくる。それにしても、どうして若いのに大家なんかしているのだろう。生前贈与か何かで親からもらったのだろうかと考えたけれど口にはしなかった。あまりにずけずけ言い過ぎて嫌われるのもよくない。狭いながらに小ぎれいで、立地条件のいい部屋が気に入ってもいる。

 大家が帰った後、アユラは自室に戻り、かつてトウジョウマキオが住んでいたアパートをグーグルマップで探した。アユラ自身が住んで居たアパートのすぐ近くだから簡単に見つかるだろうと思ったが、意外と思い出せなかった。自身が住んで居たアパートですらなかなか見つからない。正確な住所も思い出せない。卒業して以来一度も訪れたことはなく、住所なども振り返ってみたこともなかった。

 ――こうなったら一度実際に行ってみるしかないのかな。

 よく行っていたスーパーマーケットや居酒屋の位置も思い出せない。卒業してからこの部屋に辿り着くまでに何度も引越しをしてきたし、頻繁に外国に旅に出ては一か月くらいは戻らない生活をしてきたので、頭の中にある地図が膨大になりすぎたのだ。

 ――私の人生、一体どこへ向かっているんだろう。

 パソコン上のグーグルマップと格闘しながらも、アユラ自身の定位置となる場所はどこなのかと考えてみる。もちろん実家の住所を忘れることはないが、実家であったとしても、アユラには既に客としての居場所以外のものはない。今住んで居るこのアパートもいずれは出て行くことになるだろう。

 ――なんで、こんな人生になっちゃったのかなあ。

 デスクに置いていたスマホを掴んでソファベッドに移動し、ごろりと横になった。もちろん、あちこちを旅する人生を心の底では望んでいた気がする。一か所に留まって、過去も未来もおよそ知り尽くした狭い人間関係の中で一生を終えたいと考えたことはなかった。見たことのない美術、食べたことのない食べ物、聞いたことのない歌、意味のわからない言葉。ありとあらゆる未知に魅かれていたい。それらをひとつひとつ確かめながら歩いていたかった。

 ――だけどなあ。

 はああ、と声に出してまで溜息をつき、何気なくスマホを見るとチェルナからの返信が入っていた。作品の写真も添付してある。

 ――お、やっと気付いてくれたか。

《こちらは順調です。親切にしていただいています。作品も作り始めました。》
《それならよかった。時々連絡くださいね。》
《わかりました。そうします。》

 やり取りはそれだけで終わり、アユラはほっとして身体を起こして伸びをし、トウジョウマキオのコートの件でなんとなく重くなっていた気分を振り払った。
 起き上がったついでに実家の母親に電話を入れ、例のイタチの件はどうなったかのかしらと聞いた。結局、隣家のご主人が捕まえて処分をすると言い始めたところ、イタチの方が察知したのか居なくなってしまったという。
「少し寂しいけど、掴まって処分されるのはかわいそうだし、逃げてくれて助かった。河原の向こうには雑草林があるから、そこで巣を作ると思う」
 明るい声で言う。
「そもそも、どうして来たんだろうね。隣家とのブロック塀の間に穴まで掘って」
「全くわからない。うちでは小鳥も飼わないから、それを狙ったわけでもないしね」
 いずれにしても一件落着でよかったと電話を切り、アユラは少し複雑な気分になった。

 ――私も子供の頃、実家に迷い込んでいたイタチみたい。

 奇妙な考えが頭に浮かぶ。長い人生において十代なんて短いものだった。その後半で家を出て、後は一人で切り開いて生きてきた。世界は雑草林のように危険もたくさんあるけれど、選ばなければ食い扶持も無限に近いほどある。

 ――実家に居ても私には食い扶持はないもんなあ。

 友人の中には家業を継ぐことに不満がある人も多かったが、アユラにしてみれば、とりあえずはそれで生活できる保証があるのならいいじゃないかと思えた。正直、羨ましかった。親のコネを使って就職できる人たちのことも羨ましいどころか、憎らしくさえ思えた。仕事とはなんといっても、この先食べていけるかの切実な問題に対する答なのだから。
 力仕事もできない女一人、こんな時代にどうやって生きていけばいいかと常に不安だった。今でもそうだ。もはや結婚すればどうにかなる時代でもない。家系のおかげで得な立場にいられる人にとっては、そんなものは重荷なだけで大したことのない特権に思えるかもしれないが、だだっ広い世界に一人でひょろりと立つアユラにしてみれば、歯ぎしりをしたくなるほどの悔しさを持たずにはいられなかった。
「ああ、でも!」
 もう一度、スマホを明るくしてからチェルナの創り始めた新しい嘴の写真を見て、心を奮い立たせた。
「これ、めっちゃいいじゃん」
 じっくりと眺める。ルサンチマンにやられている場合じゃない。

 ――よっしゃ。

 まずは外に出てお昼ご飯だ。
 窓を開け、外を眺めると空は晴れ渡り、屈託のない雀がたくさん電線に止まって朗らかに鳴いていた。

 翌日の朝、大家から電話が入り、コートの刺繍についてわかったことがあると言う。
「そっちはどうですか。住所とか地図とか、わかりましたか?」
 いつも通り、フェルトを噛んだような柔らかな声だ。
「それが、全然だめ。何もかも忘れてしまったことに気付いたのが昨日の成果よ」
 まだパジャマのままで珈琲を飲んでいるところだった。
「だいたいはそんなものかも」
 大家は慰める調子で言った。「引越しを繰り返すと、いい意味でも過去を忘れていくそうですよ。物理的にさっぱりするためには切り替えるのはいいことなんです。あ、でも、そこには入っておいてくださいね」
「意外と商売っ気があるのね」
「そりゃもちろん」
 なんとなく、あの得意気な表情が思い浮かぶ。
「それはそうと、刺繍の何がわかったの?」
「この刺繍、ミシン縫いのところと手縫いのところがあります。同じような色の糸で縫っているから、全部ミシンだろうと思っていたけど、よく見ると違った」
「ミシンで作った後、手縫いを加えたということ? 深みを持たせるために?」
「まあ手順としてはそう」
「手順としてはって、どういう意味?」
「手順としてはそうだけど、刺繍の出来栄えに深みを持たせるために手縫いを加えたわけではない」
 穏やかながら、はっきりと言い切る。
「じゃあ、なんのため?」
 アユラは背筋を伸ばした。
「手縫いのところだけを描き出してみると、あるものが浮かび上がってきます」
 驚いた。
「一体、なに?」
「たぶん数字」
 心なしかぶっきらぼうにそう言った。
「なんの数字?」
「まだわかりません。もし可能であれば、裏地をほどいて、裏地の裏側を調べてみたいと思う」
「そんなに複雑なものなの?」 
 アユラは直ぐにでもなんの数字かを知りたかった。
「複雑ですね。どうですか。一緒に調べてみませんか。僕が一人でほどいても、なんだか勝手に縫い付けたみたいになっても嫌だし」
「そんな風に疑ったりしないけど――」
「でも僕はミステリー小説好きだから、きちんと実証するためには手続きを省きたくない」
 電話の向こうでにんまりとしていそうだ。
「いいわ。じゃあ、とりあえず、手始めに今夜定食屋でご飯でもどうかしら。コートも持って来てもらったら」
 アユラが言うと、一も二もなくそうしたいと言う。
 定食屋が店を開ける五時半ぴったりにと約束をして電話を切った。

 二人とも五時半ピッタリに定食屋の前に着いた。
「律儀なのね」
 アユラが言うと、
「そちらこそ」
 大家がパーカーのポケットに手を突っ込んだまま笑う。リュックを背負っているから、その中にコートが入っているのだろう。
 店の中に入ると、いつも通り「いらっしゃい」と威勢のいい声が響いた。アユラはお気に入りのテーブルを選んで座る。窓を背にしていて、入り口とテレビが見える場所。前回、外を歩いていた大家から声を掛けられた席でもある。
「日替わりと麦酒」
「僕も」
 二人とも迷わず言った。
「一応、確かめなくていいの?」
 アユラは少し心配になった。
「この前食べて美味しいのはわかったし、いっそ確かめない方が楽しそう。子供の頃の家のご飯みたいに、何が出てくるかわからない。アタリだ、とか、ちょっとハズレた、とか」
 大家は片側の席にどっかりと置いたリュックの上に手を乗せ、「それよりこいつ、どうします」リュックに向かって指さした。
「ここで中身を広げるわけにはいかないわよね」
「また、集会室に行きますか」
「予約してないけど」
「大丈夫。僕、大家だし、管理人さんと仲がよくて、しばらくはちょっとしたプロジェクトがあると言ってみたら、少しの間だけなら誰も居なければ使っていいって鍵を預かっておいた」
 パーカーのポケットから鍵を取り出してちらりと見せる。
「へえ、有能なのね」
 お世辞ではなかった。これまでの人生で出会った人間の多くは、必ず遅刻したり、いちいち「予約しておいてね」「これがどうなっているか調べてね」と言わなければ何もできない人がほとんどだった。
「こんなことぐらいで有能だなんて言われたら、むしろ心外」
 大家が口を尖らせていると、麦酒とサービスの煮物が届いた。店主は何も言わず、にっこり笑って二人の顔を意味深に見比べた後、厨房に戻っていった。
 日替わり定食は「鰈の素揚げ、とろみ野菜のあんかけ定食」で、大家は、「こんなに珍しいものが日替わりで食べられるのか」としきりに喜び、あまり会話もせず、あっという間に食べてしまった。
 
 集会室に着くと、大家はさっそくリュックからトウジョウマキオの黒いオーバーコートを取り出し、会議机の上に裏地が見えるように広げて置いた。
「何度見ても派手な刺繍だなあ」
 目を近付けて、指先で刺繍に触れている。
「こんなのが刺繍してあるのに、どうして私は気付かなかったんだろう。電話口で母に言われても、そんなのは記憶にないなあと思ったし、届いてからこうやって見ても、全く覚えがない」
「それはおかしいね。ねえ、ここにボタンがある!」
 大家が指すところを見ると、袖と身ごろの間にいくつかの小さな貝ボタンがあった。
「なんだろう」
 アユラも触れてみる。
「これ、ひょっとして、内側にライナーがくっついていたのでは?」
「ライナーって?」
「温かさを調節するためのもの。薄い生地で作られていて、本体にくっつけたり取り外したりできる」
「ああ、そういうの、そう言えばあるね。でも、当時はそういうのはあまりなかったと思うけど」
 アユラの記憶にはなかったが、刺繍に気付かなかったのはひょっとしてライナーが覆っていたからかもしれない。
「そのライナー、どこに行ったのかな」
「わからないわ。大学を卒業して引越す前にクリーニングに出して、そのビニールに入ったまま実家に送ったから」
「お母さんからこれが届いた時、クリーニングのタグがくっついていた? ほら、クリーニングから戻ってきた時、必ず付いているでしょ」
 大家に言われて、
「そう言えば、ついてなかった。お母さん、わざわざ取ったのかな。そんなことしないと思うけど」
「おかしいよね。何もしないまま送り返してくれたのだったら、クリーニング屋のタグは付いているはずだ」
 二人とも同じ感じで首を傾げ、腕組みをした。

「このコート、アユラさんが実家のクローゼットに入れている間に、誰かが着たんじゃないかな。お父さんとか」
 大家は腕組みをした右手の人差し指を立てた。
「父も母も小柄なの。弟だけは例外的に背が高いけど、私の部屋のクローゼットを勝手に開けて古いコートを着るようなやつじゃないわよ。大学に進学して家を出てからほとんど帰っても来ないらしいし」
「親戚のおじさんとかは?」
「そういう人が出入りするようなお屋敷じゃないの。核家族でひっそりと暮らしているのだから」
「だけど、ライナーは取り外されている。それは間違いないね」
 その言葉を否定することはできなかった。
「ところで、刺繍だったわね、ミシン縫いの中に手縫いが入っている」
 アユラは刺繍の表面にそっと触れてみた。細い絹糸の重なりが指の腹を撫でる。
「同じ色の絹糸でも二本取りになっている場所があって、少し乱れのあるアウトラインステッチになっている。そこが手縫い」
「大家さん、刺繍詳しいの?」
「家庭科で勉強しただけです」
 アユラにはミシン縫いと手縫いのアウトラインステッチの見分けは付かなかった。
「そして一か所、玉止めをした糸が外側に放置されている。だいたいは裏側に玉止めを隠して見えないようにしてある。家庭科で教わったでしょ?」
 大家もそっと刺繍に触れた。「ほら、ここ、玉止めが表側にある」
 言われたところに目を近付けると、確かに見えたままになっていた。
「他の玉止めは?」
「内側にある。つまり、たまたまひとつだけは外側に見えているけれど、裏地への刺繍をやり終えた後、裏地と本体を縫い合わせたことになる。くっついたままで手縫いの刺繍をやれないことはないけれど、玉止めが後ろ側にあるということは、先に刺繍をやり終えていたことになる。きゅっと引っ張って後ろ側に丸止めを出す方法もあるらしいけど、目の粗いコットンでないと無理。これはシルクかテトロンだから、そういうことはできない」
 指先で裏地をつまみ擦り合わせている。
「手縫いの部分は数字じゃないかって言ってたけど、それはどういうこと?」
「気になってなぞってみたんだ。ほら、ここ見て」
 大家は鳳凰の羽根の下にある植物の花びらをなぞった。「この花びらの一つは二本取りの手縫いになっているけれど、ずっとなぞっていくと8という数字が出てくる。やってみて」
 アユラは言われた通りに指を滑らしてみる。
「ああ、ほんとだ」
「他にも、この石を立体的にするためのステッチの中にも同じようにあるけれど、それは5になっている」
 再び、そこもなぞってみる。
「確かに」
「今、アユラさんに教えた場所は分かりやすいけれど、他にも二本取りの手縫い刺繍の場所はいくつもあって、全部は調べていないけれど、数字になっている気がする。それで、一度裏地と表地を外して確認したいと言ったんです」
「いいわよ。やってみましょう」
 反対する理由はなかった。そもそも捨ててしまうつもりでいるのだから。
「じゃあ、コートを解体する前に、細かく撮影しておきますね」
 大家はリュックからカメラを取り出した。
「スマホじゃなく?」
「もちろん。正確に撮影しておかなければいけないから。一眼レフじゃないけど、なかなか高性能なんだ」
 にっこりと微笑み、まずは広げたままで撮影し、その後は、ひっくり返したり、袖だけや襟だけにフォーカスしたりしながら、細かく撮影していった。すっかり撮ってしまうと、
「後でプリントアウトしてお渡しします。それから、僕の方でコートを解体します。アユラさんはお母さんに聞くか、それとも実家に帰るかして、ライナーがどこに行ったか調べておいてくれますか」
 と、丁寧にコートを畳んだ。
 アユラは了解し、強くうなずきつつも、大家の言った「コートの解体」の言葉に少なからず動揺した。すっかり忘れていたオーバーコートだが、本当にそれでいいのだろうか。
「解体しても、必要ならプロに頼んで改めて縫い直してもらいます。勝手に捨てたりしないから心配しないで」
 こちらの心境を察知したかのように、大家はにっこりとほほ笑んだ。

(七章 了)

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