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解読 ボウヤ書店の使命 ㉕-外伝-2

長編小説『路地裏の花屋』の読み直しつづき。外伝部分であり、本体の12章と14章の間にある13章に位置付けられるもの。
 タイトルは中編『ツツジ色の傘』。

 《第一章 ある男の救済
 夕暮れ前。曇りとも晴れとも言えない乳白色の空に淡い灰色の雲が棚引き、ところどころが薄桃色に染まり始めていた。歩道脇に並ぶ柳の横を川鳥が飛んで、ケーともキーとも形容しがたい声で鳴く。運河の水面は濃い翡翠色に揺らめき、見た目にはどこまでも静けさを保っているものの、水底から湧き上る匂いは行き場のない藻の精力を誇示し、冬の間は感じられなかったぬめりのある風を放っていた。目の届かない運河底にも春が深く浸透したことを告げているのだ。いや、むしろ、春は水底からこそ始まり、湧き出て地上に吸い上げられ、桜の蕾を膨らますのかもしれない。眠っていた得体のしれない動植物があちらこちらで活動を始める。
 模糊庵はその運河の横を歩いていた。手には好物である鯛焼きを入れた袋を持っている。帰宅したら温め直して食べるつもりなのだ。ふたつ買って、ひとつは焼き立てをすぐさま店先で食べた。紙に包んだものを渡してもらうや否や、胴体のところでぱっくりと二つに割って、湯気の立つところをふうふうと冷ましてかぶりついた。
 二つに割らずに、いきなり頭から齧りつくと中から熱すぎる粒餡が出てきて舌を火傷する。何度か失敗して慎重な食べ方を心掛けるようになった。贔屓にしている店の鯛焼きには尻尾まで餡が入っており、おやつとしてはそこそこボリュームがあるのにも関わらず、これから家に着いたらもうひとつ食べようと考えているのだから、模糊庵は大の甘党の部類に入ると言える。だが、酒も飲むし、塩辛などのつまみも好むので辛党でないこともない。いつも知人たちに向かって、「何を隠そう我は甘辛党、あるいは誉れ高き無党派である」などとふざけている。要は、旨ければどちらでもよいのだった。本当に旨いものであれば鯛焼きをつまみに地酒を頂戴したとしても合わないことはないと言い切っている。
 川べりを歩きながら辺りを見渡して、いつでも季節は移ろうのが当たり前、だから、昨日と変化があろうがさしてどうということもない、結局のところ、どこもかしこも相変わらずの景色だと思った。さっさと帰ってお茶を淹れ、もう一つの鯛焼きを食いたいなあと欠伸した。 
 ところが。誰が住んでいるのか分からないことで有名な豪邸の門前まで辿り着いたところ、あっと声を上げて立ち止まった。男が一人、その門の前で仰向けになって眠っている。なかなか大柄のようだ。羅生門じゃあるまいし、一体どうしたことかと近寄ると、右手にペン、左手にメモ帳を持ったままいびきすら掻いている。着ている服の胸元に数枚の花びらが付着しており、周囲には薔薇が数本散らばっていた。この邸宅に花束でも届けようとしたのだろうか。体中恐ろしく酒臭い。地面に寝転んだために着ているスーツは土に汚れてしまったようだが、それほどずっと着用し続けている訳でもないらしく、シャツの襟や袖口にひどい垢汚れはなかった。ということは浮浪者ではなく、一時的に泥酔しただけなのだろう。
 どうしようか。このままにしておくと夜になる。晩春とはいえ、日が暮れたらまだまだ冷えるし、人通りもあまりないので、大きな男であってもこのまま目が覚めなければ危険がないと断言はできない。それに、この門は滅多に開かないことで有名なのだから、邸宅の住人に運よく助けられるとも考えにくいだろう。
 模糊庵はしゃがみ込んで、
「おい、どうしてこんなところに寝ているのだ」
 無駄とは思いながら声を掛けた。「起きないともうすぐ日が暮れるぞ」
 眠っている男は一瞬だけ薄目を開けて、むにゃむにゃと何かを言ったが、再び寝息を立てて眠りに戻った。困ったものだ。そもそも酒に酔うとはこういうことだが、素面の時に客観的に眺めてみると本当にお粗末極まりない姿だ。日ごろの模糊庵自身の酔い様を目の当たりにするようで、目を覆いたくなる羞恥心すら覚えたのだが、そうやって自己と重ね合わせれば合わせるほどに目の前の男がますます憐れに思えて置き去りにし難くなった。
 悪いとは思ったが、男が左手に持っているメモ帳を取り、ひどく泥酔しているくせに一体何を書き留めていたのかと見ると、ミミズの這うような字で大量に何かが書いてある。どうやら必死で書き留めたらしいが、目を凝らして読もうとしても全く読めなかった。恐らく、本人が酔いから醒めて眺めてみても、彼自身にすら理解することは無理だろう。後になってはどうせ読めないものを必死に書いて握りしめていたのかと、重ね重ね気の毒になる。
 もう一度、おい、と言って肩を揺らしたが起きない。男の物らしいセカンドバッグは入口の開いたまま、少し離れた場所に弾き飛ばされ、携帯電話が半分ほど顔を出している。全く不用心だな。鞄を拾い上げて確認すると財布が入っており、その財布の中身も盗られた様子はなく、どうにかまだ悪人餌食にはなっていないらしかった。
 腕を掴んで強く揺らしても微かにさえ目を開けないほど熟睡しているのだが、右手だけはペンを固く握りしめており、絶対に離そうとはしない。ひょっとすると新聞記者か。模糊庵も物書きだから、何があってもペンを握りしめて離さない気持ちなら十分に理解できる。
 男の携帯電話を使って警察にでも電話をしようかと取り出してみたが、電池が切れておりそれも叶わず、模糊庵自身は携帯電話を持たないのでどこにも連絡しようもない。少し悩んだ結果、腹を決めた。
「仕方がない。担いで連れて行くか」そうするしかないだろう。
 天を仰いだ。暮れかけの薄青い空を黒い鳥が数羽、雄大に羽根をはためかせて過ぎていく。「私もあの日助けられたのだから」》

つづく。

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