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連想 学習デスクについて

 ネット上に落ちていたとある小説を読んだことで、子供の頃に使っていた学習デスクのことを思い出した。

 ちょうど小学一年生になった時に親から買ってもらったもので、一枚の板とその上に乗せられた本棚、そして金属製の引き出しといった当時流行った平凡な形のものだった。デスクとセットになっていた椅子はキャスター付きで、座面も背もたれも共に赤いフェイクレザーだった。と、思う。
 「と、思う。」とはいい加減な話ではあるが、私は18歳までしか実家に居なかったので、その後、その学習デスクがどうなったのかに関する記憶が全くない。確か、誰かに譲ったのではなかったか。
 と、ここまで書いて、そう言えば、中学か高校に入ったタイミングで、一度学習デスクは買い換えたのではなかったかと思い始めた。親から「よく勉強するので買い換えてやろう」と言われて、そうしたのではなかったか。ありがたい話だが、その二セット目になる学習デスクはどういう形のものだったか、今では全く思い出せない。あんなにガリガリと勉強したのにも関わらず。

 ちなみに、今も自分で購入した専用のデスクを使って執筆しているのだが、やはり座っている椅子にはキャスターが付いている。どうしてキャスター付きを買ったのか、今となっては明確な理由は思い出せない。こんなに狭い部屋で、キャスター付きである必要性などどこにもないのに、15年ほど前、深く考えもせずにこれを選んだ。
 これからは執筆活動に入ると心の中で強く宣言し、専用のデスク、キャスター付きチェアを購入したのだった。
 あの時、ホームセンターではきちんと座って高さを確かめ、ぴったりだなと思って注文したのだが、よく考えてみたら、その時は靴を履いていた。なので、ちょうどよいと思って買ったものが、家に届いてから靴下の状態で座って見ると、私にはやや大きすぎた。普通に座ると足がぶらぶらする。なので、キャスター付きチェアの上で胡坐をかいてしまうし、いつしかヨガ用のブロックを組み合わせて床に設置して足を置いたり、デスク脚の支え棒に足を乗せたりして、なんだかいつも収まらない気分でいる。何かが間違っている感じのまま、今日まで使い続けている。
 そんな状態でも毎日使うので、背もたれの布は剥がれ落ち、キャスターは劣化しもろもろになって動かなくなり、今では車輪からもろもろと零れ落ちてくるゴムの欠片を撒き散らさないために足に布を巻いてしまったので、大きさが私の身体に合わないどころか、床を心地よく滑るキャスターとしての機能すらなくなってしまったのだ。

 普通ならば買い換え時だろう。そもそも大きさも合わないのだし。

 ところが、15年も使うと、もはや故障ばかりする愛車のようなもので、とてもじゃないが捨てる気にはなれない。
 これまでずっと、合わないので、なんとか工夫を施してきた。トライアンドエラーの繰り返し。それでもどうしても合わないままなので違和感が常に消えず、おかげで椅子の存在ががっしりと記憶に刻み込まれていく。愛着が増して捨てられない。

 おそらくこんな風に、人生のあらゆる場面においては、ぴったりと合っていればよかったのかというと、そうとも言い切れないことが時々起こるのだろう。合わないから手放せない。

 子供の頃に買ってもらった学習デスクは、あまり記憶にないことから推測すると、私にぴったりだったのだろう。そして、当時の私は作文を書いても読書感想文を書いても褒められ、絵や書道ですらよく賞を取ったものだった。勉強もよくできた。ひょっとしたら私が優秀だったのではなく、あの学習デスクが優秀だったのではないかと思えるほどだ。
 逆に、今、何をやっても大して誰にも褒められないのは、ひょっとしたらデスクが身体に合わないせいかもしれない。じっくりと落ち着いて書き続けたり勉強したりする気にもなれず、やり始めてはなんだかもぞもぞし始めて、すぐに立ち上がって、行きつけのカフェへと出掛けてしまう。
 デスクの選択としては失敗といえば失敗。

 だけど、人生の選択としてはどうなのか。

 あっちふらふら、こっちふらふらとお出掛けばかりするおかげで、そこはかとなくわかる顔見知りも多いし、カラスですら”しょっちゅう見かけるあの人”と思うのか、「カカカカ」(たぶん、「これからゴハンカ」と言っている。)とこちらを向いてよびかけてくれる。ヒヨドリなどは私が少しおめかしをしていると「エウリディーチェ」と鳴いてくれる。ちなみにこちらが猫のような獣っぽい気分の時は「ヒーヨヒーヨ(たぶん、「かわいいよ、かわいいよ」と言っている。)」と呼び掛けてくれる。(気がしている。⇐念のため)

 結論。
 身体によく合うデスクに縛り付けられて、次から次へと賞を取り続ける人生も悪くはないが、私に限って言えば、合わないデスクを所望してデベソな毎日、これはこれでよかったのではないか。
 フロイドの錯誤行為理論から推定すると、私自身、そんなに家の中でじっと本を読んだり、書き物をしたりする人生を心の奥底では望んでいなかったのかもしれない。


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