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解読 ボウヤ書店の使命 ㉕-40

長編小説『路地裏の花屋』読み直しつづき。

《夜になるにつれて雲が晴れていった。珍しく風のない快晴の満月。太陽がすっかり沈み,辺りが闇に包まれていくに従って、むしろ光が姿を現すようだった。どこに隠れているのか蛙の声がうるさいほどに響き、鳴き声分の蛙がいるのかと思うと奈々子は少しぞっとする。
 純は夕方に来ると言っていたが、新しい仕事の打ち合わせが舞い込んだので少し遅れますと連絡が入った。都内の美術商が訪ねてきて純の作品を店に置きたいと言い、値段や納品の方法を検討しているところだそうだ。美術商は彼女の友人の紹介であるらしく、奈々子はそれを聞いて、なあんだ、転機は純の方に起きたんじゃないかしら、と思った。製作は田舎でのんびり行って、定期的に展示会を開き、そのうち都内のショップに卸す目途が立つのが近頃の作家の旗揚げ路線なのだから、と勝手に納得してしまう。そうだとしたら、長年のコツコツとした努力が実を結ぶのだろう。ちょっとした農協のイベントや道の駅であったとしてもやめることなく出品していれば、何度も見かける作品として誰の目に留まるか分からないし、実のところ、磨いて発表する気にさえなれば、才能なんてそこら中の人に平等に与えられているのであって、それよりも継続力や知縁を生かす力の方によって、表舞台に出られるかどうかが決まっている。そんなこと、世間の暗黙の了解みたいなものだ。協力する方としては何よりも、飽きたと言って辞められる方が困るのだから。
 奈々子は六畳ほどの裏庭に折りたたみ式のテーブルを出し、その上に黒いビロードの布を敷くと、洗い終えたクリスタルガラスとハーキマーダイヤモンドを並べた。足元では蚊取り線香をもうもうと炊き、それ以外にもチベット産の線香にも火を点けたので、裏庭一体はバーベキューでもしているのかと思えるほどに煙が立ち込めていた。
 ちょうど月が、庭外に植えられている杉の木の天辺を越えて頭の上に顔を出したところだったので、テーブルの上をほんのりと明るくしている。クライアント達が残していった、鉛筆、ブランデーグラス、銀杏の葉、立方体、石ころのガラス細工とハーキマーダイヤモンドは月明りに照らし出されて、穏やかな光の中ですやすやと眠っているように見えた。
 先週、道の駅で買った手作りの蝋燭にも火を灯す。純粋な蜜蝋の中に畑で栽培したラベンダーを練り込んだという蝋燭だ。買った時、エプロンを掛けた店の販売員が、この蝋燭は灯しているうちに仄かにラベンダーの香りがするはずだと言っていた。立ち込める煙に押されてはっきりとは分からないけれど、確かにそんな気がする。月明りと蝋燭の炎は邪魔し合わずに融け合って、微かな風で炎の影が揺れると空の月も同調してゆらゆらと揺れる。

 準備が出来た頃には純も庭にやって来て、
「これが噂の石ころガラスですか」
 両手に地酒やおつまみの入った袋を下げたままテーブルを見下ろしていた。急いで来たのか、こめかみから首にかけてつうと汗が伝っている。「確かにこの二つそっくりですね」屈託のない声で言い、ひとつ手にとって眺め、堪えられないと言うように笑い始めた。
「そうなのよ。もうどっちがどっちかわかりやしない」
 奈々子もつられたのか、なんだかおかしくなって笑う。大したフォルムでもない石ころ形のものが、そっくり揃って二つ並ぶというのはユーモラスな光景でもあった。
「ガラスは特に効能みたいなものはないって仰っていましたけれど、ハーキマーダイヤモンドならどんな効能があるのですか」
 純は縁側に荷物を置いてから、奈々子がいるテーブルの椅子に座った。「石に効能があるなんて、私知りませんでした」
「もちろん科学的なお話とは言えないけれど、昔からそんな風に言われているらしいのよ。最初にまとめたのはプリニウスという人で、古くからの言い伝えを集めて効能や不思議な力を書き残した。プリニウスは『万物は人間が活用するために存在する』との考え方の持ち主だったから、嘘っぽいと思えるようなことでも真摯に書き取っていったとか。でもハーキマーダイヤモンドはもっと最近になって発見された石で、最初はダイヤモンドだと思って発掘したら水晶だったのでがっかりしたそうよ。誰が効果を取り決めたのか知らないけど、どうやら夢に関する石みたい。夢を叶えるのかもしれないし、明晰夢を見るようになるのかもしれない」
「ふうん。それより、焼き鳥買ってきたので食べましょうよ。トモ君の地酒も忘れず持ってきました」
 純はさっそく食べる話を始めた。若いとはよいことだと奈々子は思う。よく食べて、よく働いて、よく笑う。縁側に置いた手提げ袋の中から焼き鳥と地酒の瓶と、自分で焼いた酒器を取り出していた。酒器は片口と御猪口が二つ。ごつごつしてはいるけれど白い肌に薄緑色の釉薬がかかっていて、なるほど品のよい出来栄えに思える。それを見て奈々子は
「ところで、都内のショップとの契約うまくいったの?」
 と聞いてみた。これほどの腕前ならもっと積極的に進出すべきだろうと思う。ところが純は首を横に振って、
「断ろうかなと思う」あっさりと言う。縁側に腰掛けたままで片口に地酒を注いでいた。
「どうして? 少しずつでもやればいいのに」
 転機なのはあなたの方かもしれないのよと言おうとしてひとまずやめる。仕事柄、奈々子自身の意見を主張することを控える癖が定着していた。カウンセリングは大学で学んだクライアント中心主義を主軸にし、認知行動療法などが目指している成功イメージよりも、もっと内側に向かう主観的な充足を尊重する傾向を貫いていた。だから、たとえ転機が天のお知らせであったとしても、外側からのメッセージに惑わされるより内発的なものでなければいけないと考えていたのだ。もちろん、外側の出来事は個人の内的なものに合わせて生起するのだけれど、本人の意識に響いてこないならば天のお告げでも、他人のお節介としか言いようがない。
「なんだか気分にフィットしなくって」
 純はちらりと奈々子を見て微笑む。顎あたりで切り揃えた髪を、酒器を持たない方の片手でしきりに耳にかけながら言った。「さあ、どうぞ、トモ君のくれた地酒」御猪口が満ちると奈々子にも勧める。
「気分にフィットしないって、どうして? お友達の紹介だったら、心配なこともないと思うけれど」
 奈々子もテーブル席から立ち上がって縁側に座り、御猪口を両手で受け取った。
「先方が、できるだけ同じ規格のものを制作して欲しいと仰るから」
 純は酒に口を付けた。「私ろくろが得意だし、作品群をご覧になって、私にそういうのを求められたのだなとはよくわかります。でも、お話しているだけで息が詰まっちゃって。もうだめ」くすくす笑う。「あんなきったない工房にスーツなんか着て来られちゃって」器を傾けて中身を一気に飲み干した。「たぶん断ると思う」
「純ちゃんは一点ずつ違うものを作りたいの?」
 奈々子もお酒を舐める。純米酒のほどよい甘さがふわりと香った。
「そういうわけでもありません。職人のようにきちんと同じものを造ることにも興味があります。でも、なんというか、そうしなさいと言われてそうするようであれば、私、わざわざこんな田舎に自分の工房を持とうと考えたりしなかったと思うのです。なんのためにこんなことをしているかは、自分でもまだはっきりしていないけれど」
 鼻梁に皺を寄せてくすくす笑い続けている。そして、急に、「あっ」と大きな声を出した。
「どうしたの、急に。まだ酔っぱらうには早いんじゃないでしょうか」
「奈々子先生、あれのせいじゃないかしら、あれ」
 純はテーブルの方を指さした。奈々子は彼女が指さす方を見た。
「あれって?」
「あれですよ。ハーキマーダイヤモンド」
 今度は大きな声を立てて元気よく笑う。「夢を叶えるというか、明晰夢を見るというか、ってさっき仰いませんでした? 効果効能」
「本で調べただけなのよ、そう書いてあったと思う」
「だから、あの石が私のために正しい夢を探索してくれたのではないでしょうか。微妙に違ったんですよ、都内のショップに卸す作家というのが私の本当の夢と。今日のお昼にこの石の持ち主から電話がありましたよね。それで、なんとなくこの石が作用して――」
 なるほどと奈々子も納得して、いっそふふふと笑う。
「あなたがそれでいいならいいんじゃないかな」
 考えてみれば、純らしい決断かもしれない。「好きなようにすればいいわ」
「それより先生、ほら、お酒の中に満月!」
「あら素敵」
 純が奈々子の目の前に片口の酒器を近付けようと動かしたので、映っている月がゆらゆらと揺れて散った。「水面に映る月とは悟りのこと?」覗き込んで眺め、妙な夜だなと考えた。
「先生、飲んじゃいましょうよ、この映った満月も。トモ君のおかげかも」
 御猪口に新しく注ぎ直している。「クリスタルカウンセリングルームに乾杯!」
 純は上機嫌だった。バイヤーとの契約話がうまく進まなかったからやけっぱちになってごまかしているのだろうか。それとも、何かトモ君といいことでもあったのだろうか。
 二人はしばらく黙り込んだ。蛙の声がいよいよ大きく聞こえてくる。満月には薄く紫色の雲が掛かっていた。
「そういえばクライアントさんが取りに来るまで、あの石、預かることになったのよ。なかなかそちらには行けないだろうから一年延長するって言われたけど断ったの。今日浄化したし、来られるまでそのまま窓際にでも置いておこうと思って。もうトンボ棚にはいれたくないしね」
 奈々子も新しく注ぎ直してもらったお酒をぐいと飲んだ。
「ねえ先生、こんな風に考えられないでしょうか。先生が頼んだクリスタルガラス屋さんが、製作用に預かったハーキマーダイヤモンドを象ったものを二つ作って、本物は自分で持っておき、贋物の二つを先生に渡した、とか」
 もう酔ったのだろうかと思い、奈々子は純の顔を見た。そんな様子もなく、満月を見上げている。本気で言ったようだった。
「ガラス屋さん、そんな人じゃなかったと思うけれど」
「なかったって?」
「もう廃業されたのよ。あの頃頼んでいたガラス屋さんは。そう言えば、ちょうどあのハーキマーダイヤモンドが最後の依頼だったわね」
「ほおら、妖しい」
 純は奈々子の方を横目でキッと見つめる。
「まさかあ」
 でも考えられなくもないと思った。あれを最後にイギリスに行ってしまわれたのだった。今はもう、奈々子は別のクリスタルガラス細工屋と取引をしている。
「先生は意外と騙されやすいんだなあ」
 純はもう騙されたと決めつけているようだ。
「じゃあ、あれは二つともガラス?」
 奈々子はテーブルの上に置いたガラス細工の方を指さした。満月と蝋燭の炎の光を浴びて気持ちよさそうに並んでいる。
「かもしれません」
「だったら、純ちゃんのさっきの明晰夢効果はどうなるの? あのどちらかがハーキマーダイヤモンドだったせいで都内進出断ろうとしてるんじゃなかったっけ?」
「やだ、そうですよね。だとしたら、先生、私、やっぱり、都内のショップの商品製作、引き受けた方がいいのかな」
「かもしれないよ」
「でも、ほんと言うともう断ったんです。失敗した!」
 みんな失敗ばっかりだよねと二人で笑って、よし、ヤケ酒だとまた飲む。
 奈々子は純が買ってきた焼き鳥を頬張り、注がれるままにお酒を飲みながら、一年前に蓮二朗が道端の石ころが一番好きだと言ったのを思い出した。塊という概念をもっともよく造形的に表しているなどと、もっともらしいことを言った。
 石ころが一番いいと言うのだったら、ガラスでもいいのではないかと思う。ガラスの石ころなんて何の効果効能もないのだろうか。でもプリニウスの言葉である『万物は人間が活用するために存在する』が本当なら、クリスタルガラスだって何かの効能があるかもしれない。たとえば悲しみだけでなく、夢もなかったことにするとか。
 それもいいことだと思った。長年カウンセリングという仕事をしていると、人は忘れることさえできれば、なんだって楽になるだろうと思える場面がたくさんあった。それは悲しみだけではなく、時には夢の方でもあった。悲しみと夢は似ていなくもない。どんなにいい夢でも、またそうでないものでも、ガラス素材で出来た薄いセロファンのように傷つきやすく透き通っている。そして、叶えられようと、そうでなかろうと、一定期間を過ぎれば、ガラスだったものが淡いオブラートに変わっていき、時間を飲み込む海の中にゆるゆると溶けて消えていく。そう考えると、夢は初めから輝かしいものなどではないと思って、ただ奈々子の胸のあたりをすっと空くものに思えるのだった。だから夢のことなど初めから忘れていればいい。満月を見つめながら、誰も夢なんか見なければいいのにと思った。》

つづく。

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