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解読 ボウヤ書店の使命 ㉓

 朝(2023年8月3日)はヒヨドリの声で目覚めた。ヒーヨヒーヨと何度も鳴く。カーテンを開けるとピッキャだった。これはピーちゃんの雛で、顔つきがサンマのように尖っている。柵に止まって向こう側へと囀り、尻尾を上げたり下げたりしながらヒーヨヒーヨと鳴く。羽根の先が少し折れている。私が覗いているのをちらりと見てからキャキャキャと鳴いた。そもそもこの一羽は私の笑い声を真似する雛なので、ピッキャと名付けたのだ。そしてキャキャキャと鳴いた後、ひとつポチョを落とした。それを見て、つい、キャキャキャと私は笑ってしまい、ピッキャにしてやられた。ピッキャは私が笑うだろうと予測していたのだ。それにしてもあの羽根の折れたのはなにか、尻尾の上げ下げはなにか。見ていると、お腹の柄が見える。
 なるほど。
 ピッキャがダイソーへ行くようにとお腹を見せて私に指示した話を、一昨日(2023年8月2日)この解読『ボウヤ書店の使命』に記録したところなのだが、そのことについて誇らしげに書いていたねと言っているのだ。驚くべきテレパシック能力と伝達力。
 こういった鳥達との会話が何から始まったのかと、リフレクソロジーのセラピストさんに聞かれたのだが、やはり「宝船」という名の赤い実の付く木をベランダに置いてからのことだ。それを目当てに初めてピーちゃんがやってきて、実のほとんど食べたのだが、柵との間にあって位置的に食べることのできない実があったのを、食べやすいように鉢をくるりと動かしてあげてからラポールができた。
 科学者が基礎実験をした普遍的な動物言語ではなく、私と鳥達との会話はこの宝船の実を食べやすいように動かしてあげたことによる個体同士のラポールによる家族的言語だ。そしてそのラポールは親から雛へと受け継いでいる。(もちろん、一般的なヒヨドリではない可能性もある。)

 さて、ボウヤ書店に保管している私の小説の解読をしなければいけない。これまで、制作の年代順に、『駅名のない町』『キャラメルの箱』『スカシユリ』『心に咲く花』まで解読をしてきた。次は、この『スカシユリ』『心に咲く花』と舞台を同じくする『曼殊沙華』だ。
 ⇓ボウヤ書店で読むこともできる。

 主人公のサトシは『スカシユリ』『心に咲く花』で登場した母であり妻であるハトコの夫であり、娘であるサクラの父である。臨床検査技師の設定。これは新潮講座で「仕事小説を書く」のが課題だった。それで私の父(臨床検査技師)に専門的な用語は教わって制作したものだ。
 サトシは懸命に仕事をしている。しかし、妻の気持ちはよくわかっていなさそうだ。

 保存性を高めるために、ここにも全文を掲載しておこう。
《「曼殊沙華」
 グラフ上に彼岸花の花びらを思わせる波形が現れている。電気泳動の結果は明らかに免疫グロブリンの値が異常であることを示していた。
(やはりミエローマか)
 サトシは検査結果に書かれた患者の年齢を見た。三十五歳。(若すぎる)
 この病を得るには若すぎる年齢だと思ったが、可能性がないわけではない。検査結果に現れた波形は見本のようにミエローマ、つまり多発性骨髄腫を表していた。何度見てもこの波形を見ることに慣れてしまうことはない。治療を開始できるのだから、発見することは大切なのだが、出るとやはり悔しさを感じた。
 検査用紙に陽性と印を入れた後、ドクターに電話連絡をした。
「電気泳動の結果、γグロブリンが異常に高く現れています。尿検査などの結果と合わせまして、恐らくミエローマかと」
「ふうん、そうか。じゃ、次の検査ですな」
 あまりに明るく軽い言い草だった。まだ三十代だから仕方がないのだろうか。有名医大をトップクラスの成績で卒業し、いくつかの病院で研修医を経験してから、鳴物入りでこの病院に来たと聞いている。
「次と言いますのは?」
「もちろんレントゲン。パンチアウトありなし」
 撮影結果にパンチアウトと呼ばれている形が現れたらミエローマは確定されるだろう。骨に穴が開いているかのような映像が決め手となる。
「明日にしませんか。それほど急ぐ検査でもないでしょう?」
早く帰宅したかったわけではない。サトシは患者の状態を想像したのだ。
「いや、今、すぐ」
「しかし、患者もぐったりして来られたのではなかったのですか?」
 緊急で運ばれてきた患者はぎりぎりまで我慢していたことが多い。心臓発作など急を要する場合は別として、空いているベッドで一晩休ませることはできないのかと考えた。
「すぐにやってしまうよ。電気泳動で出たなら、直ちに入院した方がいいだろうけど、こちらが断定できないと、帰ったっきり二度と出てこない患者もいるじゃないか」
そう言われてもすぐには返事が出来なかった。サトシ自身も過労で倒れた折、検査でたらいまわしにされ、却って疲れ切ったことがあったのだ。黙っていると、
「もういいよ、君には頼まない」
 言うや否や電話は切れた。サトシは受話器を置いてため息をついた。若いドクターに怒鳴られることは初めてではないが快くはない。検査室内でグルントと呼ばれている基礎研究医師たちに問い合わせた方がいいだろうかとも考える。
 再び電話が鳴り、すぐに受話器をとった。
「血液検査室です」
「こちらレントゲン室です。外科のドクターから依頼が入りました。ミエローマの可能性のある患者がいるとかで」
「山野さんか。ドクターは、もうそちらに連絡したのだな。私は明日にしようと言ったのだが。ドクターの気持ちとしては今日でなくてはいけないそうだ。疲れると思うけどね」
「ドクターが、でしょうか?」
「いや、患者さんのことだよ。だけど、ドクターが言うなら仕方ないのか。グルントに連絡をとって決定するしかないだろう」
「グルントの判断でも了承されましたら、ドクターの言われる通りに実施します」
「頼む。後で、血液検査の結果をそちらに回しておくよ」
 サトシは傍にいた部下に血液検査の結果を渡し、レントゲン室に回すように命じた。これでこの件は終わり。仕事は次々とやってくる。ひとつの検査に心を奪われてはいけない。
 気持ちを切り替え血液検査室の隣にある事務室に入ってデスクに戻り、アメリカの医学雑誌社から届いた封筒を開けた。最先端を行くアメリカの情報をいち早く知り、検査室で使うために翻訳する仕事がある。雑誌では隠されている内容もあるため、実際に試してから質問事項を挙げ、本論文を取り寄せてマニュアルを作っていく。以前にも、有機溶媒に試薬を入れるとフラッシュを起こして混ざらないのはなぜかと問い合わせると、本論文では「窒素を吹き付けながら」と書いてある部分を、雑誌上では省略されていると分かったことがある。医学界は、人命第一なので最新技術でも問い合わせれば答えてくれる。だからこそ、いつでも研究熱心でなければと自分を律していた。
(ひとつ間違えば、救える命も救えないことになる)
 ドクター達と同じように命を背負っているのだと感じていた。臨床検査技師はいつでも百点を出さなければいけない。うっかりミスをしましたと言って、間違った結果をドクターに提出してしまうと、そこから治療の方法も処方する薬も間違ったものになってしまう。
十五分ほど論文を読んだところで再び電話が鳴った。
「レントゲン室です」
 山野スミレの声だ。「実施しますが、全身やるようにと言われまして」
「今日中に全部?」
「グルントに相談しましたところ、ドクターが言われるなら従うしかないだろうと」
 サトシには答えようがなかった。「どうしましょうか」
 答えようがないことを、どうしてわざわざ問い合わせてくるのだろうと苛々した。言いたいことは分かっている。患者にとって負担がないのかと言いたいのだろう。しかし、ドクターの意見は尊重しなければいけない。
「今日中にやらなくてもいいのではないかと、私も先ほどドクターにお伝えした。しかし、状況を考えて緊急入院させるために、どうしてもやりたいと言われたのだ。こちらの役目は果たしている。従うしかないだろう」
「でも……」
「でも、なんだ?」
「いえ、ドクターの言われた通りにします」
 サトシは再びデスクに戻った。読みかけの論文のこともあり、つい冷たく接してしまった。しかし、忙しさのせいだけではなかった。
医療の世界では「判断の正確さ」を常に求められているが、答えがひとつでない場合もある。その日のうちに患者をどうにか仮入院させたくても、本人が重大な病気の可能性を考えていない時は一度自宅に帰りたいと言い出す場合が多い。それで、もし、再び訪れなかった場合に発見が遅れる場合もある。だから、出来るだけその日のうちに結果を見てしまいたいと思うドクターの気持ちも理解できたし、迷った場合には、一番の責任者であるドクターに従うしかないことぐらい医療従事者なら了解しているはずだと思った。最終的にはドクターに従わなければいけないことに対する悔しさも、もちろんあった。
 当直の人間を残して、ほとんどの技師は帰り仕度をしていた。ネームプレートを帰宅の位置に張り替えている。
「お先に失礼します」
 サトシは軽く手を上げて応えるだけで何も言わなかった。当然早く帰りたいが、そういうわけにはいかない。マニュアルの制作をしなければいけなかった。英語をそのまま読めるような検査技師ばかりが集まればいいが、そういうわけにもいかない。それに、この場所の検査レベルを高めたくて努力をしているのではあるが、勤めている人間全員が同じ思いでもない。人の命より自分の余暇、という人間がいることだって確かなのだ。自ずとサトシが背負う仕事は増える一方だった。
(余暇、余暇、余暇。人間が余暇のために働くようになったのはいつからだ)
 帰っていく人たちを見ながら、自分自身はしばらく休みをとっていないことを考えた。
(家を買ったが、家で飯を食う暇もない)
 ふと新居のことを思う。新居と言っても、購入してから五年ほども経つ。しかし家にいる時間が短すぎるせいか、サトシにとってはいつまでも新居だった。まだ団地に居た頃は病院からも近かったので、一度戻って夕飯を食べてから再び病院に来ることもできた。しかし、郊外に建てた一軒家に帰るとなるとそう簡単ではない。サトシは諦めて、当直でない時にも、病院の風呂に入って休憩室で眠り朝を迎えることも多くなった。
(ハトコも、あの狭い『自室』とやらで眠るようになってしまったし)
 階段の下に造り込んだ妻専用のスペースを思い出した。ハトコは遅く帰宅するサトシに睡眠を邪魔されたくないと言ってそこで眠るようになった。
(家の中にいる者だって当直みたいなもんさ)
 自嘲気味に思う。朝、家にいないこともあるので弁当を持って行くことも断った。娘のサクラも短大を卒業してからは社員食堂で食べているようだし、ハトコをいっそのこと弁当作りから解放してやった方がいいだろうとも思ってそうしたのだが、そうなると、より一層、家族との接触はなくなっていった。
 しばらくデスクで翻訳を続けた後、サトシは時計を見た。午後八時半。中断して飯でも行くかと思い立ち上がったところで電話が鳴った。また、レントゲン室からだった。あの件からは解放されたいが、終わったという知らせを受け取るまでそうはいかないのだろう。
「終わったのか」
「はい、一応終了しました。患者さんは別室に移されて、ドクターが今結果を見ていますが、やはり頭蓋骨にパンチアウトが見られるそうです」
 サトシはため息をついた。三十代でミエローマの患者は初めてだった。
「ドクターは何と?」
「私はもう帰っていいと」
「そうか。今から飯行くけど、一緒に行くか? と言っても、私はまた戻って仕事だから、近くの寿司屋くらいしか連れていけないけど」
「ありがとうございます。着替えましたら受付前のロビーに行きます」
 山野スミレは言った。二十五歳。まだレントゲン技師になったばかりだ。

 白衣を脱いで通勤着に着替えロビーに行くと、まだスミレはいなかった。外来受診は終了し、電気は消されて非常出口を表す緑色の光だけが灯っている。公衆電話のブースに六十代と思われる女性がいて、しんとした空気の中に声が響くことも気にせずしゃべり続けていた。長く入院しているのだろう。寝間着とスリッパ、その上から羽織っている茶色のベストが違和感なく染み込んでいた。電話での会話も急を要する類ではなく、看護師の態度が気に入らないとか、食事がおいしくないからお寿司を買ってきてほしいとか。意気揚々と話す姿は病院の外で暮らす人間と、どんな違いもない。
(医者も検査技師も看護師も、そして患者も、ここで暮らす家族みたいなものだな)
 カーテンの閉じられた受付の窓口を見た。日中なら愛想のいい受付の女性たちも座っている。この場所で暮らす家族と言っても、彼女たちだけは病というものから離れていられるのだと思った。実際、妻のハトコは結婚前、この受付にいた。人の命と直面して生きる自分たちとは違って優雅なように見え、この人と結婚して、家では仕事を忘れられたらと思った。ハトコはその中でも特に、現世的な雰囲気からはかけ離れて、ぼんやりと平和な世界を眺めているような雰囲気を醸し出していた。病院という空間の中では際立って魅力的に思え、また貴重なものにも思えて手に入れたくなった。この世知辛い世の中から隔離してやりたいような気持になった。
(このカーテンの奥だけが異次元空間か)
 受付の女性たちが定刻通りに帰宅し、街に出て恋人とワインでも飲みながら食事をするところを想像した。サトシは随分と長い間、酒というものを飲んでいない。いつ緊急検査で呼び出されるか分からないのだ。酔っ払って患者の血清や尿を取り扱う事などできない。いつも素面で待機。臨床検査技師という職業に就いて三十年間ずっとその調子だった。
 ロビーの椅子に座っていると、薄暗い廊下の向こうから人が歩いてくるのが見えた。スミレだ。小柄でぽっちゃりとしている。化粧っ気はなく疲れているように見えた。サトシはそれを見て、彼女も自分と同じように病に寄り添う仕事をしているのだと感じた。
「すみません。お待たせしまして」
 眉を八の字に下げて、申し訳なさそうに微笑む。
「いや、私も来たばかりだよ」
 公衆電話を使っていた六十代の入院患者が受話器を置いたところだった。病室に戻ろうとする前にこちらを見る。
「あら、山野さん。これからデートですか?」
 にやにやしながら言った。慌ててスミレは首を横に振る。サトシの方をちらりと見てから、患者の方に向かって、
「風邪ひかないように、温かくしてお休みになって下さいね」
 と言った。患者が行ってしまうと、ハンドバックからハンカチを出して額の汗を拭いている。急いで用意して来た上に、不本意にも冷やかされて戸惑ったのだろう。
「じゃあ、行こうか」
 受付横の廊下を行くと職員専用出入口へと出る。重い鉄の扉を開けて、先にスミレを通してやった。
外に出るとちょうど病院の裏口で、建物に沿って赤い彼岸花が一斉に咲き誇っていた。いつもは気にならなかったが、何故か赤さが毒々しいものに思えた。
「病院に彼岸花とは、縁起がよくない気がするが」
 さきほどの電気泳動が示したミエローマを表す波形を思い出して言った。
「彼岸花の縁起が悪いという言い伝えは日本のものだそうです。サンスクリット語ではマンジュシャカと言って、天上の花としてめでたいと言われているそうです」
 スミレは言う。それを聞いたサトシは妙にほっとして、検査結果に現れた模様のことを忘れようとした。
「それならよかった。ところ変われば、ということか」
 
 いつも行く寿司屋は、病院までの坂道を降りバス通りに出てすぐにある。寿司屋と言っても、揚げ出し豆腐や肉じゃがといった小料理も出すので、サトシにとってはありがたく、ほとんど毎日のように行った。検査技師という事情をわかってくれているので酒を飲まなくても叱られもせず気楽でいられる。紺色の暖簾をくぐって引き戸を開けると
「いらっしゃい」
 ママが笑顔で言った。ほっそりとした和服姿の四十歳後半。寿司職人を二人も使って店を切り盛りしている。
(プロで台所をやっているということは、大したものだな)
 いつでも華やかな笑顔を見ると、サトシはそう思った。長年通い続けた常連だから、たまには化粧のノリが悪く疲れているのかと思わせる日があることも知っているが、それでも笑顔は崩さない。(こういうのを、結婚生活に期待すると失敗する)つい皮肉なことを考える。ハトコの化粧をした笑顔を見たのはいつのことだろうと思ってしまったのだ。
「あら、今日は若いお嬢さんとデートかしら」
 スミレと二人で店に入ると、ママがチクリと言う。ほどほどの焼きもちも悪くない。
「いや、残業でね。私はまだ続きがあるが、彼女は終わったところで」
 カウンターに座りながら言う。スミレも横に座った。
「残業してお仕事って、偉いわね」
 ママがスミレにおしぼりを渡しながら言った。いつでも火傷しそうなほど熱いおしぼりだ。やはり湯気が出ている。
「熱いぞ、気を付けろ」
 サトシはスミレに言う。サトシもおしぼりを受け取って、全て広げて見せ、「こうやって、ある程度冷ましてからじゃないと、ここのおしぼりは火傷する」
 スミレは素直に真似をして広げた。ふわっと湯気が立つ。
「いつも、そんなに熱い?」
 ママが聞くので、サトシが大きくうなずくと、ふふと笑って「恋心よ、恋心」と茶化した。スミレは聞いていないかのように黙ったまま無表情に手を拭いて、目の前においてあるメニューを眺めはじめた。
「好きなものを注文していいぞ」
 サトシが言うと、
「今日は気前がいいんですね。いつもご本人は肉じゃがばっかりよ」
 ママが笑いながら口を挟む。
「よく言うよ」
 呆れてしまった。経営に協力しようとさえ考えて、アワビや大トロを注文してきている。スミレがいるせいだろうか。いつもなら、このようなつっかかる様子は見たことがなかった。サトシは妙な居心地の悪さを感じた。
「そんなに言うなら、僕は肉じゃがとご飯とみそ汁」
 注文すると、ママは肩をすくめて、あなたはと言うようにスミレを見た。
「私はお寿司の並盛り合わせを」
「少々お待ちくださいね」
 いつもの営業スマイルに戻り、職人に指示を出したり、大鍋の肉じゃがを小さな行平鍋に移したりし始めた。
「さっきの患者さん、どんな風だった?」
 食事をしながらどうかと思ったが、サトシは患者の話を持ち出した。他に話すこともないのだ。
「とても疲れていらっしゃいました」
 スミレはおしぼりをテーブルに広げて丁寧に畳みながら言う。「いいのかな、こんなにレントゲン室で引っ張って、と思うほど」
「そうか。ドクターはどんな感じだった?」
「ドクターは来られませんでした。車椅子に乗った患者さんを連れてきたのは看護師さんでして」
「それはまた、横着だな」
「ドクターによるのです。新しく来られた優秀な先生だとかで、他にもたくさん難病の患者さんを抱えていらっしゃるって、看護師さんが教えてくれました」
「看護師たち憧れの新顔ってところかな」
 サトシが言うと、やっとスミレは微笑んだ。「私たち技師の役目は検査をすることだからね。診断や計画はドクターがやる。この件に関する君の仕事は終わったのだから、さっと忘れることも大事」
 スミレは黙ってうなずいた。

 食事を終えると、サトシはスミレと別れ病院に戻った。ロビー周辺は静かだが、入院患者のいる病棟や産婦人科では二十四時間様々なことが起きている。検査室は外来診察の奥にあり、やはり夜中に発生する緊急検査に対応するため、明りが消えることはない。
 もう一度白衣に着替えた。今からはデスクで論文を読むだけではあったが、急に呼ばれるかもしれない。日常着で病院内をうろうろするのが嫌だった。白衣を着ていれば、自分は医療を提供する側だと思えた。
(人命を預かるなどと言いつつ、傲慢なものだ)
 白衣を着用する時には必ずそう思う。毎日、毎日、ウィルス、がん細胞、異常脳波などを発見していると、健康のありがたさを思わないではいられない。健康でいられることは奇跡ではないかと思う。しかし、それは病を得た人間と、得ていない自分との間に境界線を引いて、見下ろすように、あるいは見放すように感じているありがたさではないかとも思う。自分という人間の冷たさを、毎日、白衣を着る瞬間に確認するようではあったが、それでも、人命を預かるためには、まずは自分が健康でなければとも思う。実際、彼が資格取得のために通った学校で医療倫理を説いた医師は、
「白衣はそのための防御服でもあります」
 と言った。「病人は自分という人間に起きているたったひとつの病と闘うけれど、我々は、一日にいくつも、年に何百、そして生涯に数千の病と闘うのです」
 それを聞いて
「心から癒すことが大事なのでは?」と反論した学生もいた。
「心には心の専門家がいます」
 その医師は直ちに答えた。「ここではまず、検査技師としての医療倫理について話しています」
 
 デスクに着いて、読みかけの論文を開いた。試薬や検査キットの広告と英文。医療はどんどん進歩する。治療方法だけではなく、発見する方法も進歩し、これまでには原因不明として死に追いやられてきたものが、今では新しい名前を得て治療されるようになった。しかし、病原菌の方も進化している。結核菌などは、顕微鏡で見ても様変わりしてしまったことが分かる。あらゆる薬に対抗できるようにと、小さくて強い形に変容している。
(いたちごっこと言えば、いたちごっこだ)
 溜息が出る。(だけど、これを仕事と決めたのだ。白衣を預かっている限りは最善を尽くさなければ)
 しんとした室内で、一人論文を読んだ。
 しばらくして時計を見ると午後十時を過ぎていた。その下にあるホワイトボードには当直メンバーを示すネームプレートが貼ってある。そこにはベテラン技師の名前が一つ入っていた。
(任せて、今日は帰るか)
 ベテランがいるならいいだろうと思った。これから帰れば十二時前には家に着くだろう。家も当直のようなものだと思うこともあったが、やはり帰って家の風呂に入りたい。疲れを流し、明日には新しい朝を迎えたかった。
 立ち上がって、自身のネームプレートを帰宅の位置に貼り直し、白衣のボタンを二つ外したところで電話が鳴った。
(まだ何か用か)
 肩を落として溜息をつく。仕方なく受話器を取った。
「はい。検査室」
「まだいらっしゃいましたか。当直です」
 ベテラン技師だった。
「どうした? ここに連絡するということは、私に用事か」
 ついとげとげしくなる。
「すみません。本来ならばお帰りのところですが、実はさきほどのミエローマの患者さんのことですが」
 ミエローマの患者と聞くと、少し緊張が走った。
「山野さんがドクターの指示通りにレントゲン撮影をしたと聞いているが」
「もちろん、そうです。ドクターとグルントの指示通りに行いましたが、今、患者がぐったりし意識が朦朧としていると連絡がありまして」
 嫌な予感がした。
「こちらから提出した検査では、他に急を要するような結果もなかったはず」
「私が検査結果を見た上でも、そう思いますが……」
「ドクターは?」
「それが、手術に入られまして、呼び出せません」
「他のドクターは?」
「今、確認したところでは、帰宅途中の院長が折り返して来られるとか」
 それなら任せて帰りたいと思った。どうせ、どのような判断も治療も、臨床検査技師にはできないのだ。しかし、検査室長であり、状況を説明できる人間としての責任があると思った。
「分かった。これから、レントゲンの方に行く」
 脱ぎ掛けた白衣のボタンを再び上まで留めた。
(今日も、病院の温泉だな)
 時計をちらりと見た。

 数日後、ミエローマの疑いありとされた患者は意識が戻らないままに亡くなった。病理解剖の結果、多発性骨髄腫は全身に広がっており、究極的な末期の状態で来院したのだろうと判定された。確かに病院に運ばれた時点でほとんど朦朧としていたのだ。サトシ自身も解剖に付き合い、自分の目で患者の状態を確認した結果、その判定に異論はなかった。

 患者が遺体安置室から送り出されて家族の許に返された日、定時を過ぎても、サトシはいつものように検査室で論文を読んでいた。ドアをノックする音がして、
「どうぞ」
 と言うと、山野スミレが入ってきた。
(来たな)
 サトシは思った。レントゲン撮影が負担になって患者が亡くなったのではないかと言うのだろうと察する。あの日、ドクターの指示に従ってレントゲン撮影をしたのは彼女自身だから、自分の責任で患者が弱ったのではないかと。
(医療人ならば、この壁は避けられない壁だ)
 やはりスミレは想像した通りのことを言い、分厚いレンズの眼鏡を外し、しゃくりあげてまで泣いた。判断を下したドクターやグルントは、患者のことなどすっかり忘れているかのようにふるまっているのに、慣れないうちは、レントゲンとは言え患者に接触した人間は罪悪感を持ってしまうのだ。
 どう言えばいいか迷った。あの日はサトシ自身も血液検査をして関わっているし、スミレとは夕飯まで一緒に食べている。似たようなことはいくつも経験してきたが、今回のことは強く印象に残っていた。
「私たちが全力を尽くしたことを感じとって患者は亡くなった。私も解剖に付き合って確認したが、生きていることがおかしいほどの身体だったよ。いずれにしてもあの人は近日中に亡くなったとは思うが、それにしても、最後に医療に手を尽くされて亡くなった。君はその手を尽くした輪の一人になったのであって、君の責任で亡くなったのではない」
 サトシは立ち上がりもせずに言った。立ち上がって肩に手を当ててやりたいのは山々だが、感情を介入させたくなかった。自分としても腹を割って話せば、他にいろいろと本音がないことはない。だからこそ、若い医療従事者の精神を守るためには情を排そうと考え淡々と言った。
「嫌な気分かもしれないが、生死を扱う医療というのは、やはり両面を持っている。あれでよかったかと振り返っても答が出ないことも多い」
 サトシは、ようやく立ち上がって窓の外を見た。部屋からは建物の裏側が見えた。彼岸花が咲いているのが見える。
「あの日、彼岸花のことを君は教えてくれたね。日本では不吉とされているけれど、曼珠沙華と言って吉とする国もあるのだと。医療も曼珠沙華のようなものかもしれないよ。医療なんて毒にしかならないと言われることもあるが、やはり、その発達で助かっている命は多い。ここにいる限り、我々は出来ることをして、手を尽くすことしかない。そして、ドクターが判断することは、ドクターがするしかない」
 そう言うと、スミレは泣きはらした目を子どものようにこすってから、
「分かりました」
 とうなずき、メガネをかけた。
「よし、今日も、あの店で飯でも食うか」
 いっそ酒も飲んでやろうと思って誘ったが、
「今日、当直なんです」
 スミレが言う。見ると、ホワイトボードの当直メンバーにネームプレートが貼ってあった。サトシはふられたようで照れ臭くもあったが、意外にもほっとして
「そうか。ならば気を取り直してがんばりなさい」
 と笑った。スミレも微笑む。丁寧にお辞儀をすると部屋を出て行った。
 彼女がいなくなると、すぐに時計を見た。まだ午後七時前だ。
(たまには早く帰るか)
 酒を飲もうと決めた勢いが残っていた。
 家に電話をすると、ごちそうはないがお魚を焼いて湯豆腐くらいなら出来るとハトコが言う。頼むと言って電話を切り、どうにかつかまらないようにと急いで白衣を脱ぎ、部屋を出た。
 表の来院者用通路も使えたが、裏口から出てみた。建物の陰になって暗い場所だったが、やはり彼岸花がつんと気取って咲いている。その姿を何者かに見せるためではなく、ただ自身の誇りのために燃えているように見えた。手折る気にもさせまいというように。
 花に押し出されるようにそこを通り抜けてサトシは坂道に出た。
(ハトコは赤ワインが好きだったな。買って帰れば一緒に飲むだろうか)
 駅の地下にワインを売る酒屋があったかと思う。ゆるく夜風が吹く中を、はやる気持ちで帰り道を歩いた。(了)》

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