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解読 ボウヤ書店の使命 ㉕-41

長編小説『路地裏の花屋』読み直しつづき。

《八章

 薔薇園に咲く一重の薔薇は桃色の四季咲きで、そうと知らなければ林檎の花かと見間違えそうな淡い花びらを朗らかに付ける。およそ六十日周期で蕾から花を繰り返すので、 佐々木から譲り受けた骨董の壺にはこの薔薇だけを生けることにした。いつも咲いている花だからとの理由だけではなく、ひとたびこの一重を盛ってしまうと、蓮二朗にはもう他の花を入れてみようという気が起きなかったのだ。壺のぽかんと欠伸をしたようなあどけなさと大昔から取り繕わずに咲いて来た原種の薔薇の素朴さがあまりにも似合っていた。ひと枝の花がすっかり終わってしまうと次の枝に咲くものを待つ。待っている間は壺には何も入れず、洗って乾かした後サイドテーブルの下に飾っておき、花を入れないままの少し寂しそうな、それでいて任務から解放されて伸びやかそうな空気を醸し出すのを時々取り出しては眺めた。

 初めて壺が来てから数年、蓮二朗はそんなことを繰り返しながら壺と一重の薔薇の油絵を一枚,何度も手直しをしながら描き続けた。
 乳白色の壺と桃色の薔薇の姿はすでにはっきりと脳裏に焼き付いており、もはや目の前にモチーフがなくても絵の方には手を入れられそうなものだが、やはり庭に花がほころべば切り取って活け、改めて新鮮な思いで眺めては描く。そうするうちにひとつの絵の中に同じモチーフではあるものの塗り重ねられた年月が生まれ、物理的にも油絵の具が盛り上がって分厚くなっていったのだが、そうなればなるほど現実感が消えて透明になっていくのが不思議だった。むしろ抽象的な絵画へと変化していった。
 とうとう、目前の壺と花が醸し出す完璧な調和を絵の中にも仕込めたと感じた時、絵筆をおいて、蓮二朗は壺のお礼と言って佐々木に譲ってしまおうと決めた。絵に未練はない。傍に壺と花があればいい。

 画廊余白にて、蓮二朗が風呂敷から取り出した絵を前にした佐々木は珍しく笑わなかった。
「傑作じゃないか。頂くのは悪い。買わせてくれないか」
「売りたくないのです。この画廊の賃料にもしたくない。ご自宅に持ち帰って頂けないでしょうか」
 蓮二朗は初めて自身の絵の取り扱いについての注文をしたことになる。それまでは言われるままだったのだ。
 佐々木は腕組みをして絵を眺めながらしばらく考えた後、それを承諾した。「君がそうしたいと言うのならそうしよう。私の取り決め上、買ったものでなければ売ることはできないことになるが。それより、この絵の中に描いてある壺は私が君に譲ったものだね。それで思い出したが、以前君が潜入した奈々子という女のことを聞くのをしばらく忘れていた。どうだ、他の奴らが言う通り、あれから忘れられずにいるのかね」
「奈々子さんには二回お会いして、後は電話で何度か話しただけです」
「どうして忘れられないのか。やはり忘れられないのだろう? 絵を見ればわかるよ、絵がすっかり変わったじゃないか」
 カンバスに向かって人差指を向けている。
 蓮二朗自身は奈々子と出会ったことで絵が変わったとは思っていなかった。
「奈々子さんを忘れられないということはありません。でも、もし、そんなに絵の方に変化が現れたというのなら奈々子さんと接触した後に、私自身が頭の中で見たもののせいでしょう」
「頭の中で? それは、なんだね」
「言われてみたらということになりますが、この頂いた骨董と原種に近い一重の薔薇の融け合っている様子とでも言いましょうか」
 まどろっこしく説明する。「私の中にもともとあった原風景のようにも思えますし、新しい記憶の色合いのようなものにも思えます」
「新しい記憶ってなんだね。記憶というのは古い物ではないか」
「色味のある空気のような記憶です。過去にあった出来事ではなくて、心の中に新たに生まれた記憶。あの時『無』を消去するのだと奈々子さんに言われて、オーナーに勧められた通り壺を隅々まであらゆる角度から観察しておりましたら、そういった景色が生まれてきたのです。言葉ではうまく説明はできません。ですから、この絵そのものを潜入体験の報告書代わりにさせてください」
 最初に奈々子の話をしてから随分と長い月日が経っていた。
「あの時君に話した純という陶芸家には私の方でお会いしてきましたよ。やはりなかなかの腕を持つ陶芸家だった。ショップで作品を売ってみないかと言うと断わられた。だけど一度断られたくらいでは諦めたくない作家だったのでね、何度か訪問したらハーキマーダイヤモンドの話を出してきて驚いた。バイト先でその石と遭遇してから夢を思い出したとか言う。彼女は一点ずつ焼いて一人ずつと対面販売したいのだそうだ。だから断ると言われた。君、これをどう思うかね」
 蓮二朗はハーキマーダイヤモンドと言われてドキッとする。「どう思うかと言われても」
「心当たりがあるのでは?」
 佐々木はにやにやしている。「純のバイト先は奈々子のヒーリングルームだ。君があの石を奈々子にプレゼントしたんだろう? 実はヒーリングルームにもお邪魔させてもらったが、君に見せてもらったのにそっくりな水晶が窓際に置いてありましたよ」
 人差指をやんわりと蓮二朗の鼻先に向けた。
「だとしたら、どうなんですか」
 蓮二朗がそう言うと、佐々木は大声で笑った。
「ひょっとして守護のために渡したのか? 菜々子を護ろうとして? しかしだね、君がそのハーキマーダイヤモンドでこの海千山千男から護ったのは、奈々子の方ではなく純の方だよ。私が純のパトロンになることに反対だっただろう?」
「純という陶芸家には一度もお会いしたことがありません」
「壺は持っているじゃないか。あれが純の焼いたものだよ」
 そんなはずはない。「あの時、私が選んだ方は骨董だとおっしゃったじゃないですか」
「いや、君が持っている壺が純の焼いたもので、私が持っているものがそれの贋作だよ。知り合いの熟練者に焼かせたのだ。熟練者は名の知れた作家だからそうなると市場価格は私の持っているものの方が高い。しかし、目利きならやはり贋作は贋作だとわかるんだよ。勢いが違うのだ。だから、美術的な価値はやはり君の持っているものの方が高い。価格とは比例しないのが残念だが」
 なんだって? オーナーの話はころころ変わるではないか。
「どうして新鋭作家の贋作を熟練者に造らせるようなことをわざわざ。私まで巻き込んで」
「巻き込んだのではないよ。君こそが主人公だよ。君にこういう絵を描いてもらうことが目的だったのだよ。君の絵は純の壺のようなものだ。でも、投げやりだった。君は君の価値を知るべきだと私は思った」
 佐々木は壺と一重の薔薇の抽象画にそっと人差指を向けた。「傑作だ。君、生まれ直したような絵じゃないか」いつも血走っている目がさらに赤くなって見える。
「返してください。そういうことなら差し上げるのはやめます」
 咄嗟に言った。恩着せがましいやり口にむかむかする。
「君にしては珍しいね。一度言い出したことを覆すなんて」
 佐々木の声は少し震えていた。
「珍しくてもなんでも、その絵を渡すのは嫌になりました」
 蓮二朗がきっぱりと言うと、その後は二人共黙り込んでしまった。画廊余白には二人以外に誰も居らず、沈黙に包まれてしまうと、佐々木との間にある長い年月の滓が静かに床の方に沈み込んでいくようだった。
「わかったよ。また気が向いたら売ってくれ」
 佐々木は静かに口火を切って、立ち去ろうとしてから思い出したように振り返った。「奈々子はいい女だね。みんなが言う通り、一度会うと二度と忘れられないよ」
「会ったのですか」
「もちろん」
 白目の血走った佐々木は口だけを歪めるようにして微笑んだ。「もう僕は常連だよ」

 蓮二朗は余白から絵を抱えて自宅に戻り、サイドテーブルの上にそれを飾った後、仕舞っていた壺を抱えて庭に出た。ちょうど楓の樹が紅葉しているピークだった。葉は斜めから射す残照に照らされて僅かな風に揺れ、葉の色と溶け合い金粉が降るかのように光が降り注いでいる。
「みんなで私を馬鹿にしやがって」
 楓の前に立ち、持っていた壺を頭より上に持ち上げた後、土に向けて思いっきり叩き付けた。どしりと鈍い音を出し、それは驚くほど綺麗に真二つに割れた。これまで光に晒されていなかった内側が現われる。外側よりは凹凸があるものの白く艶やかに輝いている。皮膚が剝け、中から現れた柔らかい粘膜が息をしているようだった。生まれた? 何かが生まれた。
 あやの?
 ずっと探し続けているあやのがたった今壺から生まれ出したような気がした。ここにいたのか。
 蓮二朗は割ってしまった壺の欠片に触れようとしゃがみ込む。一重の薔薇の薄い花びらが一枚、内側にこびりついていた。中に入り込んだままいつのまにか乾いてしまったのだろう。それをそっと指で剥がした。
「あやの?」手のひらに乗せてじっと見つめる。
 部屋に入り、慌てて白い油絵の具を練って、描き終えたはずの絵にひとつ花びらの形を塗り、そこへ先程壺の中から出てきた花びらを乗せた。ちょうどよく収まる。
 そうか。これで完成だ。
 壁に掛けてあった黄金律の薔薇の絵を外し、額の裏に挟み込んだ手紙をそっと抜いた。
『いままでありがとうさようなら あやの』
 本当はここに仕舞っていたのだった。
 その手紙を完成した絵の裏側に忍ばせ、出来上がった絵を壁に掛ける。
 後ろを振り返ると、人影があった。誰?
「裏庭に居たら、何かが割れる音がしたものですから」
 おくさまだった。「その絵、まだそこに貼ってあったのですね。売り払った時にセラピストにあげたと嫁が言っていたけれど」
「おくさま――。気に入っていたから模写していたので、それで掛けていました。あの絵そのものではありません」
 嘘ではなかった。模写をして、自分でそこにあやのからの手紙を隠したのだ。箱の中の手紙が荒らされていたことは本当だが、あやのと記名してある手紙は盗まれてはいなかった。中西には嘘をついた。セラピストの絵の中にあると言えばもうここにあることを疑われないと思った。それでも模写した絵の後ろに入れたのは、やはり、もしかするとこのおくさまがあやのではないかと思ってきたからだった。いつか気付いて後ろを開けるかもしれない。そして名乗り出るのではないかと思っていた。
「蓮二朗さん、たった今、絵に何か入れたでしょう? 手紙ですか。あやのからの」
 やはり知っていたのだ。そして、絵の後ろを覗いたのだ。
「ごめんなさい。蓮二朗さんのいらっしゃらない時に見てしまいましたの。捨てたと思った黄金律の絵があって驚いて裏側を開けてみた。そしたらあやのの手紙が入っていて。わたくし、昔、あやのと呼ばれていたことがあったような気がします。それ、わたくしが書いたんじゃないかしら。子どもの頃に居た家から引き離されて。ここへ来てから手紙を書いていたような記憶があります」
 やはり、そうだったか。「違います。違います」咄嗟に否定した。「手紙は違います。あやのはいません。今、あやのは花びらになって壺から出てきたのだから。手紙なんて――」
「蓮二朗さん、ごめんね。わたくし、子どものころ蓮二朗さんを置き去りにして」
「おくさま、何を仰っているのですか。あやのは、もう、いないのです!」

 翌日、蓮二朗は割れた壺の欠片を楓の傍の地面に埋めた。霊魂になってしまったあやのの骨を埋めるようだった。中西に連絡をし、赤い薔薇の絵から手紙を取り出す件は終了するようにと伝えた。「中西さんにはご迷惑をお掛けしました。もうあのセラピストのところには行かないでください。手紙のことはもういいのです。ほんとうにもう、行かないでください!」》

つづく。

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