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解読 ボウヤ書店の使命 ㉕-39

長編小説『路地裏の花屋』読み直しつづき。

《翌日。午前の打合せを終え、アシスタントの純と昼食の支度を始めた時のこと。
 純が鍋の中に素麺をぱらぱらと投げ入れると、ぐつぐつと煮えていた湯が一瞬おとなしくなった。再びぐらぐらと煮立ったところで差し水をして、鍋底から麺が吹き上がったところで火を止め、一気に流し台に置いたザルにあけている。小麦の匂いを含んだ湯気がうわっと立ち上り、沸騰した湯の熱でステンレスがボンと音を立てると、ザルの素麺に水道水を掛けて一気に冷やす。純が手際よく行っている横で、奈々子は浅葱と茗荷を刻み、それぞれを小皿に取り分けていた。
 隣の部屋の電話が鳴り始め、二人とも手が濡れていたので顔を見合わせた。どちらが出るかと迷っていると、純が流し台の下に掛けてあるタオルで手を拭く。
「お水出しっぱなしにするので、溢れないように見ておいてくださいね」
 電話の方に駆け寄り受話器を手に取り、「お待たせいたしました。クリスタルカウンセリングルームでございます」やや高くよそ行きの声を出している。「木花さまですか」奈々子の方をちらりと見る。奈々子もまな板から顔を上げて純の方を見た。
「替わるわ。待ってもらって」
 奈々子は急いで手を洗いタオルに手を伸ばした。
 受話器を受け取り電話に出ると、確かに蓮二朗の声だった。一年前にカウンセリングに訪れた時に初めて耳にした声、そしてハーキマーダイヤモンドを持って訪れた時にも聞き、最後にトンボ棚に設置しておきますと電話連絡した時にも聞いて、全部で三回聞いただけではあったが、その嗄れ声は独特の響きがあり一年経っても忘れることはなかった。
 電話の内容は、昨日奈々子の方から「自動的に解約となりましたがガラス細工と石をどうしますか」と留守番電話に要件を残しておいたことへの返答だった。蓮二朗は「あれは差し上げます」と言う。
「でもハーキマーダイヤモンドは高価なものでしょう? お返しいたします」
 奈々子はネットで価格を調べたのだった。正確にはわからないけれど預かっている石の大きさからすると、少なくとも二万円はするだろうと推測できた。
「差し上げるなんて言うと、却って御迷惑なのでしょうか」
 蓮二朗の嗄れ声がさらに曇った。「石はともかく、もうその悩みを肩代わりしてくれたガラス細工は手元に置きたくないのです」勢いよく鼻で息を吸い込む音がする。
 奈々子は戸惑った。そもそもガラス細工を受け取りたくないと申し出る人は多いし、だからこそ月に一回棚を整理してクレンジングし再利用の準備をする時間を設けているのだが、今回は少々訳が違う。返したいのはハーキマーダイヤモンドという石の方であり、奈々子の方ではガラス細工と見分けがつかなくなってしまったから、出来れば両方とも返却したいのだった。仕方がないので正直に、
「ハーキマーダイヤモンドの方だけでもお返ししたいのですけれど、実は見分けがつかなくなってしまいまして」
 恐縮しつつ説明すると、蓮二朗は溌剌とした笑い声を立て、まさか、と言う。
「ハーキマーダイヤモンドをお渡しした時、少しでしたがハーキマーダイヤモンドの方にはインクルージョンがありました。小さな気泡が見られましたでしょう? クリスタルガラスには現れないものだと申し上げたと思いますが」
「あの時はそうでしたが、今見ると、それが、どちらもクリスタルガラスのように透明になっていて見分けがつきません」
「そんなことありますか。まさか、ほんとに悩みが浄化して、石の方の気泡もぶくぶくと大気中に消え去ったとでも仰りたいのですか」
 茶化すように笑う。「でも、悩みの情報を書き込むのは確かクリスタルガラスの方でしたよね――」一瞬笑うのをやめ、「石の方が浄化されてインクルージョンが消えたなんて、実にけったいなことを仰る」また茶化すような口調だ。
「でも本当に気泡は消えていて」
「でしたら、光に透かしてごらんなさい。お渡ししたものは全体に淡いブルーのような色味になりますから、それがハーキマーダイヤモンドですよ。特注で作って頂いたガラス細工の方は一度も拝見しておりませんから何とも申し上げられませんけれども、石とガラスの見分けがつかなくなるなどということはあり得ません。まあ、しかし写真も何も要らないから、そちらで保管してもらえればいいと言ったのは私の方ですし、よくわからなくなってしまったのも仕方ないけれど――」
 そんなことあるだろうか、と言いたげだった。
「お写真をお送りしておけばよかったですわ。私無造作に二つを箱に入れてしまって」
 奈々子は反省する。細かく悩みを聞かなかったせいか、少し事務的に処理してしまったのだ。「とにかく一度見て頂きたいです。お時間がありましたら足をお運びいただけないでしょうか。それまで棚に入れておきますので」
 蓮二朗が「それならばもう一年継続する」と言い、それに対して、こちらの不手際だから料金は要りませんと奈々子が断わると、蓮二朗は「では後日改めて連絡する」と言って電話は切られた。

 奈々子はしばらく受話器を見つめてから、ふうと息を吐き出した。「困ったものだわ」充電器に戻す。
 台所のテーブルには昼食の支度がすっかり出来上がっていた。硝子の鉢に素麺が山の形にこんもりと盛ってあり、器の際には氷が乗せられている。純らしいやり方だなと思った。シンプルでも細やかな気づかいがある。蕎麦猪口には麺つゆが注がれており、そこにもやはり氷が一つ入って小皿の薬味も横に添えられている。
 台所には冷房がなく壁に吊られた扇風機が回っているだけだったが、開けた窓から風が入るせいか、八月だというのにそれほど暑くはなかった。背筋を伸ばして椅子に座ったまま箸を付けずに待っている純に、「お待たせしちゃったね」と言ってテーブルに着き、二人で「頂きます」と手を合わせてから箸を取った。
「午前中に仰っていた、ハーキマーダイヤモンドとガラスの見分けがつかなくなった件ですか」
 純が箸で素麺を掬い取りつゆに浸しながら言う。奈々子は薬味を蕎麦猪口に入れていた。
「そうなの。面倒なことにはならないとは思うけれど、最初からちょっと厄介な雰囲気だったわ」
「厄介って?」
 純は麺を啜りながら目だけ動かし奈々子を見つめた。麺が口に入っているのでもごもごした口調だ。
「だって、木花さんはカウンセリングを依頼しておきながら、悩みは話したくない、クリスタルガラスはモチーフと一緒に箱に入れてくれないと困るって、どれもこれもルールからはみ出したことばかり」
 遠くを見つめて話す奈々子の箸先から、蕎麦猪口の中につゆがぽたんと落ちる。
「その方が来られたのは、駄々をこねてはみ出すことが目的だったんじゃありません?」
 純は冷やかすように口元をとがらせて笑いながら、次の素麺を取り蕎麦猪口のつゆに浸している。「はみ出す人が近付いてくるということは、きっと先生の方に転機が来たんですよ。むしろ今までそんなクライアントがいなかった方がおかしいのかもしれないけれど。よい転機ってそんな風に厄介ごとを装ってやってくることがあるって、先生、いつも仰ってるじゃないですか」
 ずずっと音を立てて麺を吸い込んだ。噛まずに飲み込んでいるように見える。奈々子の方はやっと箸先を唇に挟んでつゆを舐めたところで、
「そうだったかしら。私そんなこと言うかしら」
 蕎麦猪口の中に浮かんでいる茗荷を箸で摘んで口に入れる。「だけど、私、四捨五入したら還暦よ。今さら転機なんてある?」あるわけないと思うけれど。
「何を仰ってるんですか。人間死ぬまで変容のチャンスが訪れるものだって、それも先生の口癖ですよ」
 純は麺をごくりと飲み込み、もう呆れたというように奈々子の目をまっすぐに見た。
 奈々子は純の色白の顔を見つめる。彼女はまだ三十にもならない。それなのに、こんな田舎に自力で一軒家を借り、陶芸の工房に改築し、一人で焼き物を作り続けている。近くに越してきたと言ってあいさつに来た時は化粧もせず、まだ中学生のようにあどけない表情をしていたので、こんな子どもが家を借りて独り暮らしをするのかと驚かされたものだった。その時「高校を卒業してすぐに京都の陶芸家に弟子入りして学び、五年の修行期間を終えたから独立したのです」と言った。すぐに仲良くなって、なんとなくの成り行きでカウンセリングルームのアシスタントをお願いすることになったが、この収入がなければどうやって暮らしたのだろうと思うほどの無計画ぶりに見えた。農協の主催するイベントや道の駅に作品を出したところで生活費の足しになるような稼ぎはなさそうにも思える。純は財産家の娘なの? と聞いてみたこともあったけれど、いいえ、ときっぱり。「もちろん奈々子先生に感謝はしているけれど、ここでのアシスタントの仕事がなければ別の仕事が舞い込んだはずだから心配ないのです」と言った。「そういう運のいい星回りなのだ」と。確かに純のアシスタントとしての仕事ぶりを見れば、他でもアルバイトとして郵便局の種分けとか軽トラックでの野菜の配達とか、その気になればなんだってやれそうには思う。奈々子からすると、それは彼女の言う運のいい星回りよりも、行動力、磨かれた能力だろうと考えられた。多少化粧らしきものをするようにはなったけれど、服装の方はいつもTシャツとGパン、冬になればそれにセーターが加わる程度でいわゆる若い女性がする流行のファッションには興味がなさそうだったから、その分、起きて顔を洗えばすくに働ける身軽さも行動力に味方しているのだろう。年に何か月かは修行と称してどこかに出かけるが、それ以外はひたすら焼き物を焼いては壊し、気に入れば売りに出して手放し、合間に奈々子のカウンセリングルームの掃除やファイル整理の手伝いもこなしている。
「そうね。人間、いつ転機が訪れてもおかしくはないわよね」
 奈々子は口に入れたままだった茗荷を噛んだ。きゅんとした香りが口に広がる。
「そうですよ。先生、そういうの、医者の不用心って言うんじゃありません? 紺屋の白袴かな? クライアントのことはよくわかっても、ご自身のことになるとよくわからないなんて」
 そう言うと、純は立ち上がって冷蔵庫から冷えた麦茶の瓶を取り出した。テーブルに置いていた二つのグラスに注ぎ、一つは奈々子の前に置き、一つは立ったまま手に持ってひといきに飲み干した。「さあ、私は行かなくちゃ。午後に来られることになっているクライアントさんのカルテはデスクの上に出しておきました。スケジュールを見ると今日が三回目ですね。私は工房で一仕事してから夕方にまた来ます。今夜は満月だから定例の浄化の日でしたよね。そうだ、先日ちょっと気に入った酒器が焼けたから、お持ちします。農協のトモ君に地酒を頂いたからそれで一緒に飲んでみたいし、おつまみも調達してきます」
 食べ終えた器を流し台に運び、手早く洗って布巾で水気を拭き取り食器棚に仕舞うと、もう布製のショルダーバッグを斜め掛けにして、ではまた、と出て行ってしまった。奈々子はまだ茗荷を齧っただけだというのに、なんて素早いのだろうと驚いてしまう。まるで風のようだ。開けた窓の方から自転車のスタンドをガチャンと外す音がする。舗装していない道を純の自転車がじりじりと発進するのが聞こえそうだった。》

つづく。

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