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解読 ボウヤ書店の使命 ㉕-33

長編小説『路地裏の花屋』読み直しつづき。

《奈々子のヒーリングルームに行く日、雨が降っていた。雲がそれほど厚くないのか空は白く擦り硝子色に光っていたが、アスファルトをしっとりと濡らしているところを見ると、気まぐれに落ちてきた雨ではないようだった。夜明け前から降り出したのか。風もなくたらたらと降り落ちるので、これから半日くらいは続きそうに思えた。なるほど『過去の不要なお話』を語らなければいけない日にぴったりの天候だ。もちろん『過去の不要な話』は捏造するつもり。こんな天気なら、辛さや悲しさを演出するには丁度いいだろう。奈々子の方にしてみれば、クライアントを徹底的に洗浄するのにぴったりの空模様だと思うだろうか。
 電車を降りてタクシーに乗り込み、奈々子から郵便で届けられた地図を見ながら「国道沿いの美術館近くまで行くように」と頼んだ。窓に雨の雫がぽたりと落ちてはつうと流れていく。まっすぐに伸びる国道の両端には人工林が続き、美術館横を脇道に入って行くと鬱蒼とした自然林になっていった。そこからは道も細く蛇行する。運転手がこの先はどうするのかと聞くので、そこからは貯水池を目指して行き、傍にある養老センターの駐車場で停めてくださいと答えた。
「お客さん、お見舞いですか。それとも――」
 運転手はミラー越しにこちらをちらっと見る。「あそこに入っていらっしゃるの?」
 あそこと言われて一瞬どこかわからなかった。黙っていると、
「そんなわけないか。施設の人はかなりの高齢者ばかりだから一人でタクシーに乗ったりしないか。じゃあ、やっぱりお見舞い?」
 なるほど、あそことは養老センターのことかと分かる。
「その施設ではなくて、近くにあるヒーリングルームに用事がありましてね」
「ヒーリングルーム? 一度だけそういうのに行った事ありますよ。この辺りのものじゃないですけどね。カミさんの友達が施術者になる訓練を受けていて、練習台になってやってくれと言われてね」
 ミラーでちらちらとこちらを見ている。「なんだか眠くなるような音楽かけて、呼吸をどうのこうのと言う」
「何か効果があったんですか」
 運転手は左手を上げて、いやいや、と振った。
「一回じゃよくわからない」
 そもそも自分には悩みなどないことや、カミさんには頭が上がらないから仕方なく引き受けたことを語り、二度と行こうとは思わないと言って、一度でも行ったことを後悔しているかのようだった。
「結局その方は施術者として働いておられるのですか」
 聞くと、運転手は顔を横に振った。「練習中で無料の間にはみんな行くけど、一回数万円とか言い始めるとなかなかねえ。でも、まあ、その仕事をしてみようと考えて学校に通っているうちにその人自身の問題が解決したそうで、解決してしまったら他人の問題にも興味がもてなくなって、やーめたってことらしい」肩を上げて笑っている。「それでいいんじゃないですか。迷うことは誰でもありますからね」
「いつまでもその仕事を続けていられる人というのは、ご本人の方に解決できていない問題ってのがあるのですかねえ」
 蓮二朗が言うと、運転手はうなずきもしなかったし、また、わからないとも言わなかった。何も語ろうとはしなかったので、蓮二朗の方でもそれ以上話を続けるのが面倒になって、曇ってよく見えない窓の外を眺めながら、佐々木の言った言葉を再び思い出していた。
 奈々子は「一度会ったら忘れられなくなる女」だと言う。行かない方が安全なのだろうか。この運転手の沈黙も裏を返せばヒーリングというものはなんらかの危険をはらんでいるとでも言いたいのかもしれない。だけど、蓮二朗としても、心の中に解決できない問題をはらんでいる女性ならば興味を持てないことはない。水晶のインクルージョンみたいなものだ。それでやっと色が出る。
 養老センターの建物が見えてきた頃、佐々木に報告するのを忘れていることを思い出した。奈々子のところに行く日には前もって連絡しろよと言われていたのだった。まあ事後報告でいいだろう。先に言ったりしたら、ああしろこうしろといろんなことを指定してくるに違いない。服装まで指示されそうだ。ふん、教えてやるもんか。後で行ってきました、素敵な女性でしたよ、とだけ言って悔しがらせてやろう。そこで蓮二朗は、少し気分が華やいでいる自分に気付いた。ワイパーで弾く雨の雫には光が混じっている。
「着きましたよ」運転手がメーターを止めてサイドブレーキを引く。「お気を付けて」
 手のひらを包むようにしてお釣りを渡してくれながら、蓮二朗を見てにやりと笑った。


 入り口に現われた奈々子はラベンダー色のシャツワンピースを着ていた。ユニフォームだろうか。シンプルなデザインが細身の身体によく似合っている。ここまで似合ってしまうと他の服は着られなくなりそうだ。襟元からオレンジ色の石が着いたペンダントを覗かせていた。なんだ、不要なものを消去するなどと言っておいて、自分こそ不要なものを着けているじゃないか。密かに思う。
「綺麗な石ですね」蓮二朗は挨拶を済ませた後、ペンダントを指して真っ先に言った。こちらからも不要と思われるものを指摘する意気込みだった。「見たことのない色です」
「オレンジカルサイトです。今日は雨降りですから」
 微かに笑顔を見せた。やはり電話で聞いた柔らかな声質だった。声帯の壁をそれほど強くこすらず、聞き取りにくい訳ではないがボサノバを歌うように半ば囁いているような話し方だった。こちらの脳の芯が抜かれるような感覚がする。
「雨降りの日に効果のある石ですか?」
「効果というほどのことでもありませんけれど――」
 奈々子はそこで言葉を切る。
 ありませんけれど、の続きは何かね? 何か言うだろうかと待っても、彼女は何も言わずにこちらをじっと見る。
「太陽の色ですかな。こんな雨の日に、雲に隠れているはずの。そんな感じの色ですね」
 思わずこちらから言ってしまう。
「そうですね、雲に隠れているはず」
 幼い子供が欲しかったおもちゃの入った箱を開けたような顔をして笑った。雨だから太陽が欲しかったとでも言うのか? それにしても奈々子の嫌に無邪気な笑顔はなんだろう。我々は対面したばかりでしょう? 無防備なのだろうか、それとも、早くも作り笑いなのか。いやいや、なるほど、そうか、これが中西の女か、と思う。なんとなくあの男の笑い方に似ているような気もする。中西とは違って目鼻立ちにさほど特徴はなく、年上だと聞いたのだからもう五十代だろう。やはりはち切れるような若さはない。だけど、首元から何度も洗われてしまったような清潔感が漂っている。花屋近くの寺で棺桶に入ってしまった人間の姿を何回か見たことがあるが、それに似た奇妙な静謐さがある。今にも生き物の匂いが抜けてしまいそうな際に在るものだ。このヒーリングルームにやってくるクライアントの不要なものを取り除いてやっているうちに本人も洗浄されてしまったのだろうか。さっきの運転手の話からすると施術者としての訓練の段階で本人はほとんどの問題を手放してしまうと言うのだから、さらにそれを仕事にまですると洗いざらしのシーツみたいな人間になっていくのかもしれない。口紅の色も響子が付けるような濃いワイン色ではなく、ほとんど何も付けていないかのように見える淡いピンクだった。実際には匂わないけれど、イメージとして、石鹸の匂いでも漂いそうだ。
 診察室のような部屋に案内されると、実際、室内にはヒノキの香りが満ちていた。石鹸の香りではないが汚れをたちどころに消してしまいそうな空気だった。いい香りですね、と言うと、いつもアロマオイルを炊いているのだと言う。樹木の香りは気持ちを落ち着かせてくれるからと。
「こんな森の中にある建物なのに、さらに、リラックス効果を求めてそのアロマとやらを焚くのですか」
 蓮二朗は大きく息を吸い込む。
「森の中にいることを忘れないようにするためです」
 奈々子はデスクの上に置いてある小さな瓶を取った。「森の中に居る人間の方が、そこが森であることを忘れやすいものだから」瓶の蓋を取って、瓶の横に置いてあった小さな皿の中に一滴垂らした。「森であることそのものよりも、どこにいるのかを忘れないこと」

 アロマを一滴垂らしたために、病院の診察室にも思える部屋の中は、新築の家の香りとなった。
 部屋には窓が三方面に一つずつあり、どの窓からもイギリス庭園風の中庭が見渡せ、その向こうには様々な種類の樹木を養っている見事な森があり、ヒーリングルームをすっぽりと包み込んでいる。とすると、ここはその内奥か。窓のひとつは隙間を開けてあり、雨粒を受けて揺れている樹木の葉の間を通ってきた風を、どうにか細く迎え入れていた。扉は入り口以外に中庭に続くものと、中庭の横にはみ出している別室に続くものがある。
「それではセッションの準備を始めましょうか」
 奈々子は話を切り替え、流れを説明した。
 まずは質問紙に解答し、大きな疾患の有無を確認し、その後、ヒーリング後の状態に関しての自己責任に関する同意に署名する。ここでの目的は心の健康状態を回復することにあり、何らかの願望実現や疾患の治癒ではないことを再確認した。奈々子の考える心の健康というのは、どこにもわだかまりのないことであり、過去のことをくよくよ悩んだり未来のことを思いわずらったりしないことらしい。また、奈々子は守秘義務を負い、家族などの近親者にもその内容を漏らしたりしないと誓った。
 蓮二朗が質問紙への記述を終えると、
「一言で言えば、手放したいと思われる感情を、一緒に探していくことになります」
 奈々子はその紙を確認しながら言う「あら? 手放したい感情は――、ないのところに丸が付いていますね」眉をひそめつつも、蓮二朗の方に笑顔を向ける。
「だめですか」
 それを一緒に探すのだろう? ないならば、さてどうするかな。
「意外でした」
「普通はあるからここに来るのでしょうね」
 佐々木に頼まれて、偵察の為に来たとは言えない。
「いえ、半分くらいの方はこのように、ない、のところに丸を付けられます」
「だったら、意外でもなんでもないでしょう?」
 私のことを普通ではないと言いたいのだろうか。自尊心を叩き潰そうとして? 「話したいことはあります。でもそのことを手放したいとは思いません」
 奈々子はそれには何も答えず、質問紙をファイルに挟みながら説明の続きをする。
「何度かセッションを繰り返した後、手放した方がいいと思う感情の中で、どうしても手放せない感情がもしも残ってしまったら、こちらでそれをお引き受けして保管することになります。その時にクリスタルガラスを購入していただきます。それを感情と見立ててお預かりし、保管する場所の賃貸料をお支払頂くのです。もちろん、その必要がなければ数回のセッションで終わりですし、クリスタルガラスが効果を発揮して問題が無くなればクリスタルガラスはお返しします。要らなければ処分も引き受けます。では移動しましょう」》

つづく。

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