見出し画像

長編小説 コルヌコピア 7

二章 夢の形象

2 形象が引き寄せるもの

 職業人としてのアーティスト養成プログラム。
 チェルナは気付いたらその真っ只中に居た。
 海沿いの宿舎とアトリエの傍には漁港や果樹園があり、チェルナが想像していたよりは世間と切り離されていない。数時間は海産物や果物を箱詰めする作業を担当することになるが、それ以外は自由制作の日々が続いていた。
 
 *

プログラムが始まってひと月――。 

港に近いアトリエは微かに潮の香りがする。部屋の真ん中に大きなテーブルがいくつもあり、早朝だというのに数人のアーティストがそれぞれの作品に関する設計書や試作品を手掛けている。海側の広い窓からは朝日が射し込み、彼らの横顔を誇らしげに照らしていた。

 キュレーターである内田アユラは昨日到着したばかりだったが、朝食を済ませるとすぐに活動を始めた。受講生が住んでいる宿舎、アトリエ、アーティストたちがモチーフを探すことになる果樹園横の森、オプションとして設けられた島旅の時に利用する船着き場など、短時間で全てを把握しなければならない。
 アユラはフリーで始めた店舗のディスプレイや、民間ギャラリーのキュレーションの仕事を始めてから調子がいい。自分でも予測してはいなかった才能があるのか、それほど経験がないにも関わらずとんとん拍子で認められ、いつでも途切れることなく依頼がくる。
 今回の養成プログラムでは、そこで作られた作品をひとつの展覧会にまとめ上げる役目が与えられたのだが、これも民間の美術館での仕事が終了すると同時に舞い込んだ。

 ――アートに関して天賦の才能があった? 

 いや、そうではないと自身ではわかっている。
 この仕事に就く前に不動産の営業部門で働いていたことがあり、そこでの修行も役に立ったらしく、誰とでもテキパキと話すことが得意だからだ。アーティストと作品、それを扱いたい店舗の間をつなぐコミュニケーションが他の人よりわずかに卓越しているだけだ。
 それでも、今回の仕事は長期スパンでアーティストたちと交流し、芸術面においても相談役となりながら進めるのだからこれまでとはステージが違う。この仕事を確実に成功させること。それが自身のアート業界における地位を引き上げ、そのことを多くの人にも知ってもらい、新たな肩書として書き加えることができるはずだと考えていた。

 アトリエのテーブルで制作をしているアーティストひとりひとりにアユラは笑顔で声を掛けて回り、自己紹介し、これから共に進んでいくことを告げ、それがひと通り終わると、宿舎の見学に向かった。
 部屋を出ようとした時、入り口に近い隅で、一人の女性が個別のデスクを使って静かに制作をしているのに気付いた。さっぱりとしたショートヘア。目尻にわずかな皺がある。窓から射し込む光が作品の一部を穏やかに照らし出している。
 彼女にはまだ声を掛けていなかった。
 ひたむきに制作している姿を見ると、ふいに話しかけるのも躊躇われたが、そっと傍まで歩いて行き、
「何を創っていらっしゃるの?」
 思い切って声を掛けた。
 声を掛けるチャンスがあれば、すぐにそうする。どんな場合でも、一度でもチャンスを逃すと、その時に起きるはずだった幸運を逃すとの信条がある。
 女性は顔を上げ、
「嘴です」
 手を止めてアユラをまっすぐに見た。
「何の?」
「もちろん、鳥の」
 女性が真顔で答えたので、思わずくすりと笑ってしまう。嘴なのだから、鳥だとはわかっているのに。
「つまり、どんな鳥? 鳩とか、カラスとか、鳳凰でもいいけれど」
「わかりません。昔見た、鳥の」
 アユラが笑ったにも関わらず、女性はひとひらの笑顔も見せなかった。
「私は内田アユラと言います。今回のプログラムのキュレーションや、受講生の相談役として派遣されました」
 そう言うと、気難しそうな女性は小さくうなずき、
「私は月尾チェルナと言います。変わった名前ですけど」
 一度少し眼を伏せ、それから再びアユラの顔を見上げた。
「私だってそう、アユラなんて、変わった名前でしょう?」
 目の前の女性の心をほぐそうとできるだけ明るい調子で言い、
「素敵な嘴だと思う」
 と付け足した。
 実際、チェルナの作っている嘴は綺麗だった。半透明で、ホイップクリームのように先がつんと尖っている。
「嘴って、つつかれると怖いし、もしも嘴だけ落ちていたら不気味だし、貝殻や甲羅のように物質的なのになんだか器用に動くから、とても不思議だと思います」
 チェルナは無表情なままで答えた。「ここ一か月、ここでこればかり作っていて、初めてそのことに気付きました。たくさん作ってみて――」
「他の作品は?」
「宿舎の方に持って行きました」
「へえ、よかったら、見せてもらえないかしら。もしよければ今から宿舎の方に行って」
 もちろんは図々しい申し出だとわかっていた。作家が集中して製作している時に、そんなことを頼むべきでないのかもしれない。それでも、やはり「チャンスは一度逃すと同じ幸運は戻ってこない」の信条で、そう言ってみたのだ。
「いいですよ」
 チェルナが少し微笑んだので、アユラはこの申し出は成功したのだと感じた。

 二人でアトリエを出ると街角にある児童公園ほどの大きさの庭があり、樫の木の下にテーブルセットが設置されている窪地の横から、ほどよく蛇行する小道を通って宿舎へと向かう。菫やイヌノフグリがところどころに咲いて、蜜蜂が二人の間を縫うように飛び去った。
「アユラさんもこれから宿舎にお住まいになるの?」
 デニムを履き、Tシャツの上にコーデュロイのシャツを羽織ったチェルナは慣れた調子で道の途中にある石をひょいと避けた。
「住むことはしません。自宅と行ったり来たりの予定」
 アユラは自身のパンツスーツが自然豊かなこの場所では全く似合わないことに気付いて恥ずかしかった。
「ここにくる人たちはアートに特別な思いを持っている人が多いようだけど、アユラさんもそう?」
「私はみなさんのように志願してここに来たわけではなく、仕事としての依頼を受けただけなの。アーティストでもないし。でもアート関連のことをしているから、それなりの情熱はあるわよ」
 口角を上げて微笑んで見せた。
「そっか。アユラさんはここでは何かを作ったりするわけじゃないのね」
 チェルナは宿舎の重いドアを引っ張った。
「私の作品があるとすれば、みなさんの作品をどのようにひとつの文脈にまとめて展示するか、ということかしら」
 アユラもチェルナに続いて宿舎の中に入る。センサーが反応して蛍光灯が灯った。コンクリートの壁にリノリウムの床。グレーの冷たい空気が廊下を満たし切っていた。
 宿舎は二棟に分かれていて全て個室。シャワールームとトイレは共有だが、小さな簡易キッチンは個別に用意されている。チェルナの部屋は二階の奥で、「エレベータがないから荷物を運ぶのが大変だけれど、一度部屋にこもってしまえば他の住人の歩く音が聞こえないから静かでいい」らしい。グレーのペンキを塗った重い鉄製のドアを開けると、簡素なベッドとデスクと小さなクローゼット、そして窓際にはチェルナ自身が用意したらしい木製の飾り棚があり、嘴を模した作品が四つ並んでいた。
「一か月で、もう四つも作ったの?」
 アユラは心底驚いた。木を削って艶出しを施した工芸品のようなもの、石膏に彫刻をしたもの、琥珀色の薄い蝋で象ったもの、折り紙細工で風船のようにしたてたもの。
「全て試作品のようなものだわ」
 アトリエで見せた無表情に戻り、チェルナは琥珀色の嘴を手に持って見せた。「これから試作品をたくさん作ろうと思って」
「果てしなくこれを作るの?」
「わからない。とにかく満足するまでやるつもり」
 アユラはチェルナの横顔を見て、少しクレイジーだなと思った。それほど若くない肌。化粧気はなく、髪は後ろで無造作に結び、ところどころに白髪が混じっている。それなのに、何か獰猛さをさえ感じさせる瞳。この年齢で何を求めてここに来たのだろう。部屋では特殊な花の香りが充満して、どうやら、それはチェルナ自身が付けている香水のものらしい。蜂蜜とクチナシの混ざった鼻の奥につんとくる香りだ。

 ――香るドライフラワーか。

 アユラはチェルナに対してあまり親切とはいえない感想を心の中に抱きつつも、どこか思い詰めた風合いのある嘴の作品に魅かれていることを否定できなかった。

 宿舎まで案内してくれたチェルナと別れた後、アユラはその辺りの町や森、港を見て回った。プログラム生たちが無意識に吸収することになるモチーフをスマートフォンで撮影し、自身が統合する場合の文脈の骨となるものを探すつもりだった。
 三月になったばかりで、花曇りの気配が漂う森や船着き場は、どこか焦点の定まらないもどかしさに包まれていた。それ自体、今回のプログラムに合わないことはない。むしろぴったりだ。それこそが大事なコンセプトなのかもしれないと、思い付いたことはすぐにメモを取り、鳥の声や風の音、港に停泊する船の底を洗う波音も動画と共に保存した。
 チェルナが創ろうとしていた鳥の嘴はこの辺りを飛ぶ海鴎のものでもあるだろう。彼女が「満足するまで試作品を作り続けたい」と言った言葉をノートに書いておいた。
 試作品? だとすると本作品はどんなものを想定しているのか。
 アユラは想起する言葉を懸命にメモに書き取っていたが、ふと、その手を止めた。時々見る鳥に関する悪夢を思い出したのだ。友人の飼っていた白いインコが手のひらの上で死んでしまう夢だ。夢の中でインコはいつまでも生暖かく、ぴくりとも動かない。
 子供の頃にアユラが友人のインコを誤って逃がしてしまったのは事実で、その時に友人が言った「そんなことをしてしまったら、野生では生きられず死んでしまう」の文言が呪いのように記憶に残ったらしく、いつまでも悪夢として繰り返されていた。
 チェルナが今回の製作物が鳥の嘴だと言ったその瞬間には、その夢のことを考えなかった。仕事モードだったから。でも、何かあの嘴作品に魅かれたのは、心にある暗い染みを見透かされた気がしたからかもしれない。こうして、港湾を並走する国道沿いで海鴎の鳴く声を聞いていると、脳の中でいったん蓋をされていた穴がぱっくりと開いたかのように悪夢が思い出されて、いつまでも追いかけてくるトラウマティックな鳥の印象が悩ましかった。

 ――月尾チェルナさん。何か縁があるのかしら。

 気分を変えようと、道の途中で見つけた古びた喫茶店に入り、卵トーストと珈琲を頼んだ。
 朝早くから精力的に動いたせいで、すでに一日中働いた後の充実感があったが、時計を見るとまだ午後1時を過ぎたばかり。これならわざわざ宿舎に泊まることもないかと考え、ここで切り上げ、自宅マンションに戻り今後の計画書を書き上げてしまおうと決めた。
 テーブルに届けられた料理を味わう暇もなく、一口噛んでは珈琲で流し込む。

 キュレータの仕事をするようになってわかったのは、アート作品に触れたり、それに関する風景を見たりすることで湧き上がってくる言葉はその都度細かく書き留めて、すぐに文脈を繋ぎ合わせておかないと忘れてしまうことだ。
 もしもアートを自身の滋養にするだけであれば、細かく立ち上がる言葉など忘れてしまった方がいいのかもしれない。おそらく、むしろ言葉にしない方が無意識領域に浸透する。でも、職業として他者にその感覚を伝える立場であれば、消え去る前にひとつひとつ書き取って、その時感じた意味を保存しておかなければいけない。
 さらに仕事で気付いたのは、こうやって書き留めて構築した言葉を喜ぶのは新人の作家だけで、ある程度のポジションを得た作家にとっては鬱陶しいだけであること。もはや言葉で作品の意味など切り取られたくないと考えるのが成功者としてのアーティストではないか。多くの場合、まずは「心を打たれた」とか、「言葉にしようがない」といった言い方をして、感動は言葉以上のものであると伝えなければ、その後の話はさせてもらえない。
 実際には新人作家だってそう感じているのかもしれないが、滅多に口に出しては言わない。世に出るためにはアユラのような作品を取り上げる位置にいる人間の言葉を聞いて「そう言ってもらえると嬉しいです」と喜んで見せるのが、彼らのひとつのテクニック、処世術なのだろう。
 だとすると、全てのやり取りが少し寒々しい気もするが、こちらも円滑に物事を運ばなければ仕事にはならない。作家のためでもなく、アユラ自身の自己実現のためでもなく、アートそのものや、アートにあまり接触しない人々に向けてのエントランスとして、この仕事をすると決めていた。

 最後のひとくちを噛み砕いて飲み込み、急いでレジで支払いを済ませ、走るように喫茶店を出てプログラム生の集うアトリエに戻ると、さっそくコインロッカーに仕舞った荷物を取り出して帰る支度をした。
 見ると、チェルナは最初に見た時と同じアトリエの隅で相変わらず嘴の続きを作っている。
 室内にはすっかり人が増え、もはやひとりひとりと会話するわけにもいかなかったが、これからキュレータ兼相談員として関わるのだと、可能な範囲で伝えながら通路を歩き、それが終わったらチェルナにも軽く目配せをし、早々に建物を出てタクシーを拾った。

(二章 了)

#連載長編小説
#コルヌコピア



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?