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解読 ボウヤ書店の使命 ㉕-47

長編小説『路地裏の花屋』

《十二章

 中西は胸に赤い薔薇を抱えたまま、蓮二朗の離れ屋へと向かう運河の近くをふらふらと歩いていた。空は抜けるように青い。どういうわけか、いつから歩いているのだろうと考えても思い出せなかった。歩きながら、それと同時に、長い夢を見ているようだった。
 途中で歩道から運河の側道に降り、そこにあるベンチに座って、セカンドバッグからメモ帳を取り出した。何を書き留めていたのだったか。そうだ、蓮二朗からの依頼の件だ。ユミカのサロンに潜入する頃からの日記だった。

『メモ。十月九日 蓮二朗からアロマセラピストの件はもういいと言われてしまいました。お金は約束の半分と実費だけですが振り込みますとやら。でも、もうやめられないな。』

 随分前に書いたものだった。なぜやめられない? 馬鹿だな。そうだ、ユミカはもう結婚するのだ。前回行った時、そう打ち明けられたのだった。ベンチに置いた真紅の薔薇はところどころで花びらが千切れて、むしろ満開のように見えた。数本はベンチから零れ落ちて足元の地面で散らばっている。
 見上げると空は青く雲は白い。ふと奈々子のことを思う。そう言えば、いつから彼女に会っていなかったのだろう。セカンドバッグから携帯電話を取り出し、奈々子の携帯に電話を掛けた。数回呼び出し音が鳴り、聞きなれた奈々子の声がした。
「もしもし。あら、中西さん。どうしたの」
「奈々子、しばらく留守にして悪かったね」
「いやだ、そんなこと言うなんて珍しいじゃない。どうしたの? 私は元気よ。あなたは?」
「元気だよ。特に用事はなかったのだけど――」声を絞り出す。
「あ、ごめんなさい。たった今クライアントさんが来られたみたい。窓際に置いていたハーキマーダイヤモンド覚えてる? あれを下さった方が来られたの。時々来られるのよ。親切にしてくださるの。ねえ、聞いてる?」
 ――そんなものあったかな。
「ああ、聞いてるよ。そうか。ごめん。仕事だったね」
「こちらこそ、せっかくお電話頂いたのに、ごめんなさい。じゃあ」
 あっさりと切れた。
 携帯電話を上着のポケットに入れると、薔薇の花束を抱えて立ち上がり、いつか尋ねた蓮二朗の離れ家へと向かった。どうやら右足を怪我したらしい。引きずっていくしかない。
 ようやく厳めしい門のあるお屋敷の前に辿り着き、蓮二朗と入ったあの通路の扉を探したがどうしても見つからなかった。どこかにあったはずなのに。相変わらず門は高く、背伸びをしても離れ家の屋根は見えない。通路があったはずの場所に扉はなく、代りに小さな排水溝があった。アスファルトの上に水の流れ出した跡があり、ずっと運河の方に向かって伸びている。もちろん、門の中に人はいるのだろう。
 突然、そこから蜥蜴がしゅるしゅると現われた。珍しいな。子どもの蜥蜴か。尻尾だけ青い。一匹。そして、もう一匹。排水溝の周りに生えだしている草の中に入り込み、その中で動くために草ががさごそと揺れる。一匹の蝶が舞い降りてきて二匹のいる草むらの周りをふわふわと飛び回った。まるで海月のように透明な蝶。草の色を映しては緑になり、コンクリートを映してはクリーム色になっている。見ていると、いつか夢でまとわりついた瑠璃色の蝶のことを思い出した。捕まえようかと思う。いや、あの日の夢のように、後でまとわりつかれたら嫌だ。そのまま目で追っていると、蝶は透き通った翅を大きく広げて舞い上がり、よく晴れた青空にシャボン玉のように溶けて見えなくなった。
 もう一度草むらを見ると、二匹の蜥蜴がじゃれ合うように絡み合って現われた後、一匹が再び排水溝の中に滑り込んで行き、もう一匹もその後を追って入って行った。そびえたつ門の向こう、見上げると枝ぶりも神々しい松の木だけが微かに見えている。
 中西は運河の方に振り返り、歩いて来た道を眺めた。すると、抱えていたはずの薔薇の花がところどころに落ちて、ずっと向こうから足下まで点々と続いているのが見えた。まるで血のようだな。苦笑する。血? そんな馬鹿なことがある訳はない。
 気付くと、右手に一輪だけ薔薇を握り締めていた。強く掴んで棘が刺さったらしく、手のひらには血が着いている。左手に持っていたメモ帳のページを千切ってそれを拭き取った。急に眩暈がして門の前に仰向けに倒れ込んだ。

十三章

■■■■ 《ツツジ色の傘》 ■■■■

十四章

 どれくらい眠っていたのだろう。仰向けだ。見ると手のひらは血だらけだった。初めて会った頃のユミカの髪の色だ。そして蓮二朗が求めた薔薇の色。
 見上げる空は青い。先程飛び去ったはずの蝶が真上を舞っている。何羽も、何羽も。こんなにたくさんいたのか。海月のいる海の底に沈んでいくようだった。
 そうか、終わったのか。蓮二朗に頼まれたものは何も見つけることは出来なかったけれど、とにかく終わったのだ。ミッションに成功しようと、そうでなかろうと。
 最後にメモを取ろうか。自嘲気味にメモの頁をめくると、先程拭いた血が見えた。ああ、これが最後のメモか。血だらけさ。血を見ていると急におかしくなってきて、メモ帳を持ったまま背中を丸くすると、笑いが込み上げてきた。何がおかしいのだろう。何がおかしいのかは分からなかったが、次第に声を上げて、止まるまで笑い続けた。
 笑い終わると、やっと今日から出直せるだろうと思い、ずるずると上半身を起こして座り、門を背もたれにして足を投げ出した。
「ああ、そうだった。メモを取るんだ」
 それまで握りしめていたメモ帳を開くと、投げ出されて転がっていたセカンドバッグからペンを取り出し、血のりで汚れた頁を避けて、虫の這うような字を書き込んでいった。

『メモ。四月九日 昨日、彼女の父親に敗北いたしました。カタギリトモヒロさんはここぞという時ぴしりとツモる。オーラスで親に張られてしまいました。大負け。泥酔。』

 親って奴には勝てないな。いや、待てよ。僕は負けたのか? それとも、店に行かなかった方が無言の愛の告白か。俺の勝ち? 面前一発、運よく放り込まれてぎりぎり奇跡の逆転ロン? しかしなんだ、胸、ほんとに痛い。胸を押さえた。「いいな。痛みがある」
 目を閉じ、静かに微笑み動けなくなる。
 遠くで、門の開く音を聞いた。
 どうにか薄く目を開けると、ツツジ色の傘が見えた。誰か助けに来てくれたのか。

蝶の舞5

《蝶ごときの長話に耳を傾けて頂きまして、誠にありがとうございました。私、自分でも正確な年数はわかりませんが、長い間、あの大通りを飛んで話を見聞き致しておりました。ほんとうに彼らと寝食を共にするかの如くして。あの頃は、一日が終わり夜になって誰かがベッドに潜り込み寝息を立て始めますと、いつでもそっとその額の上に止まりました。誰かの呼吸につられて私もうつらうつらと眠くなってゆき、必ず一緒に夢を見たのです。一夜の夢に導かれていく。もう夢だということも、私が蝶であることも忘れて、その人のものか私のものか見分けの付かない世界の中に吸い込まれていきました。
 今は元に戻って松の枝。誰も彼もこの根元で眠りに着いた。そうなったのがいつのことだか正確にはわかりません。だって私は蝶でございましょう? そんな緻密な計算など出来やしませんもの。
 今宵、私はそっと誰かの骨に止まって、静かにその夢を探ろうと思います。いえ、ひょっとすると、私が骨に夢を見せるのかもしれません。
 すると骨が温かく灯る。ぼおっと明るく。
 私たちの夢が歩き始める。それを見る。もう、誰のものか私のものか分からない、その人と私がぴったりとひとつになって溶けている、暖かくて深い、やがて生まれる出る濃紺の空の夢を。》

(了)》

了。

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