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解読 ボウヤ書店の使命 ㉕-外伝-3

長編小説『路地裏の花屋』の外伝『ツツジ色の傘』読み直しつづき。

《模糊庵自身が助けられたのは五十年以上前のこと。当時好きだった女性にふられたせいで酩酊していたのだった。酔っぱらうほどその女性を好きだったのかは今となっては思い出せないが、その時にはこの世の終わりとばかりに落胆して自宅で酒を煽った。もともと酒には強い方だが、酔ってしまいたいと思って飲むとむしろ頭が冴えてしまうのか、次から次へと飲み足しているうちに家に置いてあった一升瓶を空けてしまった。危うくウィスキーにも手を出しそうになった時、さすがにこのまま家で飲み続けているといつまでも終わりが来ないと感じて外に出ると、風は涼しく、今日はもういくら飲んでも酔うことは無理だろうと思いながら歩き始めたものの、冴え冴えとした頭の中に比して身体の方はすっかり酔いが回ってふらつき、既に一歩目から足を真っ直ぐには出せず、次に出した二歩目も歪んで、後は典型的な千鳥足の軌跡を描いた。そこでようやくどうやら既に深酔いしているらしいとわかり、本当に酔っぱらっている者ほど酔っちゃいないと言い張るのはこのことかと、酔っているわりには冷静にわが身を客観視して、人ごみを避けるように細い路地に入り込んでいった。
 その時も夕暮れで、陽が九割方落ち薄墨色が辺りを覆っていた。よたつきながら歩いていると、もあもあと集団で飛びながら襲撃して来る藪蚊を間違って吸い込みそうになったり、日中はどこかに留まっていただろう蝙蝠が大量に空を巡りながらどこかへと向かうのを見たり、路地を横切る野良猫とすれ違ったりした記憶はあるが、どこをどう歩いたのかわからないまま運河のほとりに出た。僅かに残っていた太陽が水路のずっと遠くに鼈甲飴のような光を滲ませて、そこを数羽の水鳥が悠然と泳いでおり、おや、こんな場所があったのかと目をこすった。地図で家の近くに運河のあることは知っていたけれど、そう言えば目の前に見たのはその時が初めてだった。元来の模糊庵はどちらかと言えばからりと乾いた性質のものが好きで、水辺の類はたとえ浅くても底にぬるぬるしたものがありそうで近寄りがたく、好んで川べりの歩道を歩こうとは思わずなるべく避けてきたのだったが、その酔っぱらっている時にはむしろ、流れるでもなく寡黙に淀んでいる水辺が心に沿うように思えた。
 そこで沿道に降りてふらふらしながらも一歩ずつ歩を進めていると、まもなく陽は落ちすっかり暗闇に沈んでしまった。そうなると街灯や家の明かりを映し込む水面は雨の日の道路のようで、酩酊しながら見れば尚のこと、歩いている道と水路に隔たりがなく融け合ってしまう。どこまで来たのか、境目のわからない風景を眼前にしていよいよ酔いが回り、水際のベンチに座るとそのうちに眠り込んでしまったのだった。
 気付いた時には全く知らない家の六畳間に敷かれた布団の中に寝転んでいて、何が起こったのかと把握しきれないまま目を天井に泳がせていた。すると、知らない女に覗き込まれ、御目覚めですか、と言われて驚いた。
 見下ろしている顔は色白の細面、切れ長の目は笑わなくても微笑んでいるように見えるあたたかな顔つきだった。聞くと、女は松子と名乗った。
 自分はどうしてここにいるのだと聞くと、運河のほとりで酔いつぶれていらっしゃったので担いでここまで連れてきたと言う。それを聞いても、どうしてこんなか細い女が自分を担いで連れてこられるのか、日本昔話でもあるまいしと仰天し、すぐには信じられなかった。どうやって? と聞くと、たまたま酒屋にラムネの瓶を返しに行った帰り道だったために小さなリヤカーを引いており、空になっていたそれに尻から上を乗せて家まで引きずったのだと言われて、そういうことなら考えられなくもないと納得した。とはいえ、見ず知らずの酔っぱらいを女が助けるのは理由が分からない。
 身を起こして一息ついて、差し出されたお茶を頂いたとき、「どうして私などを助けてくれましたか」と尋ねてみると考える間も空けず、
「倒れていらっしゃったから」
 当然でしょう? 問われる意味が分からない、とでも言いたげに松子は目を見開いて模糊庵を見つめた。そうなると大きな瞳をしていた。「あの辺りはそれほど人通りがありませんから、どうなるかわかりませんよ。それよりもどうしてあんな恰好で酔い潰れていらっしゃったのか、そのことの方が気になりますわ」再び目を三日月のように細めて微笑んだのだった。》

つづく。

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