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解読 ボウヤ書店の使命 ㉕-44

長編小説『路地裏の花屋』読み直し続き。

《その麻雀屋のある牡丹通り商店街から数十キロ離れた場所に、僕は事務所として木造家屋の二階を間借りしております。一階は年老いた大家夫婦が住んでいて、普段は空き家のようにしんとして、大家夫婦が実際にいるのかいないのかがわからないほどなのですが、賃料を支払うために扉を叩くと、やはりそこに居て、にこやかな顔を見せてくれる。
 この建物は築数十年の古さですので、いつもなら西と北にある硝子窓が少々の風にでも反応してひっきりなしにカタカタと音を立てるのに、ある春の中頃のころでしたか、気が付くとどういうわけか妙に静か、風がピタリと止まっているのか硝子の震える音もしない日がありました。暖かさも寒さも感じない春の気温の上、微かにでも吹く風すらもないのかと不思議に思い、帳簿まとめの仕事をしていた事務机から立ち上がって窓際まで行き、レースのカーテンをそっと除けて外の街路を見下ろすと、歩く人は誰もおらず、さらには歩道脇に植えられ窓の高さまで成長した銀杏の木も枝どころか葉も揺らさないのでした。枝葉の間から見える淡く茜色めいた空も、なんだか安物芝居の背景のように陰影がなく、ひとひらの雲が流れることもない。
 時刻を確認しようと壁掛け時計の方に目をやりますと、ちょうど十五時を過ぎた頃だったので、お茶でも淹れて一息入れようかと考えた時、薄く開けておいた窓の木枠に一匹の蝶が止まっているのを見つけました。翅はこれまでに見たこともない透き通った青緑色で、呼吸に合わせて微かに開いたり閉じたりしている。これは珍しいお客さまではないかと思って、僕はそっと椅子から立ち上がり、静かに息をしている蝶の傍にそっと近付いてみました。蝶は全く逃げようとはしませんでした。恐らく僕の存在に気付いていなかったのでしょう。眠っているのだろうか、それにしても蝶がこんな場所で無謀に眠ったりするものだろうかと眺め入っておりましたが、その呼吸するような柔らかな翅の動きを見ているうちに僕の方でもなんだか眠くなって、壁際に置いていたソファの上で横になるや否やいつの間にか眠ってしいました。 
 すると、夢の中で、窓の木枠に居た蝶が目を覚まし、ある話を語り始めたのです。

「あなた様は毎晩お休みになる時には夢をご覧になりますでしょうか。夢と言っても希望とか願望、妄想という意味ではなく、眠るときに見る夢の事でございます。つまり、お布団の中で目をつぶってあれこれと想像を巡らす類のものではなく、いつしか深く沈み込んでいった睡眠の底で、眠っていることを忘れてあたかも真実のように感じながら体験する、あの夢でございます。蝶である私も時にはそのような夢を見ます。たとえば、どこまでも続く花畑の上を飛んでいる夢や、薄紫色に暮れていく空を飛んでいる夢。目覚めても翅に風の感覚が残っているリアルなものもあれば、目覚めた後立ちどころに忘れ去り、どうやっても思い出せない淡やかなものもございます。いずれにしても、その翌日辺りには忘れてしまうものが殆どではございますが、そういった夢の中で、今でもくっきりと忘れられないものがございますのでどうか耳をお貸しください。
 私は、夢の中である家の窓枠に止まっておりました。ちょうどあなた様のいるこの家のような木造建築の、それもまさしく二階の窓です。時刻は窓外の鳥も賑やかしく目覚める早朝。目の高さに見える電線には雀が三羽いて、もしも私のような蝶が勢いよく出て行くと、あっという間に何者かに食われてしまいそうな生気溢れる晴れ晴れとした朝でしたから、私は外に飛び立つことを躊躇っておりました。
 畳が六枚ほど敷かれた部屋の中には誰も居らず、床の間には鉢植えの胡蝶蘭と土物の花瓶に活けた小菊が飾られておりましたから、喉が渇けばそこに行って水滴を頂戴すれば、数時間ならどうにか凌ぐことが出来そうに思い、いっそ電線の雀たちがすっかり飛び去って、しんと静まる午后過ぎ辺りまではこのままじっとしていようと考えました。
 しばらくすると、弦楽器をはじく音が聞こえて参りました。ふすまの向こうにもう一部屋ございますのでしょう。はっきり見た訳ではございませんが琴の音色でした。最初は無造作にはじくような音が聞こえ、徐々に音の粒が連なって流れるような音階を辿りました。練習らしき調でございましたが、小川のせせらぎを思わせる音にも似て美しく、うっとりと聞き惚れておりますと、おっしょさん、と呼ぶ声がして、琴の音がやみました。なあに、と女の声が返事をする。ちょっと相談したいことが、と若い女の声がして、お入りなさい、とおっしょさんと呼ばれた女性が答えました。襖がそろそろと開く音がして、畳をこすってにじり入る気配がした後、再び閉じる音がした。
 耳を澄ませておりますと、若い女が、あることで知人が今にも発狂しそうであり、どうにか力を貸してもらえないかと言う。おっしょさんと呼ばれた女が、そのあることとは何かと聞くと、知人には十歳になる娘がいて思いもよらないところに蝶の形をした、見ようによっては美しい刺青のような痣が出来始め、そのせいで娘の母親たる知人が発狂しそうだ、と言うのでした。おっしょさんが、その痣はどこに出来たのだと聞くと、左の太ももの後ろだと。調べると病ではなかったらしい。ならば、そんなものは見えない場所だし女の子が成長すれば痣も相対的に小さくなるだろうから気にしなければよいものを、どうして大袈裟に発狂なんかしているのかと聞いておりました。相談している方の若い女は言いにくそうに口ごもっているようでございましたが、おっしょさんの、人にものを頼むのならはっきりとおっしゃい、という強い語調に押されて話し出しました。
『実はその発狂しそうだという知人の旦那さまには愛人がおります。知人は、ある時愛人宅まで乗り込んでいったそうなのですけれども、ちょうど折悪く情事の最中にお勝手口を開けてしまったらしく、ご亭主の上に乗っかっていた愛人の太ももに大きな痣に似た影があるのを目の当たりにしたそうで、それ以来、太ももにある影というものを見るだけで脳天を金槌で叩かれたようにパニックを起こして吐き気を催してしまうのだそうです。太ももにある影というだけでもそんな風だというのに、なんと、まあ、不幸なことに、実の娘さんの、それも左の太ももにご亭主の愛人と同じようなものが現われたので彼女は発狂しそうなのです』
 そこまで言い終るとしばらくしんとして、それから、二人の女がくすくす笑う声が聞こえて参りました。笑いながら、ばかおっしゃい、とおっしょさんが言いましたら、いえ本当です、それでどうにかならないかしらと知人から相談されたのだから、と答えている。可笑しさをこらえきれなかったのか、笑いが止まらないらしく咳き込んでいました。
『その十歳になる娘さんには同じ日に生まれてしまった異母姉妹がいるそうです。それはそもそもご亭主のの愛人の娘で、成長過程で娘たちが同じ学校に進学でもしたら大変だというので、愛人の娘の方はまるで疎開させるように知り合いの家で育てられているのです。ところが、発狂しそうになったその知人ったら、『実の娘には太ももに影が出来てしまったし、いっそあの女の娘と取り換えようかしら』って言い出して周りが困っているのです。聞くところによると、異母姉妹は生まれた日付も同じであるだけでなく、お姿もそっくりだとか。知人が言うのには、だから、ちょっと入れ替わったくらいでは分からないそうでして。だけど、驚きますよね、娘なのに簡単に、取り換えようかしらだなんて』
 今度は笑わなかった。おっしょさんが、それでどうしたいの、それ、取り換えたからと言って解決しませんよと言うと、若い女は、あらどうして、あの方々はもうこっそり取り換える手はずを整えようとしているのに、と少し声を大きくしました。
『そんなね、左にある影を右に付け替えようが、名医に頼んで消してもらおうが、その方の発狂しそうな感情は収まるわけがないでしょう。私の考えでは、女の子を取り替えたところで、また同じところに影が浮かび上がってくるはずですよ。きっとそれは恋情の影。何歳だって恋や憧れの心をもつものだから』
 そこで琴の音階を弾く音がしました。おっしょさんが鳴らしたのでしょう。ひとつ音階を終えると、さらに数回追いかけるように鳴りました。
 音が止んだところで、若い女が、そうですよね、わかります、ほら、ここをご覧になってくださいと言って、何か着物が擦れるような音がいたしました。ほら、私もここに、と言っている。どうやら、着物の裾をたくし上げて自分の左太ももの裏を見せているようでした。あら、そんなところに前からあったかしら、とおっしょさんが言い、いいえ、その知人の家に出入りするようになってから出来ました、と若い女は答えました。
 すると、おっしょさんは先程よりやや激しい調を琴で鳴らし、ひと塊の曲を終えたところでぴたりと止めて、
『あなた、その知人のご亭主って、いい男なの?』
 強い語調で問いました。若い女は少しか細い声になって、どうかしら、知りません、と答えましたが、嘘おっしゃい、とおっしょさんは咎めるように言って、それから部屋の障子が音で破れるのではないかと思われるほどの激しさで筝曲の続きをかき鳴らしました。
 そこで目が覚めたのです。私の忘れられない夢の話はこれで終わりでございます」

 ソファに寝転がっていた僕は目を開けて、しまった眠り込んでいたのかと慌てて起き上がり、時刻を確認しようと壁掛け時計の方に目をやりました。ちょうど十五時を過ぎたところでした。それほど眠り込んでいたわけではなさそうで、ほっとして立ち上がり、薄く開いている窓にもう一度近付いていきました。蝶はもうそこにはいませんでした。
 まだ少し眠い目をこすりながら見た窓の外は、相変わらず生気すら感じられないほど静かで、このような、天と地が凪いだように穏やかな日はこれまでに覚えがなく、いっそ早めに仕事など切り上げ街を歩いてみようかと思いつきました。この辺りだけが静かなのか、それとも街中が申し合せたかのように息を潜めているのか。ささやかな疑問を解消するためとは言え、目的地を定めず支離滅裂に歩いても仕方がないだろうと思って、とにかく近くの大通り沿いの歩道まで行き、そこをずっと辿って先の橋近くにあるインド料理屋に行こうと考えました。軽く食事をした後、例の雀荘に行ってもいいし、その近辺でアロマのサロンを営んでいる娘に電話をして、夕食を共にしてもいい。彼女は六月には結婚式を挙げる予定で、すでに自宅を出て恋人と共に暮らしており、式も簡単に終わらせると言ってはいましたが、相手方のご両親の意思もあるだろうし、そろそろ段取りなどを相談しておいた方がいいと思ったのです。もちろん、それを口実に、久しぶりに顔を見たい気持ちもありました。
 机に散らかった書類をファイルに綴じて書棚に片づけ、帰り支度をしてから外に出て路地を歩いてみると、すでに桜は終わりかけ、入れ替わって花水木がほころび始め、電柱の下やガードレールの際にはサギソウやムスカリも咲いていることに気付きました。いつもなら、歩くという行為は地下鉄の駅までの単なる移動手段でしかなく、取引先のことや帰宅してからの酒のつまみのことばかり考えているので景色など皆目気になりもしないのですが、歩くために歩くとなればいろいろなことに気が付くものだと思って、己が日常の慌ただしさを恥じてみたり、逆に、その日の風流な思いつきを我ながら誇らしく感じたりもしながら歩きました。
 ところが気分が高揚したのは最初だけで、しばらくして辺りを見渡すともう桜が半分以上散ってしまった春の街は色合いもぼんやりとして、目新しい気分で歩き始めた僕も、結局はそれほど植物の名前に詳しいわけでもなく、どんな花を見ても桜ではないのなら特に興をそそるほどでもない、何が咲こうと桜がなければすっきりとした春らしい輪郭というものが分からなくなるものだなと思いました。どうも、街中のどこもかしこも鮮やかなものが不足している。そうだ、のっぺりとしている。もちろん、その分のどかだったから、これこそはむしろ本格的な春なのかもしれないと思い直したりもしましたが、いずれにしても、心沸き立つもののない、薄ぼんやりとした空気の中をとぼとぼと行くような気分になっていきました。
 それでもどうにか大通りまで行けば、イヤホンを付けた女性が犬を連れているのが見かけられ、メール便を積んだバイクが歩道と車道の際を巧みにすり抜けるという賑やかさも出て参りました。車道の向こうに林立するビルは横顔にところどころ残照を受けて輝いており、明暗が濃くなれば荘厳な山のように見えなくもない。もちろん、ラーメン屋のそばを通れば鶏や豚の骨を焚くスープの匂いが漂い、そのむっとした匂いの上に、道行く人の香水や整髪料の匂いが混ざって街風というものは作られていくのだから、どうやっても山道の清々しさを味わうことなど無理だ。けれど、都会では暑苦しく重なり合う人間臭い営みこそ風流だと思えば、桜の花びらが道路の上に千切れ千切れて、踏み荒らされへばりつくだけの風情の中にも、少しは興を感じて歩くことが出来ました。
 随分と歩いて、あと五分も歩けば目指すインド料理屋も近づいてくるだろうという時でした。花束を持った男が路地の奥から出てくるのが見えました。背の高いスーツ姿。花の数は塊の大きさからすると、ざっと三十本ほどもあったでしょうか。男はその透明なセロファンのようなものに包まれた束を左腕でがっしりと抱え、小走りで歩道に飛び出してきました。セロファンに光が当たって妙にきらりとしたし、男の立ち姿にはそこまでのぬるんだ平穏な街の空気を颯爽と切り分けてはっとさせるものがありました。斜めに差している橙色の夕日が彼の背中側をくっきりと照らし出し、やがて歩き出すと、抱きかかえている赤い花が揺れて、まるで鈍い色の和紙に放たれた鮮明なインクのように際立った印象を創り出して僕の心を捉えました。
 そこまで、ずっとぼんやりと歩いてきたのに、不意を突かれたように立ち止まって、男をじっと眺めると、あの『木花蓮二朗』のようでした。雀荘では言いようもない嫉妬心からくる罪悪感もあって、じっくりと顔を見たこともない間柄なのに、そこまでの徒歩のおかげで気分が少しは解放されていたせいか、何か懐かしいものに出会った時のように嬉々とした感情が込み上げて、それほど迷いもせず、数十メートル先の彼に向かって僕は手を振っていました。
「おぉい、蓮二朗くん」

 建物の外で彼を見るのは初めてのことで、唐突に声をかけてしまってから、あそこに立っているのは本当に『木花蓮二朗』なのかと一瞬不安に思ったのですが、他の歩行者から抜きん出て背が高くて目立ち、例の噂通り花束を抱えていることから察すると、疑うことなく彼だと思い返事を待ちました。僕の呼びかけを聞いて男は立ち止まり、こちらを見てから花束を惜しげもなく高く掲げて振った。やはり『木花蓮二朗』でした。
「やあ」
 彼は高く掲げたまま、強く花束を揺さぶりました。それは花びらが落ちるのではないかと心配になるようなやり方でしたので、ならば薔薇ではないのだろうと思いました。僕にしてみれば薔薇は大変に高価で珍重すべき花という印象があり、彼がまるで野原で摘んだものであるかのように花束を揺らすので、きっとあれは何か別の花に違いないと思ったのです。
 しかし、近寄って見上げるとやはり薔薇でした。いくつかは咲き、いくつかは蕾のまま。ああ、これが薔薇か、と思いました。もちろんそれまでに一度も見たことがない訳ではありません。でも、見たとしても花屋に並んでいるものをちらりと目の端に感じる程度、あるいは公園の一画に植えてある横をするりと通り過ぎるくらいのことでしたから、その時のように、斜めに落ちかけた太陽の中で目を凝らし、本当に薔薇かと見つめたのは初めてのことでした。金色に差しこむ夕方の鋭い光に花びら一枚ずつが晒されているのを見ると、生気に圧倒されて怯みそうにさえなりました。花びらの上下にくっきりとした陰影が創り出されて生々しく輪郭を現しているのです。その茎と葉が濃い緑色の鬱蒼とした繁みの匂いを立ち昇らせているものを目の前にしたその時、あの「蓮二朗は薔薇の花束を妻に贈るのだ」との噂がいよいよこれで確定されたように思えて、先程までは偶然にも街でばったりと出会ったおかげで少なからず親しみが込み上げていたのに、雀荘の輩によってでっち上げられた彼の嫌味な性質がやはり紛れもなく彼自身の本性だとする考えがすっかり蘇ってきて、ほのかに湧き始めていた好意的な気分は一気に消えうせてしまいました。そうなると、僕は急にどこか意地悪な調子になって
「噂通り、奥様に薔薇ですか?」
 花を指さしました。そんなこと、そもそも雀荘の輩が陰でこっそり言っていただけのことであり、それを知らないはずの彼に噂通りと問うのはやや唐突すぎたかもしれません。言った途端に余計なことを言ってしまったと反省したのですが、もう遅い。すぐに彼は笑顔をやめ掲げていた花束を胸の前にゆっくりと降ろし、どう答えようかと迷っているのか、赤い花びらの群に鼻を近づけて匂いを嗅ぐ仕草をしました。
 陽が傾きかけているとは言え薄墨になる手前でしたので、当然彼の姿ははっきりと見える。雀荘では横目で見るか、近頃では目をそらしているくらいだったので、薔薇だけではなく彼のこともまた、どこか初めて見るような気がしました。
 肌は若気の至りを連想させるような吹き出物を発する力はなく、どこか無機質。額の立ち上がりの一部分に密集した白髪があり、他はわずかに白いものが黒髪の中にちらほらと散らばる程度。後ろ髪は服の襟に着くか着かないかという長さにざっくりと伸びていて、前髪は分けられているものの、いくつかの塊は鼻先あたりまで垂れて額に影を作っておりました。伏せている目には黒い睫が長く伸び、瞼の上を象る眉はまっすぐに形がよかった。こういう男だったか? と首を傾げたくなる程、鼻筋はほどよく通って見えました。こう言ってはなんですが、ほとんどマネキン人形のように整っていました。なるほどこれならば日本人離れした美男子と言えるだろう、雀荘にて意味もなく嫉妬心を呼び起こされても仕方ないと、僕自身も少なからず妬んでいたことを棚に上げて他人事のように納得致しました。しかもその時は、これまでに嗅いだことのない香水の香りがつんとした。
 薔薇から顔を上げた『蓮二朗』は眉をひそめながらも口元だけは笑って見せました。どう答えようかと困りながらの作り笑いだったのでしょう。笑うと頬に縦皺がすっと一本入る。それを見て僕はぞっとしました。作った笑顔でこのような皺がすぐに入るということは、彼が何年もこの表情を無意識に作り続けてきたことを想像させたからです。美男子というよりは色男を思わせる。男から見ればなんの役にも立つはずのない皺、この長年作り続けたたった一本の皺のせいで、何人もの女性が彼のことを赦すだろうという気がしました。惚れるというのではなくて赦す、ただ、だらだらと赦してしまうだろうという男女の在り方を想像させるのでした。
 服装も、ネクタイを軽く緩め、紺の上着とワイシャツの袖を皺になることも気にせず肘の辺りまでたくし上げているという、なるほど計算されたものでした。計算された気楽な装いなど却って息苦しくも思えますが、それがまた、僕の様な武骨な初老の男から見ても、なにか注意を惹かずにはいられない雰囲気でした。わかりますでしょう? 堅実そうだとか裕福そうだとか、楽しそうだとか丈夫そうだとか、そういった明確な利点や長所はこれといって見当たらないけれど、単に気がかり、どういうわけか気になるという風情。理由が明確でないが故に、一体この人物の何が引っ掛かってしまうのかと考え込み、その答を探そうとしているうちに、不本意にも、さらに気になり始めてしまうのです。

 じろじろと観察していると、僕が薔薇のことを問うたのに対して『蓮二朗』はやっと答えを思いついたらしく、
「これかい。そうだよ、よく知っているね」
 やや露骨に華やいで見せ、花束を包んでいるセロファンを手のひらでぐしゃりと握りしめてみせました。こんなもの、どうということもない、というのでしょうか。僕からすると、その仕草がどうにも気障なものに思えて、つい、
「妻に花束なんて単なる罪滅ぼしなのだろうと雀荘で言われているぞ。ほんとは他の宅に女をかこっているに違いないって。ひょっとしたら、花はその妾にやっているんじゃないかと」
 などと口走ってしまいました。そもそも雀荘での陰口のことなど言うべきではなかったのに、またしても不必要なことを重ねてしまったと後悔しましたが、その時の僕はどうしても言葉を止められなかった。何者かに魂を乗っ取られたかのように口からぺらぺらと喋っていたのです。彼の方は作りものだった笑顔すらすっかり消して、
「妾がいるわけでもなくて、ただ妻の誕生日になればお決まりの花屋に行き、お決まりの店員に今年は何本だったかなと聞けば、台帳を取り出して確認し、丁寧に包んでくれるだけ」ぶっきらぼうになりました。「その店員ともかれこれ二十年。長いお付き合いってことになりますか」
「じゃあ、その店員とできてるんじゃないか」
 凝りもせずにからかうと、
「馬鹿だな、その路地の奥にある花屋だから、暇があれば行ってみろよ。僕が言っている店員というのは御爺さんですよ、もう八十近くかな、震えるような手で薔薇を数えてくれますから」
 再び頬の縦皺をより一層深くして笑いました。今度は眼も細めている。こうなると、彼の眼はもうどこを見ているのか分かりませんでした。ほとんど満面の笑みとさえ言えるこの表情を仮面にして、どこか孤独の扉の中にすぅっと閉じこもっていくように見え、僕はどうしても逃すまいという気になり、
「そういう場合は、店員とは言わず、店主というのでは? 八十だというのなら、自分の店じゃないのかね」
追いかけるように言葉を繋ぎました。
「そうかな、でも、ずっと、店に雇われていると言っていたけど」
 彼は笑顔をやめて肩をすくめ、もういいだろう、解放してくれよと言いたげでしたが、僕はまだ続けました。
「店員のことはともかく、君は罪滅ぼしってことでもなく、お決まりの感謝とか、潤滑な家庭生活のためとか、そういったことで、毎年妻の誕生日に薔薇を贈るのか」
 そこでは問い詰めるというより、むしろ素直に事実を聞いてみたい気持になったのです。ところが、また彼は前歯で唇をぎゅっと噛んで大きく息を吸うと、鼻から長く息を吐き出すようにして笑いました。笑ったままどうとも答えない。それは妙な間でした。どう答えてやろうかと心の奥底で練っているのか、あるいは、僕のことをなかなか鋭い奴ではないかと値踏みしながら嘲笑っているのか。
 しばらくして、さっと空気を切り替えるようにその笑顔もやめ真面目顔になり、
「いや、罪滅ぼしって部分は正しいね」
 急にはきはきとした声を出し、抱えている赤い薔薇の蕾をつんつんと指で突きました。
「なんの罪?」
「さあ、なんだろうね」
 彼は空を見上げました。「僕にだってわからないさ」
 もう何も言いようがありませんでした。妻を亡くした後、再婚もせずにこうして初老の年齢まできたから、そもそも、毎年妻に薔薇を贈るという彼の心境は理解できないものだったのです。妻がいる人生、その妻に薔薇を贈るということ、そしてそれが罪滅ぼしだということ。僕には何もかもわかりませんでした。黙っていると、じゃあ、と彼の方で話を切り上げたので、そこで僕たちは別れました。》

つづく。

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