星のクラフト 0章(全体つなぎ・肉付け)最後尾にあらすじ掲載
広々とした農園と森林地帯の一角に、どっしりとした工場らしき建物がひとつ、立派なわりにはすっかり忘れ去られたかのように建っていた。骨格は木造で、周囲の壁には赤レンガと砂色のタイルで装飾を施されている。煙突はあるものの、今では火を用いた製造が主な仕事ではなくなっていて、食事のための煮炊き程度の分量の煙が時々立ち上がり、ほのかに空を汚すだけだった。かつては工場だったが、今では工房のようなものといえるか。
その建物の二階で、二人の男が麦酒を飲んでいた。
「いよいよ、出発の準備を始めるとしよう」
口ひげを生やした彫りの深い顔立ちの男が瓶に直接口を付けた。
「まあ、そうだな。そろそろか」
もう一方の男は麦酒を瓶からグラスに注いだ。短髪を桃色に染めた色白。想定したよりも泡が立ち、横から溢れ出そうになったので慌てて口元に引き寄せ、泡を啜った。
口ひげの男の名はナツ。
桃色髪の男の名はラン。
ナツとランは無表情のまま、麦酒瓶とグラスをカチンと合わせた。
一階の工房では数十人の作業員が集められ、全体像も知らされずにそれぞれに求められたパーツを製造している。菱形のパネル、突起物の飛び出た球体、サボテンから作られた糸で編んだマットなど。一人ずつに配布された設計図を見て、緻密に形にしていく。必要な材料や切り貼りするための道具、接着剤、塗装用具は設計内容に合わせてあらかじめ配布されているし、足りなければ、注文さえすれば速やかに届けられる。
「もうすぐ、全てのパーツが出来上がるからな」
「完成したものから順に船に持ち込んでいこう」
二階にいるナツは隣の部屋を指した。そこに船が置いてある。「工房で働いてくれた人たちはどうする?」
ナツは手の甲で口ひげについた泡をぬぐって、ランの目を見た。
「全員、次の働き場所が決まっている」
ランは涼しい顔で答えた。
「それはまた、上出来なお話だな。ランが探してきたのか? そんなに従業員思いの社長なら、きっと役場から表彰されるだろうね」
「彼らが優秀だからさ」
ランは桃色の髪をかき上げ、切れ長の目の端でナツを睨む。
「だけど、向こうに着いたらパーツを組み立てるために、三人くらいは同行してもらわないと――」
ナツが言い掛けると、
「いや、全員、もう決まっている」
ランが二階の設計室中に響く声できっぱりと言った。
「組み立てはどうするんだ」
「大丈夫だ」
「ラン、君がやるのか」
「いや、彼らがやる」
「彼らって?」
ナツは麦酒瓶を握りしめたまま、背筋を伸ばしてランをまっすぐに見た。
「だから、工房のやつらだよ。パーツ製作員たち」
ランはグラスから麦酒をそっと飲んだ。
「次の職場が決まってるんだろう?」
ナツは顔をしかめて麦酒をぐいと口に含む。
「僕たちの船が次の職場だよ。全員連れて行く」
「まじかよ、誰が賃金払うのさ。第一、あの小さな船に乗れるのか? ノアの箱舟じゃあるまいし」
「あの船に乗るのは僕たちだけさ」
ランはうっすらと笑った。
「じゃあ、どうすんの、あいつらは」
「こうするのさ」
ランは椅子から立ち上がり、窓のカーテンを開けた。夕日が沈もうとする瞬間で、小高い丘と林しかない辺りをオレンジ色に染めていた。
「どうするの?」
ナツが聞くと同時に、ランは窓際のボタンを押した。
途端に家中が揺れ始めた。
「なんだ。どうしたんだ」
「こうするしかないんだ」
家は地震のように大きく揺れ、ナツは叫び声を上げながら、慌ててテーブルの下に入った。
「なにをしたんだ!」
瓶とグラスは倒れ、そこら中にせっかくの麦酒がまき散らされた。壁時計は今にも落下しそうなほど激しく左右に揺れている。
「ほら、ここから外を見て、ナツ。そんなところに入っていないで」
ランは柱に捕まりながら窓の外を見ていた。
「ラン、大丈夫か、君は正気か?」
「まったくもって正気。ナツ、君の方がどう見てもうろたえている」
ナツはテーブルの下から這い出し、どうにか立ち上がってランのいる傍に立った。
「な、なんだ、これは――」
家ごと宙に浮いている。
いや、浮いているのではなく、大地から切り離されて、浮かぶように上昇している。
夕日に染まった大地と森と、その周辺を飛ぶ鳥達が徐々に下方へと遠ざかっている。
「船出するんじゃなかったのか」
ナツは青ざめていた。
「だから、これが船出だよ」
「建物ごと?」
ランはうなずく。
「工房の人々にはひとりずつ交渉し、全て了承済みだから。嫌だと思う人には早めに辞めてもらった」
「ちょっと待って、君は独り者だからいいけど、俺の妻と子供はどうするの」
ナツが言った時、ランが腰にぶら下げていたラッパを取り、大きな音で鳴らした。
すると、大きな荷物を背負って子供二人を連れた女性が隣の部屋から現れた。
「マヤ、トキ、モモ」
ナツは顔面蒼白となり、女性に駆け寄ろうとしたが体制を崩し、そのまま床に尻もちもついた。「どうしてここに?」
「あなた、絶対に反対すると思ったから、今まで言わなかったの。ランに誘われて、それで、結局、本当に出立するまでは黙っていた」
女性は緊張が解きほぐれたのか、それとも恐怖からか、その場によろよろと座り込んだ。
「ママ」
まだ小さな子供たちが女性の横にしゃがみこみ、二の腕辺りに身体ごと寄りかかって心配そうに見つめた。ナツも慌ててよろけながら、女性に駆け寄った。
「マヤ。大丈夫か。ラン、なんてことしやがる」
今にも怒り出しそうなナツの腕をマヤは掴み、
「あなた、ランに誘われたのもあったけど、実際には私が決めたのよ。一度出奔したら、数年は帰ってこないだろうから、私、そんなの嫌だと思って」
必死に訴えた。
「子供たちの学校はどうするんだ」
「学校なんてどうでもいいわ」
「どうでもいいって、お前――」
しばしの沈黙の後、ナツもマヤの横に力なく座りこんだ。
ランは動揺しているナツと家族たちを残して、船を保管している部屋の扉を開けた。
扉のある壁面以外は、側面の壁も、天井も、床も頑丈で透き通ったガラスで作られている。だから、船はなんとなく空間に浮かんでいるかのように見える。
ガラスの床上を歩くと、下階の工房で働く人が見えた。少し前には建物が揺れて浮き上がり、厳密な時刻を予告する間もなく出奔し始めたのに、誰一人としてうろたえてはいない。うろたえるどころか、揺れたことで撒き散らされた部品などを拾って、淡々と元の場所に入れ直している。もちろん、前もって、「厳密な時刻を知らせることなく建物ごと軌道に入るから心構えをしておくように」と伝えてはいたが、それでも、全員が平然として、全く取り乱していないのには感服した。
――プロだな。
ランは改めて彼らに感謝した。
側面と天井のガラスからは夜が訪れる前の夕景が見える。この後、すっかり日が暮れてしまえば、プラネタリウムのように星が輝き始めるだろう。あるいは、海底に光るクラゲが漂うように明滅して見えるか。
*
当初の予定では、船には製作されたパーツを積み込み、前例に従ってランとナツの二人だけが乗り込むはずだった。船体の最前と側面に備え付けられた人工ダイアモンドの突起をマックスまで伸ばして、この船体室の側面と天井を覆うガラスをいとも簡単に砕き、準備されている軌道に入って行くことになっていた。そして数週間の旅路の後、目的のエリアに辿り着いたら、その地で組み立て専用に雇われた人々が待っていて、そこで彼らと共に工房で製作されたパーツを組んでいくはずだった。
ところが、ひと月前に司令塔からメールで計画変更の通達がきたのだ。
《ラン、今回はその建物ごと出奔する。テーブルのある部屋の右側のカーテンの横に青い猫のシールが貼ってあるだろう。それを剥がすとボタンがある。時が来たらそれ押せ。建物ごと浮き上がり、予定された軌道に入る。》
読んだ時には、意味がわからなかった。
これまで、二人乗りの船でなんらかのルートに入り、司令塔からの通達に従って何度も仕事をこなしてきた。
――しかし、今回は建物ごと出奔? どういうことだろう。
《意味がわかりません。》
ランはすぐに返答した。
《意味などわからなくていい。時が来たら実行せよ。それまでに、建物に乗せるべき人材を選抜して告知しておくように。何人でも構わない。必要物資はいつも通り、軌道の途中にあるステーションで受け取れるようになっている。出発までに人数などの情報をエントリーしてくれ。必要なものを送り込んでおく。滞在は長くなりそうだ。それを考慮して、人材を選抜するように。実行する日は追って知らせる。》
ランの立場では司令塔の指示に従うしかない。
通達を受け取ってからは、書斎に工房の人々を一人ずつ呼んで面接をし、家庭の事情などを聞くのに忙しかった。滞在は長くなるが連れていきたい人はいないかと確認する。驚いたことに、数十人いるパーツ製作員のうちの一人を除いて、一緒に連れて行きたい家族や友人はいないと言った。長くなったとしても、いずれ戻って来られるのであれば、連れて行く必要がないとの判断らしい。その中で、一人だけは籠に入れた小鳥を連れて行きたいと言い、ランは許可したのだった。
「出発は突発的なものになりそうなので、いつ出奔しも大丈夫なように、毎日小鳥を工房に連れてきておくように」
と指示した。
パーツ製作員には早々と予告したランだったが、今回の特殊な形式での出奔について、相棒のナツにだけは最後まで内緒にした。おそらく、「今回は建物ごと出発し、長期間になりそうだ」と言えば、すぐさまナツは家族を置いていくと言うだろうし、それができないのであれば、今回は離脱すると言うだろうから。
――ナツがいないのは困る。しかし、マヤさんや子供たちを置いてけぼりにするのも気が引ける。
そう考えて、ランは内緒で、ナツの妻であるマヤを呼び出し、事情を話して、マヤ自身はどうしたいかと尋ねた。
「もちろん、一緒に行きます。これまでだって、一緒に行きたかったのに、船には二人しか乗れないと言われて、諦めてきたのよ」
マヤはむしろ目を輝かせた。
「こどもたちの学校はどうします?」
「学校は行かせなくても大丈夫。私が勉強を教えるから」
マヤはもはや絶対に決意を変えるつもりはなさそうだった。
「その瞬間まではナツに言わないで。きっと、彼はマヤさんたち家族を連れて行きたくないと言うだろうから。家族を危険にさらしたくないと思ってね。もちろん、それほど危険はないはずだが、全くないとも言い切れないし」
「ランの言う通りだわ。私も夫の性格についてはよくわかっているから」
マヤはあの時興奮して、林檎のように頬を紅潮させてうなずいた。
幸か不幸か、ラン自身には連れて行きたい家族はいない。
「だけど、本当に建物ごと移動できるのだろうか」
ランは通達を受けてからずっと、それだけが不安だった。「試しにボタンを押してみることもできないし。一体、司令塔側は何がやりたいのか」
*
そして今、とうとう司令塔から合図が来て、指示された時刻にボタンを押して建物ごと浮き上がったのだ。
天井と床と三方の壁面をガラスで囲まれた部屋に立ち、本来ならばその中に乗り込んで、この建物から勇ましく飛び出す予定だった船体を眺めていると、司令塔の指示通りに建物が動き出したことに対する安堵と同時に、これからどうなるのかといった不安がランの心を支配した。
これまでの経験では、動き始めてから数時間で軌道に入る。
「それにしても、戻ってくる時にはどこに戻ればいいのか」
ランはガラスにへばりついて外を見た。大地が遠ざかって行く。息がガラスを曇らせる。これまでの出奔では船体だけが飛び出すので、帰る時にはあの建物に戻るのだと目印があった。ガラス張りのこの部屋。
でも、今回は建物ごと飛び出したのだ。
ランは下を見る。建物があったところには数本の街灯が見える。
「目印はあれだけか」
絶望的に思えた。
いや、実際には絶望する必要などどこにもない。
これまでの経験では、予告の司令が届くと、こちらが何をしなくても帰還ルートに入り、勝手に船は戻るべき軌道に接続し、収まるべきところに収まった。
「心配などしなくていい」
ランは自身に言い聞かせた。
徐々に目印も遠ざかり、建物は宇宙空間に浮かんでいた。まもなく、司令塔からの牽引磁力によって、予定された軌道に入るだろう。
ランは船を保管する部屋を後にした。
軌道に入る前に全員を集合させて、旅が始まったことを宣言しておく必要がある。
一階の工房に降りると、想像していた以上に、パーツ製作員たちは落ち着いていた。工房の部屋の隅に一人が持ち込んだ鳥籠があり、中にいる桃色の鳥が「リーヤン リーウヤン」と繰り返していた。
「申し訳ありません。私の鳥が騒ぎ立てまして」
飼い主がランのところに駆け寄り、頭を下げた。「あの鳴き方では精神不安定だろうと思います」
「何も知らない鳥にしたら、いきなりで驚いただろうから」
ランは気にするなと笑顔を向け、「それより、談話室に来るようにとみんなに伝えてほしい。十五分後。ぴったりに。誰も遅れないように」
ぴったり十五分後に談話室に集合したパーツ製作員たちを円陣を組むように床に座らせ、ランは一人、彼らの中央に立った。
「以前、告知しておいた通り、今回は建物ごと出発した。意外ではあったが、最後まで誰も離脱を要望しなかった。みんなも驚いているかもしれないが、この建物が、こうした機能を持っていることは私も知らなかった。中央司令部から聞かされた時、まさか冗談かと思ったが、今現在、大地を離れて建物ごと空間を進行している。私の相棒であるナツはまだ二階に居て、家族と遭遇したところだ。彼に関しては、彼の妻と二人の子供も同行することになった。彼は今日、たった今そのことを知った。諸事情あり、建物ごと出奔することになったのを彼が知ったのも、たった今なのだが、それぞれの面接時に、ナツには内緒にしておくようにとの約束を忠実に守ってくれたことを深く感謝する。
ここにいる全員、プロフェッショナルだから動揺することなく対応してくれたが、初めての航海となる人も多い。生活に関して心配なこともあるだろうが、安心してほしい。軌道に入った後、定期的にステーションに停泊し、いわゆるホテルのような施設で食事や風呂、着替え等、生活に関して必要なものは豊富に提供される。中央司令部にそれぞれが必要とするものを書いた書類を提出してあるから、そうだ、ちょうどマラソンランナーが途中で水を受け取ることができるように、全員、間違いなく受け取ることができる。
この度、どうしてこのような、建物ごとの出奔になったのかについては、今のところ開示されていない。おそらく、旅の途中で受け取る日報などから、徐々にわかるだろう。実のところ、毎回そうなのだ。船で少人数で行く場合にも、出掛けるまでは目的すらわからず、少しずつ開示されるのだ。しかし確実にわかっているのは、いつでも必ず成功してきたこと。そして、今回も絶対に成功する。
後でみなさんを二階のガラス張りの部屋にお招きする。もうほとんど大地からは離れてしまったが、星々の中を進む状況は見ることができる。軌道に入ると、もう地球に近い星すらも見えなくなる。だから今夜が勝負だ。ゆっくりと旅路を楽しんでほしい。
その前に、部屋割を記した紙を配るから、工房の奥にあるベッドルームにそれぞれの荷物を運び入れておくように。五人で一部屋。十室ある。個室も数部屋だけある。事情がはっきりしていれば、個室を使うことも可能だ。小鳥は工房に置くことにしているが、小鳥と同室でもよい人が居れば、部屋を入れ替わったりして調整してほしい。
入室作業が終わった人から順に、二階のテーブルルームまで来るように。では、後で」
ランが言い終わると、なぜか拍手が沸き起こった。
拍手? どうして?
違和感があったが、円陣を組むパーツ製作員の全てを見渡すように微笑んで見せ、小鳥を持ち込んだ一人に全員の部屋割を決めた紙を渡すと、円陣の隙間を通って部屋を出た。
二階ではナツと家族がテーブルに着いていた。ランが姿を見せると、ナツは少しでも待てないのか席を立ち、駆け寄ってきた。
「家族も一緒に行くだなんて、承諾していない」
今にも怒り出しそうな形相でランの右腕を掴む。
「相談しないで、勝手に決めて悪かった」
ランは考えて置いた通り、言い訳もしないで即座に謝った。
「ひとこと言ってほしかったのに」
「そうするべきだったね」
これも決めておいた返答だった。
どう説明しようと、ナツは納得しないだろうとは予測がついていた。それでも、ナツの家族を連れて行きたかった。もちろん今回の任務は長期間かかりそうだと感じたからではあるが、それだけではなかった。
――ひょっとしたら、ひとたび出奔したら、もう地球に戻れないのではないか。
中央司令部から「今回は建物ごと飛び出す」との通達があった時、ランはそう予感した。自身でも予感の理由はわからない。司令部はこちらには明確に伝達してこないものの、実はもう二度と戻らないとの設定になっているのではないかとも思ったし、また、地球そのものがもうすぐ大幅に変化してしまうことが、計測上明らかなのではないかとも思った。
ランが言い訳らしい説明を何もしないので、ナツは諦めたのか、それとも、何かを察したのか、家族の座っているテーブルにおとなしく戻っていった。
「君も座れよ」
ナツがランをテーブルに呼ぶ。ランは素直に従った。
「ナツとマヤさんたちはみんなで同じ部屋を使ってもらう。二階の奥にある広いリビングだ」
「ランはどうするの?」
「部屋は要らない。あの船体で寝るから。風呂や食事は軌道の途中のステーションだからね。それはいつも通り」
「任務期間中、船体でランと哲学談義をするのが楽しみだったのだがね」
ナツはあごひげを神経質に引っ張っている。
「いつでもどうぞ。エリアに着くまでにやるべきことは、都度、司令部から通達されるだろうし。ナツがやるべき仕事はやってもらわなくてはいけない」
ランが言うと
「それならよかった。ずっと家族サービスしながら目的地まで行くとのは、ちょっとね――」
家族を目の前にしているのに、隠し立てもせずに平気でそんなことを言った。
それでも、マヤも子どもたちもにこにこしている。ナツのこういった態度には慣れたものなのだろう。
「心配ない。ナツの仕事は山盛りあるよ」
一階から、パーツ製作員が二階へと上がってくる気配がした。
「まず手始めに、彼らに、ガラス張りの部屋を案内する仕事だ。この建物が正式に軌道に接続するまでの間に、星の間を飛行するのを見せてやりたいんだ。ナツ、そしてマヤさんたちもどうぞ。あと数時間だけ見られるはず」
「これまで、この部屋は見せたことがなかったね」
ランは二階に現れたパーツ製作員たちに向かって言った。ガラス張りの部屋に入らせたのは初めてのことだった。
船体だけで飛び出す場合には、それほど多くの荷物を持ち出すことはできない。従って、パーツ製作は大きくても1㎥程度になるし、関わる人数もそれほど多くない。今回は最初から、中央司令部から要求されるパーツひとつずつが大きかったし、製作員の数も多かった。あれほどの荷物を船体に乗せることができるだろうかと考えていたところ、建物ごと出奔するとの通達があり、なるほど、それならあの大きさ、あの人数でも大丈夫だと納得したものだった。
「工房から天井を見上げても、この部屋は見えませんでした」
一人の製作員が足元の床から工房が見下ろせることに気付いた。
「隠していたわけじゃないが、すまない」
ランは謝った。いつも見張っていたわけではない。でもこのような構造になっていることを知らせないまま、下階で働いてもらっていたのは倫理に反すると思える。「上からしか見えない特殊なガラスになっている」
「どうして、こんな風に?」
製作員はよほど不満なようだった。
「わからない。もともと、こういう構造になっていた」
ランが言うと、製作員は小さくうなずき、納得できないとしても、ひとまず引き下がる様子を見せた。
「とにかく、今は、側面のガラスから外を見よう。みんな、こちらに来て」
飛行する建物は光る粉の中を進んでいた。遠くにいくつかの光る星が見え、ひとつの大きな球体は後ろへ遠ざかっていった。
「あれは月」
「ラン隊長、この建物は宇宙船だと考えていいのでしょうか」
また別のパーツ製作員が一歩前に歩み出た。
「そう考えてもいい。ただ、宇宙とはなにか、船とはなにかと熟考し始めると、明確に宇宙船だと言っていいのかどうかはわからない」
「これまでは、この船だけで出奔していたのでしょう?」
「そうだ。その時には、この建物は船体の置き場、あるいは港、空港のようなものだと考えていたのだが――」
「中央司令部から、空港である建物ごと旅立つことが伝えられたのでしたね」
ランは頷いた。
「急遽、でしたが」
製作員は外の景色を見たことで不安になったようだった。
「そうだったね。理由も何も聞かされてはいない。しかし、さきほどにも話した通り、結果としては必ず成功する。成功とは帰還のことだ。旅路における成功とは、帰還以外のなにものでもない」
ランも一人の人間だ。不安がないわけではなかった。船体で飛び出すことは何度も経験してきたが、それでも慣れたと思えることは一度もなかった。まして、今回は建物ごと行くというのだから、ランにしても初めての経験だ。だけど、製作員の前では「ラン隊長」なのだ。それらしくふるまうしかない。
「なぜ必ず成功するとわかっているのでしょうか」
横で聞いていた、もう一人の製作員も口を開いた。
「失敗は成功の基という、有名なことわざを知らないのか」
ランは老成して見せた。「どうあれ、最後には成功するのだ」
「隊長は強いですね。何年もお付き合いしていますけど、弱音を吐いたことがない」
後ろで話を聞いていたキムだった。もっとも年を取った製作員で、ランが彼の方に振り向くと長く親しんできた笑顔を見せてくれた。
「キム。一緒に旅ができてうれしいよ」
ランは本心でそう思っていた。製作員はたくさんいるから全ての名前を覚えることはできない。でも、キムは別。キムはランが初めての飛行を成功させた時にも製作員として関わってくれたし、ラン以外の飛行士の裏方も経験している。
「キム、他の若い製作員をまとめてほしい」
「私にそんなことができるでしょうか」
「キムにしかできないよ。でも何か特別なことをしなければいけないのではない。結果的に全ての物事は成功するのだと、言い続けてくれればいい。それより、あとしばらくだけ見られる星屑のエリアを楽しんで。だって、軌道に接続する時には、突然接続されて、星々の光は見えなくなってしまうから」
ランが言うと、キムはうなずき、ガラスの間際まで行って空を仰いだ。
建物は光る星屑の間を進み続けた。ひとつの星が近づいて見えたとしても、決して接触することはない。
「近くに見えたとしても錯覚だ。星屑と太陽の光で靄のようになった空間に屈折が生じている」
ランは中央司令部から聞いた説明をそのまま口にした。
「空気は、どうなるのでしょう。私達、生きていられるのでしょうか」
パーツ製作員の一人が心配そうにガラスにへばりついている。
「心配することはない。空気や水など、私達地球人にとって必要なものは潤沢に搭載している」
「搭載? なんだか怖い」
「だから面接の時に――」
危険性もあると説明したはずだと言おうとしてやめた。実際、「危険性」などない。それはランが一番よくわかっていた。
「ラン、ちょっと来てくれ」
背中の向こうでナツが呼ぶ。ランはキムに製作員の統率を頼んでその場を離れ、ナツの方へと向かった。
二人はテーブルルームの横にある談話室に入った。
「どうしたんだ」
「ラン、話しておきたいことがある」
ナツは顔を紅潮させ、焦燥感を露わにしていた。
「それと言うのは、君の愛人のことか」
ランは冷静に告げた。
「なあんだ、知っていたのか。できれば彼女もいっしょに連れて来たかったのだが」
ナツは鼻の下を擦った。
「不謹慎なやつだな。無理に決まっているだろう」
ランはナツの人間性に関して嫌いなところはほとんどなかったが、常に婚外恋愛を維持しているところはどうしても好きになれない。「マヤさんを悲しませるんじゃない」
「もちろんさ。絶対にバレていない」
「本当かな。それにバレていなければいいわけでもないだろう」
「でも、話はそれじゃないんだ。実は、マヤは妊娠している」
「なんだって!」
ランは思わず叫んでしまった。
「僕もたった今聞いた」
「マヤさん、どうして先に、僕にだけでも言ってくれなかったんだ」
「言うと、連れて行ってもらえないと思ったから、だそうですよ。どうする? あの同行者たちの中に医者なんていないだろう」
ランは頭を抱えた。まさか、そんな大事なことを内緒にしたままにするとは。しばらくは悩んだが、その後すぐに、それほど問題ではないと思えた。
「途中のステーションで、都度健診してもらえるように、司令部に連絡を入れておく。ここで必要なものも揃えておいてもらおう。生まれるのが先か、目的地に着くのが先か、わからないが」
「頼む」
ナツは頭を下げた。珍しく腰が低い。
「やめてくれよ。ナツの家族を内緒でこの建物に乗せたのは僕なのだから」
「いや、おかげで助かった。もし、そうしておいてくれなかったら、マヤのやつ、私、妊娠しているのと言って、俺をこの任務に行かせないようにしただろうし、それでも俺はなんとしても君に同行したかったから、マヤを振り切って来てしまったと思う。そうすると俺は完全に家族を失うところだったよ。君の言う通り、旅の成功とは帰還することに他ならないのだとしたら、俺は真の意味では失敗するところだった」
いつになく丁寧に話すナツを見ていると、ランはこれでよかったのだと思えた。むしろ、マヤたちを内緒で乗せた自身によくやったと言いたくなる。
「勘が働いたのかも。もちろん、僕も彼女が妊娠していたことは知らなかったけど、時々僕は強烈に直観が働くのでね」
二人は顔を見合わせて微笑み、どちらからともなく握手をした。
「もしもマヤさんの体調がよければ、みんなを連れて船体室へ来ないか。あとしばらくは星屑の間を飛行するのがガラス越しに見える」
ランはナツにそう言うと、一人船体室へと戻った。
まだガラスの向こうは星屑に包まれ、それほど遅くないスピードでひとつの方向へと建物が移動しているのがわかった。
「綺麗だ」
「神秘的」
「もうしばらく見ていたい」
パーツ製作員たちは口々に景色を褒めたたえていた。
「キム、ありがとう。彼らはすっかり不安など忘れて、ガラスの向こうの景色に見惚れているようだが。きっとキムが彼らにうまく話してくれたのだろうね」
ランは部屋の角で黙って外を見ているキムの肩に触れた。すっかり白くなったキムの髪は無造作に肩まで伸びている。
「ラン隊長。特に何もしていません。ただ、少し音楽を鳴らしてみました」
言われるまでは気付かなかったが、そう言われて、耳を澄ませばようやく聞こえてくるほどの小さな音で音楽が流れている。
「いい音楽だ。船体室にオーディオセットがあったのをすっかり忘れていたよ。なんのためにあるのかと思っていたが、今日のためにあったようなものだね」
優しい旋律が耳に届くと、心も安らいでいく。
「音楽に頼ってばかりもいられませんが、人数が多く、ひとりでも不安でパニックになってしまったら、次々に伝染して集団ヒステリーを起こしそうな場合には、実に頼りがいのあるツールです」
「さすが、経験豊富なキム。これからもよろしく」
心強かった。キムの髪は白くなり、肌には皺が刻まれているが、筋肉質の身体からは培われてきたエネルギーがあふれて見える。
しばらくはナツの家族も含めて、みんなで外を眺めていたが、疲れの出はじめた人々もいたので、それぞれの部屋に戻り、室内に置いてあるパンや果物などで食事をとることにした。
ランだけは一人船体室に残り、軌道に接続する瞬間を待つ。これまでは船体内にある羅針盤とレーダーを見ながらこちらから接近したが、中央司令部の説明によると、今回は接続点が磁力を発して、向こうから建物に接続することになっているらしい。
十五分ほどが過ぎた頃――。
船体室は真っ暗になった。
「うわっ」
思わず声を上げ、ランはガラスの床に転がった。「なにも見えない」
船体室を出たいが扉の方向もわからない。
――どうすればいいんだ!
さすがのランの心臓も大きな音を立て始めた。
その時、突如として、ガラス一面が眩しく光った。突き刺すほどの眩しさを遮ろうと二の腕をかざし、ゆっくりと半身を起こした。
「ラン、久しぶりだね」
そう声を掛けられたが、今度は眩しすぎて何も見えない。
「中央司令部だ」
少しずつ目が慣れてくると、ガラスに司令部のデスクが映し出されているのが見えた。
「なんだ、これは」
「このガラス、通信画面にもなっている」
見たことのある痩せた男の顔が映っていた。華奢な体に、やや高めの声。司令長官だ。司令長官に似合わない風貌かもしれないが、これまでに遭遇したどんなトラブルにも冷静に対応してきた。ランですら一目置いている。
「こんな風になっていることを先に教えてほしかったです」
ランの鼓動はまだ通常よりも早いままだった。
「すまない。悪かった。当初はランのPC画面でやりとりする予定だったが、そちらも人数が増えたようだし、このガラスを使うことになった。大画面でどうぞってことで」
頬にえくぼにも見える皺を寄せて笑った。
「ところで、いつ軌道に接続するのでしょう」
「もうすぐだ。後数分。ガラスの天井に接続ポイントがドッキングする。ポイントと言っても、直径2メートルほどの輪で、それがガラスにくっついて接続する。自ずとガラスの部分が開き、こちらから梯子を下ろす。その梯子を上ってくればステーションだ。ステーション自体は見た事があるだろう?」
司令長官の言葉にランは頷いた。
「ステーションにはいつも通り、一応、宿泊所がある。そちらの建物内で寝るのもいいが、朝食は宿泊所内で提供されることになっているので、できるだけこちらに入ってもらうことをお勧めする。風呂もあるし、全員分の着替え、事前調査に記載されていた常備薬などの配布も行う」
「そのことですが、実は――」
ランは司令長官にマヤの妊娠のことを話した。叱られるだろうと予測していた。しかし、予測に反して
「それはめでたい」
司令長官は再び頬に皺を深くして、満面の笑みを浮かべた。「初めてのことだ。宇宙飛行中に出産することになるだろう」
「叱られなくてほっとしていますが、宇宙飛行中に出産することになるだろうと仰っているのなら、今回は、最低でもあと十か月ほどは戻れないのですね」
ランが言うと、司令長官は笑みを浮かべたまま、
「もちろんだ。もっと長旅になるだろう」
きっぱりと言った。
ガラスに映し出されていた司令長官の姿は消え、船体室は再び暗闇に戻った。ランは一瞬ドキリとしたが、次の瞬間にはガラスの天井に司令長官の言った輪が貼り付くのを見た。
――なるほど。あの空間からステーションへと向かうのか。
ランは船体室を後にし、まずはナツが家族たちと過ごしている部屋の扉を叩いた。ナツが顔を出す。
「ナツ、軌道に接続した」
それだけを言えば通じる。長年、任務を共に行ってきた相棒だから。
ナツは頷き、マヤたちにここで待機するようにと伝え、ランと共に船体室へと向かう。
「これまでは船体が接続ポイントに接近して着陸するのが定番だったが、今回はちょっと変わっているよ」
ランは船体室の扉を開きながら、ナツに状況を説明した。「向こうから触手を伸ばしてきたようだ」
船体室に入り、
「見てごらん、あれを」
ランは天井に空いた穴を指した。「あの穴から向こうに行けば、軌道のステーションになっている。司令長官の説明によるとね」
「なんだあれは、奇妙だな」
ナツは信じられないといった目で穴を見た。
そうしているうちに、穴から細い階段が差し込まれてきた。
「あれを上るというのだな」
「慣れ親しんだ任務だと思ってきたが、建物ごと出奔したのも初めてのことだし、あんな階段を見たのも初めてだ」
二人があまりの奇妙な状況に身を固くしていると、再び側面のガラスに司令長官の姿が映し出された。
「ナツ、久しぶりだな」
「長官。お久しぶりです。お元気でしたか」
ナツは持ち前のそつのない社交性を発揮した。
「もちろん元気だよ。君も元気そうで何より。さて、今回の特殊事情はある程度ランから既に聞いていると思うが、実際には、今回のミッションはこれまでとはまるで違うものになる。建物ごと出奔というのもそうだが、それだけではなくもっと本質的にこれまでとは異なっている。それは徐々に話すとして、ひとまず、他の参加者をこの部屋に連れてきて、この階段を上るように言ってほしい。まずはそれがミッションだ」
「ミッションと言うほどのこともないですよ、長官」
ナツは野太い声で言い、自信満々の笑顔を見せた。「ここの人々はみんな速やかに動くことができる人ばかりですから」
「そうかな」
司令長官はえくぼを深くした笑顔を見せた。「意外と抵抗すると思うが」
「とりあえず、みんなを呼んできましょう」
ランが言うと、司令官が短く「頼む」とだけ言い、ガラスに映った映像は消えた。
「誰でもすぐに上ると思うがな」
ナツはランに同意を求めた。
「僕もそう思うけど、しかし、考えてみれば、彼らは一度も外に飛び出したことがない人たちばかりだからね」
ランは彼らが船体室に入っただけでも、空気や水は大丈夫かと不安を打明け始めたことを思い出していた。
「大丈夫だよ。ステーションに行きさえすれば、飯も食えるし、風呂にも入れる。必要な物資を受け取ることもできるのだから」
ナツは楽観的だった。
「どうかな。ひとまず、全員をここに集めよう」
ランはナツと共に船体室を後にした。
ランとナツは各部屋の扉を叩いて回り、船体室前の広間に来るようにと言った。ベッドに横たわっていた人は起き上がり、仲間と談笑していた人々は話を止めて二人の方を見た。
「いよいよ、軌道に接続した。今日はステーションのホテルに泊まることになる」
ランが言うと、不安とも喜びとも言えないざわめきが起こる。部屋は個室かとか、食事はどんなものが出るのかなど、細かな質問が飛び出してきたが、
「行ってみないとわからない」
ランはそう答えた。「これまでの体裁とは全く異なるからね」
人々はしんとして、不満げな空気が漂ったが、ランの言い方がきっぱりとしていたせいか、聞いてもしかたがないとわかったのか、誰もが沈黙し、二階の広間に向かう準備を始める。
その反応はどの部屋でもだいたい同じだった。
ナツの家族も含めて、全員が広間に揃うと、まずはそこで列を作らせ、船体室には五人ずつ入れることにした。ナツが広間に残り、ランが中へと誘導する。
最初はキムを含めた寡黙で熟練の五人。その五人を階段の下に立たせ、ここを上ると接続ポイントに出ることを説明した。
「しかし、先ほども言った通り、私とナツの二人がこれまでに行ってきた体裁とは全く異なっている。これまでは二人が乗った船自体が接続ポイントに到着し、船の扉から階段を下ろして現地に降り立ったのだ。今回は向こうから接近してきたし、あの丸い穴を見てくれ、あそこから階段が下ろされてきたのだ。つまり、物理的状況としては逆向きになっていると言える」
ランがガラスの天井にある穴を指すと、五人は黙って見上げた。下から見上げても穴は真っ暗で何も見えない。
「全く初めての形なので、厳密にいうと何が起こるかはわからない。なので、まずは僕が一番に階段を上って行くことにする」
ランが言うと、
「それはだめです」
キムが制した。
「どうして」
「隊長に万が一のことがあれば、その後どうすればいいかわからないからです。あくまでも、隊長は最後までここに残る必要があります」
そう言われて、ランはそれもそうだと思った。
「危険はないはずだ。はずだ、ではなく、危険はない。それだけはわかっている」
「じゃあ、私が一番に行きましょう」
キムが階段に向かって歩き始めた。階段はステンレス製の簡易なものだが手すりがあり、一人が通ることのできるだけの幅があった。
「では、ラン隊長、行ってきます。安全であれば、折り返して、安全だと言いましょう」
キムが言うと、一人の男が一歩踏み出し、
「僕がキムさんのすぐ後にくっついて行きますよ。もしも、キムさんが階段を上り切って、あの穴の闇の中に溶けて消えてしまったりしたら、引き返して、これはだめだと伝えましょう。残酷なようですが、みんなのためです」
男は無表情なままキムの顔を見た。
「それはいいアイデアだな」
キムは静かに微笑む。
ランは許可し、二人を階段に向かわせた。誰もが沈黙し、息を凝らして二人を見守っていた。階段を上る靴音が船体室に響き渡る。およそ五十段ほどある。二人の姿が徐々に小さくなって、やがて穴の前に来た時、キムがこちらに振り返ってて手を振った後、ゆっくりと暗い穴の方に入って行った。
しばしの沈黙の後、キムの後を追っていた男が足早に階段を下りてきた。
「どうした、キムはどうなった」
ランは急に大きな不安に包まれた。男の顔も笑顔ではない。
「消えました」
船体室内がどよめいた。
「消えた? 穴の向こうは見えたか」
「見えません」
「どうなったのだ、僕が見てこよう」
ランが階段の方へと歩き始めようとすると、男がランの腕を握り、
「キムさんが言った通り、ラン隊長は最後まで行かない方がいい」
きっぱりと言う。
「でも、キムが――」
ランは言葉を詰まらせた。
「危険はないと仰ったではないですか。きっと大丈夫です。それに、キムさんが入って行った瞬間、声を発しました」
「どんな」
「それは、『素晴らしい』という声です」
「素晴らしい?」
ランが首を傾げると、男はうなずいた。
「でも、戻ってはこなかった」
男はやはり無表情で言う。「構造的に戻れなかったのだろうと思います」
「どうしてそう思う?」
「キムさんなら、もしも戻れる形になっていれば、戻って来て、『素晴らしいから後に続け』と言うはずです」
「それもそうだな」
ランは納得した。
「なので、キムさんの声をはっきりと耳にした私が次に行きましょう。そして、先ほどと同じように、もう一人が後ろからぴったりとくっついて上るようにする。私があの穴に入った後、なんらかの構造上の問題があって戻れない場合でも、キムさんのように何か声を出す。それは『素晴らしい』ではないかもしれない。『続け』かもしれないし、『来るな』かもしれない」
キムに着いて上った男が言った。
「それはいいアイデアだな。いっそ、残りの四人が並んで階段を上ってもいいが」
ランが提案すると
「最終的にはそうしましょう。でも、まずは、後ろから着いて来た人が、先に穴に入った人の言葉を聞いて、一応、それをここに持ち帰ってみんなに伝え、それから次の人が行く方がいい気がします」
男が答えた。
「わかった。そうしよう」
ランはひとまず男の提案に従うことにした。「では、次に後ろから着いていく係を担当してもよい人はいるか」
残りの三人の顔を見た。三人はそれぞれの顔を見て、乗り気ではなさそうに「どうぞお先に」を互いに言い合った。
「みんな行きたくないのか。ホテルで休めるはずなのに」
「キムさんが最後に『素晴らしい』との言葉を残したからと言って、今、キムさんが生存していることにはなりません」
一人が言った。
「厳密にはそうだが、危険がないことはわかっている」
ランは根拠がないものの、経験的に断言していいと思っていた。
「でも、今回は構造の体裁が異なるのでしょう? 前は船体から階段を下ろしたが、今回は建物内に階段が下りてきたのだと、さっき隊長は仰いました」
「それはそうだが、少し前に司令長官と話をした。当然危険はないはずだ」
ランが言うと、三人はしばらく黙り、そのうちの一人が
「じゃあ、僕が、行きましょう」
渋々ではあったが、静かに名乗り出た。
「よし。ではすぐに、二人で階段を上ってくれ」
ランはほっとした。部屋の外にまだたくさん人がいる。あまり長く時間を取っていると、ホテルで休む暇がなくなってしまう。
二人は順番に並んで、階段を上り始めた。あまり間を空けずに、ぴったりと並んで一歩ずつ神妙に上って行く。
一人目の男が穴の中に入って行くと、後ろの男はしばらく穴を見上げていたが、ゆっくりと階段を下りてきた。全員の前に無表情のままで立った。
「どうだった、彼はなんと言った? キムのように『素晴らしい』と言ったか?」
ランが言うと、男は「いいえ」と言った。
「じゃあ、なんと?」
「『うわあ』と言って、その後、笑い声が聞こえました」
「笑い声? どんな笑い声だ。笑い声と言っても、悪魔のようなものもあれば、友情に満ち溢れたものもあるだろう」
「どちらかというと、好意的な笑い声でした」
男が言うと、残りの二人はほっとした表情を見せた。
「それなら、穴の向こうはやはり安全だろう。経験的にも、ステーションにある宿はたいてい、いいホテルだったから」
ランはこれで絶対に大丈夫だと確信した。
次は今階段を下りてきた男が穴に入る番で、その後を上って行く番は、残りの二人がじゃんけんをして決めた。
「『うわあ』とか笑い声じゃなくて、キムさんのように、ちゃんといいところなのかどうかを言ってくださいよ」
後続の人が念押しをして、二人は昇って行った。
戻ってきた後続は
「結局、キムさんみたいに明確なことは言いませんでした。『なんと、まあ』と言って、それだけでした。ただ、声の調子は明るかった」
不安そうにしながらも、事実として前向きなことを述べた。
そのようにして、先発隊の五人はどうにか階段を上り切り、穴の向こうへと入っていった。
五人が穴の向こうへと入った後、ランは船体室の中でしばらく考えた。残りの人々をどうするか。最初の五人が接続ポイントに向かう前は、穴の向こうへに渡った後も、船体室に戻って来ることができるつもりだった。しかし、どうもそうではないようだ。誰も戻ってはこない。
最初の五人はベテランのパーツ製作員だからスムーズに事が運んだが、広間で待機している人はどうだろう。少なくない人々がどうしても行きたくないと駄々をこねそうだ。
――しかし、行かなくては、ホテルで食事をしたり休んだりすることができない。
ランは悩んだ。
――よし。ひとりずつ部屋に呼び、ひとりずつ、接続ポイントへと向かってもらうことにしよう。ナツにも内緒だ。
広間では製作員とナツと家族たちが立ったままで待っていて、ランが船体室から出てくると、喋るのを止めて一斉にランの方を見た。
「ここからは、ひとりずつ船体室に入ってもらう」
そう言うと、ざわめいた。
「どういうことだ。五人ずつか、もう少し多めに入って、さっさとホテルに向かおうじゃないか」
ナツがランの前に歩み出た。
「事情が少し変わった。ひとりずつにする。もちろん、先に行った五人は順調に行った」
「理由は?」
「後で言う。とにかく、そうすれば何も問題はない」
ランの口調がいつも以上にきっぱりとしていたので、ナツは「わかった」と引き下がった。「僕と家族は最後にするよ」
「それがいい」
ランもそれには賛成した。
不安を感じてなかなか階段を上らない人もいたが、どうにか、ナツとその家族以外の人が軌道に乗り、とうとうナツと家族の番がきた。そこで、ランはナツだけを船体室に呼び出して、最初の五人が接続ポイントに上がっていった時のことを説明した。
「歓喜する声がするが、こちらに戻ってこなかったんだな。キムでさえそうだったのだから、構造的に、一度出たら戻ってこれない仕組みになっているということか」
ナツは飲み込みが早かった。
「どうする? 家族はどうやって行く?」
「まず、妻が行き、子供たち二人が行き、最後に僕が行く」
「それがいいな。その後、僕も続くよ」
ランはようやくそこで緊張がほぐれて笑顔になった。
ナツの家族は四人で階段を上がり、速やかに穴の中に上っていった。
ランは心底ほっとして、必要な荷物を持つと、とうとう自身も階段を上り始めた。
――誰一人とりこぼさなかった。成功だ。
階段を上る靴音が船体室に響く。途中で足を止め、船を見下ろした。
――もしも、戻ってこれないのだとしたら、この船を見ることもないだろう。
また上り始めた。
とうとう穴の前に来た。真っ暗闇だ。
――みんなよく勇気を出して上ったものだ。
穴の向こうにも階段が続いているのは見える。
一歩進む。二歩進む。
穴の輪に手をかけ、ぐいと身体ごと最後の一歩をよじ登った。
「ああ、これは、なんと、素晴らしい」
ランはキムと同じことを言った。
身体の全てが穴から出て、ガラスの上に立った。
辺りは眩しかった。
「ラン、おめでとう」
ナツが駆け寄って、抱き合った。みんなが一斉に拍手をしている。
「ラン、ほら」
ナツが指さした方を見ると、自分たちがたった今出てきた建物のガラスの天井や側面の壁から船体室が見えた。
「ランが登ってくるところが見えていたよ。途中で立ち止まって、船を名残惜しそうに見ていたね」
ナツは目にじわりと涙をためていた。
「どこから出たのかよくわからないだろう。でもなぜか、ガラスの外に出たんだ。そして、こちらから内側は見えていた。みんな心の中で、出てこい、不安に思うな、大丈夫だと応援していたのだ。中からはこちら側は見えなかったけれどね」
「そうだったのか」
ランは辺りにいる製作員たちとも握手をして、無事を喜びあった。
「ラン、成功したね」
司令長官が横に立っていた。
「うまくいきました」
「こんなに早く成功するとは思わなかったよ。なんども船で飛び出す演習してきた甲斐があった」
えくぼを作りながら笑みを浮かべる。
「今回も、いつものホテルに向かうのでしょう?」
ランが言うと、司令長官はうなずき、
「もちろん。美味しいものを食べて、ゆっくり休んでもらうよ。そして、ここに居る人たちの家族や友人もホテルで待っているのだよ」
満面の笑みを浮かべた。
「どういうこと?」
ランとナツは顔を見合わせた。「よくわからないな」
司令長官の言葉を聞いた後、全員がどういうことだろうと興奮してざわめき、たった今出てきたばかりのガラスの下にある建物をぼんやりと見下ろした。
時間で言えば数秒のことだろうが、おそらくは全員がもっと長く感じながらぼおっと立ち尽くしていると、建物は摩天楼のように徐々に輪郭を曖昧にし、全体がゆらめきながら徐々に崩壊した。すっかり形を失い、煙だけがわずかに残っている中で、何かが見えた。
「なんだ、あれ?」
ナツがランに言う。
見ると、それは一枚の絵とひとつのオブジェだった。
ランが近づき、絵を手に取り、じっと見た。
「これは、僕たちがさっきまで居た建物?」
「工房か」
ナツも覗き込む。
「じゃあ、オブジェは?」
ナツが拾い上げた。
「なんだろう。わからない」
司令長官も傍に立ち、
「まさか、こんなことに――」
蒼ざめ、呆然と立ち尽くしていた。
(『星のクラフト』0章 了)
《あらすじ》
ひとつの建物があり、その中では地球の外に出て建設するためのパーツ製作が行われている。ランはそれを指揮し、時が来るとパーツ製作員と共に予定された地へと移動することになっていた。ランの相棒であるナツは移動する直前になって、今回は船によるランとナツだけの旅路ではなく、この建物ごと飛び立つ旅路となることを知らされる。ランはこれまでとは違った形態の旅路になると知った時、ナツに黙ってナツの家族(マヤ トキ モモ)を同行させることにしていた。ナツが嫌がるだろうから言わなかったのだ。後に、妻のマヤは妊娠していることが判明する。
司令長官がガラスの壁に映像として現れ、その指示通りに建物ごと上昇した後、行先である接続ポイントが到来し、建物のガラス天井に穴が開く。そこから階段が下ろされ、パーツ製作員とラン、ナツ、その家族は階段を上り、新天地へと向かうことになった。行けば、ホテルがあって休めることになっている。
多くの人は怖がったが、長老であるキムがトップで行き、「素晴らしい」との言葉が聞こえたので、他の人々も後に続いた。
先に上った人だけにわかるのは、上った向こう側からだけは、ガラス越しにこちら側の建物は見えること。そして、一度上ったら降りることはできず、ただ、がんばれと上ってくる人々を応援するしかなかった。
全員が移動した後、ガラス下に見えていた建物は崩壊し、後には絵画とオブジェが残されたのだった。
《ここでの登場人物》
ラン 桃色の髪
隊長
色白で切れ長の眼
家族なし
ナツ 口ひげ
彫りの深い顔
浮気性
社交性あり
マヤ トキ モモ ナツの妻と子供二人
マヤ妊娠
キム ランと長く共に仕事をした長老
小鳥を同行させる男 小鳥を連れて行きたいと言った
パーツ製作員の一人
他のパーツ製作員たち
司令長官 ランの長年の上司
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