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解読 ボウヤ書店の使命 ㉕-外伝-4

長編小説『路地裏の花屋』の外伝『ツツジ色の傘』の読み直しつづき。

《というわけで、運河の畔にある門の前で大柄の男が倒れているのを目の当たりにしたとなると、模糊庵自身が松子に助けられた日のことが思い出され、あの日泥酔したままリヤカーに乗せられ、か細い松子によって助けられた自身の姿を想像して情けなく、せめて、目の前の男を助けることで恥ずかしさを相殺し、赦免してもらいたくなった。
 無様にいびきを掻いている男の周辺に散らばっているものを拾い上げ、模糊庵自身が手に持っていた鯛焼きの袋とひとつにした後、落ちている橙色の薔薇の花のうちまだ蕾のものだけをいくつか選んで男の着ているスーツの内ポケットに入れると、習っている柔術で背負い投げをする際に使う技で腰を入れて、重い男の身体を自身の背中に乗せ、男の足をずるずると引きずるようにして歩き始めた。
 背負った直後は重かったが、不思議なことに少しずつ歩き始めるとふわりとして軽く思えた。これでは背負った途端に重くなると言われるこなき爺と反対じゃないかと不思議に思いながら歩き続け、家に辿り着くと、かつて自身が松子にしてもらったように布団に寝かせた。
 すっかり夜になっていた。
 買ってきた鯛焼きを網で焼直して食べようとした頃合いで、ようやく肩や腰が痛くなった。やはりあのような大男、実際には重かったのだろう。背負って歩いている間だけはこちらまで酔っているように仕組まれていたのだろうかとさえ思えてくる。
 誰がそんな妖術めいたことを仕向けてきたのか。松子か? そんな馬鹿な。松子は幽霊になってまで人助けかい。仏壇に飾っている松子の写真を眺めると、彼女が亡くなってから初めて恋しさを覚えたかの如く急に胸が熱くなって、鯛焼きをつまみにちょっと一杯飲もうと地酒の盃を傾けた。
 いい歳をして、死んだ女房への恋の行き場を失い酩酊しなくてはいけないのだろうか。そんなことをすれば、松子によってここに連れて来られる直前の、まさに振り出しに戻っただけじゃないか。松子のいない今ではもう誰も助けてはくれないだろう。それでは己自身、成長のかけらさえも感じられない。金太郎飴のように、まったくどこを切っても代わり映えのしない人生じゃないかと眉間に皺を寄せて一口飲む。
 鯛焼きを齧る。
 隣の部屋で呑気そうに眠る男を横目で見ると、口を開けて気持ちよさそうに眠っている。どうにも間抜けな野郎に見える。
 ひょっとしてあいつも私のような奴か? 理由は分からないが凝りない奴か? しまったな、不徳の致すところで、つい同類項を引き寄せてしまったか。
 そう思うと、それまでのしんみりとしていた気持ちもおかしさに変化して、口に含んだ地酒を思わず吹き出しそうになってしまった。

 翌朝早く、布団で眠っていた男はようやく目覚めたらしく、あれ? なんだ、ここは、と叫んでいる声が隣室にいた模糊庵にも聞こえてきた。模糊庵が部屋に入っていった時には、布団から半身だけを起こしつつも、いまだ朦朧としているらしく、全く状況を掴み切れずにいるようだった。模糊庵はその斜め前に座る。
「どうして君はあんなところで眠りこけていたのかね」
 男は頭をぐしゃぐしゃと掻きながら、あんなところって、どこだろう、どうしてこうなったのだっけ? と繰り返した後、
「ひょっとすると、僕は酔っていたのかな」と言う。
 あれだけ泥酔しておいて、ひょっとするとだなんて、全く図々しい男だと模糊庵は呆れてしまう。
「酔っていたことは分かっているが、どうしてそんなに酔ったのかと聞いているのですよ。言いたくなければ言わなくてもいいが」
 男は頭を掻く手を止めて模糊庵の顔を間の抜けたような顔つきで眺めた。
「言いたくないというより、なんだろう、細かいことを思い出せないような――」
 模糊庵はふうんと頷いた。それなら松子に助けてもらった時の自分と同じだ。
「記憶がない訳ではないが、記憶そのものに現実感がない、といった感じがするのかね」顎鬚を撫でた。
 男はかゆいところに手が届いたと言わんばかりに顔を輝かせた。
「まさに、その通り。いや、ああ、そもそも記憶の現実感なんて、今までは考えてみたこともなかったけど」
 模糊庵もそうだった。
 あの日、松子に助けられてここへ来るまでは、記憶とは、たとえ過去の事であったとしても現実そのものだった。詳細を思い出せないことはあっても、記憶から発せられる喜びや後悔や怒りや幸福感はいつまでも生々しく真実としてそこに存在し続け、ある時には励ましてくれるし、また別の時にはまざまざと落胆させてくる生き物だった。でもこの家に連れてこられて目覚め、松子に「どうしてあんな恰好で酔い潰れていらっしゃったのか」と問われたとき、そういった記憶の権威ともいうべきものが、どこか薄っぺらな子供だましのようで、忘れた以上に、もう語る気にもなれぬお粗末な代物に変わってしまっていた。連れてきたこの男もそうであるに違いない。これ以上、倒れていた理由を聞いても無駄だろう。
「もしもすぐにでも連絡したいところがあればしなさい。君の携帯電話の電池は切れていたし、私としてはどこに連絡すればよいか分からなかったから、そういった対処は何もしておりませんよ」
 男は再び頭をもしゃもしゃと掻いて、部屋中を見渡している。
「それにしても、どうして僕はここに?」
「私が背負って連れてきたのですよ。あそこで寝ていても誰も助けてはくれないだろう。助けないどころか、おやじ狩りの類にでも会いそうだから」
 そう言ってしまってから、目の前の男は五十代後半くらいに見えるものの鼻筋も通って肌の色艶もよくなかなかの美形と気付いて「いや、君におやじと言っては失礼ですが」ひとつ咳払いをした。
「あなたが私を背負って?」
 男は頭を掻く手を止めて、嘘だろうと言いたげにこちらを見た。模糊庵自身は中肉中背でそれほど小柄というわけではないが、比較すると男は大柄だ。確かに、背負って歩くには不釣り合いかもしれない。
「私は柔術を学んでおりまして、いざという時には気を用いて力を発揮することができるのですよ。小さくても大きいものを担ぐことができます」
 そう答えてから、ああそうか、それで歩いている最中は重くなかったのかと自身でも納得した。松子の亡霊が出たのではなかったのだなと思うとほっとするような、がっかりするような気持ちにもなって、ふっと笑みがこぼれてしまう。男は、ほおんと気の抜けたような声を出して模糊庵を見つめ、
「それは、便利ですね」
 と言ってから、「いや、助けて頂いて、便利だなんて、そんな言い方はないですね。すみません。ありがとうございました」頭を下げ、そのまま申し訳なさそうに上目づかいで模糊庵を見た。
 その仕草がおかしくて、もうこらえきれずに模糊庵は大声で笑い始めた。つられたのか男も照れ臭そうに笑い出し、互いにやっと落ち着いたところで、
「どうあれ、君は一度起きて風呂にでも入って着替えなさい。私の作務衣を貸して差し上げましょう」
 風呂の準備をしてやった。》

つづく。

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