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星のクラフト 1章(全体つなぎ・肉付け)最後尾にあらすじ掲載

 いつものカフェの扉を開けた。
 JBL製スピーカー側の席がお気に入りなのだが、残念なことに先客に奪われていた。どうやら先客の老女は老眼鏡を忘れたらしく、目を細めてスマートフォンの画面と格闘している。
 私はその席の斜め前から少し離れた厨房前辺りの席に座り、まっすぐに目をやれば自然に視界入る壁を眺めた。床から天井までがガラスで作られ、透き通っている。
 もちろん壁というよりも、それは窓なのだが、構造上開くことのないガラスが部屋の南側一面に嵌め込まれているので、ガラスの壁と呼んでも差し支えはないはず。
 窓に面したソファ席には恋人のように仲の良さそうな二人組と、真剣に書き物をしている中年のお一人様が座っている。窓をガラスの壁と呼んでも問題が無いことを証明するかのように、客の中の誰一人として外を見る者はなかった。
 私はガラスの向こうに建ち並ぶビルやバスのロータリーを目に映した。そのロータリーを縁取る樹木と、その葉を時々震わせている鳥達に目をやりながら、この店で最も好きなケーキを食べることにした。
 桃のレアチーズケーキ。あまりに美味しいので、このケーキを食べる時にはケチケチと小さく切って食べてしまう。だからいつでも必ず先に飲み物が無くなる。
 その日も、案の定、後一口だけケーキが残ってしまって、本当なら珈琲の追加注文をしたいところだが、家から出る前にも自分で淹れた珈琲を一杯飲んだので、カフェインの摂りすぎで視界が極度に鮮明になるのを恐れて自粛した。
 気付くとJBL側の席にいた先客はいなくなり、新たな客が座ってタブレットをいじっている。手の動きからすると恐らくゲームに熱中。なぜか先の客とファッションがそっくりで、先客は白いコットンシャツに黒のフレアパンツだったのが、今度の客はそれがスキニーパンツになっただけ。髪型も似ている。しかし今度の客は眼鏡を忘れてはいない。
 それ以外に、この場所で何かいつもと変わったことと言えば、店長らしき人とバイト生の事務処理が店の片隅にて進行していること。二人ともがとてもにこやかなので辞める為の手続きではないだろう。恐らく休日の取り決めか、あるいは新しく仕事を始める為の打ち合わせではないか。もちろん断定はできない。にこやかといえども辞めるのかもしれない。どのような別れでも互いにとって幸福なこともあるものだ。
 ガラス向こうのロータリーでは五台目のバスが乗客を乗せて発進した。ロータリーの前には世界的に有名なカフェがあり、二階の壁に打ち付けられたロゴがここからでも半分だけ見えている。その後ろには電車のプラットホームがあり、カフェの座席からの風景としては随分遠くのものだから、キオスクと時々停車する電車の周辺を往来する人々がミニチュアの如く感じられた。
 ガラス窓の右端あたりに外部から最も接近している所には、ジェットコースターの鉄橋を思わせる構造物があり、ここから見る限り、いったい何のためのものかはわからないが、鉄橋がスパッと切り落とされたかのような姿は途切れてしまった遊園地を思わせる。悲観的な表現を好む人ならばことさらに何かの終わりを誇張したくなるかもしれないが、逆にそこから異次元が始まるかにも見える。その場合は空間にぽっかりと穴でも開いて、構造物の続きはそこに突入しているのだ。もしもやる気も想像力もある詩人ならば、近未来の廃墟についての一編を思い付くのかもしれない。その廃墟は造り始めの建造物とどこから見ても変わらない。
 空中に向かってぷっつりと途切れたジェットコースターみたいな線路。何かの終わりにも見えるが、始まりにも見える。その周辺に漂う時空間に穴でも開いて、さっそうとなにか乗り物が現れそうだ。

 私は桃のチーズケーキの最後の一切れを口に運びつつ、ぼんやりとガラス窓の外を見ていた。
 ――うわっと。なんだ、あれは?
 おそろしく巨体な何かがふわっと現れ、視界を遮った。
 あの世界的に有名なカフェの直ぐ横に音もなく着陸。夢想した通り、どこか別の空間から、こちら側に投げ出されたかにも見える。
 ――幻視?
 いや、はっきりと見える。大きな鳥の形だ。
 そして、すぐに何もなかったかのように、見えなくなった。いつも通り、広場の石畳を通行人たちが足早に過ぎて行くだけだ。
 ――消えた?
 いや。私は見逃さなかった。それは消えたのではない。
 眼下のロータリーを縁取る葉が明滅して揺れる樹木の中に飛び込んで、いくつかの薄青い影を地面に落として私の注意を散漫にさせた後、枝と葉と陰の織りなす死角に速やかに隠れて、別の何かへとメタモルフォーゼした。明らかに、その辺りの葉だけが他とは異なる震え方をした。

 実を言うと、こんなのは前にも見たことがある。
 最初、鳥の形をしていたものが、少しずつ鳥ではなくなる。嘴で挟んだ実に小さな虫が着いていた時の驚いたヒヨドリの顔つきや嫌悪の表情、その背後でからかうように鳴いて横切る雀を振り返る時のヒヨドリの首の仕草が、あまりにも人類そっくりだった。
 ――これは鳥ではないな。
 私はその時、一人で確信したものだった。
 いや、そもそも、鳥とはそういうものか。鳥にトリなどとお手軽過ぎる命名をしたのは浅はかではないか。彼らは多次元を往来する、偉大な何かなのかもしれないのに。やや軽率にすぎる。
 人類にそういった軽率が頻繁に起きるのは、恐らく、空間に降り注ぐ無数の記号の組み合わせがもたらす現象について無知すぎるのだ。途切れたジェットコースター風の線路やミニチュアに見える駅のプラットホームなどの記号が何層にも重なって集結した場合に、そこで発生する時間風に関しては驚くほどに無頓着。
 まして、ここではガラスの向こうのことだから。
 たとえば、あのミニチュアに思えるプラットホームは運命的に遠く離れた星を思わせる。
 そこでは時間が旋回している。閉じられた箱のようなものだ。
 箱の中に詰められた甘くて苦い、あるいは酸っぱい風船型の顛末はいつまでも無くなりはしない。風船型の包み紙を開けた時に、自身にそっくりな形をした《お菓子》が飛び出して後方にひっくり返る。
 何が似ていて、何か似ていないのか、その雛型と全く等しくなってしまわない為には何をするべきではないかを考えた後、結局はよくわからず、闇雲にその顛末である《お菓子》を口に放り込んで飲み込んでしまえば、不思議の国のアリスのように大きくなって、もう二度と元には戻らない。
 そして、それを忘れる。
 なんだって雛型なのだと飲み込んでしまえば、ひとりずつに違いなど必要ないのだろう。
 その星では、奇妙な味のものを飲み込む度に大きくなり、前の自身を忘却し、やがて詰め込まれた《お菓子》はなくなっていく。

 依然として、カフェでは誰もガラスの向こうなど見ていない。
 あれはガラスの壁だから。
 それをいいことに鳥たちが嬉しそうに降り立って、時間風の起点に差し掛かると堂々と羽根を着替え、あっという間に人間の言葉を覚えて流暢に話し始める――そう言えば、今朝、自宅近くのアンテナの上に止まっていた近所のヒヨドリが、飛び立つ直前に人間風の調子で鳴いたのを聞いたばかりだ! いくらでも姿を変えられるのか。
 ダーウィンの長い年月をかけて行われた研究も、特殊な時間風に吹かれるとほんの一瞬の出来事なのだ。
 ――進化? いや、変化。そもそも人類と鳥類では系が違う?
 どうあれ、いつまでも鳥のままで同じ歌を歌ったり、逆に歌を聞いてそれを愛でたりしていたくても、喪失という接近を免れる事はないのだ。

 やはり、その日、とある空間から投げ込まれるようにして到来した大きな鳥の形も、この時間風の吹き抜ける広場に到着し、静かに着陸した後、そのもの自体の姿としては形を喪失した。変容を遂げたのだ。

 窓の外は、大きな鳥の落とした薄青い影が徐々に拡がるように、夜に近付いていった。
 私はカフェを出て、先ほどまで見下ろしていた広場の石畳を歩き、駅の構内へと向かうところで立ち止まった。
 ビルにもたれて、泣いている人が居たのだ。
 いつもの私であれば見て見ぬふりをして通り過ぎる。さきほどのカフェで客たちが決してガラス窓の向こうを見ようとはしなかったように。もはやそのガラスさえもないはずなのに、驚くほど分厚い壁の存在を身体の片側で意識しながら、そのうち親切な誰かが何かをするだろうことを期待しつつ、そっと去ってしまうのが通常だ。
 ところが、その日に限っては、なにか当然のことのように近付き、泣いている人に声を掛けている私がいた。
「どうかしましたか」
 顔を覗き込むと、彼女はしゃくりあげながら私の方を見上げた。
「帰るための、鳥の形を、無くしてしまったの」
 随分と長い間泣いていたのだろうか。真っ赤に泣きはらした目だ。
「鳥の形?」
 鳥の形とは、私がガラス窓から一瞬だけ観た、あの樹木に紛れ込んでメタモルフォーゼしてしまった大きな鳥のことだろうか。それとも――。
「ひょっとして、この星のケーキを食べ過ぎたんですね」
 自身に似た《お菓子》を口に放り込んだ後、大きくなりすぎて元に戻れなくなるアリスのことが頭をよぎった。言った後ですぐに反省。泣いている人に対して、奇妙な言い方をしてしまった。
「いいえ、そうではなくて――」
 彼女は手の甲で涙を拭い、こちらをまっすぐに見た。
 話し始めた彼女の唇にはクリームのようなものが付いていた。やはり文字通り、ケーキを食べ過ぎた人ではないか? クリームの下にはイチゴジャム。よく見ると、瞼にもブルーベリーソースの跡が着いている。まさか瞳でケーキを食べたりはするまいが。ソースの着いた手で目をこすったのだろうか。
「そうではなくて?」
「私はケーキなど食べてはいません」
 泣きじゃくりながらも唇を尖らせて不快そうな表情をした。
 私はその表情を見て、ハッとした。
 ――これは地球に棲息する人類ではないのではないか。
 地球に棲息するものであれば、皮膚の上に一枚の覆いがある。それは蝉の羽根よりも薄いがビニールよりも頑丈な膜で、人それぞれに色が違って見えるものだ。彼らは目の前に立つ相手によってカメレオンのごとく色が変化し、光ったりどす黒く澱んだりするのだ。
 しかし、彼女にはその覆いがなかった。夕刻だったから見えなかっただけとは言い切れないほど、皮膚は外界に対して剥き出しで、何も被せられていない輪郭が都会の風をまともに受けている。
 彼女の後ろに束ねた髪からは真夏に熟す青い実の香りがする。やはりこれも地球人のものではない。あの青い実はとある星の海辺でだけに生息する樹木のものなのだから。
 地球人に対しては厳格すぎるほどの警戒心を持つ私も、彼女に対しては驚くほど無防備になって、一ミリも迷うことなく速やかに接近した。
「でも、さっき、帰るための鳥の形を無くしてしまったと言いませんでしたか」
「それとケーキにどんな関係があるのです?」
 ぎゅっと黒目を寄せて私を睨んだ。
「だって、ケーキを食べたら、鳥の形は失われてしまうとこの星では決まっているのだから」
 黒目の圧力にひるんで、私はその場しのぎの出まかせを口走った。
「食べていないったら、食べていないのよお」
 両手を下に押し下げ、地団駄を踏むまでして大声で鳴き始めた。道行く人が私と彼女をじろじろと見ながら通り過ぎていく。
「ちょっと、そんなに泣かないでください」
 ――子供だったのか。
 慌ててなだめ、背筋を伸ばし、「その鳥の形とはどういうものですか」真面目な調子を装って尋ねた。
「さっきケーキを食べたら失われるとか言ったくせに、鳥の形について知らないとでも言うの」
 子供みたいに見えるが、矛盾点を見逃すことはなかった。
「ごめんなさい。あれは冗談でした」
 許しを請うために精一杯の愛嬌を携えた笑顔を作って見せたが、そんな笑顔などに効果はなく、彼女はもっと大きな声で泣き始めた。
「だまされたわ。ひどいわ、ひどすぎる。こんな目に遭うなんて。鳥の形を無くしただけはなく――」
 手の甲でごしごしと涙をぬぐい始めた。瞼に着いたブルーベリーソースがますます拡がって頬の辺りまで汚す。
 どうしようもなくなって、彼女の手を取って近くの公園のベンチに連れていき、泣いている理由について、もっと真剣に聞いてみることにした。
 ――いったいどうしたことなのか。

 もうすぐ日が暮れる公園では街灯が灯り始め、権力を誇示しようとするカラスたちが激しく鳴いて、辺り一帯を威嚇しながら木の上を飛び回っている。それを気にもかけずに犬の散歩をする人やランニングをする人が行き交い、時々は私と彼女の方にちらりと眼をやるものの、関わり合いたくないらしく何も言わずに通り過ぎていった。
 彼女はベンチに座ると、しゃくりあげつつも、どうにか泣き止んだ。
「鳥の形って、どういうもの?」
 私は頭の上を飛び交うカラスを見て、鳥と言ってもカラスと雀では随分と形が違うだろうと考えた。
「それに乗ってきたのよ。鳥の形に乗って」
 唇をへの字に曲げ、眉を八の字にしてまた泣き出しそうな表情をした。結局、「鳥の形」としか言わない。
「青い実の成る星からだね」
 質問を変えてみた。
「どうして知ってるの?」
 突然、背筋を伸ばして私を見た。
 ――やはり、そうか。
「知っているとも。私もそこから来たのだから」
 彼女の顔を覗き込むと、
「本当に?」
 一瞬で表情が晴れ渡った。日暮れ時の涼やかな風が吹いて、彼女の髪からはより一層強く青い実の香りがした。
「ある方法でその星を経由してこの星にやって来て、それ以来、ある方法でずっと滞在している。でも、まさかあの星から来た人とここで遭遇するとは思わなかった」
 冗談抜きで言った。
 これまで素性に関しては、誰に対してもずっと隠していた。でも彼女に対しては隠す必要もないだろう。おそらく嘘ではなく、彼女はあの星から来た存在であり、羽根を無くした堕天使のように帰れなくなっているのだから。
「それにしても、どうして、ここに来たの?」
 私は明確な理由をもってここに来たのだが、彼女にもそんなものがあるだろうか。
「偶然よ」
 絶望的な様子で肩を落として地面を見つめ、忌々しそうに雑草を靴裏で蹴っている。
「やっぱりか」
「どうして、やっぱりなの?」
「理由があって来たのなら、街角で泣いたりはしないでしょう」
 私が言うと、彼女はそれはそうねと初めて素直に同意し、鞄からハンカチを取り出して、顔中の涙と鼻水を思いっきり強くぬぐい去った。
「私はその鳥の形に乗って、いつものように青い実の成る樹木が生えている森を飛んでいたの」
 彼女はようやく泣き止んで、偶然が生じた時のことを話し始めた。
「鳥の形というのは?」
 それだけでは具体的なイメージを脳内に描くことは難しい。
 鳥の形。胴体から滑らかにつながった首と頭と嘴があり、二本の足と翼を持っていることだろうか。その身体が羽毛と、実に精巧な造詣を持つ羽根に覆われている。彼女はそのように簡略化された記号としての鳥を鳥の形と呼んでいるのか。あるいは、もっと別の鳥らしさについて鳥の形と呼んでいるのか。
 もしも私達が「人間の形」と言った場合、この二足歩行する人類の頭と首と背中、腰、足、腕を一筆書した記号を想定している場合もあるだろうが、それだけでもない。過去に積み重ねられた記憶、血族、知人への特別な執着的感情や道徳的なモラルによって憐れみを持つはずだと期待されるヒューマニズムのようなものを指すこともある。
 だから、彼女が「鳥の形」と言っているものは、鳥らしさ、つまり、自由に飛び回る性質のことかもしれない。
 誰だって、鳥たちが空を飛ぶ姿を見て、鳥は自由でいいなあと思ったことがあるはずだ。「翼をください」もそんな歌ではなかったか。実際には、野鳥たちを観察してみると、縄張り争いや、持てば破滅に導かれかねない執着を防ぐためのありとあらゆる本能的な取り決めに縛られていて、それほど自由でもなさそうだが。

「鳥の形って、こういう感じのものよ」
 彼女は両手の人差し指で空中に絵を描いた。はっきりとはわからないが、いわゆる翼のある鳥ではなく、おそらく円盤のようなものだった。
「それに乗るのはいつものことだったの?」
「そうよ。外出する時にはいつもそれに乗っていた。行先だけをセットすると眠ってたって予定した場所に到着するの」
 得意気に唇を一文字に結ぶ。
「だけど、今回は予定した場所に着かなかった。そういうことだね」
 私が言うと、彼女はこっくりと頷いた。
「私は森の向こうにある湖のほとりで魚釣りをする予定だった。いつも仲間が集まってくるのよ。その日も申し合わせて、私は行先を湖にセットしてから眠った」
「何度も、そうやって行ったことのある場所なんだね」
 私の言葉に、彼女は「そうよ」と言った。
「だけど、目が覚めてみると、その湖には到着していなかったのか。円盤、じゃなくて、えっと、鳥の形も失われていた、ということでいいかな」
「その通りよ」
 話をしているうちに陽はすっかり落ちて、辺りは暗闇に包まれた。
「行く場所もないし、帰る方法もない、ということでいいのかな」
「それ以外に何かある?」
 彼女は目の両端を吊り上げて私を睨んだ。
「あなたの名前は? 私はここではママと呼ばれているけど」
「ママって、お母さんのこと?」
「違うけど、そう呼ばれている。もとの星ではローラン」
 私は正直に言った。
「じゃあ、ローラン。私はローモンド。少し似ているね」
 ローモンドは下瞼にわずかな涙を残しながらも、無邪気な笑顔を見せた。
「ローモンド。ひとまず私の家に来るしかないと思うけど、どうする?」
 私の提案に、また背筋をきゅんと伸ばして、
「ほんとうに? そうさせてもらっていいの」
 見開いた眼はキラキラと輝いていた。
「それ以外になにかいい案は?」
「ないわ」
 ローモンドは顔をぶるぶると大袈裟に横に振り、私の手を取って立ち上がった。「行きましょう。そうさせてもらうわ。ローランの気分が変わらないうちに、さっさと行きましょう」
 こうしてローモンドは私の家に来ることになった。

 夜風に温度はなかった。
「ローランって、さまよえる湖ロプノールと関係ある?」
 ローモンドは歩きながら私を見上げた。
「よく知っているのね。地球の話よ。私の名前がそれに関係あるかどうかはわからないけど」
「たぶん、あると思う」
「どうして?」
「私の名前、ローモンドも湖の名前だから。こうして出会って、名前が似ていて、両方湖に関係する名前だとすると、やっぱり、ローランはロプノールの場所を表しているはず」
 泣きじゃくっていたローモンドはあまりにも幼く見えたが、なかなか知的な少女であるらしい。
「なんだかよくわからない状況に陥っている私達だけど、確かにローモンドの言う通り、『湖』が鍵になっているかもしれない」
 違和感なく同意できた。
 彼女はすっかり泣き止み、歩きながら、斜め掛けにしている鞄から白銀色の鍵を取り出した。手のひらで握り締めると指から大きくはみ出すほどの大きさで、持ち手の所に紫の石が嵌め込まれている。
「これが鳥の形を動かす鍵よ」
 手を伸ばし、私の目前にかざして見せた。
「それを差し込んで飛ぶの?」
「そうよ。鳥の形に乗り込んだ後、椅子の横にある穴に入れて回す」
 空中に向かってその仕草をして見せてくれた。
「そうやって乗り込んで飛んでいたにも関わらず、今、それが鞄の中にあるというのはどういうこと? エンジンが掛かったら鍵は取り外す仕組みになっているの?」
 私が言うと、
「そう言えば、そうね」
 伸ばしていた腕を下ろし、不思議そうに首を傾げ、鞄の中に鍵を仕舞った。「変だわ」
「挿したままで飛ぶの?」
 私が言うと、ローモンドは大きく頷いた。
「私、これを挿して回し、それで湖に向かったはずなのに」
「なぜか、鍵は取り外されて鞄の中にある。確かに変ね」
「ローランは私の居たの星を経由してここに来たと言ったけど、鳥の形のことは知らないの?」
「知らない。私は外星連携ステーションを往来するロケットを使って移動しただけだから。それに、あなたの故郷である青い実の成る星に滞在したのはたった二日間だけよ。青い実の成る樹木の森と星人たちの暮らす街を少し歩いた。ステーション前から旅人専用のバスがあって、猛スピードで要所だけ抑えて観光した」
 もう何年も前のことだ。
「じゃあ、あの星のことはほとんど知らないのね」
 ローモンドの髪からは今でも青い実の香りがしていた。
「知らない。でも、青い実の香りはよく知っている」
 私は深呼吸した。「今、ローモンドの髪からはその香りがする」
「え、そう?」
 ローモンドは突然立ち止まった。
「そうよ。あの香りは忘れられない」
「どうして私の髪からその香りがするのかしら」
「実をすり潰して髪に塗ったとか、そういうことじゃない?」
「何もしていない」
 ローモンドは歩を進めながら否定する。
「そうなんだ」
 これほど強い香りがするのに何もしていないなんて。

 それから二人とも黙ったままで暗い夜道を歩いて公園の外に出た。街灯が五メートル置きに設置されていて、その明かりの周りを小さな虫がふわふわと飛んでいる。
 ローモンドと出会った地下鉄の入り口から東に進んだ位置に、さきほどまで彼女と話をしていた公園があり、その公園を北に抜けてしばらくいくと稲荷神社がある。その稲荷神社の横には長い石段(少なくとも125段はある)があり、上り切った小高い丘の上に私の家はある。

「これ、上るよ」
 石段の前でローモンドに告げた。
「ふうぇ~い?」
 嫌そうな声を出し眉を八の字にして肩を落とす。「何段もありそう」
 私は「もちろん何段もあるよ」と静かに言って、有無を言わさず上り始めた。一人分の幅しかないから並んで上ることはできない。

 私の住居は屋根の天辺に風見鶏を備え付けた二階建てで、城壁のように仰々しく高い煉瓦塀で囲まれている。石段をいくつも登らなければ辿り着かないだけではなく、外観も厳めしくて近寄りがたい。門などは黒塗りの鉄柵で剣と蔦の装飾が古めかしさを醸し出し、そんな塀や門と家屋の間に手入れを怠っている庭木が鬱蒼と生え出している。木の塊の横に一台の車を置くことができる程度のスペースと玄関へと続く飛び石があり、その飛び石の周囲には酢漿草や雀の鉄砲が生え出していて、もしも足音を立てずに歩くと蛇か蛙でも飛び出して足に吸いついてきそうなのだ。

 階段を上り始めると、
「待ってよ」
 ローモンドが慌てて駆け上がってきて、「こんなの毎日上っているの?」後ろから既に息を切らした声で言う。
「そうよ。毎日上っているの」
 私は前を向いたまま得意気に微笑んだ。
「ここまでですでに十五段」
 数えていたらしい。「十六、十七、十八――」
 そうやって、百二十三まで数えたところでやっと家の門が見えた。
「あれよ。門が見えるでしょう?」
 石段の終わりから玄関までも、十メートルほどの登り坂がある。「この坂を上ったら――」
 私は立ち止まって、着いてきているはずのローモンドの方を振り返った。
「あれ、ローモンド?」
 ――どこに行ったの? 
 いない。
 私は慌てて少し石段を少し降りたり、石段横の林に入ったりして探したがどこにもいない。
「ローモンド!」
 ――なんだったの? 
 ひょっとして、何らかの異常風でも吹いて、私達は異次元が一瞬重なり合って交流しただけなのだろうか。
 しばらく林の中を探したものの、暗くて見つからないので、石段に戻り、ローモンドが百二十三と数えた位置に立った。彼女を見失った場所だ。
「あ、鍵が」
 石段の上にローモンドが握りしめていた白銀色の鍵が落ちている。
 拾い上げると、持ち手の頭に嵌め込まれた紫の石が眩しいほど光って、手のひらに置いたままじっと見つめていると徐々に熱くなっていった。
「あー、ちちちちち」
 とうとう持っていられなくなるほど熱くなり、私は鍵を石段に落とした。二段下に落ちた紫の石はまだまだ輝いて石段と林を明るく照らし、夜なのに徐々に辺りは真昼間のようになり始めた。
 私は急いでリュックに入れておいたハンドタオルを取り出し、それで包み込むようにして鍵を拾い上げ、布地を通しても感じられる熱にうろたえながらも落とさないように残りの石段を上った。
 百二十三、百二十四、百二十五――。
 やっと家の前に出た時、煉瓦造りの塀の向こうが明るいことに気付いた。
 ――まさか、火事?
 私は慌てて門を開けて中に入った。裏庭の方から強い光が見える。

 玄関横の裏庭へと続く細い獣道に分け入る。裏庭には煉瓦塀沿いにチューリップか水仙、ヒヤシンスが似合うささやかな花壇が備え付けられている。四方をその花壇に囲まれたスペースは地面に人工的な灰色の砂が敷き詰められている空き地で、広さとしては車が五台ほども停められそうだが、実際には車がその場所に侵入することはできない。車が通るほどの幅を持つ通路はどこにもないからだ。
 今、その裏庭が光源となっているらしい。
 私は獣道を抜けて建物の裏へと回り込んだ。

 ――なんと。
 そこには一台の車ほどの大きさの丸い円盤があった。縁のついた麦わら帽子を合わせたような、いわゆる典型的な円盤だ。天辺がムーンストーンのように輝いている。
「ひょっとして、これがローモンドの言った鳥の形?」
 ハンドタオルで包んでいても、まだ白銀色の鍵の熱は感じられる。タオルを開いてみると、まだ紫の石は満月のごとく輝いていた。
 ――眩しい。
 目をそむけたくなるほどの光。
 円盤には人の顔ほどの大きさの窓があった。私は近付いて、その窓から中を覗いてみた。
「ローモンド!」
 驚いたことに、ローモンドが中で眠っている。どうして?
 私は窓のひとつをノックしてみた。目を覚まさない。手に持っていた鍵でコツコツと叩いてみる。それでもローモンドは起きない。
 ――ひょっとして死んじゃったの?
 私は目を凝らして窓の中をじっと見た。
 ローモンドは死んではいない。
 眠っていはいるものの、時々眉を顰めたり、唇を少し動かしたりしている。
「よかった。生きている」
 胸をなでおろし、私はひとつ深呼吸をした。青い実の香りが鼻の奥に香った。おそらく、円盤そのものから香っている。
 ――この鍵で開けることができるのか?
 私はまだ熱を帯びている鍵を持ち、円盤の周囲をぐるぐる回って鍵穴を探した。底も天井も探した。
 しかし、鍵穴はどこにも見当たらない。
 ローモンドは閉じ込められてしまったのか。
 ――だけど、どうして、ここへ? ワープの失敗? 
「だとしても、なぜ鍵がここにあるのか」
 私は手の中で発光し続ける鍵を見つめながら、なすすべもなく立ち尽くした。
 円盤の天井からは柔らかい光が放たれているものの、エンジン音は聞こえない。天井の光は月明かりを反射しているだけなのだろうか。
 私は夜空を見上げた。
 予想した月はなかった。
 ぽつぽつと星は出ているが、目前の円盤を照らし出すほどの明かりはない。ということは、天井に設えられたムーンストーン状のガラスが自ら発光しているのだ。
 再び、覗き窓をノックしたり、最後には円盤のボディを強く叩いたりしたが、ローモンドは一向に起きる気配がなかった。時々、口元をむにゃむにゃと動かしながら心地よさそうに眠っている。
 ――どうしたものか。
 おそらく、なんらかの手違いで青い実の成る星からここにワープしてきてしまったのだろう。

 私は数年前にロケットを使ってこの界隈まで辿り着いた。もしかすると、その時にできた想念の道が蟻のフェロモンのように残っていて、青い実の成る星とこの場所に通路を作ってしまったのかもしれない。あるいは、私があの青い実の成る星で触れた何かにローモンドも触れた。繊細な存在であればそれだけでも同じ通路に接続し得る。とにかくなんらかの手違いでここに迷い込んで、眠りながらも異変を感じたローモンドの中身が幽体離脱を試みて地下鉄の入り口で待ち伏せしていたと考えられるか。

 ――だけど、この鍵は?
 手に握りしめている鳥の形のエンジンキーと思われる鍵が石段に落ちていたのはどのような手違いか。

 私はひとまず円盤をそのままにして、玄関扉の前に立った。玄関扉は古風過ぎると言ってもよいほどの重々しい鉄製で、かつては鉄製の鍵を差し込んで開ける仕組みになっていたが、今では専用の通信装置によってしか開かないように管理されている。
 扉は開き、家に入った。

 この家は当初、長い間放置されていたので持ち主のわからなくなっていたらしい。それを地球人に成り済ましたボーイⅠが書類や金券を捏造して購入した。その後、なんの疑いを掛けられることもなく、ボーイⅡ、ボーイⅢと相続された後に星人向け市場で競売に出され、私の仲間の長老が買い取った。ボーイⅢはボーイⅡが不慮の事故で亡くなる前に、この建物が外星間移動のためのステーションとなっていることを聞いていなかったので、破格とも言える安価な値段を付けてしまった。その瞬間を、私の長老は見逃さなかった。
 長老が言う事には「たとえ破格でなくても出たら買う予定だった」らしい。「それほどまでにあのステーションは価値がある」と言って、長く伸ばした髭を撫でつけながらにんまりとしたものだ。
 ボーイ族はボーイⅢの不手際だったとしても、一度はあっさりと手放してしまったものなのにいつまでも執着し、今でも名残惜しそうに私の携帯電話に通信をしてきては、嫌味っぽく《住み心地はどうだい?》などとメッセージを残す。最初は《おかげさまで快適ですよ》と返答していたが、もはや無視することにしている。決して《ご招待しましょうか》とは言わないことにしている。ボーイ族のことはそれほど嫌いではないが、ひとたび呼び入れてしまうと図々しく居座っていつまでも帰ってくれそうにない。

 私は部屋に入ると、明かりを点け、通信機が点滅しているのを確認した。司令部からの連絡が入っている。赤、青、緑のボタンのうち、緑が光っているだけなので大した用事でもなかったのだろう。緑はプライベートモードのチャンネルだ。それで携帯電話の方にはメッセージを入れなかったに違いない。
 鞄と手に持っていたローモンドの鍵をソファに置き、冷蔵庫から冷やしておいた水を取り出して飲んだ後、通信機の点滅している緑のボタンを押した。
「ローラン、お帰り。奇妙なものに出会ったのでは?」
 司令部のお嬢様の声だ。ローモンドのことを知っているのだろうか。私はお嬢様の次の言葉を待った。しかし、何も言わないで、通信終了の文字が出た。
 ――これだけ? 
 私は装置の受話器を取り外し、すぐに司令部に電話を入れた。機械自体は昔のものを改造しただけだから古びて見えるが、通信速度は驚くほど速い。
「こちら司令部」
 ガードマンの声だ。
「ローランです。お嬢様は?」
「お出かけですが」
「家の通信機にメッセージを残されたようですが、途中で切れていてね」
 あんなに中途半端なものであれば、切れていたと言っても差し支えないだろう。
「そのことですか」
「何か知ってるの?」
 私が聞くと、ガードマンは笑い始めた。食べ過ぎて膨らんだ腹が揺れているのが目に浮かぶ。
「みんな知ってますよ」
「みんなって?」
「こちらでは噂になっていますから」
 笑いをこらえられない調子で言う。
「なんのこと?」
「ローランの子供」
「なに言ってるの?」
「円盤が届いたでしょう? ローランの子供です」
「なんですって?」
 頭に来た。こっちは迷い子になっている地球外存在を保護して助けようとしただけなのに、子供だなんていい加減にして。
「身に覚えはないですか?」
「円盤は届いたけど、子供だなんて」
「あ、そう。ま、いいや。円盤の内部はきちんと調節されていて、中にいるやつはそのままでも死んだりしないから安心して」
 それを聞いてひとまず安心した。
「どうすればいいの。鍵が落ちていたんだけど」
「鍵? どんな」
「紫の石のくっついた、中の子が鳥の形の鍵だと言ったものよ」
「鳥の形? なんだそりゃ。それにしても、中の子と話したの?」
 ガードマンは素っ頓狂な声を上げた。
「そうよ」
「どこで?」
「出会った場所よ」
「どこで出会ったの?」
「地下鉄の入り口よ」
「変だなあ。円盤は直接そのステーション前に送り込まれたはずだが」
 ガードマンは詳しいことは知らないようだ。
「できるだけ急いで話の分かる人に連絡をくれるよう頼んでちょうだい」
 私は怒りが頂点に達して、乱暴に受話器を通信機に下ろした。
 一体何だって言うのだ。勝手に円盤を送り付けておいて、意味不明なことばかり言う。
 ソファにどっかりと座ると、さっそく携帯電話が鳴った。

「ローラン、ガードマンから聞いたわ」
 携帯電話はお嬢様からだった。
「お嬢様、これはどいうことなんでしょう」
 挨拶もせずにいきなり本題に入った。
「ガードマンから聞いて私も驚いたところよ。円盤を送ったのは私だけど、どうして円盤が届く前にローランが彼女と話をしたりするのかしら」
「わかりません。ローモンドは地下鉄の入り口で泣いていて――」
 言い掛けると
「ローモンド?」
 携帯から耳を話したくなるほどの高い声で、お嬢様は話を遮った。
「そう言っていましたが。違うのですか――」
 言い終わる前に、ぷっつりと電話は切れた。

 ――なんだというのか。

 まもなく、再び着信があり、お嬢様は
「大変なことになったわ」
 気落ちした声で告げた。
「大変って?」
「ローモンドが行方不明よ」
「玄関先に停まっている円盤の中にいるのでは?」
「円盤の中にいるのはモエリス」
 重々しい調子で言う。
「でも、外から見たところ、円盤の中にいた女の子は私が地下鉄の入り口で遭遇したローモンドでしたよ」
 私が言うと、
「モエリスとローモンドは双子なの」
「どういうことですか。モエリスを円盤でこちらに届けようとしていたところ、手違いでローモンドが来たということ? それで、ローモンドが行方不明だと仰っているのでしょうか」
「そうじゃないのよ。円盤の中にいるのは私がそちらに送り届けるつもりでいたモエリスで間違いないの。だけど、こちらに居るはずの双子のローモンドが見当たらないの」
「じゃあ、私が地下鉄の入り口で遭遇したのは、その行方不明であるローモンドそのもので間違いないと仰るのですか?」
 私は頭の中がこんがらがって整理できない状態でいた。
「そうだと思うわ。実を言うと、そもそもローモンドが円盤で湖に行こうとして乗り込み、ぐっすりと眠っていたところ、ちょっとベッドの方に降ろして、隣のベッドで眠っているモエリスを円盤に乗せた。そして、円盤の行先を設定してあった湖からローラン、あなたのところに設定し直したのよ」
「どうしてそんな無茶な。そんなことをしたら事態が紛らわしくなることくらいわかっていらっしゃるはずですよ。司令部に円盤はいくらでもあったでしょうに」
「とにかく急いでいたのよ。早くしないと取り返しがつかないことになると思って」
 お嬢様はヒステリックに叫んだ。
「どういうことですか。ガードマンがあの円盤の中にいるのは私の子供だと言いましたけど」
「そうよ、でも、少し違う。ガードマンが聞き間違えたのよ。あれはローラン、あなたの子供ではなく、あなたの子供時代なのよ」
 ――はあ? まったくわけがわからない。
「お嬢様、もう一度整理しますと、玄関先の円盤に乗っているのはモエリスで、私の子供時代、ということでよいでしょうか」
 私は落ち着きを取り戻そうとしてわざとゆっくり話した。
「その、通り」
 お嬢様も同じ心境なのか、公証文書にサインでもするかのように丁寧に返答する。
「で、ローモンドは行方不明、ですね。でもさきほどの説明からするとローモンドは私とは無関係、ということですね」
「まあ、そうね」
 少し声を震わせた。
「じゃあ、ローモンドに関してはそちらで探索してもらえませんか。私は玄関先のモエリスをどうにかしましょう」
 私は瞬時に、引き受けるべきタスクを選別した。なにもかも背負うことはできない。
「でも、ローランは地下鉄の駅前でローモンドに遭遇したんでしょう?」
 お嬢様は急に慌てた声で、私をタスクに引き留めようとし始めた。
「確実にそのローモンドかどうかは断定できませんが、たぶんそうでしょう。ひとまず私の家に連れてこようとしていた時、家に向かう石段の途中で突然消えてしまわれました。そして、さきほどガードマンにも言いましたけど、歩いている時にローモンドが鳥の形の鍵だと見せてくれた物体だけが石段の上に残されて熱く輝いていたのです」
「鍵って、紫の石の付いた?」
「その通りです」
 私はやっと話が一致した気がした。
「手のひらより少し大きなサイズの?」
「その通りです」
「それでわかったわ」
 お嬢様はため息のように言い放った。
「どういうことでしょうか」
「ローモンドを円盤から降ろしてモエリスを乗せようとした時、円盤にはエンジンキーが差し込まれていなかったの。だから、そこに居た侍従たちもみんなローモンドはただ円盤の中で眠っていただけだと考えた。それでローモンドを抱きかかえてベッドに移動させ、ちょうど眠っていたモエリスを円盤の椅子に座らせた後、モエリスの鍵を鍵穴に差し込みエンジンを掛け、あなたの星へと行先を設定して蓋をしたのよ。
 あなたがここから青実星を中継して地球に降り立った頃とは移動技術が全く違っていて、今では円盤で簡単に瞬時に送り届けることができる。簡単にできるからこそ危険でもあるのだけれど、そう、その危険が今起きてしまったのだわ。ローモンドは私達の知らないところで円盤の鍵を握りしめていたのよ。たぶんそれで、ローモンド自身が電荷を帯び円盤様に変化し、宇宙空間に飛び出してしまった」
 なるほど。
「どうして、私は地下鉄の入り口で彼女と遭遇したのでしょう」
 無防備に宇宙空間に飛び出して彷徨っているわりには、そこそこ的確に私のところに来た。
「鍵連動じゃないかな」
「鍵連動?」
「そうよ。あの円盤に対応している紫の石が付いた鍵同士、行先が共鳴し合う。ローモンドはモエリスの乗った円盤の鍵に吸い寄せられて、あなたの近くまで行った」
「でもローモンドは石段の途中で鍵を落としてしまったのです。今は鍵は私の手元にある」
 私はソファの上に投げ置かれた鍵を見つめた。
「そうよね、それはどういうことかしら。どうなっているのかしら。わからないわ」
 お嬢様は再び混乱しているようだった。
「ローモンドがこの辺りにいないか、後でもう一度探してみます。ところで、玄関のモエリスはどうすればいいのでしょう。ローモンドを円盤から降ろして、モエリスを乗せ換えてここまで発送されたのでしたね。何をそんなにお急ぎでした?」
 私が言うと、
「そうよ、それよ、それこそが、第一の問題よ」
 お嬢様は声を大きくした。
「確か、モエリスは私の子供時代でしたね。それを急ぎで送るとはどういう事態でしょう? そもそも子供時代を送り付けること自体よくわかりませんが」
「そうね、そこから話さないといけないわね。順番に説明するわ。一度切って、テレビ電話に切り替えていいかしら」
「その方がよければ、そうしましょう」
 私はお嬢様が切るのを待ってから、こちらの携帯のスイッチをオフにした。

 テレビ電話を使うことになって、私は仕事部屋へと移動した。携帯でも受信することはできるが、大画面の方が臨場感が高まる。どうでもいい仕事の場合に臨場感など必要ないが、差し迫って見える大事な仕事の場合は小さな画面では重要なことを見落としそうに思えた。

 40㎡ほどの部屋の壁と天井はクリーム色に統一され、真ん中にドーナツ型のデスクとその穴の中に回転椅子が設置されている。デスクはドーナツの一部が抽斗付のワゴンになっていて移動可能。そこを出し入れすればデスクの輪の中に入ることができ、中央にある椅子に座ることのできる仕様だ。
 私はさっそく回転椅子に座り、手元にあるボタンをひとつ押した。クリーム色の壁面に長方形の画面が現れ、森とその中を流れる小川の映像が映し出される。もしも、手元にあるボタンを六つとも押すと、壁面や天井、床の全てにその映像が拡がり、3Dモードにしてヘッドフォン付きゴーグルを装着すると、あたかも森の中にいるかのように感じられる。他にも浜辺や空中などがある。
 だけど今は3Dバカンスを楽しんでいる時ではない。お嬢様が電話口でお待ちになっているだろう。ボタン横にある数本のレバーを調整し、司令部のテレビ電話に接続した。
「ローラン、遅いわね、どこに行ってたの!」
 せっかちなお嬢様はテレビの向こうで、画面に向かって身を乗り出していた。
「仕事部屋に移動したのです。携帯の画面ではどうも話が伝わりにくくて」
「大画面じゃないと話が伝わらないだなんて、あなたも地球人ぽくなってきたわね」
 お嬢様は色白の顔を赤くして憎々し気に言い放った。長い金髪をシニヨンに巻き上げているが、焦りを代弁するかのように後れ毛が顔周りに落ちている。
「それはもう、長く住んでいますから」
 そろそろ十五年になるか。
 お嬢様の慌てぶりに反し、私はすっかり落ち着いていた。これまでにも、宇宙空間に犬を送ったら失敗して回収できなくなったのでマップで捜索して欲しいとか、発見された新惑星に植物の種を届けて撒いたらその星では雑草とみなされて叱られたから除草剤を撒くために出張して欲しいとか、こちらとしては程度の低い冗談かとしか思えない類の緊急事態に翻弄されてきた。
「せっかくだから、私も大画面にするわ」
 再び映像が切断され、数分後に画面は再開された。お嬢様は大画面用に化粧直しをしたのか、後れ毛はなくなり、なんとなくテカリのあった鼻や頬にはうっすらとフェイスパウダーが乗せられている。
「じゃあ、いっそ全室画面にしましょう」
 私が提案し、互いに全方位映像としてゴーグルを装着し、超臨場感モードに切り替えた。ゴーグルを着けているはずの互いの顔は未装着のままの状態を想定して映像化される。最初に映った画像を基準に時間経過による髪や顔面の微妙な変化が加味されるので、本当に目前で会議をしているかのように思える。
 お嬢様も同じドーナツ型テーブルの中に居て、相変わらずレースと刺繍に満ち溢れたロングドレスを着ていた。シニヨンには真珠の髪飾り、爪にはジルコニアの貼り付けられたきらびやかなネイルアートが施されている。きつい香水の香りまで再現されて脳に伝わって来た。
「ローラン、余計なことを言うようだけど、相変わらず地味ね」
 こちらから、お嬢様はやはり派手ですねと言う前に、向こうから感想を言われてしまった。
「世間ではこれが普通ですよ」
 白のコットンシャツと黒のフレアパンツ。首元にシルバーのネックレスを着け、手首にも同系列のブレスレットをしていた。何も考えずに毎日これ。もっともお洒落に気を使っている箇所と言えば髪で黒く染めたショートボブで、二週間に一回はヘアサロンに行く。
「まあ、いいわ。とにかく、急いで話を進めましょう」
「そうしてください」
 私は回転椅子の背にもたれ、細かく左右に椅子を回しながら話の続きを待った。
「言いにくいことから言うけど、いいかしら、覚悟はできてる?」
「覚悟はできているかと聞かれても、なんのことだかわからないのだし」
「そうよね。でも言うわ。実を言うと、言いにくいんだけど、もうすぐあなたの電池は切れてしまう」
 お嬢様はそう言うと、悔しそうに上唇と下唇をぎゅっと合わせた。
「どういうことですか?」
「あなたたちには知らされていなかったけれど、あなたたちは赤ん坊の時に両親から預かり、地球探索用に育てられて集団なのよ」
「知ってますよ」
 何を今さら、と思う。育ちの中ではみんな同じ運命だったから、それを悲観したり恨んだりしていない。
「ローラン、あなたはその先発隊に含まれる集団の一人で、どうなるかをよく確かめられないまま地球に送られた」
「それも知っています」
「最近の研究でわかったこととして、地球に送られた人々は地球人に類似し始め、もはや地球人として生きていく場合、なんらかの過去が必要となる。それがないと電池が切れる。地球人ってそうじゃない? 昔の恨みや悲しみ、自慢話ばかりしている。だけど、今言っているのはそういった記憶の問題じゃないの。実際に存在した過去」
「どういう意味ですか? 私にも地球探索用に育てられた過去があります。それに対して気に食わないとか気に入っているとかに関係なく、それはそれでひとつの過去だから私としては受け入れていますよ」
 本音を言った。どんな過去でもないよりはましだ。
 3D映像の中のお嬢様はおそらくプログラムの計算によって額に汗をかき始めていた。
「そうなんだけどね、説明は難しいのだけど、その過去の入った記憶装置が消滅したのよ。どうしてそうなったのか、まだこちらではわからない。とにかく、もうすぐあなたたちは地球探索用に育てられた過去を持つ存在ではなくなる」
「記憶喪失になるということですか?」
「そうじゃないの。本当に時間としてその過去が消え失せる。その前に、別の時間を装着しなければいけない。万が一、そうなった時の為に育てられていたのがローモンドとモエリス。あなた用の子供時代。もちろん、普通に地球人として根付く時にも、彼女たちを装着する予定だったのよ」
 私は大きくため息を着いた。心底、嫌になってしまう。
「お嬢様。それでは私は、玄関先の円盤内に居るモエリスを何らかの方法で装着すればいいと仰るのですか」
 地球で暮らし、脳波や心電図、血圧や心理状態などを検査して司令部に送り届ける仕事はどうなるのだろう。
「そのはずだったのだけど、ローモンドが行方不明になってしまったからには、それが可能かどうか」
「どういう意味でしょうか」
「あなたがモエリスを装着すると、次はローモンドが予備の子供時代となる。もしもモエリスが機能しなくなった時には、後付けでローモンドを送ることになっている」
「モエリスが機能しなくなったかどうかって、どうやって把握するのでしょう?」
「こちらで、同期を取っているローモンドを検査すればわかる仕組みだったのよ。ローモンドとモエリスは全く同じ子供時代を設定されているのだから」
 お嬢様は早口でまくし立てた。
「お嬢様、しかし、すでに、モエリスとローモンドは異なる時間を生きてしまったのではないでしょうか。一人は円盤の中に、そしてもう一人は行方不明」
「そうなのよ!」
 お嬢様は声を震わせ、作った握りこぶしでテーブルをドンと叩いた。
「お嬢様。しかし、ローモンドは青い実の成る星から来たと言っていました。私達のその星ではなく」
 私はローモンドの髪の甘酸っぱい匂いを思い出した。
「そうよ。そのように時間が作り込まれているわ。彼女の記憶も体験も全てが青い実の成る星のものよ」
「モエリスは?」
「モエリスもそうよ。ローラン、あなたに接続される過去は青い実の成る星で子供時代を過ごしていたと決められているの」
 お嬢様は諭すように優しく言った。
「どうしてそんな風に?」
「地球探索用に育てられた人々が地球に馴染んで来たら、そのまま地球で暮らすことになるだろうと博士が仰って、その時用に地球で暮らしやすい過去を培養し、装着させるようにプログラムされている」
 お嬢様は遠くを見るような目をした。「その過去を装着すれば、ローラン自身も、またその周囲にいる地球人も、その過去を持つ人としてあなたを迎え入れる。違和感なく地球生活に根付くことができる」
「青い実の成る星で暮らした子供時代だなんて、地球人にはよくわからないことだと思うけれど」
「もちろん中身はそれぞれ違う。だけど地球で受け入れやすいように設定されている」
 お嬢様は誇らしげだった。鼻の頭や頬にうっすらと乗せられていたフェイスパウダーは徐々に皮膚に沁み込んでいき、艶やかに光って、画像ながらも存在を生命感の溢れる存在に見せていた。
「受け入れやすいとは?」
「ヒューマニズムが感じられる設定」
「ヒューマニズム?」
「そうよ。博士が考案したの。それを装着すれば、誰だって涙もろくなって自分の凡庸さを受け入れ、謙虚になり、仲間を大事にして、ワンフォザオール、オールフォザワンの精神を携えることができる」
「それがヒューマニズムというものですか?」
「博士の考えでは」
 お嬢様は老成した賢者の如き笑顔を見せてうなずいた。
「あのお、お言葉ですが」
 私は画像の中のお嬢様をじっと見た。こうして改めて大画面で観察すると、どこか幼く見える。画像処理でしみや皺を消しているからだろうか。
「何?」
 作られた賢者の笑顔などあっという間に消え去る。
「お嬢様、私はこの十五年の間、そちらから派遣されて地球で暮らし、最小限ではありますが地球人と接触してきました。血圧や心電図、血液検査の結果は良好でしたよね」
 なんとなく肚にすっと重心が戻って行く感じがした。これが肚が座ったということか。
「そうよ。こまめに身体検査を受けてくれてありがとう。栄養状態にも気を付けてくれたからか、どこにも欠陥が生じず、ローラン、あなたはとても優秀だわ」
 お嬢様はものわかりのいい人がするように、わずかに首を傾げて微笑んでいた。そういうのも全部、AIによって画像処理されているのだろうけれど。
「お嬢様。時々ですが、私は地球人と接触して話をしたり、一緒に何かをしたりすることもありましたが、正直に申し上げますと、とても言いにくいんですが――」
 私は言葉を詰まらせた。ここから先を言うことは恐らく、彼らの「実験」を台無しにするだろう。
「何かしら」
「ほとんどの地球人はさっき仰ったようなヒューマニズムなど持ち合わせていない」
 思い切って言った。
「そんなことないわよ。これまでだって、何人かにこのヒューマニズムを装着して地球に降ろしたらうまくリリースできたの」
 画面の中のお嬢様の頬は少し紅潮した。
「リリースした後のデータは取りましたか?」
「時々、『元気に暮らしています』とメールを貰ったわよ」
「それだけ?」
「それだけよ。地球に馴染むに従って連絡は途絶える。でもきっと、そこで人々と充実した日々を過ごしているはずよ」
「はあ」
 私はお嬢様のお気楽ぶりに呆れてしまった。しかし、これ以上何かを言っても通じそうにもない。言うべきでもないのかもしれない。
 だけど、私は言った。
「お嬢様、よくわかりました。これまでずっと、私達のような地球探索人にはそのヒューマニズムを装着させて、地球にリリースするのが習慣だったのですね。でも、もう一度だけ言っておきますが、そもそもの地球人はそのようなヒューマニズムを持ち合わせてはいない。そういうのを持っていると聖者と呼ばれるか、お人好しのバカと呼ばれるかのどちらかです。今のところ、私はそれになるつもりはありません」
「何を言ってるの? これは決められたことなのよ!」
 お嬢様は再び、ドンとテーブルを叩いた。
 お嬢様の顔は怒りで前よりもっと赤く染まっていた。何に対して怒っているのだろうか。ローモンドが行方不明になったこと? それとも私がヒューマニズムに関する見解を述べたこと? 突然怒り出すなんて、
 ――人間そっくり。
 私はくすっと笑ってしまった。
「何を笑ってるの?」
 再びお嬢様はテーブルをドンと叩き、さらに居丈高になって言い放った。
「申し訳ありません」
 顔に浮かんだ笑いは止まらない。
「何がおかしいのよ」
「お嬢様。人間もお嬢様のように、よく突然怒り出します。さきほど仰ったヒューマニズムを私の中に仕込むよりは、お嬢様のように突然怒り出す要素を仕込んだ方がよほど人間社会に溶け込めるのではないかと――」
「いいかげんにしなさい」
 とうとう怒りが頂点に達したらく、お嬢様は思わず椅子から立ち上がり、怒りで肩を震わせた後、どうにか自身の感情をコントロールすることに成功したのか、どさりと座り直した。両掌でふんっと肩に垂れ下がる髪を撫でつけてから、「とりあえず、モエリスをこちらに戻すわ」静かに言った。
「円盤で眠っている女の子を、ですか」
「そうよ。円盤ごとこちらに戻す」
「ちょっと待ってください、じゃあ、ローモンドはどうなるんでしょうか。私、彼女が鳥の形と説明した乗り物の鍵も持っているんですよ」
「知らないわ。もう勝手にしなさい。あなたがそんなに口答えするとは思わなかったわ。いずれにしても、あなたのこちらの星における過去はもう消滅してしまった。あなたに過去の時間は存在していないの。私達にとっても想定外のことで、この先どうすればいいかはわからない。電池が切れてしまうかもしれないけど、どうしようもない」
 お嬢様は、じゃあと言って、こちらの話を聞くこともなくテレビ電話を切ってしまった。
 ――なんてこと。
 突然やって来ては無茶を言い、あっという間に立ち去っていった。まるで台風だ。
 装着していた3Dゴーグルを外し、テレビ電話の電源を切ってから、円盤を確認するために玄関先へと向かった。お嬢様が私に装着する予定だったモエリス。私の子供時代として造られたのだと言った。あの円盤はもう出立したのだろうか。
 玄関の扉を開けると、ちょうど円盤は五メートルほど浮き上がったところで、すっかり夜になっているにも関わらず、周辺だけを眩しいほどに明るく照らしていた。揺動でモエリスが目を覚ましたらしく、目を擦りながら不思議そうにこちらを見下ろしたところで円盤は消えた。次元間移動航路へと突入したのだろう。お嬢様の話から推測するならば、あっという間に帰還したはず。
「さようなら、モエリス」
 私は円盤の消えてしまった空に向かって呟いた。
 私は家の中に戻り、お嬢様の突然の連絡によって乱されてしまった気分を落ち着かせようと、グラスに氷を入れてからウィスキーをわずかに注ぎ込んで、氷が溶けるのを待った。なにか嫌な気分にさせられた時にはウィスキーの香りが移った水を飲むのが回復の助けになる。
 ソファに座ってグラスの中の溶け始めた氷を舐めながら、お嬢様が「あなたがそんなに口答えするとは思わなかったわ」と言ったのを思い出した。
 ――言われてみればそうだわ。
 いつもなら、はい、そうですね、そうします、としか言わない私だったのに、今日はなんだか調子よく言いたいことが言えた気がする。お嬢様をすっかり怒らせてしまったのはよくなかったのかもしれないが、いつになく気分爽快だった。地球探索用に育てられた過去の時間が消滅したからだろうか。消滅したからと言っても、地球探索員養成学校での記憶は消えてはいない。仲間とも連絡を取ろうと思えば取れるはず。
 その時だった。
《ローラン》
 呼ぶ声がして、私は、「えっ?」と声に出して言ってしまった。
《ローラン。私よ。ローモンド》
 どこからともなく声が聞こえる。
「ローモンド!」
 私は思わず立ち上がった。「どこに居るの?」
《なか》
「なかって?」
《だから、中よ。中に居るの》
「家の中? どこ?」
《違うの。ローラン、あなたの中》
「なんですって!」
 私は思いも寄らない事態に力をなくして床に崩れ落ちた。
《がっかりしないで》
 ローモンドの声がする。
「がっかりなんかしていないわ。だけど、私の中に居るってどういうこと?」
《私にもわからない。でも、石段を上っている途中で、突然こうなってしまったの》
 ――後でお嬢様に、どういうことかと聞いてみなければ。
《それはやめて》
「それはって?」
《お嬢様にこのことを伝えるのを》
「私、それは口に出して行っていないけど――」
《聞こえるの。ローランも私の声が聞こえるのでしょう?》
 それはそうだ。
「じゃあ、隠してもしょうがないから言うけど、ローモンド、あなたは私の子供時代として育てられたそうよ。それも、私の子供時代を捏造するために、私に装着する予定のモエリスのスペアとして」
 言い過ぎなことはわかっている。でも、脳内ですべて伝わるのなら、言わなくても同じことだ。
《そうらしいね》
「知ってるの?」
《さっき、聞いてた。ローランがお嬢様と話をしているのを》
「そっか。あの時、すでに、ローモンドは私の中に居たのだから」
《飛び込んだ直後は何が起きたのかわからなかったの。だけど、だんだんとローランの記憶の部屋の中にいることがわかってきた。そして、ローランとお嬢様の会話を盗み聞きしてしまった。こういう場合、盗み聞きって言うのかどうかわからないけど》
「聞こえちゃうんだから、仕方がないわね」
《ローラン、声に出して話す必要、ないよ》
 ローモンドはくすくす笑う。
「そりゃそうか、脳内で思えば聞こえるのだから。だけど、それってちょっと厄介だわ」
 私が言うと、声を出して笑い始めた。
「なにがそんなにおかしいの?」
《ローラン、私と遭遇する前に居たカフェで、桃のレアチーズケーキ食べたの?》
「それがどうかした?」
《そのケーキの映像がどかんとある。部屋の中に》
 くすくす笑う。
「部屋って?」
《だから、ローランの部屋よ。綺麗に片付いている。立方体の部屋。その壁にケーキのポスターがドンと貼ってある》
「ケーキか。確かに、あれは一番好きなケーキだから。他には何がある?」
《家族写真のようなものと、書類。そして、扉があって――、今、開けてみたら、階段が下に続いている。でも真っ暗闇よ》
「どうするの、ローモンド。そんなところに居て、大丈夫?」
《今のところは大丈夫。でも、いつかきっとこのままでは辛くなりそう。だって驚くほどに何もないのだから。それにローラン、そんなところって今言ったけど、これ、ローランの部屋なのよ》
 そう言われて、私はフリーズしないわけにはいかなかった。
《ローラン、とりあえず、ローランの子供時代である私、ローモンドがぐっすり眠れるお布団を用意してくれない?》
「用意って?」
《わからないけど、考えてみて。そういうお布団》
 私はとりあえず、子供用のベッドを想像してみた。そこにマットを敷き、掛布団と枕をイメージする。
《ああ、すごいわ。とりあえず、出てきた。ちょっと病院のパイプベッドみたいだけど、一応使えそう。今日は眠りたい。ローランもそのうち眠るだろうけど、怖い夢を見たりしないでね。おやすみ》
 ローモンドはその後、何もしゃべらなくなった。
「怖い夢を見たりしないでねって言われても、そんなの、どうすればいいのよ!」

(一章 了)

《あらすじ》
 
「私(ローラン)」はいつものカフェでガラス窓の外を見ていると、大きな鳥の形をしたものがバスのロータリー付近に到来した。そしてすぐに消える。
 カフェを出ると、地下鉄の駅前で泣いている人が居て、どうしたのかと問い掛けた。鳥の形をした乗り物でやって来たが、鳥の形を見失ったと言う。
 その人は、どうやら「私」と同じ星から来た人であるらしい。「私」はそのローモンドと名乗る女の子を自宅に宿泊させることにした。ところが、自宅へと向かう階段の途中でローモンドは姿を消す。そして、鳥の形をした乗り物の鍵だけがそこに落ちていたのだった。
 家に入ろうとすると、中庭に円盤がひとつ停泊していることがわかり、中を覗くとローモンドらしき女の子が眠っていた。どういう手違いかと思いつつ室内に入ると、司令部からの連絡で、その円盤の中の子供はローモンドではなくモエリスと言い、「私」の子供時代として送り届けられたのだと言う。司令部の話では、司令部のある星の記憶装置が破壊され、そのせいで「私」の電池はもうすぐ切れてしまうらしい。それを防ぐ為には地球人として根を下ろすことが重要であり、司令部のある星で過ごした過去が消滅する前に、モエリスという子供時代を装着するというのだ。
 しかし、手違いで、モエリスの予備として造られたローモンドも、同時に「私」のいる地球に送り込まれてしまった。そして行方不明だ。ローモンドを司令部に置いておかないことには、モエリスを「私」に装着したとしても経過が把握できないため、司令部はひとまずモエリスを司令部のある星に戻す決定をした。
 司令部と「私」のやりとりが終わった頃、「私」の中でローモンドの声がした。ローモンドが「私」の中に入ってしまったのだ。そして、「私」の部屋に居ると言う。テレパシックに通信できる。
 まずは「私」はローモンドの為に「寝具」をイメージして部屋に作り出し、その日は休むことになった。


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