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解読 ボウヤ書店の使命 ㉕-21

 長編小説『路地裏の花屋』の読み直し。
 続きから。

五章

 外は曇り空だった。雨は降らず、どうにか雲の向こうにある太陽が空を鈍く光らせている。
 中西は蓮二朗の画廊余白を出て、蓮二朗から聞いた「絵の先生」のアトリエと向かって歩いていた。そう遠くはなさそうだし、蓮二朗の話を聞いているうちに、なんとなく、絵を習ってみたい気にもなった。その先生とはどのような人なのかを見てみたいとも思う。
 もらった地図によると、そのアトリエは、運河沿いの歩道を高速道路の高架へと分離する坂道の途中にある一画だったが、行ってみるとそこは更地になっていた。雑草が所構わず生えていて、ごみの入ったレジ袋が捨てられ、立ち入り禁止区域を示す仕切りに掛けられた「工事中」という看板は錆びついて文字が薄くなっていた。考えてみれば蓮二朗が絵を習っていたのは随分昔の話だ。こうなっていてもおかしくはない。
 空き地の前に立っていると、後ろから地面をこする車輪の音が近付き、中西の足元には野菜やペットボトルの積み込まれた乳母車が現われた。振り返ると乳母車のバーを握りしめた老女がいる。ほとんど白くなった髪を後ろでひとつに編み、鮮やかなオレンジとピンクの小花柄のシフォンブラウスを着ていた。同じような生地の青いプリーツスカートを履いている。
「何見てるか」
 老女に言われて中西が女の顔を見ると、もう一度「お兄さん、どうしたか」と言う。
 女の肌は丈夫そうなココア色だった。そこに皺が深く刻み込まれている。腰回りは筋肉が高く引き上がって青いスカートのプリーツを押し広げていた。体中から東南アジア辺りの街中に立ち込めているお香の匂いがした。クチナシか、それとも蘭か。中西は腕を後ろに回して握りあわせ、彼女から目を離した。
「ここにアトリエがあると聞いて来たのだけど――」
 露骨に残念そうな笑顔を見せて「ないね。困ったな」頭を掻いて見せた。
「用でもあったのか」
「いい絵の先生だって言うから、ちょっと習ってみようかなと思って」
 飛行機が空を渡る音がした。曇天のせいか大きく聞こえる。群れになって飛んでいる小さな虫が顏の周りを飛ぶので吸い込みそうになり、慌てて手で追い払ったが間に合わず、身体を二つに折りたたむほど大袈裟に咳き込むことになった。
「みんないなくなったよ。道を広げたいからどこか行けと言われて」
 老女は空き地となっているところを見渡していた。
「立ち退きか。じゃあ仕方ないね」
「仕方ないって、あたしは行くとこないよ」
「まだここに住んでるの?」
「そうだよ。寄ってく?」
 指したのは高架へと向かう上り坂に入る手前で、そこにはトタン屋根の平屋があり、家の周りには所狭しとばかりに鉢植えが置いてあった。確かにその家さえなければ国道を広げることが出来そうだった。高速道路の入り口よりずっと手前で道を分岐させれば渋滞が発生しないで済むだろう。今のままでは高速道路に乗る車とそうでない車が同じようにのろのろ運転を強いられている。
「あそこに住んでるの?」
 再び腕を後ろに回して握り合わせて、微笑みながら覗き込むように女の顔を見た。
「そうだよ。マッサージもしてるよ」
「あの位置だと、やっぱり、しつこく立ち退くように言われただろうね」
「でも行くところないよ。わたし、この辺りの知り合いばっかりマッサージして暮らしてるから。ここを離れたらお客いない」
 女は何度も首を横に振る。
「常連さんなら追いかけてくるんじゃない? だって――」
 中西の言葉が終わる前に
「来るわけないよ」
 強い語調で否定する。「みんな来るときは疲れて倒れ込んでくるよ。疲れているのに、わざわざ引越した私を追いかけてなんかこないよ」
「それはそうか」
 やや興奮し始めた女の気持ちをそれ以上煽らないようにさっさと同意して「それでお姉さん出て行かないから、ここ、工事中のままストップしてるんだな」
 中西は老女の服装を見て「お姉さん」と呼んだ。当人が自認している年齢に合わせて呼びかけを選択するのが彼の方針だ。老女はココア色の頬を艶々させて笑い、
「当たり前さあ」得意気に言って「寄ってく?」家の方を示した。
 高架上の高速道路をトラックが連なって走り去っていき、歩道にはランドセルを背負った男の子が二人歩いていた。
「いや、僕はいいんだ。それより、立ち退き前に居たここの人たちがどこに行ったか知らない?」
「知らないさ。でも、お兄さんが探している絵の先生だけは知ってるよ。困ったことがあったら連絡していいとメモをくれたよ。一度も連絡してないけど」
「行った先でもアトリエやってるのかな」
「そうだよ。アトリエ静子だよ。自宅ではなくアトリエの連絡先をくれたんだ。お兄さんに教えてやるさ。おいで」
 老女は返事を待たずに乳母車をがらがらと押して家の方に向かって歩き始め、中西は急いで後を追っていった。
 玄関には「マッサージします」と書いた立派な木のプレートが掛けてあり、老女はその表面を大事そうに手のひらで撫で
「これは大工やってるお客さんが作ってくれたよ」
 子どものような笑い顔を見せると、「ここで待ってなさいよ」と言い扉を開けて家の中に入って行った。玄関の外にまでお香の匂いが漏れ出している。
 開けたままの扉からそっと中を覗き込むと、籐で編んだパーティションが一つあり、分けられた空間には薄い布団が敷いてあった。タオルと小さな枕も置いてある。壁には橙色の着物を着た僧侶と、どこか南国の王と妃らしい写真が掛けてあり、その真下に白い菊が活けてある。ずっと奥には彼女の生活空間らしき部屋があるのが見え、小さなちゃぶ台や食器棚、箪笥は粗末なものだったがすっきりと片付いているようだった。ちゃぶ台の上には緑の葉が活けてある。
「ほら、これ、持って行きなよ」
 老女は一枚のメモ紙を持って出てきた。名刺ほどの大きさで、「アトリエ静子」の住所と電話番号が手書きで記されている。きちんと保存してあったのか、紙は隅までピンとしていた。
「これをそのまま貰っていいの? もう別にメモ取ってある?」
「いやいらないさ。連絡しないもん」
 そっぽを向く。
「じゃあ、頂くよ。ところでお姉さん、タイから来たの? タイマッサージだろ?」
「違うよ。私はタイじゃないよ。あれはお客さんにもらったのさ」
 老女の耳には金色の小さなピアスが光っていた。中西はどこの国から来たのかとは聞かず、礼を言って受け取ると無造作にポケットに入れ、一度微笑んでから歩き出した。
 高架道路を何台も自動車が超スピードで走り抜けている。お香の匂いはなかなか鼻先から消えず、運河の底から立ち上がる泥と藻の混じり合った匂いと重なり、辺り一帯に隙間なく拡がっていて、やがて中西の気分までも濃く染め上げていった。こうなってしまうと空き地の全ては彼女の国であるかのようだ。彼女のためにみんなが立ち退いたようなものだ。依然として自動車たちは不便を強いられている。
 しばらく歩いてから振り返ると、老女はまだ玄関の前に立って中西の方を見ていた。家の周りの植木鉢はありとあらゆる色彩の花を咲かせグレーの屋根の上には鳩が数羽止まっている。
 相変わらずの曇天だった。
 急に排気ガスの混じった風が吹いて、それと共に鳩が一斉に飛び立つ。
 生ぬるい風だ。
 ふと、蓮二朗のギャラリーで見た仏画を思い出した。極彩色の花鳥風月。小さくて見えない仏様。いつまで見送っているのだろうと思いつつ、中西はこちらから手を振ることはせず、前を向いて歩き出した。

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