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解読 ボウヤ書店の使命 ㉕-15

 長編小説『路地裏の花屋』読み直し。
 続きから。

蝶の舞4

 真夜中の薔薇園をご覧になったことがおありでしょうか。
 最初に申し上げました通り、私は五百年ほど生き長らえている蝶でございますが、根っからの臆病者で松の木の界隈を遠く離れたことなどほとんどなく、長い間、薔薇といえば数本連れだって咲く姿を知るだけで、群れを成して咲く様子を見たのは蓮二朗の庭が初めてのことでございました。いつ見ても、それほど前衛的なお花畑とは思えず、人間さまの間では何かと特別扱いされている薔薇といえどもさほど心に響かず、どこにでもある公園に咲く椿のようにいかにも頑丈でありふれた植物に見えていました。実際、棘の太さや葉ぶりの物理的な勇ましさをいうならば、椿も薔薇も似たり寄ったりで、菫や桜に比べれば何やら無粋な強情さを思わせ、やや儚さの劣る咲きぶりだと思わずにはいられなかったのです。
 ところがその日、軒先で浮かぶように飛びながら目前に広がります庭を眺望いたしましたら、はっと驚愕、花々の姿は昼前に見たものとはまるで違うものでございました。最初、時間帯としてはまだ夕暮れの始まった頃でしたが、傾いて差す西日を蓮二朗の離れ屋が遮り、背丈の低い薔薇の木などはもうすでに薄墨色の宵に染まってグレーの濃淡の中に沈み込んでおりまして、土へと入り込む闇の暗さから生え出してきた茎や葉や花びらの色の濃度ばかりが強調されているのです。まるで湖の水面から湖底へと向かう深さがそこにあるかのよう。逆に離れ家の影にならないところでは橙色の夕焼けが薔薇を煌々と照らし、枝葉が宵風に吹かれて揺れる姿は、あたかも光にさえ応答して煌めくさざ波でもありました。
 薔薇は本当に噂通り高慢な花なのでしょうか。
 起伏のある庭地にて、あるところは遠慮なく誉れ高く輝き、あるところは日陰となって陰鬱さも剥き出しにして深みを誇示しながら恥じらうことのない花。その空間に溢れ出して咲く様子は、野生の繁みの天真爛漫な無防備さを損なってはいなかったのです。どうしても心惹かれて、しばらくそこに留まることにいたしました。初めて見た薔薇の海の中で泳ぐように舞い飛んでみたくなったのでございます。
 離れ屋のすぐ西側には芝生広場が広がっており、芝生の南側には黒々とした立派な洋館が見えました。洋館との間には腰高に刈り込まれたモッコウバラなどの生垣があり、一か所だけ、人一人が通ることの出来る通路となる空間が設けられて竹を組んだ小門がしつらえてありました。恐らく猫でも押し開けられる程度の軽いものでございます。建物近くには石膏像と噴水、やはり薔薇などを寄せ植えにした鉢などが左右対称に装飾され、それに続いて、まだ咲いてはおりませんでしたがところどころに蕾が目立ち始めているツツジの刈り込みがあり、そこからはなだらかに降りる丘面に合わせて池や滝が見られました。池の近くに松の木や梅木がちょうどよく配置され、狭間に石灯篭がそっと置かれている。遠く向こうにはシイや楓の林が控えておりますし、離れ屋のひっそりとした様子からは想像もできない奥行のある広大な景色がございました。圧巻と言えば圧巻。けれども、私はそういう景色をこれまでに見たことがない訳ではなかった。というよりも、むしろ、いつも寄り添って眠っております松の木の界隈と申しますのは、はっきり言ってまさにそんな風景でございまして、それどころかメダカのいる小川も流れておりますし、野草を拒まない入り組んだ小道もありますから、むしろもっと豪華だといえる。この洋館の庭との違いを挙げるといたしましたら、松の木界隈の景観は誰か一人の所有物ではないことだけでございます。この洋館のある庭はきっと、蓮二朗の言うおくさまか誰かの所有物だということで、人間さまという生き物社会におきましてはそれこそは高貴、ご立派と驚きに値することなのだろうと想像できますし、きっと結構なことでございましょうが、私のような蝶にとりましては、考えてもください、そんなことどうでもよいことでございます。
 洋館周辺をくるりと探索いたしました後、蓮二朗のこしらえた裏庭に戻りまして、蕾さえもまだついていないもの、やっと蕾が着き始めたもの、咲き始め、満開、咲き終わり、というように脈絡もなく続いている薔薇園の上をぐるぐると飛び回りました。時々蜜も吸わせて頂きました。飛びながら、私はもう、不思議でなりませんでした。だって、まるで野生の園のようでありながらも、そこには季節がなかったのです。いつ咲いていつ咲き終わるのか。枯れるものの傍にこれからというものがある。それが宇宙の連環なるものだから当然なのではと思われるでしょうか。けれど、同じ種の植物の中でこれほどまでに盛衰の隣り合う様を見たのはこれが初めてでした。
 まあ不思議、あら不思議、とまるで狂ったように翅をはためかせて舞い飛んでいるうちに、あることに気付きました。蓮二朗がある男のために完璧だと言って切り取った赤い薔薇の咲く木は異様なほどに満開なのでありましたが、どういうわけか、そこだけは匂いがない。薔薇特有の青みがかった甘さの湿気た香りが漂わなかったのでございます。他の木ならば蕾でさえもほんのりと予感程度に香るものを、満開の赤い薔薇周辺だけは匂わなかった。ひょっとすると人間さまの嗅覚を備えているならばよく香るのかもしれませんが、私のような五百年もふてぶてしく生き長らえた蝶にあっては性根が鈍感に過ぎるのか仄かにも香らず、花びらの正しく折り重なる姿ばかりが際立って、ただただ気難しそうにも感じられるのでした。
 そうしているうちに、すっかり陽が落ちて、辺り一帯均等に青いセロファンに包まれたような宵になりました。もう色はどこにも見えない。涼しい風が吹くとさやさやと葉が揺れて音を立てるし、風が止まると今度は一斉に静寂が訪れる。虫や鳥も鳴かず、人の声もなかった。空には一番星がぽつんと輝いている。十六夜の月はまだ現れてはいませんでした。ふと寂しくなって飛び回るのを止めて、やっと咲き始めた一重の薄桃色した薔薇の傍に止まって翅を畳んでおりますと、二つ目の星が姿を現すほどの夜が近付いて、赤い薔薇以外の花々から、それまでとは違ったある香りが、息を合わせて一斉に立ち上っていくように感じました。見えないけれど、何か淡桃色の湯気が空に向かってふつふつとあぶく然として昇る。そこら中が匂う。夜の薔薇の匂い? 
 闇のせいで空と建物や植物の境界も曖昧になってそこら中が藍色に染まり、私は話には聞くけれどもまだ一度も見たことのない海の中にいるような気がしました。あの空の向こうに海面があって――、とするとここは海底、あの星は海に浮かぶ舟か。だとしたら、この匂いとは海の底に造られた潮風の元、波の元。ひっきりなしに湧き起って我が身体を包み込んでいるのだと想像しておりますと、噂に聞いたことのある一匹で海峡を渡った蝶の如き勇敢なる孤独が、初めて私の中にも生まれ出たのでございました。もちろん元から私だっていつも一匹。でもそれとは異なる深遠なる孤独感に茫然といたしました。突如として現れた海と溶け合ってしまってひとつとなったようで、すでに境界はなく、これまで存在していた隣り合うものを喪失し、語り合うものもなく何もかもが静止してしまいました。
 身を縮めておりますと、庭の遠くに小さな明かりが灯りました。揺れている。それは蓮二朗でした。私は嬉しくなって翅をはたはたと動かして薔薇園の上高くに浮かんだ。そっと近付き、私は彼の後を着いて家の中に入り込みました。
 奥の部屋の床にはラジオが一台。窓際にはベッドとサイドテーブルがひとつずつ、木製の椅子が一脚、それから洋服箪笥がひと棹と蓮二朗の身体ほどもあるベンチ型の箱がひとつありました。その箱の上には赤いペルシア絨毯風の物が掛かっており、色硝子でシェードを作られた電気ランプとパイプ煙草の道具、スケッチブックと鉛筆が置いてある。猫はそのベンチボックスの横にあるキルトの入った籠の中で丸くなって目を閉じ、蓮二朗が入ってきたのを感じると、目を閉じたままで耳をぴんと立てました。
「ぎんさんや、ただいま」いくら話しかけても耳を動かすだけで眼は閉じたままだったので、蓮二朗が傍まで行き、「ご機嫌ななめですか」と撫で、「お客さんだったからね」と言うと、猫はうっすらと目を開けおしまいを長く引っ張った声を出して怒ったとも甘えたとも言えない調子で応え、再び目を閉じて丸い背中を穏やかな息で上下させておりました。「これでも、ですか」蓮二朗はズボンのポケットから手のひらに収まる程度の小さな入れ物を取り出しました。その入れ物の蓋を爪で剥がし、ぎんの鼻先に差し出すと、ぎんはやっと目を開け、舌を突き出してぺろぺろと入れ物の中身を舐めておりました。ミルクでしょうか。きっと、好物なのでしょう、ひとつ舐め終ると少しは機嫌を直したらしく、それでも面倒さを装いながらゆっくりと立ち上がって、キルトの籠からぴょんと飛び出すと、隣りの部屋にのっそりと移動しソファの上に寝そべりました。 
 ぎんがソファの上に行ったのを見ると、蓮二朗はベンチ型の箱の上に置いてあるものを床の上に移動し掛け布を取り外して蓋を開けました。中にはたくさんの書物とスケッチブック、絵具などの画材が入っている。その一番上に深緑色の布に包んである板状のものが置いてあり、彼はそれを取り出すと覆っている布を丁寧に剥がしました。中から現われたのは絵画でした。大きさは人間の大人の顔を三つ分くらいか。鈍い色で光る金色の額縁の中に納まっていて、白い背景に赤い薔薇がひとつだけ、それも花の部分だけが大きく描かれている。彼はその絵画と、ベッドの横に置いてあった椅子を持ってぎんのいる隣の部屋に行くと、壁の前に椅子を置いてその上に立ち、ズボンのポケットから取り出したネジ釘を壁に差し込んだ後、絵画を掛けました。
 翌朝になって、ようやく私は外に出ました。薔薇は妖しげなる匂いをすっかり消して、新しく降りた朝露に洗われたのか、また無垢なる椿の如く天真爛漫の姿で咲いておりました。ならば私も、昨夜知り得た深き孤独などはもう忘却の彼方と定めて朗らかに辺りを飛びました。

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