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解読 ボウヤ書店の使命 ㉕-9

 長編小説『路地裏の花屋』の読み直し。
 続きから。

蓮二朗は年齢の割にかなりの健脚だった。履き物は借り物のようにサイズの合わない革靴で、時々かかとが浮き上がって今にも脱げそうに見えるのだが本人はさほど気にもせずさっさと前を行く。時々中西の方を振り返ってはいるが、家に辿り着くまでは何も語りたくないとでも言わんばかりの無口ぶりであったので、中西の方からも特に話しかけることもせず、速足の蓮二朗の後を必死で追った。
 大通りを南に下って横断歩道を渡ると住宅街があり、細い路地をいくつか曲がって縫うように進むと運河のある道に出る。その道に出た途端、運河の濃い緑色の水面が太陽を反射して奇妙な明るさを漂わせ、水の底から立ち上がるむっとする藻の匂いが身体にまとわりついた。ところどころに植えてある柳の薄緑が緩やかに風に揺れる。
 こんな場所があったのか。知らなかったと中西は思う。もちろん運河沿いの道を歩くことはよくあるが、この場所の水や光の色と匂いは説明し難くこれまでに覚えのないものだった。
 しばらくして、中西の背丈の二倍ほどもある門が現れると蓮二朗はそこで立ち止まり、「ここです」と中西の方を振り返った。
「私が言うのも何ですが豪邸でしょう?」
 腕組みをして、初めて訪れた建物でも眺めるかのように門を見上げる。
 左手側にずっと続いていた岩の塀を、その厳めしい門が割入っていた。まるで武家の館のように分厚い木で作られており、中央に通してある鉄製の板には真ん中にライオンの彫刻が施され均等に鋲が打たれ、難攻不落を表現している。もちろんこのご時世、誰も攻め込んだりはしないだろうが充分に城を連想させる構えだった。門の先の空に屋根らしき姿は見えるものの、それすら塀の内側に植えてある樹木に囲まれてよく見えなかった。
「確かに豪邸の趣ですね。個人の家とはとても思えません」
 中西は目を細くして門を見た。「時々こういった門を見かけますが、表から開けるとすれば一体どうやればよいのかと不思議に思っていました」
 蓮二朗は上機嫌で笑い声を上げた。
「残念ですが、私自身もこの門の開け方は知りません。確かに鍵穴もなければ取っ手もない。ひょっとすると内側からしか開けられない仕組みになっているのかもしれません。恥ずかしながら、私はここから出入りさせてもらったことは一度もありません。離れ屋に行くためには、別の入り口が用意されております。」
 そう言うと、運河の際の遊歩道に続く細い石段を降り「運河も一部は木花家の出資で建設しておるらしく、ちょっとした権利で裏の離れ屋に続く小道を開けてもらったそうです」足を止めることなく歩を進めながらもちらりと中西を振り返った。「ここです」
 蓮二朗の言う通り、遊歩道脇には石塀にちょうど中西の身体がすっぽり入るか、やや屈めなければ通れないかという程度の扉があり、やはり鉄製の錠が掛けられている。
「ここの鍵は持っておりますのでご安心を」
 蓮二朗が言って、ズボンのポケットから金色の鍵を取り出して扉の穴に差し込んだ。
 鍵の外れる金属音がすると鉄製の丸い輪を持ち、ぎいと引っ張り開ける。中には石塀で囲まれた洞窟のような細い通路があるのが見えた。冷やりとしている。入り口の壁に石ひとつ分を外してこしらえた棚のような空洞があって、そこに懐中電灯が置いてあり、蓮二朗がそれで中の壁面を照らすと、薄暗いために長くも見えていた通路は実は五、六メートルほどのものだとわかった。出口には数段の昇り階段がありその先には入り口と同じ形の扉がある。
「この通路、じめっとしてあまり心地よい風情ではございませんが、少々辛抱してください。ここを通って行くしかありませんので」
 え? ここから行くの? 中西は蓮二朗から懐中電灯を受け取り運河の底の匂いが立ち込めている通路を恐る恐る歩いた。頭の天辺が天上に当たることはなさそうだが、つい身を屈めてしまう。
 出口階段を昇って扉を開けると、どうやら豪邸の建物を囲んでいる塀の内側に出たらしく、そこは煉瓦を連ねた細い道のある庭だった。広さは、ぱっと見えるだけでも百米平方ほどで、葡萄園さながら、辺り一帯薔薇の花が植えられている。薔薇がそこら中の水分を吸い上げてしまったのか、通路を出てしまえば空気はからりとしていた。煉瓦道の一番奥に白壁と青い瓦屋根の平屋が見え、その前には大きなスコップや三輪リヤカー、それから濃い茶色の土の山がいくつかあり水道口もある。
 後から来た蓮二朗が横に立った。「親戚と言っても本当に遠い縁でして、私はもともとこの庭を整えるために雇われておりました。最初は近くにアパートを借りて通いで仕事に携わっておったのですが、この離れ屋に住んでいた人がお亡くなりになった後、おくさまのご厚意で使わせてもらえるようになりました」
 煉瓦道の上を歩き出す。僅かに上り坂だった。

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