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解読 ボウヤ書店の使命 ㉕-42

長編小説『路地裏の花屋』読み直しつづき。

《九章 

 中西はうつぶせになって、セラピストの手のひらがアロマオイルを塗った背中を腰から首元へと移動するのを感じていた。蓮二朗から受けた依頼は成功しないまま終了が言い渡されたが、その後も「木花蓮二朗」の名前で何年も通い続けている。施術料はもちろん自腹。しかし、なんだったんだろうなあ、絵画から手紙を抜いてくれ、なんて。
 長年通ったために,もう好みの強さや凝りやすい場所を伝える必要もなく、まどろんで身を任せていた。すぐに半眠状態に陥ってしまう。寝ているわけではないが、意識と言えるような明確なものはない。半透明のジェルのような空間の中でぽっかりと浮かんでいるような気分になっていく。母親の羊水の中にいるのはこんな気分なのだろうか。胎内回帰し、心身が修復されていく。
 ところが、すっかり寛いでしまったところを、不意打ちされるような言葉を聞いた。
「私、六月に結婚します」
 背中の上を撫でる手のひらが肩甲骨辺りで親指だけになる。「ここはこのまま続けますけれど、時間帯が少し変わるかもしれません」凝りをほぐした。
 そんな言葉を予測もしていなかったので、咄嗟にどう答えてよいか分からなかった。しばらく黙って身を任せた後、
「そうか、それはおめでとう」
 声を絞り出した後、「じゃあ、もう来るのはよそう」と言いそうになって口をつぐんだ。そんなことを言うと、嫉妬しているみたいじゃないか。そっと来なくなればいい、それが一番いい。「よかったな」と付け足した。
 無防備にリラックスしていたせいか,想像していなかった痛みを胸に覚えた。心臓がはっきりと収縮したような感覚だ。そして、痛みそのものよりも、痛みが生じたことにうろたえた。
 このセラピストを好きだったのだろうか? 
 胸が締め付けられるような苦痛と,ユミカの手のひらが作り出すまどろみが血流を滞らせたり異常に増加させたりして,体中が不思議な脈動に満たされていく。施術の間中、わずかな筋肉の強張りや早く打ち始めた鼓動に気付かれはしないかと気が気ではなく、せめてうつぶせでいられることが救い。自分では見えなくても、体中が淡い薔薇色に染まったような気がして、脳裏には八年前に蓮二朗の離れ家で見た一輪の完璧な赤い薔薇が思い浮かんだ。蓮二朗の言葉を思い出す。

 ――私が思うには、切り花となった薔薇だけは造花のように完璧でなければいけないのです。薔薇の素晴らしさは結局痛々しさそのものにあるからではないでしょうか。違いますか。完璧というのは美醜に関わらず痛々しくて目を離せなくなるものです。それも切り花になった薔薇に限った話ですけれど――

 ユミカのゴッドハンドとも言われるまでになった手のひらが,この世の天国と言える感覚を与える中、中西の胸からは完璧な赤い薔薇が咲いたように,美しい痛みが尽きることなく湧きだしていた。
 失恋? なんだ、これが薔薇? 
 うろたえながらも、初めて感じる甘美な苦痛に心身を任せていった。痛みが背中から全身に広がっていく。
 蓮二朗が恋愛関係を装ってまでも見せてもらうようにと言った、あの黄金律で描かれた赤い花びらの絵が胸中に? 
 結婚します、という由美香の言葉を何度も反芻してみた。
 だからなんだと言うのだ。おめでとう。
 しかし、愛とも恋とも言えない曖昧で完璧な痛みが胸を襲う。

 その夜、不思議な痛みを抱えたまま朦朧とした気分で事務所に戻り、ベッドに寝そべって、これまでに味わったことのない、まだ持続している胸の感覚に苦しみながら、八年間もユミカのところに通って何をしていたのかと考えた。
 彼女の父親のことまで調べた。カタギリトモヒロ。銀座で輸入雑貨屋経営。牡丹通りの雀荘通い。そのカタギリトモヒロが雀荘に行きそうな日には、木花蓮二朗の名を使ってその雀荘にまで通い続けた我が身を振り返る。
 どうしてそんなことを? 蓮二朗から仕事は終了と言われているのに。まるでストーカーじゃないか。ユミカを好きになったのか? 守りたかったのか? 
 こんな狭い部屋で、たった独りでセラピストの仕事をしているというのに、あのカタギリトモヒロという父親は雀荘通いなんかでふざけやがって、と。そう思って通ったのか? この世界にそんな奴いるか? そんな奴いないだろ。いやいる。僕だ。この、僕だ。しかし、なんだ、この甘い痛みは。》

つづく。

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