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解読 ボウヤ書店の使命 ㉕-35

長編小説『路地裏の花屋』読み直しつづき。

《画廊余白でのアクセサリー展示会の会期中、蓮二朗は佐々木に奈々子のクリスタルヒーリングを受けてきたことを報告した。行く前に連絡するようにと言っておいたのにと一瞬嫌な顔をしたけれど、それでどうだったか、一度でも会うと忘れられない女だったかと、好奇心を露わにして問い詰めてきた。
「惚れたり、逆に嫌悪感を抱いたりするようなことがあったかと言われたら、そういうことはありません。でも、忘れられるのかと言われたら、忘れられないでしょう」
 素直に答えた。実際、あの日家に戻ってから、ずっと奈々子のことを考えていると言っても過言ではなかった。
「ほお、どういったところが忘れられないのか」
「分かりません」
 ハーキマーダイヤモンドを楓の下に仕掛けてきたことについては話さなかった。蓮二朗自身は恐らくそのために奈々子のヒーリングルームからの影響を受けてしまい、つい奈々子のことばかり考えてしまうのだろうと考えていた。佐々木の主張する「鉱物同士の連絡」という説も、あながち出鱈目でもなさそうだと考え始めていたのだ。
「みんなそう言うのだそうだよ。理由は分からないが忘れられない」
 蓮二朗が黙っていると、佐々木はまあいいだろうと頷き、「それはそうと、どういうヒーリングだったかくらいは話してくれるのだろう」椅子に座るように勧めた。
「まずは診察室のような部屋で質問紙表に承諾書的なものを書き、別室に移動して、心の中から追い出したいエピソードについて聞いてもらい、その話をする時の気持ちを手放しましょうと言われました。私は昔の話をしました。なんというか、よくないものを見てしまって、罪悪感を持ったこと」
「じゃあ当時感じてしまった罪悪感をヒーリングで消去するのかい?」
「そうではないらしいです。そのエピソードを回想する時の現在の気持ちの方を説明するように言われ、『虚しい感じ』と言いましたら、ではそれを消去しましょうと」
 そう言うと、佐々木は大声で笑い始めた。
「何がおかしいのですか」ややむっとして言うと、
「悪かった、悪かった。あまり聞いたことのない話でね、つい。それで君はその虚しさを消去できたのかい?」
 いいえと首を横に振る。「むしろ、初めて心の中に存在している虚しさについて気付かされたようなものです」
「ほお、では、その虚しさという穴に」
 人差指をやんわりと蓮二朗の鼻先に向ける。「彼女がすっぽりと入ったというわけか」
 普段ならここで不快な気持ちになるのだが、その時に限って、素直にそうかもしれないと蓮二朗は思い、むしろ佐々木の指先がもやもやとした霧を追い出してくれたようにさえ思った。
「虚しさなんてものは掃い除けるものではないだろう。君のような芸術家が今さら虚しさに気付いたなんて僕にはむしろ驚きだがね」
 佐々木は腕組みをして、「それにしても、奈々子という女は只者ではないのかもしれないな」としたり顔で壁の辺りを睨んでいる。「僕の知り合いが言うことには、あれは彼女が独自で考案したオリジナルのヒーリングだという話なのだがね、君が少しでも考え込むというのならば僕の方では大したものだと言うしかないな」
 その後、「あまり関係ないことかもしれないが」と前置きをして、ある学者たちの物語を語り始めた。
 
 ―ある所に三人の学者が居た。三人とも、学者たちが住んで居る辺りにだけ咲く花と月の満ち欠けについて調べていた。その花が咲くタイミングと月の満ち欠けの関係が、やはりその辺りにだけ発生するウィルス性の病の蔓延に関係しているらしいというので、それぞれの方法で時期を推測するための調査をしていたわけだ。その病が蔓延し多くの子どもたちが死亡する年というのがランダムに発生するのだが、花と月の関係と病の流行する年の間に何らかの法則性が見つかれば病を予防できるのではないかと。
 一人はとにかく何年も記録を取り続けて統計的な結果から導き出そうとしていた。もう一人は、近隣の図書館を隈なく渡り歩いてそれに関する文献を探し求めて古典的な知識から因果関係を発見しようとしていた。そしてもう一人は、統計でもなく、古典的な知識でもなく、瞑想のようなことをして神からの啓示を受けて知ろうとしていた。
 さて、三人とは別に、これら三つの方法の内のどれが本当の知識と言えるのだろうかと、横から傍観者的に眺めていた男がいた。その傍観者男が三人を観察していると、結局どれをとっても確実とは言い難いものがあった。正しく予測することもあれば、外れることもある。だったら当てずっぽうとさして変わりはない。外から眺めている限りでは、はっきり言ってどれをとっても使える情報とは思えず団栗の背比べのようにしか見えないのだが、それぞれ互いに「捏造された知識」にすぎないと批判し合っていた。つまり、それぞれが、俺様が一番だと主張していた。
 どの人の言うことも一理あるような気もする。だけど少し間違っている。古典的な知識もひょっとしたら、昔々、神からの啓示に基づいて作成された知識かもしれないし、神からの啓示だと思っている知識も本人がどこかで見聞きしたことを忘れてしまっている古典的な知識かもしれない。じゃあ、本当の知識とは一体なんのことだと悩んだ。
 ところが、そこにある医者が突然現われて、病を治す薬をあっさりと発見してしまった。ある動物の骨から抽出したエキスだ。それを使えば直ちに治る。そうなると予測なんか必要なくなってしまった。なんだ、これで終わりだ、これこそが本当の知識だと傍観者男は思った。確かに、そうとも言える。予測なんかいらない。治ればそれでいいのだから。
 しかし、とさらに考えた。統計的知識を得ようとして周辺の出来事を隈なく調べた学者の記録は歴史書になり、古典的な知識を得ようとした学者は図書館を大切にして繁栄させたので物語などの書物の増加を促し、神からの啓示を求めた学者の記述は宗教的な知恵や詩を生んだ。彼らの弟子たちによって花を描いた絵も月の満ち欠けの美しさを称えた音楽も生まれた。それは捏造ではなく、副次的に発生した学問や宗教、芸術であり、創造されたものだった。この病を治すためにはそれほど直接的な効力を発揮することのなかった学者たちの創造活動のお蔭で、人々の知的生活は潤っていった。
 そこで傍観者男はこう考えたのだ。知的生活が潤えば免疫力が上がって、恐らく数値には現れることのない予防医学的な効力を発揮しているに違いないと。一旦は批判し合うことさえなければいいのだと思ったが、批判し合うことで躍起になって頑張り、ひときわ磨かれて創造物が増加していくこともあるのだろうと考え直して、そうか、何もかもこれでいいのだと一人で納得した。これが彼の得た「本当の知識」だった。その傍観者男は哲学者になった。―
  
「この物語を話したことには深い意味はないよ」
 佐々木は最後にそう付け加えた。「ただね、彼女が独自で考案したヒーリングというのは、この話のどの辺りに位置づけされるものかと思ってね」

 離れ家の裏庭には一足先に咲き始めたツツジの盆栽が満開となって賑わっていた。日光の加減だろうか、庭の中でも盆栽を置いた一画だけは季節が先行する。雨風からは守ってやり、足りない温度や光は意図的に補ってやるのだから当然かもしれないけれど、蓮二朗自身の思いの通りに従って咲いたり、時期が終わると花びらや葉を落として眠りについたりする鉢の中の世界が愛しかった。庭師の友人の中にはそれを不自然に造りこんだものとして批判し、奈々子の庭の木々のように雨風に晒したまま放置し剪定などの最小限の手入れをすることが最上と言う向きもいるのだが、決してそうは思わなかった。確かに奔放な自由もいい。でも、その大らかさを少し犠牲にしたとしても、対話しやすい形に整えて植物たちと付き合っていくのもいい。薔薇園の方はおくさまの希望でなるべく野性的に整えているのだから、裏側は好みの通り、お行儀よく話し合える風情を守り抜きたかった。
 蒔いた種から芽を出した朝顔の手入れをしながら、先日佐々木から聞いた「花と月の因果関係から病の流行る時期を推測しようとする学者たちの物語」について考えていた。どうして佐々木はあんな話をしたのだろう。どの知識が捏造で、どの知識が本当のものだったか。それにしても、佐々木という男は何でもかんでもホンモノとニセモノに分けたがる。商売が骨董の目利きだから、そういうのが好きなのだろう。奈々子のヒーリングのことはどう言いたいのだろうか。
 プランターの中で一斉に顔を出した朝顔の芽から、ひ弱で育ちにくそうなものを引き抜き、前もって広げておいた古新聞の上に捨てた。こうして、たとえホンモノでもひ弱なら間引かれてしまう。物心ついてから植物の手入ればかりしてきた身としては、佐々木の言う真贋よりも、育つのか育たないのかの方がいつも気になっている。
 太く、よく育ちそうな芽をプランターの中に残しつつ、それらが夏になって水色の大輪を咲かせている姿を想像してみると、朝顔なんてホンモノでもニセモノくさいと思えた。青空をそのまま映しとったような花色はまるで子どもの遊具のようで、奥ゆかしさはどこにもないのだ。清楚や可憐を装っているものでも満開の花なんてみんなそうだ。致し方なく千切って間引かれる弱弱しい芽の方がずっと優しくて、どこか大人びている。黙って譲っているではないか。
 またひとつ力なく生えている芽を引き抜いて、古新聞に乗せた。
 花と月の関係か。そう言えば。まだここに来たばかりの頃、夏の満月の日に間違って咲いた朝顔を見たことがあった。この裏庭で、雨風を避け光を補い限りなく人工的に育てようとした朝顔の一株が、何をとちくるったか、満月の光を受けて夜中に満開になったのだった。あれは、後で聞くと何か特別な満月の日で、確かに月が通常よりひときわ大きく爛々と輝いていた。縁側に居た蓮二朗は、まるで新品の十円玉のように意味ありげに光を放つ空の置物を見上げ、なんだあれは? と目をこすって不思議がり、さらに裏庭に咲く夜中の朝顔を見つけて仰天したのだった。あり得ないだろう? 草履を引っ掛けてその鉢に近付き、夢だろうかと思いながら花びらに触れたが嘘ではなく、しっとりと湿っていた。いつも通り蛙たちの鳴く声が響き、人間の匂いを嗅ぎつけると直ちに集まって血を吸う蚊に追われる、ごく当たり前の夏の夜なのに、満月と花だけがこの世のものとは思えない狂乱の姿を現していた。
 あれは、その関係が病を呼ぶと言うよりは、月と花そのものが、病そのものだった。佐々木の物語に登場する学者たちであれば、こぞってこれこそは捏造と言いたくなる光景だった。こんなことがあってなるものかと。学者だからな。観察し、記録を取り、椅子に座って考え、仮説を立て、証明し、結論を言い切るのだろう。だけど庭師にとっては月も花も、媒介して何かを伝える記号なんかじゃない。捏造も何もあったもんじゃない。月は月、花は花だ。人間の病を推測するために輝いたり咲いたりするのじゃない。庭師は、そこから学問的な意味をくみ取ることなんてしない。

 間引きの作業を終えて立ち上がり、古新聞の上の引き抜かれた芽を包んで焼き場に持って行こうとして、ふと、その中から一つだけ指でつまみ取り、裏庭にある松の木の根っこの辺りに植えてみた。こんなひ弱な芽でも育つだろうか。もしも育ってきたなら、この古い松の木に蔓が絡みついて咲くのだろうか。

 全ての作業を終えて手を洗い、ソファに座ると何となく「虚しい」気持ちがしないでもなかった。はっきりと寒々としているのではない。むしろ間引かれた芽をひとつ救って松の木の根元に植えたことや、かつて見た、夜中に咲いた朝顔を思い出して気分的には高揚していた。それらの誰とも共有できない思考が胸を満たせば満たすほど、目の前にある部屋の時計や壁や家具が虚しいものに思えて仕方がなかった。ぎんも散歩に出たのか部屋のどこにもいない。
 寝室に行き、サイドテーブルの下に入れておいた骨董の壺を取り出してそっと手のひらで触れてみた。ひんやりとして指先までぴったりと吸い付くようだ。この前見た時はクリーム色をしていたが、なんとなく薄緑に光るように思えた。触れているうちに、先日佐々木が帰り際に、「虚しさについて考えるのであればあの骨董の壺を見るといい」と言ったことを思い出す。「骨董に限らないが壺は虚しさの象徴ではないか」と言った。
 確かに目の前の壺は虚しさを象っていた。間違いなく空間を内包させるために固めて焼かれたものだ。まあ、花瓶だって湯呑だってそうだけれど、壺以外のものは基本的に中身を入れない時は棚に仕舞っておくのだろう。花瓶には花があり湯呑には茶がある。だけど壺というものは、むしろ中に何も入れないことの方が多い。そしてそのまま床の間などに飾るのだ。虚しさそのものを誇っていると言えなくはない。
 もしも壺に空間がなければ、壺の形を模した岩のようなものだろう。だけどこいつには内側がある。中に指先を入れてみると、外側よりごつごつとしてところどころに土の粒が焼き固まったものもあった。そこでふと思いついて、夜中の庭を見回る時のための懐中電灯を取り出し、壺の中身を照らしてみた。しんとしている。何も入っていないのだが、たとえば「夜」のようなものが入っている気がした。あるいは「月明り」、あるいは「時間」。空っぽでありがながら満ちている。手のひらでは絶対に触れたり掬い取ったりできないものが平然と収められている。光を当てようとしてもどうしても当たらない場所もあり、その一番奥にはどうしても触れることさえできない部分もある。割ってしまえば触れられるのかもしれないが、割るともう、その空間になみなみと注ぎ込まれている夜や月明りや時間は一瞬にしてどこかに逃げ去ってしまうだろう。内側のあちこちを照らせば照らすほど、壺は生き物が声を潜めているかのように思えてきた。
 懐中電灯の明かりを消して、再び壺を外側から眺めた。のどかな風情だ。先程見た内側の秘めたるものは何もないかのように振る舞っている。なんだ、嘘つきじゃないか。壺は嘘つきだ。それが佐々木の言った「虚しさの象徴」というものか? 
 懐中電灯で照らし出して眺めた時、そこにある空間そのものは虚しくはなかった。むしろ満ちていた。それよりも空間を抱いているこの外観が虚しかった。お澄まし顔でごまかしている。堂々とごまかしている。そう思ってみると、虚しさは愛しかった。見え見えの嘘つきだ。子どものようなものじゃないか。おかしくて笑えてくる。どうしてそれを奈々子の誘いなんかに乗ってまんまと消去なしなくちゃいけないのだと、仄かな怒りさえ感じないでもない。
 壺の肌はまだ相変わらずひんやりとしているけれど、蓮二朗の手のひらの温もりを吸い取って少しは温かくなっていた。》

つづく。

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