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長編小説 コルヌコピア 9

四章 形象の実像 

1 探し求めた鳥との出会い

 眠りから覚めた時、チェルナはどこにいるのか思い出せなかった。

 ――そうだ。ヤンとハルの家にいる。

 目を擦りながら体を起こし、カーテンを開けると眩しい光が差し込んできた。まだ五時過ぎだが真昼のように明るい。さらに窓を開けると、賑やかしいほど鳥の声がする。

 顔を洗い、新しいシャツに着替えて部屋の外に出た。部屋は屋敷の最奥に位置して廊下は行き止まりだが、廊下の先に小さな階段があり、そこから裏庭に出ることができる。
 青々とした細かな葉がたくさん茂っている樹木が植えられていて、たくさんの野鳥が集まって囀っている。奥の庭にあった泉から派生して生まれた細い水の流れがあり、蝶や小さな虫が辺りの草地を舞っている。野葡萄の木に緑色の実が成り、その横には赤紫の小さな実を付けた常緑の木もあった。

 チェルナは小川を跨ぎ、その先に置いてある切り株をリメイクしたベンチへと向かった。密集した木々の葉にも隙間があるのか、そのベンチには斜めから朝日が照らしてスポットライトが当たったかのように見える。

 ――自然界がくれたスポットライト。

 自ずと微笑みが生まれる。

 ――むしろ人間にとってのスポットライトって、こんな自然界の姿を真似したものなのかも。

 切り株に座ると、差し込んでくる光の強さに一瞬視界を失う。世界が真っ白になる。
 手のひらで光を遮ると、頭上の枝から鳥の鳴き声がした。それは遠い胸の底から鳴り響くような声で、切なさと懐かしさ、それから何があってもひるまない強さがある。

 ――ひょっとして、あの鳥じゃないかしら。

 目を細めてよく見ようとすると、鳴くのを止め、葉を揺らして飛び立った。

 ――消えたのか。

 残念に思いながら、直射日光が目に入らない角度に座り直しまっすぐに前を見ると、その鳥がいた。

 ――あ、やっぱり。

 ぽかんと口が開いてしまう。鳥は首を傾げた後、まっすぐに首をもたげて再び鳴き始めた。裏庭中、それどころか奥の密林を越えて海まで響き渡りそうな透き通る声。

 ――この声だ。忘れていたけど、この声だ。子供の頃のあの日、私はこの声を聞いたのだ。

 鳥は鳴くのを止めて、チェルナに対して垂直の角度に身体の置き方を変えた。身体は青と白と黒の羽根で覆われ、丸いビーズのような目とふかふかした頭。
 
 ――そうだ、この鳥だ。この形。

 ――だけど。

 細長く尖った嘴がすっきりと伸びていた。円錐型をしていない。

 ――嘴が違う? これが、あの日見た鳥の嘴か?

 驚いて、チェルナは思わず立ち上がってしまった。
 それと同時に鳥は飛び立ち、樹木は葉を数枚落とした。

 どうしてあの鳥の嘴を、なにかふっくらとしたアーモンドを半分に割った形だと思い込んだのだろう。
 さっき見た青と白と黒の羽根に覆われた鳥は姿も声もあの日見たものと同じで、同じでありながら嘴だけは違っていた。さっき見た方が違っていたのではなく、おそらく、思い込んでいた方が間違いだったに違いない。
 かつて見間違え、思い込み、箱に入った別のものを見た時でさえその嘴だと連想し、改めて自身の作品として製作しようとしていたのだろうか。

 ――なんてこと。

 チェルナは力を失ったかようにへなへなと切り株に座った。この半年間ほど、博物館の仕事を退職してまでアーティスト養成プログラムに参加し、思い詰めたかのように必死で作り続けていたものはなんだったのか。
 すると、再び、遠くであの鳥の声が響いた。意志のある嘆きに似ている。
 チェルナは切り株の横に落ちていた枝が目に入り、一本拾って立ち上がった。

 ――これを使えば簡単にできる。

 早く嘴を再現したい気持ちで、居ても立ってもいられなかった。

 中庭から部屋に戻ると、ドアの前に小型のワゴンがあり、そこには硝子の蓋をした状態で朝食が置いてあった。スクランブルエッグとひよこ豆のスープ、トーストと珈琲の入ったポット。ハルが用意してくれたらしく、シャワールームに向かうための簡単な地図とタオルが置いてある。
 部屋の鍵は開けたままにしているのに、マナーを重視したのか入らなかったようだ。ドアを開けてワゴンから朝食と地図、タオルを部屋の中に運び入れ、直ぐに珈琲をカップに注いで口にした。まだ温かい。これまで鳥の嘴の形をすっかり勘違いしていたことで混乱した頭を正常にしてくれる。卵料理も角がなく柔らかな口当たりだった。
 あっという間に食べ終え、ハルの描いた地図を見てシャワールームに行き、昨日からの汚れと疲れを洗い流した。月見草の香りがするソープで髪も身体も洗う。以前は知らなかった島で、さらには知り合ったばかりの人たちの家でシャワーをしているとは思えなかった。何もかも気に入ったものばかり。

 ――私はよくある伝説のように理想郷に迷い込んだのかしら。

 洗った髪と身体を柔らかな白いタオルで拭きながら、どうしてここに辿り着くことができたのかを信じられないでいた。

 髪を乾かして着替え、館の中央にある広間に行くとヤンが居て、珈琲を飲みながら本を読んでいた。
「眠れた? というか、昨夜、ハルがシャワーをするようにと誘いに行ったら既に眠っているのか、返事をしなかったそうだね」
 今朝はヤンは髪を下ろしている。細かなワイヤーに似た艶のないグレーがかった髪は空気を含んでライオンの鬣のように広がっていた。
「花茶が眠気を誘ったのかしら」
「そうかもしれない。リラックスしてもらえたのなら嬉しいよ。珈琲、もう一杯どう?」
「飲みたいけど、ハルの手を煩わせるのも気が引ける」
 あまりに世話になり過ぎている気がする。
「珈琲は僕が淹れるのだよ。ハルは珈琲は飲まないから」
 もう立ち上がっている。
「じゃあ、お願いしようかしら」
「僕の手を煩わせることには遠慮しないで」
 目尻を下げ、合わせた歯を見せて笑う。
「そうさせてもらいます」
 チェルナは自分でも思いがけないほどの無邪気な笑顔を返す。「私が淹れてもいいのだけれど」
「淹れられるの?」
「得意よ」
 コーヒーマシンを使ったことはなかった。
「明日、頼もうかな。タイミングが合えばね」
 ヤンはもう立ち上がって、大きな窓硝子の傍にあるコンロで火を沸かし始めていた。
「今朝、裏庭に出てみたのよ」
 珈琲豆の分量を天秤で測っているヤンの背中に向かって言った。
「気付くのが早いね。気付かないまま帰って行く人もいるくらいだよ」
 ヤンは豆を電動ミルに入れて弾き始めた。すでによい香りが立つ。
「カーテンを開けたら見えるのに?」
 チェルナが言うと、ヤンは大笑いした。
「そうだよ。あんなにはっきりと見えるのにね」
 弾いた豆を輪の付いた布袋に入れ、硝子のビーカーの上にセットして、ポットから湯を垂らし始める。甘苦い香りが部屋中に充満した。
「切り株に座っていたら、鳥が来た」
「グレイだね」
 ビーカーのメジャーから目を離さないままヤンが言う。
「グレイ? そういう種類があるのかしら」
「彼らの名前だよ。種類ではない。鳥の種別については語らない方針なんだ。鳩だとか雀だとか、なんだとかね」
 ちらりと眼だけこちらに向けて笑う。
「色が灰色だからグレイ? 青と白と黒が混じっていて、遠くからいると灰色に見えるのはそうね。種別については語らないと言っても、同じような色の鳥は他にもいるんじゃないかしら」
「だけど、あの切り株あたりを治めているのはグレイくんだ。宇宙人の名前じゃないよ」
 いたずらっぽく顎をしゃくって見せながら、布袋の先からしたたり落ちる珈琲液をこぼさないように素早く水場に移した。ビーカーで測った通りの珈琲が出来上がっている。
「他にもいるんじゃないかって言ったけど、私が子供の頃に見た鳥は、きっとあの鳥」
「グレイはこの島の鳥だよ。似たような鳥が居たとしても別の鳥だ」
 ヤンは少しだけ真面目で不機嫌な調子になる。
「なるほど。それで私、嘴を違った風に覚えていたのかしら」
「違った風って?」
 ビーカーからカップへと珈琲を注ぎ始めた。
「もっと、アヒルとかカラスのように、ふっくらとしたアーモンド形だと記憶していたの。でも、一度しか見たことがなかったから、思い込んだままで」
「じゃあ、どうしてグレイを見て、その鳥だと思ったの?」
 カップをテーブルに置き、ヤンも椅子に座った。
「鳴き声が、それだったから」
「あのアリアを聞いたの? すばらしい声」
「今朝聞いた。子供の頃にも、あの時に、一度だけ聞いたことのある声」
 チェルナはカップに口を付けた。熱く渋みのある味。
「間違いなくあの声を聞いたのだったら、やっぱりグレイと同じ種類かもしれない。あの声はとても特殊なものだから」
「種では語らない方針なんでしょ?」
「そうは言っても連綿と続くものはあるからね。ひょっとして、チェルナが子供の頃に見たのは、今でも棲息しているグレイの何代も前の鳥になるのかな。嘴の形が違う、派生型? この島の外にもグレイがいるとは知らなかったけど」
 ヤンも珈琲を啜り、「やっぱり旨いな」と満悦した表情を見せた。
「だけど、どうして子供の頃、私の家に来たんだろう。あれを見た時に私驚いて、祖母に『鳥が――』って言うと、祖母は『お前もあれを見たのか。見たのだったら――』って何か言ったのだけど、何を言ったか思い出せない、もう祖母は亡くなってるし」
「チェルナさんが嘴の形を間違った風に覚えていて、しかもその嘴の入った箱を見つけたのにも関わらず見失ったということは、思い込んでいた間違いを気付かせようとした鳥のお知らせじゃないかな」
 ヤンは頬杖を突いて珈琲をもうひとくち飲んだ。
「嘴くらいのことで?」
「嘴は鳥にとって重要なものだよ。グレイの尖った嘴は微妙なカーブが美しい」
「もちろん、侮ったりはしない。でも、全てがグレイの知らせだとしたら、わざわざ私なんかにそれを知らせるために箱の幻を見せたり、養成プログラムに向かう港を勘違いさせたり、あまりにも凝った演出だと思うけど――」
 チェルナは今朝遭遇したグレイの切ないほどの甲高い鳴き声を思い出していた。
「グレイとチェルナは同じ魂かもしれないよ」
「鳥と私が?」
「人間の分類方法では鳥と人間だから異なるけれど、似たような心を持つものたちといった括りでは、鳥や植物、星、石、なんだって入ってくるものさ。トーテムポールを知らないの?」
 ヤンは壁際の棚から一冊の本を取り出した。
「もちろん知ってる。そもそも彼がトーテムポールに関するlectureをした後――」
 チェルナは言いかけて黙った。しばらく忘れたことにしていた博物館員のことを思い出したのだ。
「ワタリガラスがひとつの魂をいろいろなものに作り変える神話がある。見て、ほら、このトーテムポール」
 シャーロット島に残されたトーテムポールの写真の頁を開けて見せてくれた。
「博物館にもレプリカがあった」
「置物? それとも本物と同じ大きさ?」
「同じ大きさよ。樹木を磨いて彫ったもの。そして、敷地内にある林の樹木にも彫ってある」
「ここに来る前に、それに触れたりしなかった?」
 ヤンは本の頁を閉じて、チェルナの前に置いた。
「ヤンの言う通り。ちょうど、触れたかも」
 博物館員の最後のlectureを思い出していた。「そして、嘴の入った箱を見つけ、見失い、その後、博物館の仕事を止めたくなって、アーティスト養成プログラムに参加して、気付くとここにいる」
「チェルナがまだ子供だった頃に、グレイがチェルナのところにまで会いに行ったのだとしたら、今、この島に来ることは予定されていたのかもしれないね」
「予定されていた?」
 運命は存在するのだろうか。それは決められたシナリオではなく、ひょっとしたら同じトーテムポールに彫られている生物の中でも高い位置を飛べる鳥によって、偶然に導かれるものかもしれない。
「あるいは、グレイを見失ったと言ったけど、実はずっとそばにいたのかもしれないよ」
 ヤンは眩しそうに眼を細めた。「羨ましいな」
「ヤンの方がいつも一緒じゃない。裏庭にいるのだから」
「こういうのは物質的な距離の問題じゃないんだよ。魂のことなのだから」
「ヤンとグレイは別の魂だとわかるの?」
 チェルナは自身とヤンが同じトーテムポールにはいないことを考えると、少し寂しい気がした。
「どうかな。グレイは僕を見ても素通りするだけさ」
「近くにいるからじゃないかしら」
「そうだといいけど。実際、グレイはとても繊細で思いやりのある鳥だから、グレイがいると誰ものけものにはならない。誰ものけものにしないことが、彼をリーダーの中のリーダーにしている。見ればわかるけれど、カラスや鵜のようには大きくないし、平気で地面に降りてきてなんでも食べるような太い神経は持ち合わせていない。つまりそれほど強そうじゃない。だけど、カラスも一目おいて、人間がグレイを捕獲しようとでもすれば末代まで呪いそうな勢いで攻撃してくるよ」
「じゃあ、グレイとヤンもハルも、そして私も、同じトーテムポールに彫られた一族なのかしら」
 チェルナはそうだとしたら嬉しいと思い、素直に笑えてきた。「あ、図々しくてごめんなさい」
 庭の水場を見ると、ハルが収穫した野草を洗っていた。テーブルの花瓶に生けるつもりだろう。
「私、そろそろ製作に入るわ。今日見たグレイの絵を描いておきたいし。もし写真があれば見せて貰えるかしら。だけど、私なりに予定していた嘴に関する思考錯誤の工程は必要ないことになりそう。適当な枝を削って磨き、漆でも塗ればすぐに完成する」
「写真はたくさんあるよ。だけど、今日見たものを描いてから、写真を見た方がいい。それから、錯覚していたものを試行錯誤して作ってみることもおすすめするよ。たとえばテーマは《錯覚とリアル》とか。僕の方も仕事の製作を始める」
「何を作っているんだっけ?」
 チェルナが言うと、ヤンは直ぐに答えず、にんまりと頬を緩ませて微笑んだ。
「箱だよ。言わなかった? 工芸品を入れる箱」
 箱――。
 チェルナはヤンをじっと見つめた。

 部屋に戻り、早速、机の上に道具を出し、鉛筆でスケッチブックの真ん中にグレイの嘴を描いた。

 ――試行錯誤した嘴の答がこれほど簡単なものだったとは。

 新月から二日経過した程度のあまり角度のない月の細さに似ている。夜空で釣りをする神々の釣り針みたいでもある。
 真っ白い紙に描いた細く尖った嘴はシンプルで美しい。鳥は生まれてから与えられるたったひとつの道具によって、樹木に成る実をついばみ、水場の水や花の蜜を吸い、敵から身を守り、巣を作り、雛に餌を与えるのだ。
 チェルナは早朝に聞いたグレイの美しい声を思い出して涙が溢れそうになった。これまでチェルナ自身は人間として生き、多すぎるほどの物を持ち、着飾ったり、ありとあらゆる料理を食べたり、音楽を聴いたり歌ったりしてきたが、あのグレイの辺りに響き渡るほどの声の美しさや、嘴のシンプルで美しい道具を得たことはなかった。
 嘴の絵を描いた紙をスケッチブックから切り離し、ベッドの背にテープで貼る。

 ――どう言われようと、これで、この仕事は終わった。

 錯覚していた嘴の形も製作した方がいいとヤンから言われたけれど、チェルナとしてはもうやりたかったことは完了した気がした。間違って覚えていた嘴を正しいものに入れ替えることによって、子供の頃に遭遇したグレイのイメージがとうとう確定したのだから。
 棘のように記憶に突き刺さっていたグレイの嘴がぱっくりと外れたかのようだ。これまでずっと失ったピースを探し求めていたけれど、それはむしろ胸の中にあったのだ。あの日、グレイが貸してくれていたのかもしれない。私が世界を渡って行く時に闘うための小さな心の剣として。あるいは、歩き続けるためには決して無くしてはいけない違和感を持ち続ける為に。その剣でぬるびた日々を切り離してここへ来た。
 チェルナは拾ってきた枝をナイフで削り始めた。簡単にできると思っていたわりには、枝に節や個性的な歪みがあるために、絵を描くようにはうまくいかない。
 結局、うまくいかないで諦め、再び中庭に出て、もっと滑らかで適切な枝を何本か拾った。それで作ろうとしたけれど、どうもうまくいかない。嘴の質感は木の枝ではなく、細い貝や研いだ大理石のようなのだから。

 ――素材が間違っている。

 ついさっきにはやりたかったことが完了し、予定していた仕事は完全に終わったかのように思ったが、うまく再現できない状況に直面し、むしろ、これでやっと始まったのだと思えた。
 どれほど長い間錯覚したままで得も言われぬ不安を抱えていたのか、そして、錯覚しているものを真実だと思って探す旅をしてきたのか。
 たった今、その錯覚が終わっただけで、正しい姿は間違って探していた”それ”ではなく、真実は”これ”だと知ったばかりなのだ。
 その”これ”を写実して作品化しなくてはいけない。
 長い時間歩いてきて、まだこれから、長い時間をかけなければいけない。
 チェルナはばらまかれた枝を眺め、途方もなさに唖然とする一方で、喜びに打ち震えていた。もう若いとは言えない年齢になって、やっと自分自身が長編小説ほどの長さを持った生物になることができた。
 錯覚していたこれまでの長い時間と、本当の形を創り出そうとするこれから。
 恐らく、簡単に到達することなどないだろうと予測できる。
 ここからの時間は無限に長い。
 嘴を創り出そうとして失敗した枝の数々を床に並べてみて、はっとする。

 ――だけど、この間違いたちもなかなかいいんじゃないかしら。

 錯覚していたアーモンド型の嘴をいくつ作っても無意味な気がしたが、はっきりと掴んだ答を顕現しようとしたものは無意味ではない気がした。どうしても到達し得ない失敗群は、地上の生物にも見える。歪で、どこにも生まれもしないまま死んだ天空の記号のように横たわっている。並べてみると、どこか笑っているようにも見えた。

 ――おもしろみはある。

 そうは言っても失敗の活発さに留まっているわけにはいかない。もっと正確に作れる別の素材を探索しなくては。
 チェルナは広間に戻り、浜辺で貝を拾ったり、洞窟のある庭で石を探したりできないかとヤンに頼んだ。

 ヤンは素材探しをする前にこれを読むようにと鳥類図鑑を持ち出した。
「種別はしたくないのだけどね」
 いたずらっぽく笑う。
 図鑑によると、嘴は爪や髪の成分でもあるケラチンで作られていて血管も通っている。息を吸うための鼻孔のようなものもあるし、神経が通っていて触覚が存在する場合もある。そして使えば摩耗もするし、再生もし続けるのだ。
「納屋に鹿の角が何本もあるから、それを使ってもいいよ。鹿以外にも、この辺りで死んだ生物の角や骨を保管してあるから」
 ヤンは必要なら納屋へと案内すると言った。海岸や中庭の中を探して歩くよりも早いだろうと言う。
「納屋には鳥の骨や嘴そのものはないの?」
 チェルナはおそるおそる聞いてみた。
「僕が知っている限りでは、この島で鳥の死骸が発見されたことはない」
「羽根は?」
「羽根はあるよ。どうして?」
「他の鳥は別として、グレイは――」
 チェルナは幻鳥ではないかと言おうとしてやめた。幻だとしたら羽根が落ちていることはないが、もしもヤンが「そういえばそうだな」と言ってしまったら、これまでの全てが崩れ落ちてしまいそうだ。
「グレイの羽根もあるよ。森に落ちていたら必ず拾って浄化水で洗って干し、特別な箱に入れている。僕にとってもグレイは大事なものだから」
「だけど、どうして死骸が発見されないのかしら」
「はっきりとしたことはわからない。もしも狸やキツネが食べたのだとしたら、骨が残っていたり食い荒らした死骸が落ちていても不思議ではないはずだけど、何もない。空に鳥の形をした雲が現れた時には命を終えた鳥が空に帰っていた徴だとする言い伝えもあるらしいけれど、確かめたことはない」
 ヤンは大窓の外を見た。
「グレイを捕まえようとした人はいないの」
「もちろんいるよ。人間というのはなんだって捕まえたいものだから」
 チェルナの方に振り返った。窓の光を背負ったヤンの身体を淡い光が輪郭を作っていた。
「どうなったの?」
「もちろん、失敗した。グレイは捕まったりしない」
「それはひょっとして――」
 再び幻鳥だと言おうとして言葉を詰まらせた。
「さっきからチェルナが言いたいことはわかっているよ。グレイは幻の鳥じゃないかと言いたいんだろう?」
 ヤンはチェルナが持っていた鳥類図鑑を取り返し、グレイらしき鳥が掲載されているページを開いた。「でも、こうして、掲載されているから、幻じゃない」
「さっき見たわ。でも――」
 言い淀んだ。言ってしまうと、チェルナ自身だけではなく、ヤンをも傷つけてしまうのではないかと思ったのだ。
「でも、何?」
「グレイに似ているけど、それはグレイじゃないでしょう?」
「どうしてそう思う?」
「類似した種の絵や写真しかない。グレイそのものは掲載されていない」
 チェルナの言葉にヤンは声を出して笑い始めた。
「どんな図鑑でもそうだよ。固有名詞的なものは掲載されない」
「グレイは固有名詞なの?」
「彼に一般名詞はないんだ。僕は鳥をなるべく種別で呼ばないようにしてるけど、特にグレイに関してはそう」
「じゃあ、図鑑に載っていないのだったら、幻じゃないとは言えないのでは?」
「近いものは載っているんだから、実在のものだ」
 ヤンは頑なになっていた。
「本当は実在じゃないのかもしれないと、思っているんでしょう?」
 チェルナは思い切って、ヤンの本心を突いてみた。「だって、ここに載っている種とグレイは別種でしょ?」
「何が言いたいの?」
「グレイはこの島にだけ存在する、たった一羽の鳥なのでは?」
「チェルナ、何を言ってるの。そんなものが存在するはずないじゃないか。生きているものはいつかは死ぬし、子孫を残すために、少なくともつがいがいる。どうして幻鳥だなんてことを思ったの?」
「それは――」
 はっきりとした理由はなかった。「わからない」
「ひとまず、特別な箱に保管したグレイの羽根を見せてあげるよ。物体を見れば、きっと幻だなんて思わないだろう」
 ヤンは、着いておいでと言って歩き始めた。

2 形象の全体と部分

 長靴を履いて中庭に出て、泉や洞窟に向かう方とは違う方の道を進んだ。慣れた道を早足で歩くヤンの後ろをチェルナは小走りになりながら着いていく。背の高く伸びた草やそれに絡みつく蔦、自由に枝を伸ばした灌木が鬱蒼とした密林を創り出し、その中に頼りなげな細い道が続いている。蛇や毒を持つ虫が登場しそうで怖かった。
「わざと危険そうな森のままにしてある。誰が来ても勝手に素材の場所に近付かないように」
 ヤンがちらりと振り返る。
「大事な場所なのね」
 息を切らしながらどうにか応えた。
 太陽は空高くにあり、密林の湿気た匂いを焚いている。光が葉の間から突き刺さるように差し込んで、ヤンの背中をちらちらと照らしていた。
「ここだよ」
 建物は大地に足を組んで土台を高くしている。「おんぼろに見えるかもしれないけれど、湿気を守るために床の下を空けて通してあるし、壁の木材と土塀は勝手に湿度を調節する。屋根は茅葺。定期的に取り換えているよ」
 ヤンの表情は輝いて見えた。
 入口の扉に向かう小さな階段を上がって、木枠の鍵を外した。
「鍵はこれだけなのかと思うかもしれないけれど、僕以外の人間がこの木枠に触れることはない。さっきの密林には僕の仲間の鳥やイタチがたくさん居て、侵入者に対しては攻撃するようになっている。今時のゲームみたいだけどね」
「そういう風に手名付けたの?」
 チェルナはそんなことが可能なのかと不思議だった。
「勝手にそうなった。動物たちは馬鹿じゃない。僕がいるから密林が密林のままで保存されていることくらい、テレパシックに承知している。人間はすぐに無意味に樹木を切り倒して、彼らの居場所や食い物を台無しにするとわかっているんだ」
「ヤンは人間じゃないの?」
 チェルナが言うと、ヤンは一瞬黙った後、密林にこだましそうな声で笑った。
「そうなのかも」
 歯を見せた笑顔の明るさは、急にチェルナを震えさせた。
「さあ、グレイの羽根を見せてあげるよ」
 ヤンは扉を開けて中に入り、置いてあった懐中電灯に明かりを灯した。室内にはいくつかのランプがあり、ひとつずつに火を灯す。
「電気は引いていないから、こうするしかない」
 ほの明るくなると、室内の中央にはテーブルがあり、壁には物置棚や箪笥があるのがわかった。想像したかび臭い匂いはしない。建物に使った樹木や茅葺の息の匂いが充満しているだけだった。
 チェルナは博物館の資料庫を思い出す。あの日、蜜蜂が飛んで資料庫の奥へとチェルナを導いた。そして、嘴の入った箱を発見したのだ。
 だけど、あれは嘴じゃなかった。
 だとしたら、あれはなんだったのか。
 だけどそれも失われてしまった。
 記憶そのものの仕組みのように、現れては消え去り、消え去った後は取り戻しようがなかった。
「これ。グレイの羽根の箱」
 ヤンは棚の一番奥から両手でやっと抱えられるくらいの大きさの箱を取り出してきた。真ん中のテーブルに置く。
「大きいのね」
 細かな彫刻の施された革で覆われ、蓋には鍵が掛かっていた。
「鍵はこれ。僕が肌身離さず持っている」
 腰に巻いたベルトに結ばれたチェーンの先に金色の輝く鍵が付いている。それを鍵穴に射し込んで回すと、カチャリ、耳の奥をくすぐるほどの音がして鍵は開いた。
 ヤンは腕を使って額の汗を拭いた後、蓋の箱を開いた。
「触らないで。そこから見て」
 懐中電灯で中を照らした。
「大きい」
 羽根は一枚だけ、箱の大きさにぴったりのサイズのものが入っている。「私が観たのはこんなに大きな鳥ではないわ」
「ちゃんと見た?」
「見たはずよ。声がしたから」
「声を聞いて、それがグレイだと思ったの?」
「そうよ。子供の頃に聞いた声で、そしてこっちを見た。嘴は尖っていて――」
「この羽根は翼の一部でしかない。だから、グレイ本体はもっと大きな鳥だよ」
「じゃあ、子供だったのかしら」
「そうかもしれないけれど、子供が人前に出て唄うなんて聞いたことがない。ひょっとしたら、早朝だったから裏庭には朝露の粒子が立ち込めていて、光の屈折が起きて、遠くの樹木に止まっているグレイが近くにいるかのように見えたのでは? それで、大きなものが小さく見えた、とか」
 ヤンは真面目顔だった。
「羽根は一枚しかないの?」
「もっとあるよ。申し訳ないけど、隠している。これはひとつだけ標本として、ここに保存した」
「こんなに大きな鳥がいるなんて」
「図鑑を見たでしょう? サイズを確認しなかったの。あの種類の中には大きなものがいると書いてあったはず」
 チェルナはしばらく言葉を失った。
「ねえ、ヤン、この大きさがグレイなのだとしたら、私が嘴だと錯覚したあの箱の中のものは、グレイの爪だったのじゃないかしら。爪の一部。あるいは、嘴の一部。使ったら摩耗するって書いてあったでしょう。もちろん、それがどうしてほんの数時間の間に箱ごとなくなったのかはわからないけれど」
 チェルナの言葉をヤンは否定しなかった。
「少なくとも、グレイはここに君を呼んでいたのだと思う。僕にだって、どうしてそんなことが起きているのかはわからないけれど」
「そう言えば、洞窟の文字、あれを解読したら、何かわからないかしら」
「解読できるかな」
 ヤンは自信がなさそうだった。
「やらせてもらうわ。嘴の製作はほとんど完成したようなものだから」
 ヤンは、それはありがたいと言い、
「素材として使えそうなものを持って帰るといいよ」
 箱の蓋を閉じた後、動物たちの角や骨、貝、珊瑚、ビーチグラスなどの素材が保管されている棚を見せてくれた。
「なんでもできそう」
 中を覗き込んだチェルナは身体中の細胞が喜びで一斉に輝いたの感じた。

 ――私が光る。そのことで、作品は生まれる。

 まずは水牛の角を一本手に取る。
 これでいい。
 ヤンを見て微笑んだ。

(四章了)

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#連載長編小説


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