長編小説 コルヌコピア 15
九章
2 ピンポイントの地へ
案内された談話室で、アユラと大家ができるだけ詳しく経緯について話し終えると、図書館員はしばらく黙り込んだ後、
「謎めいていますね」
と、顎の辺りを、実際には生えていない髭があたかも存在しているかのように、何度も撫でた。
「謎めいているどろこじゃないの。オーバーコートは実在しているのだから」
「下宿先、もう行ってみました?」
「近くまで行ったけど、全く景色が変わってしまっていて」
「ピンポイントまで行っていないんですね」
図書館員は銀縁眼鏡の中央金具を中指で押し上げて、鋭い眼光を二人に向けた。
二人は同時に、「はい」と言ってうなずく。
「だったら――」
図書館員の提案で、三人揃って現地まで行くことになった。図書館員は受付のプレートを《お昼休憩中》に差し替え、事務室から自身の鞄を取り出して肩から斜めに掛け、もはや誰よりもこの問題に強く興味を持って取り組もうとしている人の風情で前を歩き始めた。
「車は講堂裏の空き地に停めていますよ」
大家が言うと、
「その住所なら歩いても行けるはずです。歩いていけば、思い出すこともあるかもしれませんから」
振り向きもせず早足で歩き始める。アユラは二人の後を小走りで追いかけた。
門はないものの、学校の外に出たことは道の具合ではっきりとわかる。学内は煉瓦かコンクリートで舗装され、外に出ると、土のままの未舗装か、通常のアスファルトだ。まるで森の中に出来た獣道のように細く曲がりくねった道へと出る。
――これは見覚えがある。
夕暮れ時に樹木に囲まれた細い土の道を自転車で走ると、コローの絵画の内部に溶け込んだような気がしたものだった。そんな高揚した気分を思い出しはしたが、今では目の前に続く道は単なる不便な田舎道にしか見えない。大学生だったアユラにはきっと、何もかもが輝かしく、美しく、異国の天才が描いた絵画に見えていたに違いない。
そこからアスファルトの道に出て、県道沿いの歩道を行き、歩行者専用の信号を渡る。
「ああ、こんな感じだったような気はする」
徐々に思い出の場所に接近している。
「じゃあ、その住所の場自体が無くなっているわけじゃないようですね」
「それは、そうでしょう」
電柱広告の下部にも、当該住所と番地が印刷されている。
「見覚え、あるんですね」
図書館員は少し歩みを遅くした。
「なんとなく、ですけど」
覚えていると断言するには目印となるものが少なすぎた。もっと住宅があったはずだが、道の両端には空き地と、その後建設されたと思われる法律事務所の建物があるだけだった。それも休みなのか、扉はぴっちりと閉じられている。
「こんなに何もないって、あり得ない」
そう言っては見たものの、じゃあ、かつてこの場所に何があったのか、全く思い出せない。
やがて、ピンポイントと思われる位置までたどり着いた。住んでいたアパートはなく、直ぐ近くにあったトウジョウマキオのアパートもない。
「ここまで何もかもが無くなっていると、むしろせいせいするわ」
「地震とか水害のようなものがあって、建物が取り壊されてしまったのでしたか」
大家が図書館員に尋ねた。
「そんな話は聞きませんね」
三人が確認できたのは、その場所には何もないことだけで、通行人ですら一人も見当たらなかった。
麦や枯れた雑草の香りがする風が吹き、アユラにとって、それだけはどこか懐かしい。その匂いを嗅げば確信できる。大学時代にこの場所に居たこと、トウジョウマキオのアパートに行って語り合ったことは幻なんかじゃない。
――だけど、跡形もない。
荒れ地と空が広がるだけ。あんなに瑞々しい日々を過ごしたのに。
殺伐とした風景の前に、アユラはより一層の拠り所のなさを感じて、身体も力を失くして膝から崩れ落ちそうだった。
図書館に戻った後、図書館員は「《トウジョウマキオ》の貸出記録がないかどうか調査してみましょうか」と言い出した。
「それはありがたいわ」
アユラと大家は一も二もなく賛成する。
「ここの大学生だとしても、一度も本を借りたことなどない人もいますけど、おそらく最初に貸出カードを作ることは義務付けられているはずだから、名前の記録くらいはあるかもしれません」
図書館員が事務室の検索システムで調査している間、アユラと大家は図書館に併設されている小さなカフェに入った。簡易テーブルが三つしかなく、客は二人以外には誰もいない。この大学の学生らしきアルバイトが愛想よく応対してくれ、二つ分のコーヒーカップをテーブルに届けてくれた。
一口飲んだ後、
「この珈琲の味は覚えている気がする」
アユラは鼻の奥に香りを感じた。
「こんなのどこにでもある味じゃん」
大家はズズと啜った。
「そうかな。じゃあ、雰囲気かな」
飲み口が厚めのカップ。豆の粉が底に沈んでいそうな濃さ。あの頃、味なんて考えもせず。とにかく目を覚まそうと飲み込んだ気がする。
しばらくすると、図書館員もカフェに合流し、同じように珈琲を注文してテーブルに着いた。
「ありましたよ」
目を輝かせて言う。
「よかった」
アユラは胸を撫でおろす。トウジョウマキオ恋人でもはないが、あんなに心を打明け合って、場合によっては夜を徹しても話し合った。そのトウジョウマキオの痕跡が、あの黒いオーバーコートだけだったなんて信じたくない。
「でも――」
アユラの晴れやかな顔を見た図書館員がすまなさそうに口ごもる。
「でも?」
大家はカップを持ったまま背筋を伸ばした。
「何年も前の人ですよ」
「何年も前って、もちろん私が彼と遭遇したのは10年くらい前のことよ」
アユラは苦笑いした。「確かに、十年ひと昔って言うけどね」
「そうじゃなくて――」
「そうじゃなくて?」
「もっと、ずっと前の人ですよ」
「ずっと前って?」
アユラは真面目顔になる。
「百年以上前です。この大学は知られているよりもずっと古くから存続していますから」
「それは、別人では?」
大家が少し青ざめる。「同姓同名ってこともある」
「そうかもしれません。でも――」
「でも?」
アユラと大家は顔を見合わせた。
「記載されていた住所が、仰っていた辺りです。昔は電子媒体がなかったから、手書きの貸出カード申請書が残っています。セピア色に褪せたものですが顔写真まで貼ってある。今ここには持ってきませんでしたが、どうします? 向こうでご覧になります?」
図書館員はずり落ちた眼鏡のフレームを直すこともせず、届けられた珈琲を啜りながら眼球を動かし、二人をかわるがわる見つめた。
つづく。
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