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解読 ボウヤ書店の使命 ㉕-10

 長編小説『路地裏の花屋』読み直し。
 続きから。
「薔薇ばかりですね」中西は離れ家の前まで来ると、振り返って周囲を見渡した。
「おくさまが薔薇だけを愛好しておられます。でも私は特に薔薇が好きというわけではない。離れの裏には個人的に楽しむための菊や鉄線などの鉢もあります。そういうのもこっそりやっているのですよ。と言っても、見つかったからと言って別に叱られるわけでもありませんが。薔薇を育てるのは世間で言われている程には難しいことではなくて、長年かけて書き込んだ手帳を見ながら手順通りにやればいい。所詮植物ですから人間みたいな自意識はなくて、手順通りにやったはずなのにうまく咲かなかったということはありません。むしろ人間なんかの方が手順通りにはいかない。何せ、蕾のままで枯れたい、なんて他人には理解できないような自意識も人間の中にはわりと見かけるものでしょう?」蓮二朗は近くにあった橙色の薔薇に触れていた。「ところで、中西さんは何色の薔薇がお好きですか」
「薔薇ならやはり赤ですか。真紅」
「私もそう。典型的と言われてしまえばそれまでですが、薔薇は赤という気がします。橙色や黄色、ピンクの薔薇は彼らにとっては不本意でしょうがどこか贋物のような気がします。薔薇にしてみればそんなの謂れなき差別と言ったところでしょう。原種を辿ればむしろ淡い色のものが多いのです。真紅の薔薇なんて、後から掛け合わせて作り出されたハイブリッドのものがほとんどです」
 蓮二朗は玄関先の引き出しから剪定用のハサミを取り出し、一番近くに咲いている真紅の薔薇を一枝切り落とした。「どうですか、これ。ほとんど歪みのない薔薇」
 手渡され、不用意に掴み取ろうとして、痛い。棘に触れたらしい。気を付けてと蓮二朗に言われつつ、痛んだ指を一度唇に当て、今度は棘に触れないように注意深く受け取ると様々な方角から薔薇を眺めた。確かに歪みがなかった。
「虫食いもないでしょう? 花びらの着き方も実に対照を描いている。しかし、たとえば」
 蓮二朗は隣の木から別の薔薇を探し、また一枝をパチンと切って「これを御覧ください。同じく赤い薔薇ですが花びらに小さな穴があるし、どことなく首を傾げて見える」宙に掲げて返し返し見せる。「普通の花であればこういった虫食いのあるものもなかなか風流なものですが薔薇は違う。私が思うには、切り花となった薔薇だけは造花のように完璧でなければいけないのです。薔薇の素晴らしさは結局痛々しさそのものにあるからです。完璧というのは美醜に関わらずとも痛々しくて目を離せなくなるものです。とにかく、中に入りましょう。むさくるしいところですが向こう側の裏庭にもベンチはありますし、先日お渡しした手紙の件をお話しなければいけません」
 中西が持っていた薔薇を棘に触れないように注意深く自分の手に取り戻すと、玄関の木戸を開けた。「ここは鍵もかけていないんで」恥ずかしそうに言った。
 蓮二朗は家の中に入るとすぐに台所に行き、切り取った二本の薔薇を硝子の花瓶に活けながら中西には居間のソファに座るように促した。「どうぞ、お掛けになって」
 通された部屋にはソファとテーブル以外に和箪笥がひとつあるだけでこぎれいに片付いていた。
「隣にも部屋はありますが、モノの少なさはこの部屋と同等です。その部屋には猫がおります。猫は薔薇が嫌いでしょう? ですからこちらの部屋には入れず、裏庭に向かう位置に寝床を作ってやりました」
 蓮二朗は、花瓶に活けた薔薇以外に、紅茶とサンドイッチ、ビスケットをテーブルに並べた。「よければ、お召し上がりください」
 蓮二朗が和箪笥の引き出しから取り出したのは、およそ横三十センチ、縦四十センチくらいの黒く艶々した漆塗りの箱で、蓋の真ん中には金色の紋章が付いている。六角形の中に菱形が放射状に重ねられ中央には渦巻きが施されている。見たことのない紋だった。
「木花家に伝わる裏の紋章です。表向きには、桔梗だったか、蔦だったか、そんな家紋ですが、それとは別に、何かこの建物の中だけの決して流出しない紋を作ろうではないかということになって生まれたのだそうです。お屋敷に住む女性は昔から薔薇を愛好される方が多かったものですから、一種のお遊びでこの薔薇をモチーフにした裏の紋章を造ったのだとか。裏側でのお遊びですから、あまり見せるものでもないかもしれませんが、誰に見せても盗まれることはありません。なかなかハイカラなデザインの紋章ですから、過去にはこっそり覚えて襦袢なんかに染めたりした人もいたようですが、そんなことをした方のその後の人生が芳しくない。何をやってもうまくいかなくなる。何人かそういうことがあっても呪われている紋章なんてことはないのですが、それからは誰も盗もうなんて思わなくなったそうです。まあ、他家の紋章を自分の何かに拝借しようと考える人間が芳しくない生き様を見せたとて不思議ではありませんから、特にこの紋章の効力ではありませんでしょう。どうあれ、こっそり盗もうとするとだめだというだけで、それ以外は別に何も悪さはしないものです。安心してください。それにこの箱自体はおくさまから正式に頂いたものですから盗んだというわけではありません」
 木箱の蓋をかっぽりと開けると、中には二つに折りたたまれた紙がぎっしりと入っており、仄かに黴臭いような、お線香のような匂いが漂ってきた。
 蓮二朗は一枚だけそっと取り出して中を開いて見せた。紙は経年変化なのか薄くなり、端がセピア色に褪せて手荒に扱うと破れそうだった。黒いインクで数行書いてある。
「よく見てください、これ、子どもの字でしょう? なかなか上手だけれど、子どもの字だ。箱の中の手紙を全部見ていくと、段々と、大人のような字になっていきますよ。日付も番号もないけれど、字の上達具合などを見ていれば、時間が進行したのがわかります」
 中西は薄い硝子の破片でも扱うように恐る恐る受け取って手紙の文字に目を通した。
     
ろじにさく 
ばらのはなにえさをやりました
なやのよこでたいひをついでつくったえさです
ばらはえさをたべておおきくなって
りっぱなはなをさかすのだといいました
わたしもなりたいです
    
「なかなか詩的なものでしょう」蓮二朗は我が子の手柄でも見せるように顔をほころばせて「邪気がなくて、よいものです」はっきり断定すると、そそくさと取り戻して再び二つに折り畳んで箱に入れ、もう後は見せたくないのかさっさと蓋をしてしまい和箪笥の引き出しに仕舞い込んだ。「これはあやのという女の子が書いたものでして。結論から申し上げますと、この手紙の一枚がセラピストの持っている絵の裏側に紛れ込んでおるので中西さんに引き抜いて持ち帰って頂きたいとお願いしておるのです」
 そう言って黙り込んだ蓮二朗の上唇と下唇の間は薄く開き始め、目は一点を見つめることすら止めて物音に耳を澄ます表情になった。その時までは随分と年長者に思えた蓮二朗の顔つきは徐々にあどけなくなってゆき、部屋中の空気はひっそりと息を潜めていった静寂が深まるに従って、壁に掛けてある時計の秒針が均等に時を刻む音が大きく聞こえ始める。まるでいつか聞いたことのあるメトロノームのリズム。
 遮るものがなければ何時間もこのまま過ぎていきそうだったが、台所の窓が開いていたのか、薔薇の香りを微かに含んだ柔らかい風が入り込んで二人の間をすっと行き渡り、その風の後を追うように、庭で花の蜜を追い求めて飛んでいた蜜蜂が部屋の中にまで迷い込んで羽音を大きく鳴らしてテーブルに近づき、活けてある赤い薔薇の周囲をぐるぐると目障りに飛び回ったので蓮二朗はハッと我に返った。
「記憶を探るうちにずっと昔の光景を思い出して一人耽ってしまいました。昔のこととはおかしなもので、過ぎ去ってしまえばもうどこにもないと思っていても頭の中にはちゃんと書き込まれているのでしょう。今ちょうど、すっかり忘れていたはずの景色に入り込んでしまいました。心の奥の奥、そのまた奥に深く沈み込んでおるものですから、ひとたびそこに入り込むとなかなか戻ってこられなくなる。中西さんがいらっしゃるのに申し訳ございません」
 元通りの闊達な様子を見せ、しまったな、といった顔を見せて頭掻きつつ立ち上がった。テーブルの上をぐるぐると飛び回っている蜜蜂をうるさそうに顔をしかめて目で追い、虫取り網を持ち出して金魚掬いでもするようにひょいと捕まえるとそのまま玄関の外に出て放ち、またソファに腰掛け、後は流れ出すように話を始めた。
 一度話し始めると今度は言葉が途切れることはなく、まるで花か樹木にでも向かって話しているみたいだった。これまで誰にも話さなかったと言っていたのだから余程堪えていたのだろう。中西としては厄介なことに捕まってしまったようにも思えだが、手がかりになることを何もしゃべらない人間を相手にするよりはずっといい。ここは辛抱とばかりに腹を決め、慌てて鞄から録音機を取り出した。とりあえず録音すればいいだろう。途中は相槌を打つ程度にして言葉を引き出していった。

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