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解読 ボウヤ書店の使命 ㉗

中編小説『鍵屋の男』の読み直し。
2017年の作品。『路地裏の花屋』とその外伝『ツツジ色の傘』の後に製作したものと思われる。「案」はもっと以前に存在するが、それはボウヤ書店の方に保存している。

この作品は人気があったが、一部、どういうわけか「怖い」ところがあった。自分で書いておきながら、どういうわけかというのもなんだが、書き下ろした時点ではそうなっていた。しかし、それはブログ以外の場所での発表を遅らせるためのものだったのではないかと考えて、さきほど、本来あるべき状態に修復した。
ということで、一気に掲載する。
ちなみに、この登場人物鍵屋の男は、この後、他の作品にも時々登場する。

《鍵屋の男 文 米田素子

この作品は完全にfictionです。

序章

 表通りから外れた細い路地の一画に七坪ほどの古びた本屋があった。出入り口の硝子扉前にイーゼルが立っていて、白いチョークで「どのような本でも置いてあります」と書いた黒板が乗せてある。
 よく晴れた暑すぎる真夏の午後、谷中トンボは散歩の途中で路地に迷い込み、その本屋の前に出た。イーゼル上の看板をじっと見つめた後、硝子扉を覗き込み、このように手狭な本屋だというのに「どのような本でも置いてあります」とはいかにも嘘くさいと考えた。出入り口の上を覆っている庇は古ぼけた青地のビニールテントであり、白抜き文字で「ボウヤ書店」となっている。なるほどこれが本屋の屋号であるらしい。看板にあるうたい文句は信じがたいが、屋号を表している白抜き文字の所々掠れて薄くなっているのを見て、庇に印刷された文字が日焼けで薄くなるほど、長い間この場所で本屋をやっているのならば、ある程度の敬意を表すべきだろうとも思った。


 扉には営業中の札も掛けられているので、中に入ってみようかと思ったが、きっちりと閉じられてなんとなく入り辛い。店先に流行りの雑誌を置くとか、子供向けのおもちゃ販売機を並べるなどして通行人の気を引けばよいものを、媚びて客を呼ぼうとする商売っ気が全くなかった。もう一度硝子越しに店内を覗くと、左右の壁と中央に本棚があり、びっしりと本が並んでいるので「どのような本でも」とまではいかないまでも、なかなかの品揃えはあるらしく、一度入ってしまえばそれなりに楽しめそうではあった。しかし、どうにも店構えに拒絶感がある。どうしようか。目を凝らしてじっと見てみると、一番奥に会計机があり、眼鏡をかけた青年がパソコンに向かって必死に作業をしているのが見えた。客は一人もいない。
 まあそうだろうな、客など来ないだろう、それほど売る気のない店に入っていくのは勇気がいるものだから。そう考えて立ち去ろうとした時、パソコンで作業をしていた青年が顔を上げてこちらの方をじっと見た。ずり落ちかけた眼鏡を直そうともせず、上目づかいでぎょろりと見る。トンボはギクッとして息を呑み、つい愛想笑いをした。それでも青年が笑いもせずにこちらを見つめ続けるので気まずくなり、帽子を脱いで頭を掻いた。すると、青年がトンボに向かって手を動かし、「おいでおいで」の仕草をする。えっ、僕? 頭を掻くのをやめて人差指で自分の鼻先を差し、他の人を呼んでいるのかもしれないと思って左右と後ろを見たがやはり誰もいない。再び青年の方を見ると、あなたですよと言わんばかりに人差指でこちらを指している。初めて通った路地なのだからまさかこの青年とは知り合いであるはずはないし、何の用があるのだと思いつつも根っからの本好きなので断る理由もなく、再び看板をちらりと見て、こうなったら「どのような本でも置いてあります」という文言について、からかい半分に真意を尋ねてみるのも悪くはないと考えた。
 とにかく中に入ってみるかと扉を開ける。エアコンの涼しい風がすっと届く。これだけでもありがたいと心の中で呟きながら奥へと入って、扉を閉めた。炎天下を二十分ほど歩いてきたせいで、背中を汗が流れ落ちてズボンのベルトまで濡らしていくのがわかった。
「いらっしゃいませ」
 青年は赤と白のギンガムチェックを着ている。眼鏡の縁は紺色。髪は黒い。「何か御用ですか」淡々とした調子で言う。
「何か御用ですかって、あなたがおいでおいでとされましたから、何事かと入ったのですよ」
 ズボンのポケットから取り出したハンカチで流れ落ちる汗を拭いた。ハンカチはグレー地に赤い線が二本入ったデザインでぴっちりとアイロンがかけてある。
 青年は椅子から立ち上がって、小さく頭を下げ、気まずそうにトンボを見つめ瞬きをした。
「お客さまが中を覗いていらっしゃいましたし、実を言うともうすぐ誰かが来られるだろうと思っておりましたから、つい驚いて指してしまって。失礼なことをしてほんとにすみません」
 あまり素直に謝られるとトンボの方でも拍子抜けしてしまう。
「いえ、こちらこそ、硝子越しに覗いたりしてすみません」
 急に控えめな物言いで両成敗を前もって提案する。「看板の文言が気になったものですから」そのついでに、言いにくいことをさっさと言ってしまった。
 すると青年は姿勢を正して胸を張り、
「文言のどこが気になりますか」
 眼鏡を指ですっと持ち上げ掛け直した。
「こう言っては失礼ですがそれほど広いとは言えない本屋さんでしょう? どのような本でも置いてありますなんて、取り寄せることができるという意味か、そうでなければ冗談かと気になって」
 思い切って本音を全部言ってみた。
 青年はしばらく黙ったままトンボの顔を見つめてから、わかった、とうなずいた。「時々そういう方がお立ち寄りになります。今日もそういう方が来られるだろうと予感しておりました」
「予感? どんな風に?」
「もぞもぞするというか」
「もぞもぞ、ですか。どの辺りが?」
「どことなくです。予感ってそういうものじゃありませんか。明確に言葉として神のお告げを得られる方ならともかく、僕はただの凡人、ただの本屋ですから」

 青年の声は高くもなく低くもなく綺麗に澄んでいた。トンボは彼の好青年を思わせる声のトーンを聞いて、心地よく思うよりはむしろ寒気がした。半分聞いていないふりをしてふうんと鼻の下をこすり、騙されないぞとの意気込みで青年の顔を見つめてから店内をぐるりと見渡し、
「予感だなどと大袈裟なことを言わなくても、こんな狭い店の前に、どのような本でも置いてありますなんて看板があれば、それは一体どういう意味かと覗きたくなる人はいると思いますが。あ、なるほど、それが狙いかな? そのギャップを利用しているというか」
 一人合点してうなずいて見せた。
「そう言われてみると、そういった効果もあるかもしれません」
 青年はいいことを聞いたと言わんばかりに、うっすらと笑みを浮かべた。「でも、立ち止まってわざわざ中を覗き込む人は、そう多くはありません。変わった本屋だなと思っても、無関心のまま通り過ぎてしまう方がほとんど」
「そんな奴らは探求心あるいは冒険心の枯渇そのものですな」
 トンボ自身、「おいでおいで」と手招きされるまでは中に入ろうともせず、そのまま帰ろうかと考えていたことなどすっかり忘れていた。
「お客さま、ひょっとして、本がお好きなのでは?」
「本屋を覘く人間には本好きしかいないに決まっているではないか」
「あえて言ってみれば、そういう方だけに立ち止まって頂くための看板とこの狭い間取りです」
「確かに、そこに探求心と冒険心を掻き立てるロジックがあるな。トリックと言うべきか」
「魅力的でしょう?」
 青年は目を輝かせて両腕を広げて見せた。
 その仕草からカリスマという言葉を思い出す。なんとなくそういう気がしてくるから不思議だった。いかん、いかん、乗せられるまいと思って
「魅力的だが、嘘はいけないよ」
 慌てて批判的立場に戻る。

「嘘ではありません」
「ではどこにそれほどたくさんの本があるのかな。奥に倉庫でも?」
「いえ、この間取りの中に」
「嘘言っちゃいかんよ」
「いいえ、この間取りのあそこに」
 青年は人差指を立てた。
「どこだ?」
「だから、あそこに」
 トンボは彼の指先を見た。青年は人差指で、上、上、上、と指す。
「え? どこ?」
 トンボは魔法にでもかかったように眼をぐるぐると動かし、青年の指す方向を見て、「あっ」と声を出した。「なんだあれは」

 その本屋には天井がなかった。
 本棚が上へ上へと伸びていた。

「たくさんありますでしょう? どのような本でも置いてあります」
 青年はしてやったりと言わんばかりに微笑んでいる。「もしもお望みでしたら、上の棚まで届く梯子をお出ししましょうか」
 空を突き抜けて本棚は伸びて、その先はもう雲に隠れていた。
 ――なんだこれは? ここは一体、どこなんだ? 
 どこまでも続く本棚を見上げながら、トンボは自分でも血の気が引いていくのを感じられた。
「梯子、ありますよ。上に昇っていかれます?」青年の澄んだ声がする。
「いや、結構」
 急いできっぱりと断り、バンと扉を開けて外に飛び出した。

一章

 本屋の方は振り返りもせず歩き続けて、どの駅でもよいから、何がしかの駅に辿り着けそうな道を探した。やっと大通りに出て歩き続けると、高架になった駅が見え、標識から私鉄の終着駅であることがわかった。高架下は一杯飲み屋と蕎麦屋、煙草屋がある。それ以外の敷地は広々とした駅前パーキングとなっていて、その端に山小屋風のカラオケ屋がポツンとあるだけだ。人影はまばらで、しんと静まり返っていた。
 そこでトンボは、おや? と立ち止まった。
 ――なんだ、こんなところに、探すまでもなく駅ではないか。
 しかも見たことのある駅だった。十年ほど前、家の近所にJR線が敷かれるまでは毎日のように利用していた駅だ。それにしても、ちょっとした散歩のつもりだったのに随分遠くまで歩いて来たのだなと思う。家を出て、ほんの一筋、二筋と路地を折れただけのつもりだった。
 駅の反対側にバスターミナルがあったことを思い出し、ここからはかつてのようにバスに乗って帰ろうと決めて、向こう側に出るための歩行者用通路へと歩き始めた。通路は高架下の煙草屋と蕎麦屋の間を貫いている。壁は昔と変わらず古びた煉瓦造りで、地面はアスファルト。どちらもひび割れた隙間からスズメノテッポウやドクダミが生え出していた。入り口と出口の辺りに蛍光灯が一本ずつ備え付けられて、昼間だというのに白く灯されている。中は薄暗いからだろう。通り抜けと、目の錯覚も手伝ったのか視界がくっきりとして明るくなり、広場には小さな噴水すらあって急に軽やかな様子になった。
 全く昔と同じではないか。噴水の向こうにバスターミナルがあるし、やれやれ助かったな、ここまで来ればもう迷わないだろうとほっとして、家の方面へ向かう路線バスの列に並んだ。列にいるのは年配の仲良し三人組と、リュックを背負った塾帰りと思われる小学生が二人、黒いショルダーバッグを肩から掛けている中年女が一人だった。そして、トンボの後に、もう一人男が並んだ。
 停まっていたバスの扉が開くと順番に乗り込んで行き、年配の三人組は揃って優先席、小学生は二人掛けのベンチ席、中年女は扉近くの一人用の席に座り、トンボは最後方、左側の窓際席に座った。終点で降りるのだから、もし途中で乗客が増えた場合にも邪魔にならぬようにと奥に座ったのだ。
 ところが、トンボの後から乗った男もぴったりと着いてきて隣りにそっと腰掛けたのだった。トンボはぎょっとする。一体どうしたのだ。バスの中にはたくさんの空席があるのだから、もう少し間隔を開けて座ってもよいだろうにと思う。せめて、後部座席であったとしても反対側の窓際に座ればよいではないか。こんなにぴったり横に座るとはいかがなものかと眉をひそめたが、座り方の明確なルールがあるわけでもないし、露骨に自分の方から席を立って移動するのも気が引ける。男がすぐに本を開いて読み始めたので声を掛けるのも憚られ、まあよいかと諦めて窓の外を眺めた。車内は冷房が効いて心地よく、外の暑さが嘘のようだ。シャツの背中を濡らしていた汗もすっとひいていった。それからは乗車する人もなく、数分後にバスは発車した。
 途中、まずは小学生がそれぞれのバス停で一人ずつ降り、その後すぐに年配の三人組が集会でもあるのか公民館前で一斉に下車して、気付くと、中年女と本を読んでいる男とトンボの三人だけが乗客となっていた。他に乗車してくる人は誰もなく、バスは静かに運行し続けて、二十分ほど過ぎた頃にやっと、終点の二つ手前のバス停で中年女が降りていった。
 女はバスを降りると、進行方向に歩いて細い路地に折れ、入ってすぐの場所にある家の前で立ち止まった。黒いショルダーバッグに手を入れて何かを探している。そこが彼女の家なのだろう。バスが長めの赤信号に捕まったせいで女の様子が車窓からよく見える。鞄からやっと鍵を探し出すと、玄関扉の取っ手下にある鍵穴に差しこもうとしてうまく入らず、おや? というように取っ手に顔を近付けた。不思議そうに鍵穴のある場所を撫でている。えっ? というように少し後ずさりをして首を傾げ、また顔を近付けてじっと眺めていた。トンボが一体どうしたのだろうと思っていると、隣に座っていた男が、
「ああ、まただねえ」
 と呟いた。男も本を読むのを止めて女の様子を見ていたようだ。「また、鍵穴が消えた」背もたれから背中を離し、身を乗り出すようにして窓硝子の外を見て眉をひそめた。
「鍵穴が消えるとは、どういうことですか」
 つい、トンボは口を利いてしまった。
「時々あるんですよお、この街では。鍵をなくすわけでもなく、鍵穴に鍵が入らなくなるわけでもなく、正真正銘、鍵穴が消える」
「そんな馬鹿な」
「でも、御覧なさいよ、彼女の様子」
 取り乱した様子で鍵穴周辺を見つめたり撫でたりした後、扉から少し離れてみたり、周辺の道を行ったり来たりして、いかにも困惑している。確かに、鍵穴が消えたのかもしれない。そんな風にも見える。
 信号が青になってバスが動き始めると、女が困り果てている続きを見ることはできなくなった。こうなると、その後どうなったのかはもうわからない。男は背もたれにどっかりと背中を付けて座り直し、
「僕は鍵屋をしているが、年に五回以上は『鍵穴がなくなりました。なんとかしてください』という電話が鳴るんだなあ、これが」
 片方の眉をきりっと上げる。「ある時は男。ある時は女。子どもからの電話だったときもあります。なんとかしてくれ――、とね」
「それでどうなさるんですか」
「もちろん最初は断りました。ふざけんなよ、ってね」
 トンボは男の顔をじっとみた。色白で髪を少し茶色に染めている。白いTシャツにブラックデニムという服装なので二十代か三十代前半の若者かと思っていたが、目尻と頬に深い皺があり、それを見ると間違いなく五十は過ぎていると思えた。
「最初はということは、途中からは断らなくなったということですか」
「あまりにしつこい人がいてね。それで、じゃあ、行きますから住所を教えてくれと言ってね、現地に行きました。するとね、いないんですよ、電話をしてきた当人が。しかも見てみると鍵穴はある。それで、掛けてきた電話番号に折り返して、あなた、どこに居ますか? と聞くと、ばかやろう家の前で待っているに決まってるだろ、鍵穴がないんだからよと言う。そう言われても困りますよねえ、こっちだってそいつに言われた住所の場所に居るのに、どこにもそいつはいない。頼まれて参上して、どなられて、踏んだり蹴ったり」
 トンボは話に引き込まれてしまう。
「ふうん、それで?」
「帰りました。馬鹿らしくなって。それ以来、そういう電話がかかってきたときは、すぐにぶちっと電話を切りました。ところがね、転機というのは訪れるものですよお。ある時、さっきの女みたいなね、鍵穴喪失の現場にばったり遭遇してしまいまして、見ちゃったんですよね、ほんとに鍵穴が無くなってつるっとしているところを。ただの通行人として見かけただけですけど、驚愕の瞬間ですよ、ある意味、いろんな意味で僕の中の常識が崩れ去った瞬間でした」
 男は自嘲気味に笑う。「結果、どうなったか、でしょ? お聞きになりたいのは」ややからかい半分の調子で言い、トンボが返事をする前に話を続けた。「まずは逃げ帰りました。そりゃ、本人でなくても、実際目の当たりにするとパニックになりますよ。なんだったんだ、あれは、なんだったんだ、とね。冷汗がじとっと流れ出てきて、恐らく鏡でも眺めればこの白い顏がもっと青白くなってたことでしょうよ。心臓はバクバク。案の定、電話が鳴りました。『鍵穴がなくなりました。住所は○×△だから来てくれ』とね。まさに自分でもはっきりと鍵穴がなくなっているのを見た現場の住所です。もうごまかせません。で、思い切って、そこを離れないでくださいよと言って、もう一度現地に駆け付けました。で、結果は最初の時と同じ。誰もいない。鍵穴はある。掛かってきた電話番号に折り返す。どこにいるんだ? ここにいるんだ。いないじゃないか。ふざけるな」
 車内アナウンスが次のバス停を放送すると、男は降車ボタンを押した。バスは赤信号で停車した。早口で話を続ける。
「さてその後どうなったのか。最初に通り掛かって見た時には、確かに消えていた鍵穴だったんですけども、駆け付けた時にはもう既にあった。でもね、いっそ取り換えてみたらどうなるかと思って、持っていた道具で鍵を開けて、鍵全体そのものを取り換えてみた。何食わぬ顔をしてね。で、電話をして、『お客さん、ちょっと近くのコンビニに来てくださいよ』と呼び出してみた。すると、なんとなく予感した通り、コンビニでは落ち合うことが出来た。で、二人揃って家の前に戻るともちろん鍵穴はある。もう交換したんだと説明をして、理屈には合わないが何とか納得してもらい新しい鍵を渡して代金を頂戴し、これにて一件落着、ほっとしながら家路に着いたと、こういうわけ。それ以来、その手の電話が入った時には全く同じ手順で片付けるようにしてますよ。理屈なんて考えても埒は明きませんから。それでね、今では、うちの店に、その時取り換えて持ち帰った鍵セットがいくつもあるわけで、これが、フフフ、実におもしろい」
 そこでバスが停留所に止まり、「いけね、話の途中ですけど、失敬」男は唖然としているトンボの顔を見てにやりと笑った。男が降りるとすぐに信号は赤に変わり、またもやバスは信号待ちとなった。
 トンボが窓の外を見ると、停留所のすぐ前に鍵屋がある。閉ざしたままになっているグレーのシャッターに大きな金色の鍵の絵が描いてあり、その下に赤い文字で『お困りの時にはいつでも参上』と書いてある。なるほどあれが男の店かもしれない。予想通り、先程の男が鍵屋の前にしゃがみ込んでシャッターの鍵穴に鍵を差しこもうとしているのが見えた。ところが、すぐに立ち上がり、よろよろと後ずさりした。再びしゃがみ込んで鍵穴のある辺りに顔を近付けてじっと見つめてから、バスの車窓に振り返ってトンボの方を見た。地面にお尻を付け、足を投げ出して座り、大袈裟にがっくりとして見せ、それから両手を曲げた状態で手のひらを上に向けて首を傾げて、お手上げさ、というジェスチャーをして見せた。
 ――もしかして、鍵穴が消えた? 
 男はトンボと目が合うとお腹を抱えて笑い出す仕草をし、『お困りの時にはいつでも参上』の赤い文字を指した。それから再びしゃがみこんで、シャッターの一番下を持つと一気にガラリと上まで開けてしまった。硝子扉があり、やはり同じように『お困りの時には―』の文字と鍵の絵が描いてある。そうか、シャッターには最初から鍵を掛けていなかったのだ。中の硝子扉だけに鍵を掛けていたのだ。なあんだ、一杯喰わされたかとトンボは思い、ふんっというように車窓から目を離して前方を眺めた。けしからんな、何が『お困りの時にはいつでも参上』だと腹立たしくなる。
 お困りの時? 
 いやいや結構です、まっぴらごめん。
 それにしても、途中でバスを降りたあの女の鍵はどうなったのだろう。窓の外に目をやると、携帯電話で話しながら道具鞄を持った男が店から走り出てきた。シャッターを閉め、自転車に荷物を括り付けながらトンボの方をちらりと見て軽く手を振る。ひょっとしてあの中年女から電話が入り、さっき話していたように手順通り鍵を取り換えに行くのだろうか? まさか、そんなことはあるまい。女が家の前でうろたえていたのは確かだったが、扉の取っ手に鍵穴がなかったかどうかまでは実際には見ていないのだ。
 鍵屋の男はあっという間に自転車に乗って走り去ってしまった。
 やっと青信号になり、バスは発車した。乗客はトンボ一人だった。広々として心地よく揺れる。男の流暢な言葉で不思議な話を聞いて、つい信じそうになったものだが、きっと虚言癖のある鍵屋であるに違いない。騙されるところだった。そう考えていると、すぐに終点に到着した。すっかり慣れ親しんだ風景が窓外に見える。
 降りると、猛暑は幾ばくか収まり涼しい風が吹いていた。エアコンもいいが、やはり夕風もいい。真昼にあった入道雲はアイスクリームのように溶けたのか薄く拡がり、その合間に鱗雲が空を覆っていた。夕日を受けてところどころ金色に輝いている。終点のターミナルでは仕事を終えた人々がそれぞれの方角に向かって足早に歩いていた。変わりなくいつものバスターミナルではないかと思ってほっとし、今日は暑さのせいで妙な本屋だの鍵屋だのに遭遇したのかもしれないが、まあ、気のせいだろう、と歩き出そうとしたところで少し不安になり立ち止まった。
 もしも家の扉にある鍵穴がなくなっていたら――。
 何を馬鹿なことを考えているのだ。あり得ない。しかし。取っ手下の部分がつるつるになっている様をどうしても考えてしまう。その時には――。『お困りの時にはいつでも参上』の赤い文字を思い出す。電話番号は何だったか。こめかみをつぅと汗が流れ落ちる。
 あり得ない。そんな時には、どこか別の鍵屋に電話をしよう。男の顔を思い浮かべて、あいつにはどうしても頼みたくないと思う。そうだ、近所の鍵屋を探して呼べばいい。ズボンのポケットからハンカチを取り出して額の汗を拭き、家に向かって歩き始めた。


 マンションのエレベーターに乗り込んだ時、トンボ以外に人は居なかった。七階行きのボタンを押して扉が閉まり、二階で一旦停止して扉が開いた。六十代と思われる女性が、すみません、とお辞儀をしながら入ってきた。デパートで買い物をしてきたらしく、真新しい紙袋を幾つも提げている。刺繍の施された布製のハンドバッグに手を入れ、焦ったように中をかき回していた。
「困ったわあ」
 見ると少し青ざめている。また厄介なことが起きるのだろうかと、トンボは少々辟易としながらも、あまりに露骨な困り方をされるので無視できなかった。
「どうかなされましたか」
「鍵がね、困ったわ」
「落とされたのですか?」
「そうじゃないのよ。あの、鍵穴がね――」
 なんだって? まさか鍵穴がないとでも言うのだろうか。トンボは驚いて次の言葉に迷ってしまった。エレベーターの扉は閉まり、三階、四階、五階――と進んでいく。
「とりあえず何階に行かれます?」
 ボタンを押してしまいたい。途中で降りてくれるか、七階より上に行ってくれれば――。
 トンボの方も見ずに鞄の中を探し回っている。
「七階ですわ。もう押していらっしゃるから」
 なんだ、同じ階か。あまりお見かけしないけれども。
「なら、これでいいですね」
 うまく逃れるのも難しそうだった。
「だけど、ほんと、困ったわ。こんなことってあるかしら。長年生きてきたけれど、こんなばかげたことはなかった。ああ、もう、なにこれ」
 そう言っている間にも、七階に着く。
「こっちも鍵穴がなかったらどうしましょう」
 女性はトンボの方を見て、「困ったわ」ともう一度言った。
「こっちも、ということは、マンションに二つお部屋をお持ちですか」
 二人して七階のエレベーターホールに降り立った。
「二階と七階ですのよ。二階は私が一人で住んでおりまして、七階には娘夫婦がいますの。鍵を渡されていますけれど、今まで勝手に開けて入ったことはありません。だって、お婿さんに悪いじゃありませんか。義理の親がずかずかと入り込んで来たりしたら、気が悪いでしょう? もちろん、頭金を出したりして協力しましたから、そこまで遠慮しなくていいと言われる方もありますけれど、でも鍵を勝手に開けて上がり込むなんてことは。でも、今は家族で出掛けてしまっているから、そうするしかないのだけれど――」
「二階のお部屋にお帰りになられたらよいのではないですか?」
 鍵穴がないと呟いていたのは先程聞いたが、トンボとしては流れ上こう質問するしかないだろう。
 女性は、そう、それよ、と紙袋をどさりと下に降ろして、トンボの腕をぎゅっと握って説得するように揺らした。
「ないの、鍵穴が。あり得ないことのように思われるかもしれませんけれど、帰宅して鍵を入れようとしたら、いつも鍵穴がある場所はつるっつる。私、年を取りすぎておかしくなっちゃったのかと思ったのですけれども、ないの。お隣のお部屋を見たら、ある。その向こうもある。反対側も、ある、ある、ある。でも、私のところだけ、ない」
 どうしようか。今日バスの中で聞いた話をしようか、それともやめようかと迷う。
「で、どうなされます?」
 やめておいた。
 女は握りしめていたトンボの腕を離し
「とりあえず娘の家に今だけ御厄介になって、お婿さんに見てもらって直してもらおうかしらと思うけれど、家族で一泊二日の旅行中なのよ。ちょうどいいと言えばちょうどいいけれど、私なんだか不安」
 立て続けにしゃべり続ける。
「私は独り者ですから、女性にどうぞおあがりくださいと言えない身分でして」
 とりあえず、これで誤魔化すしかなかろう。「やはり、娘さんのご自宅に入って休まれるのが一番でしょう。じゃあ、薄情なようですがこれで失礼」軽く帽子を上に上げて会釈をし、自室に向かった。途中で振り返ると、紙袋を下に置いたまま茫然と立ち尽くしてこちらを見ている。悪いが私も今日は精神的に限界なのだ、と心の中で思って軽く目配せ程度に頭を下げるだけですぐに目を離した。
 幸いなことに、トンボ自身の家の鍵穴は存在した。ズボンのポケットから鍵を取り出して差し込み、かちゃりと回して開け、中に入る。それだけのことで実に幸せなことに思えた。
 テレビ前のソファに座る。いやはやこれだけのことで、こんなにも幸福感に満たされるなんて、そうはないものだ。手の届く範囲に置いてあるリモコンでエアコンを入れ、さらにテレビも点けた。花火大会のニュースが流れている。麦酒でも飲もうか。しかし、立ち上がったところで、でもまあ、いつ何時わが身に同じことが降りかかるかも分からないしちょっと外を見てこようか、という気になって廊下に出た。
 見える範囲に先程の女性はいない。娘の家に入っていったのか、それはよかった、と考えてからあることを思いついた。そうだ、本当に鍵穴がないのかどうか、二階に行って確認してみたらどうだろう。部屋数は二十ほどしかないのだから、彼女の家がどれかは知らないが、ひとつひとつ見て回ってもそれほど時間も掛からないだろう。
 さっそく部屋を出て鍵を閉めようとしたが、もし二階からここに戻ってきて、あっ鍵穴がない、となったらどうするのかと思い、仕事場である事務所兼店舗の鍵も携帯しておくことにした。「もしも」の時にはタクシーに乗って事務所に行くとよいだろう。それにしても、ここまで慎重になってしまうとは不思議なものだ。鍵穴のない取っ手をまだ一度も見たことがないというのに。バスの中の男にまんまと騙されているのだろうか。思わず苦笑する。とは言え、エレベーターにて鍵穴事件に巻き込まれた女性と遭遇してしまったのだ。こうなったら確かめに行かずにはいられない。
 エレベーターに乗り込み、二階のボタンを押した。

二章

 二階へと向かうエレベーターの中に居て、途中で乗り込んでくる人がいないことを願った。トンボにしてみれば別に悪いことをしているわけではないのだが、もしも顔見知りにでも遭遇して、どうして二階で降りるのかと聞かれたら答えようがない。馬鹿正直に鍵穴のない扉を探そうと思いましてと言ったところで信じてもらえるはずがない。それどころかいかがわしい奴と思われるだけだろう。そのうちマンション中の噂のネタにでもされかねない。とにかく誰も乗って来ないことを祈るばかりだった。六階、五階、四階、と表示ランプはゆっくりと階を下げていき、運よく、途中で乗り込んで来る人は現れなかった。
 扉が開き、二階のエレベーターホールに出てみても、辺りを歩いている人は見当たらなかった。日が暮れたばかりでまだ深夜に至るにはほど遠い時間帯であり、そうこうするうちに帰宅しようとする人が現われるに違いない。そうなる前にさっさと鍵穴を見て回ろうと考えた。
 その時までは、もしも本当に鍵穴のない扉があったりしたらどうしようか、この眼ではっきりと見てしまった後はどうなってしまうのだろうかと考え不安だったのだが、実際に二階の廊下に降り立ち、自宅のある七階と全く同じような現実感を携えて照らしている蛍光灯の白々とした明かりを見ていると、そんな奇怪なことは起きるはずもあるまいと信じられた。そうなると見て回ることすら馬鹿馬鹿しくなりそのまま家に戻ろうとさえ思われたが、せっかく足を運んだのだし、後になってやはり見て来ればよかったと後悔しても困るからと歩き始めた。一番手前の部屋から順番に見て行くことにする。
 一番手前と言えば二〇〇号室。この部屋だけはエレベーターを出て、廊下を右側に折れた位置にある。扉の横に植木鉢を置く棚があり、サボテンやポトスと言った小さな観葉植物が飾ってあった。近付いて見ると、取っ手の下には鍵穴が存在した。次はエレベーター前の二○一室。玄関先には何も置いていない。入浴剤の匂いがぷんと匂った。換気扇も回っているようなので在宅中だろうか。ここも鍵穴はある。左に進んで二○二号室。宅配寿司のチラシとクリーニングのお知らせが挟み込んである。何の匂いもしない。しばらく帰宅していないのだろうか。鍵穴はある。
 そうやって、二○三号室、二○四号室、と順番に見て行き、二二二号室まで辿り着いた。玄関先の風情はそれぞれ違っていたが、結局、どの扉にもきちんと鍵穴はあった。
 なんだ、あるじゃないかとほっとすると同時に、では先程出会った女性はなんだったのかと、今度はそのことが気になってしまう。もしも、バスの中であの鍵屋の男に会っていなければ、単なる勘違いした一人の女性の迷言と思い、くだらないことに同調してしまったと反省し、すぐさま部屋に戻るところだが、鍵屋の男の話を聞いてしまった者としてはそんな訳にもいかない。もう一度きちんと確かめようと、再び逆側からなぞるように、二二二号室、二二一号室、と丁寧に指さし確認しながらエレベーターの方に向かって行った。
 そんな風にして二○八号室辺りまで来た時のこと。エレベーターの方に人の気配がある。目をやると、廊下の突き当りを右に折れたところ、つまりちょうど二〇〇号室のある場所から男が一人出てくるのが見えた。おや? あれは? バスの中で会った鍵屋の男に似ている。黒い服を着て、道具入れに似た鞄も右手に提げている。まさか。確かめようと目を凝らし、もしもあれが鍵屋の男ならば話がしたいと思って足早に近付こうとすると、男はエレベーターボタンを押し、すぐに開いた扉の中に入ってしまった。扉は閉じる。
 ――なんということだ!
 トンボは慌てて二〇〇号室まで走って行き、既に確認した鍵穴をもう一度確かめた。先程と同じく鍵穴はある。しかし、今度はどう見ても真新しいとしか思えない取っ手がくっついていた。白金色のそれは艶々として、触ると指紋が着きそうなほどに輝いている。ひょっとしてあの女性の住居はこの部屋なのだろうか。でも、さっき見た時にも鍵穴はあったはずだ。トンボの部屋や、この階の多くの部屋と同じように使い古された取っ手の、中まで錆がついていそうな鍵穴だった。つまり、この金ぴかの新品ではなかったはずだ。ということは、やはりさっきここから現われたのはあの鍵屋の男であり、たった今交換したのだろうか。聞くなら今しかチャンスがない。自転車置き場へと行ってみよう。まだ、いるかもしれない。
 エレベーターには乗らずに、その横にある非常階段を駆け下りて行き、集合ポストのある一画から外へ出た。
 男はちょうど道具類を荷台に括り付け終わったところで、自転車に跨り今にも漕ぎだしそうな瞬間だった。
「鍵屋さん!」
 トンボは躊躇することなく呼び止めた。「鍵屋さん、ですね。今日、バスの中で、お会いした」階段を駆け下りたせいで呼吸が弾む。
 既に数メートル走り始めていたために急ブレーキをかけて止まり、自転車はキキーィと嫌な音を立てた。男はサドルに跨ったままこちらを振り向きトンボの顔をじっと見た。
「僕は鍵屋ですけども。ああ、あなたは――」
 やはりあの男だった。鍵屋は自転車を降りスタンドを立てその横に立ち「奇遇だね。またお会いするとは」芝居じみた様子で笑った。
「鍵穴事件ですか?」
 単刀直入に聞いてみた。「それでここまで?」
「あなたはここの住人だったのか。それは知らなかったな。ここの方には時々呼び出されるのでして」
 のんびりとした口調で話す。
「どうなんです? 今日バスの中で仰っていた通り、鍵穴がなくなった人からの依頼で来られたのですか」
 こちらはつい急かしてしまう。
「いけませんか?」
 男ははっきりとそうだとは言わない。
「そうなんでしょう? 私と同じくらいの年齢の女性じゃありませんか? この件を依頼して来られたのは」
 ――さっさと答えなさい!
「だとしたら?」
 にやにやとしている。
 トンボはどうにも言葉を発しようがなく、唇を噛んで手のひらを握りしめた。バスの中で会った時にもそうだったが、実に苛々させる男だ。
「じゃあ、失礼します。まだ用事があるもんでして」
 鍵屋は自転車に乗ろうとしている。
「ちょっと待ってくれ」
 なんとか引き止めたかった。ここで聞きそびれたら一晩中悶々として考え続けてしまうだろう。「そういう女性に会ったんだ。エレベーターの中で。今日、帰宅途中に」
「そういうって?」
「鍵穴が見当たらなくて困っているという女性ですよ。たまたまもう一つ部屋をお持ちで、今日はそちらの方に帰るけれども、どうしたらよいかしらと言ってうろたえておられました。どうなんですか? その女性ですか? さっき二階の奥から、あなたが出て来られた」
「どうとも言えないですね。もしそうだとして、そうですよなんて言ったら、あなたがその女性の部屋番号を知ってしまうじゃないですか。守秘義務。そんなことは言えません。じゃあ」
 鍵屋の男は無情にもそう言い、再び自転車に跨るとあっという間に行ってしまった。
 茫然と立ち尽くして鍵屋の背中を見送った後、いつのまにか額に噴き出していた汗をハンカチでぬぐって、どこへ向かう訳でもなく歩き始めた。日中に比べれば随分と涼しくなっている。この風にしばらく当たっていれば、頭の中の混乱も収まってすっきりするに違いない。
 自転車置き場の横にある歩行者用の抜け道を通って外に出て、街灯が照らし出しているアスファルトの上を歩いた。車のキーを握りしめてコインパーキングへと入って行く人やコンビニ袋を提げて家路を急ぐ人が横切って行く。勝手ながら彼らのことがなぜか羨ましく思えてくる。どんな悩みを抱えていようとも、このつかみどころのない鍵穴問題とだけは無関係だろうから。そうでなければ、あんなに安心した顔つきでいることは無理だろう。彼らは何があろうと自宅の扉の鍵穴は必ず無くなることなく待ってくれているだろうと信じ込んでいて、それを少しでも疑うことを知らないのだ。
 ちょうどマンションの窓明かりが見渡せるところまで出ると、二〇〇号室に明かりは点いているのだろうかと窓を探してみることにする。建物はL字型になっているので二〇〇号室の窓が見える道まで回り込んだ。
 建物を取り囲んでいる生垣の際に立って見上げると、ちょうど明かりが灯ったところだった。しばらくしてレースのカーテン越しに女性らしき姿が見える。帰宅したところなのか、窓を開け空気を入れ替えようとしているらしかった。服装や髪形から察すると、エレベーターで会った人に間違いない。一瞬、この場所からでも声を掛けようかと思ったが、もちろんやめた。エレベーターで話をしたからと言って、窓の下から声を掛けるなんて覗き男みたいなこと出来るものか。いずれにしても、彼女は家に帰ることが出来たのだから表面的な解決であったとしても、ひと先ず一件落着と言えるだろう。
「うまくいったようですね」
 後ろから声を掛けられ、あっとトンボは驚いた。振り向くと、またもや自転車に跨ったままの鍵屋の男がいる。
「どうしたのですか。むしろ、さっき自転車置き場でお会いして、まだお話を伺いたかったのに、守秘義務とかなんとか言ってさっさとお帰りになったじゃないですか」
不満を訴える口調で言うと、男はやはりにやけながら、
「あの時は急ぎの代金の徴収があってね、立ち話している場合じゃなかったのですよ。つっけんどんにしてしまって、ほんと失礼しました」
 からかうように言う。
「あの窓は二〇〇号室ですよ。鍵屋さん、先程あの辺りからエレベーターホールに現われた。だからやっぱり、あの取っ手を取り替えたのでしょう? 隠さなくてもいい。私は先程、あの部屋の取っ手が新しくなっているのを確認しております。そしてエレベーターの中で会って『鍵穴がなくなった』と訴えてこられたのはまぎれもなく窓辺に見えたあの女性ですよ。守秘義務なんてこと気にされる必要はありません。こうしてもう分かってしまいましたから」
「本当に相談されました? あなたに? あの女性、本当にあなたにこの件を相談されたのですか」
 鍵屋はトンボの顔をじろじろ見る。「意外ですね」
「意外とはなんですか。鍵穴が喪失するというような非常事態こそが意外なのであって、別に私にそれを打ち明けることなど意外なんかであるものか」
 むっとして言った。
「いやいや失礼」
 鍵屋の男は笑い、茶化しつつも謝った。
「それにしても、鍵屋さん、素早く交換したものですね。ほんの数分のことに思えたが」
 気を取り直して聞く。「一回目に確認した時には私の部屋の物と同様に古ぼけた取っ手でしたのに、他の全部の部屋を確認した後、鍵屋さんをお見かけした後で見たら、金ぴか新品の取っ手だった。随分あっという間に取り換えたことになるが――」
「バスの中で話しましたでしょう? このことが起きる時には時間や空間がいつも信じている通りではないわけでして。実際、駆け付けて交換作業をしたところはどうもこの建物じゃなさそうな――」
「何を言っているんだ。訳の分からないことを言うのもいい加減にしろ」
 トンボがそう言うと、鍵屋の男は自転車を降りた。
「僕に怒鳴りつけてもしょうがないですよお。バスの中でお話した通り、この件の手順としては、電話が掛かって来る、現地に行っても依頼者はいない、携帯でどこに居るのか尋ねる、ここにいると言い張る、でもいない。じゃあ、依頼者と僕は一体どこにいるのか? それは今でも解決してないんです。ここは推測ですが、交換作業をしたのはこの建物じゃなく別次元だったような気がするわけでして。だってね、ご覧になったのは古びていても鍵穴のある取っ手だったしょう? それが金ぴかの物に変わったのを確認したと仰いましたね。もちろん僕が最初に見たのもやはり古びていてかつ鍵穴のある取っ手でした。それを取り換える羽目になる。そしてそれはこの建物ではないどこか、とても似ているある場所の」
「なんだって? よくわからんぞ」
 別次元から、ひょいとあのL字型の端に位置する角部屋の前に降りてきたとでも言うのか。
「私だって。よくわからんぞ」
 鍵屋の男はトンボの口調を真似て言った。
「それにしても、彼女はどうしてあなたに電話すればよいことを知っていたのでしょうか。エレベーターではちっともそんなことを仰っていなかったけれど」
「そりゃ当然知っているだろうよ」
「当然って?」
 どういうことだ。このマンションの人はみんなこの男の存在を知っているとでも言うのか。そんなに頻繁に、当たり前のように鍵穴喪失事件は起きているいうのか。「どうして君を知っているんだ」
「常連ですから」
「なんだって?」
 鍵屋の男はトンボの驚きようを見ておかしそうに笑う。
「だから、しょっちゅう鍵穴を失くされるんですよお、あの方は」
「そんなはずはないでしょう、さっきエレベーターでお会いした時には、まるで初めて遭遇した事態のようでしたよ」
「それもまあ、そうでしょう。僕の所に電話を掛けてくる時もいつでもそんな調子」
「どういうことですか」
「実はね、二度あることは三度あるっていうけど、三度どころか何度でも起きるらしくて、二回鍵穴喪失という事件に遭遇した人はね、いつの間にか常連さんになる。それでね、だいたいの人は前にも似たような事態に陥ったことは忘れている。忘れているのだけれど、どうやったら元通りに直せたかはうっすらと覚えている。それで何食わぬ顔をしてまるで初めてのことのように僕に電話してくるわけ」
「前にもあったじゃないですか? と教えてやらないのかね」
「以前は伝えようとしていましたよお。でもやめました。だいたいは嘘をつけと逆ギレされるんです」
 二〇〇号室を見上げると、例の女性は奥から現われ、開けていた窓をバタンと閉め、分厚いカーテンを引いた。
「鍵屋のあなたに向かってキレる必要はないでしょう。どうして?」
「そんなこと、こちらが聞きたいですよ。でもキレるんだな。前にもありましたよねと言うと、馬鹿を言うな、こんなことあり得ない、前にもあったなんて、そんなことあり得ないって。忘れているのなら迷わず僕に電話してくるのはおかしいでしょって言っても、あり得ないったらあり得ないと言って聞く耳持たず。試しにあの女性に聞いて御覧なさいよ。『ところで先日の鍵穴の件はどうなりましたか』って。なんのことだかわからないという顔をされると思いますよお」
 トンボはなるほどなと思い、無言のまま深くうなずいた。
 ――そうだな、今度会ったら聞いてみるか、それはいい考えかもしれないぞ。
「それより、今日はもう遅いからこれで失礼するけれど、今度僕の収集した鍵穴のない取っ手コレクションを見に来てくださいよ。ざっと七十はあると思いますよ。家の中に使っていない部屋がありましてね、そこに並べて楽しんでいるの。それがけっこうおもしろいのよ。あ、そうそう――」
 男は鞄から取っ手らしきものを取り出してトンボに渡した。「これが今日の収穫物」
 ――なんだこれは。
 トンボは手にした物を見て愕然とする。
 確かに鍵穴がない。
 このマンションの共通の取っ手ではある。しかし、ひっくり返しても、前から見ても鍵穴はどこにもない。
「こうして現物を見るとぎょっとするでしょう? 僕が持って帰る頃合いになると、依頼主が言った通りこうして鍵穴のない取っ手になる。それを後で依頼者に見せると納得するのだろうけど、結局取り換えた後には忘れてしまっているからなあ」
 鍵屋の男はすっかり硬直してしまったトンボを見て嬉しそうに笑う。「僕もね、見ちゃうまではほとんど信じてなかったんだなあ」
「き、君が、こんな取っ手を捏造しておいて、わ、私をたぶらかそうとしているのではないですか」
 トンボは思いのほか大きくうろたえて、手がぷるぷると震えるのを止められなかった。
「何のために?」
 男はくすくす笑う。「僕だってあなた専属のマジシャンじゃあるまいし、そんなに暇じゃないんですよ」
「もういい、仕舞ってくれ」
 トンボは鍵穴のない取っ手を男の手に押し返した。
 鍵屋の男は、おっと、と受け取って鞄に仕舞いこんだ。
「まあ、気が向いたら店舗の方にでも顔を出してよ」
 馴れ馴れしい口調で言い、鞄の中から店のパンフレットを出してトンボに渡した。「そうそう、鍵穴喪失などという怪しげなことじゃなくても、鍵を失くしたので来てくださいとか、なんとなく新しいものに変えたくなったからよろしくとか、そういった時でも連絡くだされば参上します」茫然としているトンボの肩を叩きながら、「しっかりしてくださいよ。じゃあ、そろそろ僕は行くんで」と、自転車に乗って去ってしまった。

 翌朝、仕事場に向かおうと下に降りたところ、集合ポストのある一画から二〇〇号室の女性が出て来るところに鉢合わせした。
「そういえば、あなた昨夜――」
 声を掛けようとしたけれど、女性は彼女自身に話し掛けられているとは思わなかったのか、目を合わせることもせずに、すっと通り過ぎてしまった。トンボの存在には気付きもせず、全く興味がないようだった。まるで鍵穴喪失の出来事すらなかったかのように、実に優雅で落ち着いた姿で歩き、日の差すところまで行くと、手に持っていた白いレースの日傘をパッと広げて差し、上半身をすっぽりと見えなくさせた。トンボの視界から上半身はすっかり遮断され、スカートの裾と傘のレースの影が地面に映り、彼女が歩を進める度にゆらゆらと揺れるのだった。
 ――ほお、なかなか粋なもんですねえ。
 トンボはその影に見惚れた。朝っぱらから大合唱している蝉の声が暑苦しく響き渡る中にあって、その様子だけは実に涼しげだった。ならばこちらもと、ポケットに差していた自慢の扇を開いてパタパタとあおぐ。扇には紺地に白鷺の絵が抜いてある。
 女性は建物の外に敷かれている歩道に出て、斜め上に右手を上げている。ちょうどタクシーが来たようだ。車は彼女が立っている横に止まりドアがパタンと開く。日傘を閉じて乗り込む時、女性がちらりとトンボの方を見たような気がした。
 ――おや? 本当はこちらに気付いていたのか?
 すっかり乗り込んでしまうと、ドアがパタンと閉じて、女性は再びトンボの視界から消え、まもなくタクシーは発車した。
 ひょっとすると、集合ポストの所に居た時点で、エレベーターで遭遇した男だと分かって無視したのかもしれない。あんなに短い距離を行くのにも日傘など差しておかしいではないか。二人の間に線引きをしたようなものだ。昨夜の鍵穴喪失の件についてどうなったかと聞かれることを警戒していたのだろうか。いや、鍵屋の話によると、この事件に遭遇し解決してしまった場合、そのことはほとんどの人が忘却してしまうのだった。それが本当だとすると、やはりあの女性もエレベーターの中で話したことなど覚えていないのかもしれない。だけど日傘で姿をすっぽりと隠したところなど、事件のことがなくてもこちらを警戒しているような姿ではなかったか。最初に妙な相談事を持ちかけてきたのは向こうなのに、どうしてこちらが警戒なんかされなくちゃいけないのだ。ふん。少しでも心配して損をしてしまった。いつか顛末をしゃべりたくなったことがあっても聞いてやるまい。いや待てよ。万が一だが、もう一度彼女の方から声を掛けられて、鍵穴のことを聞いてほしいと言われるようなことがあったらどうしようか。本気で考えてしまう。また偶然エレベーターの中で遭遇して――。
「いや、けっこうです」
 つい声を出して言ってしまう。そんなことがあったら、この奇妙な出来事が一歩一歩、どんなに嘘くさいものであっても実は本当の出来事だったと証明されてしまうではないか。
 首をぷるぷるっと横に振る。「そんなこと、まっぴらごめん」

 アジア雑貨を置いた店舗兼事務所に着くと、開店まではまだ二時間もあるのに、もうマリモが出社して掃除を始めていた。彼女は異様に真面目で働き者なのだ。あまり働かれると労働基準法に抵触するからほどほどにしてくれと言うのだが、「私この店が好きなんです」と無邪気に言って熱心に働いてくれるので内心助かってはいる。この日も、エプロンを付けて棚の上にはたきを掛けたり新しく届いた商品を箱から出したりと忙しそうに店の中を動き回っていた。
 いつも通り髪を首の後ろで結んで団子状にまとめ、つるりとした頬が丸く剥き出しに輝いている。尖った鼻と吊り上がった知的な細い目。雇い始めてからはトンボに対してほとんど笑顔を見せたことがないが、店に買い物に来た客には笑顔で応対している。笑えば吊り上がった目尻が垂れてなかなか愛嬌のある狸顔になり、それを見る時には、面接で彼女を雇うことにした理由を思い出すことができた。この笑顔なら接客に適しているだろうと考えたのだった。洞察通り上手に接客している。しかし、トンボとは心の距離が縮まれば縮まるほどに笑顔を見せなくなった。初めは怒っているのかと思っていたが、どうやらそれが彼女の通常の顔つきらしい。いつだったか恋人なる男が訪ねて来た時にもほとんど笑わずつっけんどんにしゃべって、男の方が機嫌を取るように笑顔を見せ、顔を覗き込みながら話し掛けてばかりいた。
 トンボは奥の炊事場で珈琲を淹れてマリモにも勧めた。
「昨日妙なことがあってね」
 思い切って話してみることにする。「家の扉の鍵穴がなくなる事件の話を聞いたのだ。そして実際にそういう取っ手を見た」
 マリモは立ったままマグカップの珈琲を啜った。
「なんですかそれ?」
 にこりともせず無表情な返答だった。
 トンボは「実は――」と、昨日の出来事を話していった。

「確かに妙な話ですね」
 笑顔は見せないが馬鹿にすることもなく聞いてくれた。
「どう考えたらいいと思うかね。冷静なマリモちゃんなら答えてくれそうだが」
 甘えてはいけないとは思ったが、きりりとした眼差しを見ているとつい頼りたくなってしまう。
「当たり前に考えると、トンボさんはまだ扉にくっついた状態にある鍵穴のないドアノブを一度も見たことがないわけですから、ちょっとしたマジックに遭遇したことになりますね」
「あのマンションの女性は? それは説明が付かないじゃないですか」
「鍵屋とグルってことありません? 第一、鍵屋の男性がよく空いたバスの中ですり寄って来るのも妙なことですし、そんなことがあった日に同じエレベーターで乗り込んだ人がその話と同じことを言い始めるなんて、出来過ぎた冗談みたいじゃないですか。トンボさんの不安を煽るため、とか」
 少し言いにくそうではあったが、包み隠さず考え方を伝えてくれる。
「だとしたら、なんのために?」
「鍵屋の男と出会う前には何をされていたのですか。バスに乗る前」
「散歩だよ、散歩」
 そう言ってから「あっ」と思い出す。「散歩の途中にも変わった本屋に遭遇した。天井がないのだよ。ずどんと空まで抜けていて、本棚が上へ上へと続いている。ボウヤ書店だ」
「鏡じゃないですか。床に空の写真でも貼っておいて天井が鏡になっていてそういう演出をしてあった」
「なんのために?」
「トンボさんを騙すためじゃありません? よくある遊園地の騙し部屋にそんな感じのものがあるじゃないですか。目の錯覚を利用した不思議なアトラクション」
「どうして私なんかを騙す必要があるのかね」
 マリモは、それはそうですねえ、と言ってトンボの姿を頭の天辺から足の先まで眺めた。
「何かがおかしい気がするけれど、えっと、一体何でしょう?」
 マグカップを持ったまま、顎を突き出して目玉だけを上下に動かし、もう一度舐めるように見ている。「わからない。でもなんか変ですね」
「失敬な!」
 トンボが言うと、珍しくマリモが笑顔を見せた。
「半分冗談、半分本当です。その鍵屋の家には行ってみるのですか」
「どうしようかな。鍵屋の場所は分かっているんだ」
「興味本位に行ってみましょうよ」
 続けて笑顔を見せる。
「そんなことして怖い人だったらどうするんだ。ちょっとその筋の方とか、あるいは――」
「あるいは?」
「あるいは、魔界の住人とか」
 そう答えると、マリモは飲みかけていた珈琲を吹いた。いけない、と言って店の奥に入りティッシュで口の周りを拭いている。いつも無表情のマリモが笑ったり珈琲を吹き出したりするのを見ていると、トンボとしては少し楽しい気分になってくる。奇妙な出来事に悩まされてはいるが、それすらよいことに思えてくる。
「ちょっと興味ありますね」
 マリモはティッシュをゴミ箱にポンと投げ入れ、「よかったら私が同行しましょうか。その鍵屋の男の家に」
 ほほう。トンボはマグカップを持ったままぼんやりとマリモの顔を見る。それはよいアイデアかもしれない。
「いいのかね」
「どうせ暇ですし。私の推測ではその男はマジシャンだと思うけれど、その鍵穴のない取っ手というのを見てみたいから。その前に本屋にも行ってみたいですね。天井のない、あるいは天井に鏡の仕掛けてある本屋。えっと名前は何でしたか?」
「ボウヤ書店」
「それです。今度の休みにでも」
「マリモちゃん、それじゃ働き過ぎじゃないですか」
「そんなの仕事のうちに入りません。行きたくて行くのだから」
 ありがたいものだと思った。もしも反対の立場であれば、賃金を払うから一緒に行ってくれと頼まれても「けっこうです」と断りたくなるような場所ばかりだ。それを行きたいからと言って同行し、もやもやを解決してくれようとしているのだから仏様に遭遇したようなものだ。
 思わず頭を下げて「助かります」素直にそう言った。

 次の休日。
 事務所兼店舗の前で待ち合わせた時、マリモはいつものジーンズと白いTシャツではなく、白いコットンパンツとダンガリーの半そでシャツを着ていた。上下の色合いを入れ替えただけのシンプルなイメージチェンジだった。トンボの方はいつものワイシャツといつものズボン、いつものカンカン帽だ。何の変哲もない。
「あの日ボウヤ書店に辿り着いたのは、ぷらぷらと歩いていたら、たまたま見つけたということで、つまり今日も、ぷらぷらと歩いて探すしかない。でもだいたい場所は分かっているのだ」
 トンボが言うとマリモはうなずいた。
 しかし、その日、あちこちと探し歩いてもボウヤ書店は見つからなかった。あったはずの道にすら出くわすことができない。
「せっかく出てきてもらったのにすまないね」
 冷や汗と通常の暑さゆえの汗で、トンボは全身びっしょりになりながら平謝りに謝った。「なんだかマリモちゃんを誘い出すための出まかせを言ったようで恥ずかしいです。でも嘘ではないのです。そこはどうにか信じてもらえたら――」
 マリモは汗を拭きながら気にしないでくださいと言い、
「むしろ、トンボさんの陥っていらっしゃる状況が真実に思えてきました。この次の休みには鍵屋さんの家に行ってみましょうよ。連絡を取っておいてください。その時にも私が同行します」
 貴重な狸顔で笑ってくれた。
 果たして、約束は二週間後の休日に取り付けることが出来たのだった。

三章

 マリモからトンボの携帯に連絡があったのは待ち合わせの時間を五分過ぎた頃だった。飼っている猫がキャットフードを吐き出してしまったと言う。「ずっと元気な猫だったからこんなこと初めてで、私パニックになってしまって、今動物病院の待合室に居ます」
 連絡が遅れたことについて何度も謝っていた。「診察が終わって大丈夫とわかったら、猫を友達に預けて、遅れても行きますので、メールに鍵屋さんの家までの道順を入れておいてください」
「私も子どもじゃないので一人で大丈夫ですよ」
 トンボは残念に思いつつも、わざわざ来てもらうこともないだろうと考えてそう言ったが、
「でも、行ってみたいのです」
 マリモはなぜかひそひそ声を出して言う。「その鍵屋の人が収集した扉の取っ手とやらを見てみたいから」
「それなら、彼の家に到着したらメールは入れておくね」
 トンボは携帯を切り、半分ほど残っていた珈琲を飲み干した。
 隣のテーブルでは早朝にランニングをしてきたらしい人たちが談笑している。五十代くらいの集まりだろうか。どの人も見るからに健康そうな空気を放っていて、しかも同じような仲間までいるのだから優秀な集団と言えるだろう。五十代にして健康を維持しており、仲間にも恵まれているとなると、それまでの生き方の優等生ぶりが容易に想像できる。けっこうなことではないか、こういう価値観こそ金よりも地位よりも無意識に他を圧倒するのだ、完敗だ、ここはさっさと退散するが賢明ですな。トンボは心の中でひがみっぽく呟きながらカンカン帽をきゅっと被った。
 外はやや曇り。冷房が効いた店の中から外を見ている時にはそれほど暑くなさそうに思えたが、一歩出てみると湿度が高いせいかむしろ猛暑とさえ感じられ、これから午後に向けてまだまだ気温が上がることを思えば気が遠くなりそうだった。この八月、盆を過ぎてからもまだ、これから夏のピークを迎えて熟すのだろうか。朝から蝉の声が街中を塗り潰していた。

 マリモが同行しないとなるとやや心細い気もしたが、鍵屋の男との約束もあるので取り止めにすることもできず、予定通り、バス通り沿いにある男の店へと急いだ。そこで待ち合わせ、男の家に向かうのだ。
 男はシャッターを閉めたまま店の前で腕組みをしたまま立ち、トンボが到着するのをじっと待っていた。こちらの姿を見かけると右手を上げて親しげな笑顔を見せ、歩を速めて傍まで行くと
「あれ? 同行者の女の子は」
 と聞いた。
 事情を説明すると、「ここで待ちますか」と言ってくれたが、「いや、構わないんだ」と言うと、「そう」と言ってさっそく家に向かって歩き始めた。
 鍵屋の男の家は、店のある通りから二筋入った路地の一画にあり、門前に立つには歩いて五分もかからなかった。
「職場まで近くていいですねえ」
 トンボは羨ましくなった。
「だけど仕事は鍵屋だから、一日中自転車かバイクで走りっぱなし」
 男は自嘲気味に答える。「家くらい近くってもいいでしょう」
 それにしても、ここまで近いとむしろ道順を説明するのも難しく感じられる。仕方なく、マリモには《前に伝えた男の店まで来たら連絡をください。迎えに行きますよ。現地は五分もしない場所にあります》とメールを入れた。《ちなみに、男の家の表札には木花と書いてあります。恐らく男の苗字でしょう》そう言えば、この時まで、まだ男の名前も知らなかったのだ。
 建物の外壁はベージュ色に変色した味気ないコンクリートで、屋根にはありふれたデニム色の瓦が乗っているだけの、特に魅力を感じることのない建物ではあったが、中に入ってみると、この辺りでは珍しく中庭のあるコテージ風の平屋で、なかなか趣向を凝らした造りだった。内壁は全て木によってできており、壁際には煉瓦造りの暖炉風のものが備え付けられていた。暖炉は装飾ではなく、煙突があり、実際に使うこともできるのだと言う。樹木の節を生かしたテーブルがリビングの真ん中に居座り、ガラスのピッチャーに野花風の生け花が施されている。
 中庭の中央には籐で編んだ寝椅子とパラソルがあり、それを囲むようにして花壇が設えてあった。この男が手入れするのだろうか。だとしたら大したものだ。終わりかけの朝顔、ヒヤシンス、姫ひまわり、それから木槿がまるで野生植物のように自由な趣で配置されている。雑草もほどよく残して、夜には蛍でも飛びそうな景色だった。
 住居となっているこのL字形の建物と、中庭の向こうに見える正方形の別棟の間に飛び石が三つしかないのはやや不自然に思えて、男に尋ねると、このようにわざわざ切り離したのはかつての住人がワイン好きの独身男で、収集したものの温度を管理するためにそうしたのであるらしいと言った。
「いいおうちですね」
 男はすぐには返事をせずに、中庭に続いている大窓を開けた。
「僕は単に二階がないのが気に入って買ったんだよ」
 ひゅうと風が通る。
 トンボも窓のそばまで行き、中庭の木槿に青い蝶が止まっているのを見つけた。
「二階がない方がいいなんて、階段がお嫌いですか」
 このような駅前の一等地で平屋というのはむしろ贅沢な話だ。
「昔妹と住んでいてね、彼女の足が悪かったものだから、あの時は階段がない方がよかった。もう結婚して出て行ってしまったが」
 蝶は蜜を吸い終えたのか空高く飛び、消えていった。代わりに雀が木槿の根っこ辺りに居ることに気付かされる。何かをついばんで動く度に、木槿もわさわさと揺れている。
「さっそく蔵の方に移動しようか。蔵はずっと使ってなかったんだけど、取り外した取っ手の保存にぴったりでしてねえ。びっしりと入れてある。いっぱいありますよお」
 トンボは男のにやけた表情を見ると急に腰の引ける思いがした。マリモが言った通り、これは何かの詐欺ではなかろうか。しかし、さあさあ、と足早に蔵の方に向かう男に抵抗することは難しく、黙って後ろを着いて行くことになった。蔵の扉には鍵が掛かっていない。
「鍵なんかいらないんですよ。どうせ奇妙な仕事で収集した、しかも使い物にならない取っ手しか入っていませんからね」
 重そうな扉をぐいと引いた。
 中は薄暗く、驚くほどにひんやりとしていた。
「いいでしょう。夏でも気温はほとんど上がらず。そりゃワインを保存するにはぴったりだろうけど、僕はまるっきり酒は嫌いでして、長い間ここは使わずに閉めたまんま。窓も灯り取りくらいしかないので、気味が悪くてね」
 男はトンボに奥の椅子に座るようにと勧めて、さてどれを話すかなと言いながら棚の上の布を被せた取っ手を選り始めた。
「これだな」
 銅色をした取っ手とそれに当てはまるらしい鍵を持ち出し、ほら、ね、鍵穴がない、と言いながらトンボに渡した。
「本当はこうなの」
 今度は同じ型の取っ手と鍵をトンボの前にあるテーブルの上に置いた。ドアノブの真ん中に鍵穴があるタイプのものだった。「古い建物ではこういうのがまだあるんだな」
 トンボにしてみると、先日マンションの二〇〇号室の扉から取り外したものを既に見ていたので、もうそれほど驚きもしない。一度タネを明かされてしまえばどうということのないマジックの玩具に似た風情しかない。なんとなく白けて見える。「鍵穴の有り無しという違いがありますが、それ以上に何かおもしろいことがあるとは思えませんがね」
 平然として言った。
 男の方も、それはそうだろうという風に頷いた。
「だけど、これね、夜中になると喋るんですよ」
「これって、この取っ手が?」
 この男め、何を言い出すのだ。
 男は顔をくしゃくしゃにして笑う。
「ええ、そう。変でしょう」
 トンボは返事が出来なかった。取っ手が喋る? そんなばかな。
「他のもそう。この蔵は夜中に入ると、ぺちゃくちゃぺちゃくちゃ、おしゃべりの大合唱ですよお。残念ながら今は真っ昼間だからしんとしているけどね。蔵があってよかったなというのはそういうわけ。だってリビングで一晩中喋られたら、こっちはたまらないよ」
 これもマリモが言った通り、詐欺の一種なのだろうか。作り話に違いない。「取っ手なんかが、一体何を喋っているというのか」
「ひとつひとつ違うんだよ。互いに会話しているわけではなくってね。それぞれ勝手に空中に向かって訴えている」
「何を?」
「まあ、それぞれだけれども、主に秘密の暴露話。他にはこの取っ手が設置してあった部屋の住人がこいつらにした嫌な仕打ちの時もある。だいたいはそういうことを、誰も聞いていないのにも関わらず、熱心に告白している。一度に全部の話を聞くことは無理だが、最初の一個からそういうことがあったもんだからね、僕は持ち帰った日には自室で十分に話を聞いてやることにしてるの。だから、彼らの言い分は一応全部聞いたことがある。そのひとつがこれ」
 男はトンボの手から鍵穴のない取っ手を取ると、手のひらで何度も温めるようにして撫でまわし、「こいつは、ある学校の用務員室の扉にくっついていたものなのですがね――」と、ある話を始めた。

《鍵屋の男の話》
 こいつはファイルナンバー八の取っ手。要するに鍵穴喪失関係の仕事の八番目ということです。これをやる頃にはすっかり慣れたものでしてねえ、手際よく待ち合わせの場所を指示し、その間に外して交換し、携帯で連絡して、という一連の流れがもう何も考えなくても自動的にできるようになっておりました。
 学校はこの近くの、とだけお伝えしておきます。中学校です。ある日の夕方、店の電話がなって、大変だ、大変だ、という慌てぶりをした人が電話の向こうで要領を得ないことを話している。やっとのことで、その中学校の用務員です、と名乗った後、鍵穴が、鍵穴が、としどろもどろになっているわけ。それだけで、ああ、まただなと思っていつも通りの指示をして僕はその中学校へと向かいました。
 実を言うと、この用務員室の鍵穴喪失事件に対応した時に初めて、ひょっとして僕が問題の取っ手を外している「現地」というのは何か別次元かもしれないなあという思いがしたのですよ。先日、おたくのマンションの下でバッタリお会いした時に、僕、言いましたでしょう? なんだか別の場所で作業しているような気がしているって。クライアントに頼まれて約束の場所に来たはずなのに、そのクライアント自身のいない、あの「現地」はね。
 というのはね、用務員室からの依頼でも、何も考えずに同じように処置すればいいなあと思って、中学校へと向かい、電話で教えられた通り学校の裏口から中に入ろうとしたとき、その扉の取っ手にも鍵穴がないことに気付いたの。「鍵は開けたままになっているだろうからそこから入ってくれ」と言われていたのに、その扉には鍵がないのだ。驚きました。鍵が掛かっていないのは教わった通りだったので、鍵があるというのは用務員さんの勘違いかなあと思って気にせず校内に入ったのだが、用務員室に辿り着くまでに何気なく他の建物の扉を見ても、どこにも全く鍵穴がないことに気付いた。それが初めてです。呼ばれて行って、本当に鍵穴がなかったのは。ボイラー室。ない。がちゃがちゃと取っ手を回したが開かない。体育用具収納室。これは南京錠。みると穴が消えている。美術用具室、楽器収納室など、どの部屋の扉にも取っ手はあっても鍵穴はなかった。通常の教室の引き戸の鍵穴もステンレスがあるだけで表面はつるんとしている。その日までに受注したケースはアパートとか一戸建ての部屋からの依頼ばかりだったから、周囲にある家の他の扉を確かめてみたことはなかったのです。ところが、その時は学校でしょ? 最初から入り口が別にあるから気付かされたわけです。ああ、この学校ではどこもかしこも鍵穴が見当たらないな、今のところ、あるいは、この次元において、というように。
 ぞっとしました。いつも通る道を通って普通に近所の中学校に辿り着いたというのに、どこか違う次元に入り込んだのだという気がしました。そんなことあるかねと考えても、もちろんわからない。しかし、あまり人の気配もなく、そういえばどことなく変な景色だなと思いました。何かがおかしい。はっきりとこれが間違っているとは指摘できないのだけれど、だまし絵の中に紛れ込んだよう。辻褄の合わない風景の中に迷い込んだ気がする。これは、さっさと仕事をして出て行かないとかないとだめだと焦りました。なんとなく、その中学校だけではなく自分がいる世界のどこにも鍵穴がなくなりそうで、そして、僕自身がこの世界に閉じ込められて二度と出ていけなくなりそうで、鳥肌がぞわぞわと立ちました。本当に血の気も引いたのが感じられた。そこからは大急ぎ。そういうわけで、ああ、あの作業場としての「現地」は、異次元なのだろうなと体感的に悟ったの。 
 そして、ちょっと不思議なのは、いつものように、依頼のあった扉だけは鍵穴があった。で、いつも通り付け替える。儀式のようなものですが、それで解決してきたのだ。取り外した後、取り外した古い鍵の鍵穴はなくなる。その瞬間に次元が反転でもするのか、学校中の他の扉の鍵穴を見てみると、もう、きちんと鍵穴はあった。取り外した古い鍵にだけ鍵穴がないだけで、他のものはちゃんともとに戻っていました。
 まあ、そんなこんなで、どうにか用務員室の仕事を終えて、家に戻って、その夜です。いつも通りこのファイルナンバー八の言い分を心ゆくまで聞いてやろうと思い、部屋を暗くして耳を澄ましていたら、実におもしろい話を喋り出した。なんと、あの依頼の電話をくれた用務員はニセモノだと言うのですよ。こいつは、こんな話をしました。
「誰かいるのかい。いるんだったら聞いておくれよ。あれは別人なんだ。信じておくれよ。前の用務員はね、左利きなんだよ。それも仲指がほんの少し短い。いつだってアタシの鍵穴にはわずかにぎこちない手つきで鍵を差し込んだんだよ。ぎこちなくても温かい手をしていたのさ、鍵を開けた後、アタシを掴んで回す時、ほんのりとした温もりが伝わってきていつも心があったまった。でも今のあの男の手は右手で、そして冷たい。
 聞いてくれ。ある時、前の用務員がそのもう一人の男と思われる人物を部屋に連れてきて、お前、俺の代わりに用務員の仕事をしろと言ったのさ。アタシは息を殺してその話を聞いていた。どうやら連れてきたのは無職の友人らしいと思ったよ。
 前の用務員は連れてきた男に、『お前、代わってやるからここで働くといい。用務員の仕事なんてどうということもないし、俺とお前はそっくりだから入れ替わったところで誰も気付かないからそうしてくれ、俺は他で職を探すから』と言っている。連れて来られた男の方は、『そんなこと企んだって、どうせそんな違法行為はすぐにばれるし、君の仕事がなくなるじゃないか。君にも申し訳ないよ』と固く断っていたのだけれど、前の用務員の男が『実は僕は宝くじに当たってね』と話し始めてから様子が変わった。『僕は当たった金を持ってどこかでひっそりと暮らしたいが、こんないい仕事もったいないから君に代わってやりたい。黙ってりゃばれはしないさ』と言うので、連れて来られた男の方もそのうちにほだされて、そんなことならと受け入れた。本当に入れ替わったらしいのだ。誰も気付いていないらしいが、アタシにはわかるのさ。今度の男は右利きで、ちょっと手のひらがひんやりしているのだから。あれは入れ替わった別の男なんだ」
 取っ手のくせに妙なことを言うでしょう? この野郎はそんなことを僕に言いたくて、わざわざ鍵穴をつんと閉じたんでしょうかねえ。それからほんとうにまもなくのこと、その中学校の用務員が退職したとの話を地域の情報誌で見たの。噂ではどうやら昔、借金があったらしいなんてことも聞きました。ええ、ええ、まさか、このファイルナンバー八の言うことを真に受けていませんよ。
 しかし、万が一、こいつの言うことがほとんど正しいとして、じゃあ、その左利きであり中指のやや短い元々の用務員はどこに行ったのだろうと思うくらいのことはします。いや、実際はね、その替え玉かもしれない退職した用務員の男も、左手の仲指の先は少し短かったそうです。鍵屋仲間がどこかから聞いてきて、そう教えてくれた。だから僕が思うには、結局その二人は同一人物だったんじゃないかな。借金を抱えていた頃は左手でドアノブを回していて、宝くじが当たってからは右手でドアノブを回した。宝くじに当たったので辞めようと思った時に、用務員の仕事を友人にでも譲ってやろうとひそひそ話をしていたのを、こいつが聞いて、少し話がねじ曲がったのではないかな。単なる推測ですけどね。
 
 トンボは黙って最後まで話を聞き終った後、他の取っ手はどんなことを言ったのだと男に尋ねた。すると鍵屋の男は取っ手の数だけバリエーションがあるのだと得意気な様子を見せた。たとえば、一緒に住んでいる恋人からドメスティックバイオレンスを受けていて帰宅することを憂鬱に感じている女性の部屋からやってきた取っ手が「だったら鍵穴をなくしてやろうと考えたのだ」という話や、住人の男の指があまりに美しかったので恋をしてしまい、その恋情の辛さのあまり「鍵穴をなくして消えてなくなりたいと思った」という話など、何度聞いても飽きることはないと言う。
「で、どうして私にこの話を?」
 トンボは冷めた調子で男に聞いた。とんだ作り話には乗せられまいと身を固くし背筋を伸ばした。
「何を仰っているの。あなたの方からお電話をくださって、店の女の子と二人で行くけど鍵の話をしてくれと言われたのだろう?」
 男は首をぽりぽりと掻いている。
「しかし、バスでも君の方からあんなにぴったりと僕の横にくっついてきて、急にこんな妙ちくりんな話を僕に仕掛けたのじゃないか」
「だってあの時は、他に席がなかったから」
 ふざけた調子で言う。
「何を言っているのだ。あの時バスはがらがらだったじゃないか」
 つい声を大きくしてしまった。
「そうでしたっけ? 僕の目には満席に見えましたけどお」
 今度は眉間の横を掻いている。
 男の、どこかとぼけた顔を見ていると無性に腹が立ってきた。
「お前嘘ばっかりついているな」
 立ち上がって拳を握りしめた。
「おやおや、あなた、マンションのエレベーターで女性に鍵穴のない取っ手の相談を受けられたのではなかったか。そしてその後にも僕と遭遇し、それでお誘いしたのでここにいらっしゃる。そうだよね」
 トンボは握りしめた拳を緩め、鼻から大きく息を吐き出した後、椅子に座った。そういえば、そうだった。
「しかしバスはがらがらだった」
「そうお感じになったならそれでいい。いずれにしても、僕はあなたの横にぴったりと座ったと思うよ」
 男の顔からは笑顔が消えていた。
「どうして」
「そのうちわかります」
「どうして今言わないんだ」
「どうせ信じないだろう。僕にだって信じてもらえないなら言わない権利がある」ぷいと横を向いてしまった。
 信じるから言いなさい、と言おうとしてやめた。いや、この男が何を言っても、自分は何も信じないだろうと思った。ここまでの、ファイルナンバー八の話にしてもマンションの女性のことにしても、マリモの言う通り手の込んだ詐欺かもしれないのだから、信じようがないと感じている。そして、信じる必要も全くないのだ。だけど何のために私にそんなことを?
「そもそもここに来ていただく必要はなかったのかもしれないが、まあ、これをひとつ差し上げたいと思ってね」
 男は立ち上がって、棚から取っ手を二つ取り出しテーブルに置いた。ファイルナンバー四十六と七十二だと言う。「あの二〇〇号室の取っ手。もうふたつあるけど、それは一応僕の方で持っておく。どうせどれも同じことを言うのだが」
「同じことって、何と言うのかね」
「それはご自宅で、ご自身でお聞きなさい。夜になって、部屋を暗くしたら喋りはじめるよ。どうしてあの部屋の鍵穴はいつも消えてしまうのか。こいつらが、ぺらっぺら喋り出しますよお」
 男はおかしさを堪え切れないのか、体をふたつに折りたたんで笑っている。
「どうして私がそれを? そんな取っ手の告白を聞かなくちゃいけないのだ」
「要らないのか。彼女から、エレベーターで相談されたというのに」
「君はいったい何が言いたいんだ」
 のらりくらりと仄めかしやがって。
 再び立ち上がった。
「要らないと仰るのなら構わまないよ。別に無理に持って帰って頂く理由もないんだから」
 男は棚に仕舞おうとする。
「ああっ」
 ちょっと待て。
 しんとして、時計の秒針が鳴る。十五秒ほどの沈黙。
「なあんだ、やっぱり、要るんだ」
 男は振り返ってにやりと笑う。

 トンボは鍵屋の男の家を後にして大通りまで出た。バスに乗ろうかと考え時刻表を見ると、たった今発車したばかりで、この後来るものは十分ほど待たなくてはならないことがわかり、そんなことなら歩こうと家の方角へ向かって歩き始めた。少し歩き出したところで、大汗をかきながら歩いているマリモにばったり会った。猫の診察が終わったので友人に預けてからこちらに向かったのだと言う。
「メールをくれたらよかったのに」
「入れても、『届きません』というメッセージと共に戻って来てしまうし、電話をしてもそちらが圏外なのかつながらない」
 トートバッグからハンカチを出して汗をぬぐっている。「トンボさん、一体どこに行っておられたのですか」
「すぐそこだよ。えっと、表札は――」
「木花でしょう? そんな家はないですよ。もう一軒ずつ見て回ったのです」
「いやいや、あるよ、ある。あります。たった今出てきたところだから、一緒に行ってみよう。すぐそこですから」
 トンボはマリモを連れて鍵屋の男の家まで歩いた。「ほら、ここです」
 先程と同じ平屋のコンクリート造りの建物がある。屋根はデニム色の瓦。「ね、表札も――」
 あっ、と声を大きくした。表札はなかった。「おかしいな。見間違えたかな」先程見たはずの木製の表札はどこにもなかった。

 建物の周りをぐるりと歩いてみると、勝手口らしき扉があり、そこから出てくる人がいた。
「あの、この家の方ですか」
 よかった。何か聞ける。
「いいえ、家の者ではなく、配達です。ワインの」
 忙しいところを呼び止めてしまったらしく、迷惑そうに答えた。じゃあ、と言って、路地に止めていた軽トラックに乗ってあっという間に去ってしまった。
「ここですか」
 マリモは建物をキッと睨んでいる。
「そのはずだが――」
 確か、酒は飲まないから家の中に酒は一本もないと鍵屋の男は言っていた。ワインの収集家は前の住人のことではなかったか。誰のための配達だろう?
 慌てふためいているトンボの顔をマリオが覗き込んだ。
「御祓いしてもらいましょうか、トンボさん」
「どういう意味だね」
 妙なことを言い出すな。
「狐かなにか、憑いてません?」
「君にしては、非科学的なことを言うじゃないか」
 トンボは笑い飛ばして、大丈夫、気にしないでと言い、大通り沿いにあるレストランでお昼ご飯を食べようと提案した。狐が憑いているなどと考えたくもなかった。
 レストランでは、トンボはオムライスを、マリモはカレーライスを注文した。食べながら、今回のことはもう忘れてくれとマリモに言った。
「不思議な出来事だったが、もう私の中では解決したような気がする。君を巻き込んでしまって済まなかったね」
 マリモもそれで納得し、
「何か気になることがあったらいつでも相談に乗りますから」
 と言ってくれた。実に優しい社員だ。
 食事を終え、お金を払おうとした時、レジには黒いジャケットを羽織り蝶ネクタイをした年配の男が立っていた。伝票を渡すと手際よくレジを打っている。
「ありがとうございます。二千二百円です」
 穏やかに微笑んでいる。トンボの財布には一万円札しかなく、
「大きいままで申し訳ないね」
 とそれを出すと、
「大丈夫ですよ」
 と言いながらレジから千円札を取り出し数えている。一、二、三、トンボはその指先をじっと見ているうちに、あっと声を出しそうになった。手相として、左手の仲指が短い気がした。そして左利きか? 思わず男の顔を見る。
 ひょっとしてこれは、ファイルナンバー八が夜中に告白したという話の中に出て来る元の用務員? あるいは、鍵屋が言った通り、結局同一人物の用務員? まさか。
「おつり、七千八百円です。どうもありがとうございました」
 レジの男はにっこりと微笑んだ。

 その日の夜、トンボは鞄からあれを取り出した。
 ファイルナンバー四十六と七十二。
 もちろん、このマンションの取っ手と同じ型のものだ。リビングのテーブル上に並べて置く。どっちが四十六で、どっちが七十二かはわからなかった。
 蛍光灯の明かりは煌々と鍵穴のない取っ手を照らしている。
 もちろん取っ手は何も喋らない。
 これから部屋の明かりを消すつもりだった。喋り始めるだろうか。あの部屋の女性の、何か、鍵穴が閉じなければいけなかった秘密のようなもの。いいのだろうか。罪悪感が込み上げてくる。しかし、鍵屋の男が「あの女性の部屋の取っ手だ」と言っただけでそんなことは嘘かもしれないし、第一、このようなガラクタに近いものが言葉を喋り出すなんてこと、あるはずがない。それを確かめるのだ。
 この前の朝、女性がトンボを無視した時のことを思い出した。前日の夜、エレベーターの中で話したことなどすっかり忘れたかのようにふるまい、レースの日傘で視界を遮った。あの女性の取っ手?
 とりあえず、明かりを消そう。こんな取っ手が何かを喋り出したりはしないだろう。これは、あの鍵屋の男が言った話は出まかせだったと確信するためのことだ。他人の秘密を知りたいからではない。
 そうだ。これはむしろ正義だと考えた。いや、正義と言うより、正当防衛なのだと自分に言い聞かせた。

四章

 焼け付く暑さは和らぎ、昼過ぎの道路に伸びる家々の影も少し長くなった。こうなると散歩好きのトンボは知らない路地をひとつ折れてみたくなる。通ったことのない路地は無数に存在するものなのか、もう何年もこの界隈に住み続けているのに知らない角はいつでも姿を現す。
 その日も家族経営らしい印刷所の脇に自転車なら通り抜けられる程度の細い道を見つけた。アスファルトが凸凹してひび割れていることから察すると、この道は私道なのかもしれない。見ると、ブロック塀に「ここで用を足すこと禁止」との貼り紙がある。恐らく印刷所が貼ったのだろう。道の行く手から縞猫が現れたので、ならば向こう側に通じているのかと思う。電柱があるのか、その影も遠くに見える。トンボは行き止まりでないならば通り抜けてみようかと思う。用を足すのでないなら叱られはしないだろうと入り込んでいった。縞猫は横を足早に通り過ぎた。
 電柱の影まで来ると、その先はY字路になっている。不釣り合いに大きな樹木が玄関先に植わっている民家があり、Y字の一方はその枝葉が伸びてアーチのように道の上を渡って、心地よさそうな日陰を作っていた。反対側は陽に晒されている。もちろんアーチのある道を選んで歩き始めた。こんな風にいい加減な選択で歩くからいつも迷う羽目になるのだけれど、これまでも結局は家にたどり着いて来たのだから気にすることなく好みの佇まいである方を取る。
 しばらく歩いていると、いつの間にか以前にもたどり着いたことのある「ボウヤ書店」の前に出た。

 こんな場所にあっただろうか。本当にあの本屋だろうかとは思ったが、やはり出入り口の硝子扉の前にイーゼルがあり、「どのような本でも置いてあります」と書いた黒板が乗せてあるので、間違いなく例の「ボウヤ書店」だと確信した。出入り口の上を覆っている庇の青地のビニールテントに、やはり白抜き文字で「ボウヤ書店」と書いてある。この前、マリモと来ようとした時にはどうしても見つからなかったのに、特に目指して歩いていない時にこそ辿り着くなんて。まるで「幸運」みたいな店ではないかと感心する。硝子戸の隙間からそっと中を覗くと、やはり一番奥に会計机があり、眼鏡をかけた青年がパソコンに向かって必死に作業をしていた。おや? 前とは違って客がひとり居る。空の彼方まで書棚が続く妙な本屋で買い物をする人間なんかいるのだろうか。
 客が居るので少し安心し、勇気を出して入ってみることにした。青年と客の女が一斉に顔をこちらに向けた。
「あら、あなたマンションの――」
 一冊の本に見入っていた女性客は本を閉じた。
「あなたは――」
 二〇〇号室の女性だった。片方の肘に見覚えのある日傘をぶら下げている。トンボは自分の顔が首のあたりから一斉に赤くなっていくのを意識した。「先日エレベーターでご一緒しましたね」咄嗟に言う。
 そのことよりも、鍵屋の男から貰ったあの鍵の取っ手のことを思い出したのだ。気の迷いだったのか、つい唆されて受け取ってしまい、夜中にその取っ手の言い分を聞こうとしたのは数日前のことだった。この女性は自分の取っ手がトンボの部屋にあることなど知りもしないで、機嫌よさそうな笑顔を見せている。
「どうやってここへ?」
 女性はトンボを頭の天辺から足の先まで眺めた。
「何となく歩いていたら辿り着いて。前にもそういうことがありまして、その時も何となく歩いていたら、この店の前に来てしまいました」
「そんな風にして来ることもできるの?」
 女性は青年の方を向いた。
「人それぞれですから」
 青年は真面目そうに直立している。「決まりはないのです。来られる方の方法としては何かルールがあるようですけれど」
「あなたはどうやってここに?」
 トンボは女性に言う。
「私は、その――」
 言いにくそうにする。
「いや、言いたくなければ言わなくても結構ですよ。どうやってここに来たかなんてことはどうでもいいことですから」
 トンボはこの女性の鍵の取っ手のことを思い出し、慌ててそう言った。何でもかんでも心の秘密を聞いてしまうなんてことはよくないだろう。急に汗が吹き出し、ポケットからハンカチを取り出して額や首を拭いた。
「降りるんですの。ある場所の、ある穴を」
 話さなくていいと言っているのに女性はしゃべり出した。
「穴って?」
「マンションの横に児童公園がありますでしょう? そこにタコみたいな山があってところどころ穴が開いていて、中は滑り台になっているのご存知かしら」
「タコみたいな遊具があるのは知っていますが、中に入ったことはありません。私は子どもがいませんから、通り掛かって見るだけで何年も過ごしてきましたから」
 トンボが言うと女性は大きく頷いた。「殿方って多くの方はそうですよ。もう亡くなった主人だって、子どもたちと一緒に児童公園のタコの中に入って遊んでやろうなんてことしませんでした」
「で、その穴を降りたら、ここへ?」
 トンボは汗を拭く手を止めた。そんな馬鹿な話があるわけないだろう。
「子どもが育ってしまって、同じマンションに住んでおりますけれど、当たり前のことですが昔みたいに一緒に児童公園で遊ぶことはなくなりました。ある時、あの近くを歩いていたら昼間なのに誰も公園にいないことがあって、珍しいわねと思って、懐かしさもありタコの中に一人で入りましたの。お恥ずかしいのだけれども」
 女性は掌を子どものように口に当てて笑う。「それでね、滑り台に続く穴に飛び込みましたら、ここに出た。嘘だと思われるでしょう?」
 どう答えればいいだろうと思う。確かに嘘くさい。嘘くさいが、トンボ自身の「気付いたらこの店の前に出た」とか、「マリモと歩いている時にはここに辿り着けなかった」というのも、自分の体験ながら嘘くさいのだ。
「いいえ。嘘だとは思いませんよ」
 咄嗟にそう言った。「誰にも信じてもらえないけれど本当のことだと個人的に思うことはみんな均等にあるのですよ。一度でもそういう体験をすると他の人が言っている嘘くさい、いや失敬、嘘に思える話も信じられるようになります」
 女性は安心したのか、さらに嘘くさい話を続けた。
「私、あそこからここへ来るの」
 人差し指を上に向けた。
「あそこって?」
 トンボは人差し指の先を見る。「あっ!」
 そうだった。この本屋は天井がないのだった。
「タコの穴はここに繋がっていて、ストンとここに落ちてくる」
 トンボは青年の顔を見た。青年は苦笑いを浮かべて、そうなんですというようにひとつ頷いた。
「ごめんなさいね。なにか規則に反した訪問の仕方で」
 女性は首を少し傾け青年の顔をうかがうように見る。青年は苦笑いをやめて無表情になり
「お気になさらずに」
 と返した。
「ところで、先日エレベーターの中で仰っていた鍵のことですけれど」
 トンボは思い切ってその話を切り出そうとしてみる。すると、ああ、あれですかと笑って遮り、
「解決しましたわ。たった今」
 と言い、「私、帰らなくちゃ、この本買っていきます」女性は会計机で青年に一冊の本を手渡した。
「じゃあ」
 払い終えると、扉を開けて外に出て行った。その間、トンボは何も言い出せず見送り、帰りは扉から帰るのか、と思いながら天井を見上げた。それにしても素早い。同じマンションだから一緒に帰りましょうと誘おうかと思ったのだが。

 女性が出て行ってしまうと、トンボは青年に
「さっきの本、もう一冊あるかな」
 と言ってみた。さっきの本というのは、女性の買って行った本のことだった。何を買ったのだと聞くと守秘義務がどうとか言うだろうから、もう知っているかのようにそう言ってみた。
「さっきの本って?」
 女性が帰った後の青年は少し気が抜けたのか、にやついて見えた。
「彼女が買った本だよ」
「ありますよ。看板に書いてある通り、どのような本でも置いてありますから」
「私にもそれを」
 グズグズしていると迷って言い出せない。勢いに任せてさっと口に出してしまった。
「承知いたしました」
 青年は会計机から出てきて書棚を探す。「これです、これ」手に取ってトンボに見せる。ねえ、と笑う。
 タイトルは『鍵屋の男』だった。
 トンボは驚いて全身血の気が引いてしまった。
 ――なんだこれは。
「どうします。購入されますか?」
 トンボは迷った。何が起きているのか。やはり狐が憑いているのか? 表紙の絵はあの鍵屋の男の顔だった。何が書いてあるのだろう。青年から受け取り本を裏返してみる。そこに描かれていたのはバスの停留所のすぐ前で見た鍵屋の店の絵だった。閉ざしたままになっているグレーのシャッターに大きな金色の鍵の絵が描いてあり、その下に赤い文字で何かが書いてある。
『お困りの時にはいつでも参上』
 ――これは! 
「ご購入されますか?」
 青年が言う。「当店で一番人気の物語です」
「作者は、えっと、ロンデリオと書いてあるが――」
「僕です。僕の筆名」
「君が? この本を?」
「そうです。僕が書きました。ぜひ、お買い求めください!」
 トンボは青年の顔をじっと見る。誰だ、お前は。ロンデリオ? 聞いたことない。
「お買い求めください」
 ロンデリオは一歩前に詰め寄ってきた。「ぜひとも一冊」眼鏡をきゅっと掛け直しながらトンボの鼻先まで顔を近付ける。なんだ!
「いや、それは――、け、」
 躊躇する。(ここは物語上、結構です、というところだろう。)
「いや、一冊とは言わず、二冊いただこうか」
 マリモの分も購入することにした。(了)》

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