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解読 ボウヤ書店の使命 ㉒

 短編『スカシユリ』の読み直しと解読を終えたので、同じ<花シリーズ>の二番目である短編小説『心に咲く花』の解読に入ろうと思う。同じ2013年の習作。登場人物に「上田」と名字を付けているので、やはり新潮講座の上田先生の出された課題に応答する形で書いたのだろう。すっかり忘れていたが、なかなかいい作品。

 ⇑のボウヤ書店で読んで頂いてもいいが、これもまずは下に全文を貼り付けておく。

《花が一輪、細い花瓶に生けてあるのが見えた。引き戸と柱の間、二十センチほど開いた隙間から表出する花びらの黄色が鮮やかで、サクラは思わず足を止めた。出勤前で忙しく、慌ただしく通り過ぎようとしたところだったが、立ち止まるほどに違和感を覚えたのだ。
(お母さん、珍しいわね、花を生けるなんて)
 母親のハトコが花を生けることが不思議に思えた。しかも、それはハトコ自身の部屋だった。部屋と言っても、階段の下にあるスペースを物置として使う代わりに、どうにか畳を入れて部屋らしくしただけの空間だ。窓もなく、天井と言えば階段の裏側だから傾斜している。屋根裏部屋のようだと言えなくもない。
 サクラは、一瞬、中に入ってその花の種類を確かめようかとさえ思ったが、狭い空間とはいえハトコの部屋であり断りもなく入るのは悪い気がしてやめたのだった。あまり時間もない。中に入ることはせず、少し覗いただけで通り過ぎ台所まで行った。
「おはよう」
 ハトコがサクラの方を見もしないままに言う。足音を聞いて、サクラが二階から降りてきたことに気づいたのだろう。タイミングよく炊飯器からご飯をよそっている。「食べるでしょう?」ようやく、ここで、素早く黒目だけを動かしサクラを見た。
「うん、少し」
 床に通勤鞄を置き、ダイニングテーブルの椅子を引き出して座り、ハトコをじっと見つめた。パジャマ姿のままで朝食の支度をしている。
「どうしたの?」
 ハトコは、サクラに見つめられたことで気まずく感じたのか苦笑いをすると、ご飯の入ったお茶碗をサクラの前に置き、置くとすぐに、今度はお味噌汁を椀に注ぎ始めている。
「いや、別に」
 サクラは見つめるのをやめて、テーブルの上に置いてある箸を取り、温かいご飯を一口食べた。ハトコが湯気の立つお味噌汁の椀を目の前に置くと、黙って箸を置き、今度は椀を両手で持ち口を近づけて、舌を火傷しないようにふうふうと息を吹きかけてから啜った。三つ葉の香りがする。椀を傾けながら上目使いにハトコの方を窺う。
「なによ」
 再び投げかけられた視線に気づいたらしく、ハトコもサクラを見た。
「今日のお味噌汁、三つ葉だね」
「朝はネギがいやだって言うから三つ葉にしたのよ。いけなかった?」
「ううん、ありがと。おいしい」
 サクラは椀をテーブルに置いた。持ち替えてご飯を口に運ぶ。ハトコはおいしいと言われて安心したのかほのかに口元を緩ませて微笑み、お茶を煎れようとして、棚から取り出した茶筒の蓋を開けて中を覗いた。
「あら、いけない。なくなりかけよ」
 ため息をついている。申し訳なさそうにサクラの方を見て
「最後の方はお茶が粉っぽくて、茶漉しから出ちゃうのよ。でも買い置きはなかったと思うわ。今日はこれでいいかしら?」と言った。
「別にいいよ」
 小皿に乗っている卵焼きを箸で半分に割りながら答え、ご飯の上に乗せてから口の中に放り込む。ハトコは
「そう、ごめんね」
 と言い、サクラ用の赤い縦縞模様の入った湯呑にお茶を注いだ。湯気が立ち濃いお茶の香りがする。はい、どうぞと、湯呑がテーブルに置かれたので飲んでみると、ハトコのごめんねと言った意味が分かった。底に沈んでいたお茶の粉が舞ったせいか、飲むと口の中にも入り込んで舌がざらざらとし、サクラは思わず顔をしかめた。
「やっぱり、粉っぽいのが口に入っちゃったでしょう。ごめんね、今日新しいのを用意しておく」
 ハトコはグラスにお水を入れ「はい、すすいで」と、サクラに手渡した。
「ありがとう」
 受取って素直にそれを飲み、舌のざらつきが消えてから、「いつもなら茶葉の最後は捨てちゃうの?」と聞いてみた。
「捨てないわよ。私が飲むのよ。それほど急いで出かけることもないし、沈んでいる茶葉を起こさないように、ゆっくり飲めば気にならないから」
 サクラは、ふうんといった風にうなずき、もう一口だけグラスの水を飲んで、残りのご飯とお味噌汁を食べ終えた。
「ごちそうさま」
 食べた後の食器を重ねてから立ち上がる。食器を流し台に運ぶハトコの後ろ姿に向かって「じゃ、行ってきます」と声を掛け、洗面所まで行き、歯を磨いたり口紅を塗ったりして身支度を仕上げると玄関の外に出た。外はよく晴れている。玄関の扉を閉めてから腕時計を見ると六時半。まだ急ぐほどの時刻ではない。ほっとして、肩に掛けたバッグをきちんと身に寄せるように持ち直し、姿勢を正して歩き始めた。
 バス停のあるメイン道路に入るまでの路地には、この辺り一帯がベッドタウンとして新開発される前の佇まいが残っていて、朝の六時半ではまだ静かだ。のんびりとしたもので、それほど動き出しはしない。家の近くにある喫茶店は、古びた木製の扉に「準備中」のプレートをぶら下げて閉まったままになっている。
 そこを過ぎると一般の住宅に混じりながらいくつかの商店があるけれど、ここでも豆腐屋以外はシャッターが下りたまま物音すらしない。豆腐屋だけはいつでも早朝から店を開け、路地の清掃をしたり水を撒いたりしている。ショーケースの後ろには、紺色の前掛けをして黒い長靴を履いた女性がしゃがみこんでいて、納豆や煮豆の惣菜をそのショーケースに陳列しているのが見えた。
「おはようございます。いつも早いですね」
 声を掛けると、前掛けをした女性は手を止めて顔を上げ、
「あら、おはよう。気を付けていってらっしゃいよ」
と笑顔を見せた。時々、ハトコに頼まれてこの店で買い物をする。それで挨拶をするくらいの顔見知りになった。大型ショッピングセンターは便利だけれど、近所でお買い物できるのもありがたいのだからとハトコは言う。もちろん丁寧に作ってあり、美味しいことも買いに行く理由のひとつではある。
「はい、行ってきます」
 軽く会釈をしてから歩き出すと、スーツ姿のサラリーマンや重そうなスポーツバッグを斜め掛けしたジャージ姿の中学生が道の前を歩いているのが見えた。ほんの数分過ぎただけだけれど、ようやく、少しずつ朝の町が動き始めたようだ。道の後ろの方では、どこかのシャッターが開く音も聞こえた。
 夏至を過ぎたばかり。歩道の脇の植え込みには咲き終わったツツジが縮れてところどころに残り、まだ始まりきらない夏といった風情で、盛夏にはまだ少し猶予があるが、早足に行くと軽く汗ばんできそうな陽気が差している。ブラウスと素肌の間に着ているキャミソールに汗が沁みるのが嫌で、出来るだけ日陰になっているところを選び歩いた。汗も気になるけれど、日傘も差さずに直射日光に当たるとシミになるのではと思う。色が白いから目立つだろう。だから建物や電柱の間から早朝の光が差し込んで顔に当たると、つい、ハトコの化粧もしない顔を思い浮かべて、私も年をとったらあんな風になるのかしらと考え、眉間に軽く皺を寄せてしまった。そうしてしまってから、一瞬立ち止まってぎゅっと目を閉じ、
(いけない、そんな残酷なことを考えては)
 小さく首を左右に振り、溜息さえついてから目を開くと、雀が二、三羽飛び散るのが見えた。青空に向かっている。印刷屋の屋根の向こうに羽ばたきながら消えていくのを見送ってから、深呼吸をして、再び二、三歩歩いたところで、今度は植え込みの下に生えだしているタンポポが目に入った。和紙のように縮んでいるツツジに比べると、チクチクしそうな葉も青々として元気いっぱいに咲いている。タンポポの生き生きとした黄色を眺めていると、そういえばと、家で見たハトコの部屋の花のことを思い出した。
(あれは、一体、何の花かしら?)
 もう萎れかけなのか、花びらが数枚、がくのあたりからこぼれ落ちそうだったように思う。だから、枯れる寸前には違いないのだろうけれどサクラの心に眩しい黄色を残した。
 また歩を進めて、
(それにしても、どうしてお母さん、自分の部屋に生けたのかしら?)
 首を傾げる。(他の部屋にはほとんど生けたことなんかないくせに)
 あの狭い空間、階段下の三畳ほどのデッドスペースを利用して作った場所の黄色い花を想像していると、家の設計図を指さしながら「この部分は私がもらっていいかしら」とハトコが言った日のことが思い出されてきた。
 
 団地の借り住まいから、今の一戸建て住居に越してきたのは四年前のことで、設計が始まったのはそれよりも一年ほど前、サクラがまだ十七歳になったばかりの高校三年の春だった。一級建築士が丁寧にファイリングしてある設計書を持って団地を訪れ、月に一回は要望を聞いて帰った。その建築士に、ハトコは「私の部屋は作れないかしら」と執拗に言っていた。ハトコの夫であり、サクラの父親であるサトシが
「君には台所もリビングもあるじゃないか。誰よりも広いスペースが手に入るのだよ」
 と反対する中、
「そんなの職場みたいなものじゃない」
 真剣な顔をしてハトコは主張した。「二人には、自分だけの部屋があるのに、私の部屋だけないなんて嫌よ」
 何度か同じやりとりが繰り返された後、最終的に建築士が
「今時は主婦の方でも自分の空間を持っていらっしゃる方は増えてきています」
 ハトコの味方をし、「物置にしかならないようなスペースを有効に使えるようにするのは、私にとって腕の試しどころでもありますし」と付け足してサトシを納得させ、結果、引き戸と小さな床の間までつけて、想像していたより部屋らしい部屋にした。
 そこまでして作った部屋なのに、引っ越してから母親がそこで何かをしているのを見ることはあまりなく、それなら、どうしてあの時あんなに主張したのかしらと思っているうちに、いつしかハトコ専用の「寝室」となっているのに気づいたのは最近のことだった。サトシとハトコは仲が悪いわけではなさそうだが、サトシの仕事の都合で帰宅時間がまばらになり食事を一緒にしなくなってから、寝る時間も合わなくなって、睡眠不足を嫌がったハトコがそこに布団を持ち込んだらしい。
 サクラは引っ越した当時のことを思い出しつつバス停へと向かって歩きながら、
(あの部屋の花、買ったのかしら?)
 と考えた。近頃は仕事が忙しいのでハトコの生活に興味を持つことなどなく、話すらしないことも多いのに、黄色い花のことは妙に気になってしまった。今さらサトシがハトコに花を一輪だけ買ってプレゼントすることなど考えられない。(お母さん自身が買ったのではないとしたら、誰かがお母さんに?)
 誰かがハトコに花をプレゼントしたのだとして、それが一輪だけというのなら「お祝い」ではないだろうと思った。誕生日でもないし、そうでなくても、何かのお祝いなのだとしたら、小さなブーケか、一輪の花だったとしてもかすみ草などの添え花が入っている方が自然な気がした。もしも、もらった時には添え花が入っていたとして、それが萎れてきたから捨てて生け替えたとしても、だとしたら、あの黄色い花は萎れすぎてはいないだろうか、と思う。洗濯や掃除、料理などを几帳面に取り仕切るハトコの性格から考えると、生けている花が萎れてしまったのを、だらしなく忘れて生け続けているとも考えにくい。
(大切な誰かから、もらったのかしら)
 萎れかけた花を花瓶から取り出し、水を換えて、再び生けているハトコを思い浮かべてみると、尋常ではない思いが想像されて、小さな狂気すら感じずにはいられなかった。

 気が付くとメイン道路の入り口まで来ていた。道路を渡って右へ歩いて行くとバス停がある。道路の周辺には歩道に沿って設置されている街灯とイチョウの木しかなく、見るだけで途方に暮れてしまいそうなまっすぐの道路が、ずっと遠くまで伸びている。その路肩にあるバス停に向かって数人が歩いているのが見えた。毎朝だいたい同じメンバーだ。みんなベッドタウンから都心の会社に向かうためにバスに乗る。
 サクラは信号のある横断歩道を渡りながら、バス停とは反対方向数キロほどの場所にある公園のことを思い出した。近くの村から善意で譲られたユリの球根が、びっしりと植えられている公園があるのだ。サクラ自身も通っていた高校からボランティアで派遣され、ユリを植えるのを手伝ったことがある。
(あの公園のユリはもう咲いているだろうな)
 渡り切ってバス停の方に曲がる。(お母さんの部屋で見た黄色い花は、ひょっとして、ユリ? 萎れていたから分からなかったけれど、確かに黄色いユリのような気もする)
 バス停に着くと、もうすでに五人ほど並んでいる。顔見知りではあるけれど、誰も互いに挨拶をしようとはしない。サクラも、その列の一番後ろにそっと並んで、みなと同じように黙ってバスを待った。通り過ぎる車の排気ガスが風で運ばれて、誰もが眉間に皺を寄せ沈黙している。

 サクラが公園でユリを植えたのは五年前のこと。高校三年の秋だった。職員室の前に貼ってある申込用紙に名前を書く形で参加申し込みするのだったが、受験も間近の時期だったせいか、三年生から名乗り出る生徒はなかなかいなかった。サクラ自身も積極的に参加したい気持ちにはなれなかったけれど、住所を見ると来年には引っ越す予定になっている地域に近い。それで気になって、職員室の前を通るたびに眺めては、誰もいないのなら申し込もうかと考えた。
 締め切り間近という時期になって、申込み用紙の中に「大谷タツヤ」の名前を見つけて驚いた。タツヤのことは、卒業した中学校も同じなので声変わりする前の少年時代から知っている。高校に入ってからも、思春期にありがちである無愛想な雰囲気を発揮する様子もなく、見かける時にはいつも機嫌がよさそうに見えた。小柄でスポーツ方面では冴えないようだが、物知りで何を聞いても穏やかに教えてくれるのが好きだった。恋というのではない。恋心ならば同じテニス部の山川ユウタの方に抱いていたのだから。でも何かの縁があって六年間を同じ学校で過ごしたタツヤの名前を「ユリの球根植栽ボランティア募集申込み」の中に見た時に、春になって卒業すれば、毎日同じ空間に居た時間が終わって、もう会えなくなると思うと、少し胸が苦しくなるような気がした。思わず、制服の胸ポケットに差していたシャープペンシルを取り出して、カチカチと芯を出すと「上田サクラ」と書き込んでしまった。書き込んだ時には、締め切りまでまだ数日あったので、これから申し込む人もあるだろうと思っていたが、結局最後まで二人の名前しかなく、指定された日曜日の朝、バスターミナルで顔を合わせた時には照れ臭いような気持ちになった。タツヤは水色と紺のチェックのシャツを着て、ごく普通のジーンズを履いていた。初めて制服とは違う姿を見ると、これまでより親しいようにも感じたし、逆にむしろ遠いとも感じられて戸惑った。サクラ自身も土いじりがしやすいようにとピンク色のダンガリーのシャツとジーンズで、これといったお洒落をしているわけでもなかったが、タツヤは恥ずかしそうに目をそらし、見ないようにするかの如く、すぐに「公園行き」のバスを探そうと歩き始めた。
「どうして申し込んだの?」
 慌てて後を追いながら聞いた。タツヤは振り向きもせず早足で歩き、
「どうしてって、ユリを植えてみたかったから」
 ターミナルにある案内掲示板にたどり着いたところで発車位置を探しながら答えた。確認し終えると、すぐに歩き出す。サクラはテキパキとしたタツヤの様子を見てすっかり安心し、行き方を調べることは任せきりにしつつ隣を歩いた。
「でも植えてみたいだけなら、球根と土と、植木鉢を買ってきて植えたらいいんじゃない?」
 質問の続きを引っ張り出した。サクラ自身も申し込んだのだが、それはタツヤの名前を見たからだったし、引っ越す予定になっている近くの公園だからというそれなりの理由があった。タツヤの方には一体どういう理由があるのか聞いてみたかった。
「そうだね、植えてみたいだけなら、学校の中庭に植えてもよかったね」
 タツヤは無表情なままで言い、反論はしなかった。少し肩透かしを食らったように思い、畳み掛けるようにまた質問した。
「じゃあ、どうして?」
「どうしてかなあ。植えることもやってみたかったけれど、公園にね、いつか咲いた時に、ある部分は僕が植えたんだと思うと嬉しいかと思って」
 ずり掛けたメガネを直しもせずに笑顔を見せた。それを見て、ふうんと言った後、サクラは黙った。
「ユリを植えることになったのは、米軍基地からの依頼であるらしいよ」
 笑顔のままでタツヤは言った。
「へぇ、そうなの? どうしてまた」
「米軍は日本国民に歓迎されていると一般兵士に伝えるためだという話もあるし、お金持ちのアメリカ女性と恋をしていた男性が日本の米軍キャンプに行くことになって、寂しがったその女性が権力のある軍人の父親に頼んで公園にユリを植えるように頼んだという話もある。まあ、ちなみにその女性の名前はリリーってことになっているんだけどね」
 ふふふふと息で笑う。サクラもそれを見て、ふふふと鼻で小さく笑った。
「いかにも、ガセネタって感じね」
「まあ、そうだね。他にもいろいろあってね、米軍基地と言いながら未確認飛行物体の通り道にもなっているあの辺りを調査するために、ユリを植えようとしているというのもある」
「未確認飛行物体とユリって関係あるの?」
「未確認飛行物体の発する光が、ある特殊なユリに当たると虹色に変色することが確認されていてね、もしもあの公園の中で虹色のユリを発見したら、UFOが飛んだんだって分かるんだそうだよ」
 まじめな顔をして言うので、
「へえ、すごいじゃない!」
 サクラがつい真に受けた後、
「ああ、すごいよ。大変信頼できるガセネタによるとだけどね」
 と言う。
「ああ、しまった、やられたあ」
 バス停に立って「公園行き」のバスを待ちながら、二人は声を出して明るく笑ったのだった。その後、バスに乗り、二人掛けのシートに座ってからも、タツヤはいろいろな話をしてサクラを楽しませ、単調な道路を走っていても全く退屈はしなかった。二十分ほど乗り、そろそろ終点の公園に着くという頃になって、
「実は、こんなもの持って来たんだ」
 と、タツヤはリュックから手のひらほどの袋を取り出した。
「なにそれ?」
 手渡されてみると、チューリップの写真が貼ってある袋で、中に球根がいくつか入っているようだった。「どうするの?」
「これね、こっそり植えるんだ」
「まじで?」
「うん、まじで」
 先ほどまでは大人っぽく感じさせるタツヤだったのに、急に子どものようにいたずらっこのような表情を見せて笑う。
「叱られないかしら」
 サクラが袋を触りながら言うと、
「大丈夫さ、咲くのはずっと先のことだし、自腹で持って来た球根を植えたからと言って米軍から訓戒処分を受けるってことはないと思うよ」
 タツヤはさらに目を細めて笑った。
 ボランティアの集合場所に行くと、近所の婦人会らしき集団や小学生たちが集まり、その輪の真ん中に黒い犬を連れた腰の曲がった年寄りの男がいて、ボランティアの人たちを取りまとめていた。黒い犬は地面にぺたりと寝そべり目を閉じ、時々尻尾をペタリペタリと動かす程度で人を恐れたりはせず穏やかな様子だった。老人は、集まった人たちを一塊ずつに分け、ユリの球根が入った木箱を配りながら植え方の説明をしていた。コピー用紙に印刷をした公園の地図をポケットから取り出し、蛍光ペンで「君たちはこの辺りね」と言いながら丸を付けて渡している。受け取った人たちは「どこどこ、どの辺り?」などと賑やかしく言いつつ歩き出して、それぞれの場所に向かっているようだった。
「さて、君たちは……」
 老人はタツヤとサクラの顔を見て言った。「二人で植えるかな」顔を皺くちゃにして笑う。
 タツヤとサクラは目を見合わせた。サクラは老人が恋人同士と間違えているのだろうかと急に恥ずかしく思えはしたけれど、無碍に否定することがタツヤに悪いような気もして黙った。タツヤの方も何も言わず、ほんの少し顔を赤らめてうつむいていた。
「じゃあ、このスカシユリの球根ひと箱、えっと、この辺りに植えてくださいな」
 しんとしてしまった二人を励ますように老人は大声で言った。地図の端の方に丸を付ける。「駐車場の横辺りにね」
 一通り植え方を聞くと二人は歩き出して、指定された場所に行った。ほとんど人はいない。他の集団から少し離れた場所を老人は指定したのだ。目安として紐で囲いをしてある場所に二人で入ると、それぞれリュックから軍手とスコップを取り出して準備をして、ある程度柔らかくしてある土の上に一定の間隔で球根を置いていった。
「そして、これはここに」
 タツヤはユリの球根を配置した真ん中に、持って来たチューリップの球根を置いた。
「真ん中? 目立つんじゃない?」
「大丈夫さ。赤いチューリップだけど、ここに植えたのはスカシユリだから、きっと同じ四月頃に咲く。チューリップが黄色いスカシユリに囲まれて目立たないさ」
 受け取ってメモを見ると確かにそう書いてある。
「ほんとだ。じゃ、バレないね」
 顔を見合わせて笑った。そして、ひとつずつ丁寧に植えながら、
「私、卒業する頃に、実はこの公園の近くに引っ越すの。両親が家を建てたのよ」
 とサクラは言った。
「そうらしいね」
 タツヤは言った。
「知ってたの?」
「うん、ユウタが言ってた」
「ユウタって、山川ユウタ?」
「そう、テニス部の」
「どうしてユウタが知ってるのかしら?」
「さあ」
 冬になる前の親和的な陽射しが土の上に落ちている。ユウタの話が出てからは、二人ともなんとなく黙り込んでしまい、黙々と植えていると空から飛行機の飛ぶ音が聞こえてきた。米軍機らしい。少しずつ近づいてくる。
「ここは米軍基地が近いんだね」
 手を止めて、上を見たタツヤが言った。
 サクラも飛行機を見ようと見上げると、小さな蜂が二匹、羽音をうならせながら二人の間を飛ぶのが見えた。「わあ、蜂」のけぞると、余計にサクラの方にまとわりつく。
「いやだ、なによ、あっち行ってよ」
 慌てまどうサクラを見て、面白そうにタツヤは声を出して笑い、
「大丈夫だよ、大げさだな」
 と言いつつ、それでもサクラが嫌がっているのを見て、リュックからタオルを取り出し振り回して追い払った。しばらくまとわりついた蜂も、諦めたように二匹が絡まり合いながら遠ざかり、植えてある樹木の緑色に溶けてどこを飛んでいるのか分からなくなった。
 蜂がいなくなった頃には、米軍機が随分と近づき、いつしか二人の真上辺りに来て、轟音を浴びせていた。二人は手を止めて見上げ、蜂のようには追い払えないのを感じると、サクラは眉間に皺を寄せてタツヤの方に近寄った。
「空襲警報が出たわけでもあるまいし」
 タツヤは笑った。二人で飛行機の遠ざかっていくのを見送りながら、言い足した。「でも、なんだか、飛行機の音、怒っているようだな」
 米軍機が行ってしまうと、サクラは元の位置に戻って再び球根を植え始めた。スコップで深すぎない程度に土を掘ってポトンと入れる。しばらくは、二人とも無言で植えた。
 タツヤはいよいよチューリップに土を被せようという時になって
「この場所、覚えておいてよ。もし、春に来たら、チューリップ咲いたかどうか確かめておいてよな」
 沈黙を破り、サクラも作業の手を止めてタツヤの方を見ると、
「うん、私も土かぶせるね」
 手伝った。「咲くといいね」顔を見合わせて笑った。

(あれから五年もたったのか)
 都心に向かうバスが停留所に到着した。列の最後にいたサクラが乗り込んで窓際の席に座ると、プシュンと音を立てて発車する。ゆっくりと走り出すバスの中で、車窓を眺めながら、タツヤと植えたチューリップのことを考えた。
(咲いたのかな。私、すっかり忘れてたけど)
 バスは公園行きとは反対側に向かって走っている。これから会社に向かうのだ。
(あの時が、子ども時代の終わりだったのかしら)
 こっそり植えたチューリップは、子どもっぽい悪戯の最後だったように思われてくる。タツヤとは、あの後、学校で会っても特別仲良く話すこともなく、同窓会などで顔を合わせても、二人で植えたチューリップのことを持ち出すことはなかった。タツヤは今、どうしているかな、連絡をとってみようかなとも思うし、そのままにしておきたい気もする。
 バスはゴトンと揺れて左折をすると高速道路に入っていった。乗客たちは朝なのに半分以上は眠り込み、エンジン音とアスファルトをこするタイヤ音だけが車内を満たした。
 サクラは揺られながら目を閉じて赤いチューリップが咲いているところを塑像する。黄色いスカシユリばかりが植えられた一画で、それは場違いを恐れずポッと咲いている。スカシユリがくるんと花びらを外側に開いている中、チューリップは入り口を閉じるようにつぼんで淡々と風に揺れている。時には蜂が訪れて花びらの中に入りこもうとするけれどツンと拒んでいる。諦めた蜂は大量に咲き乱れているスカシユリに誘われて離れていくものの、チューリップがやっと満開を過ぎハラリハラリと花びらを外していく時になって、再び戻り、熟れ堕ちる直前の花粉をついばんでいく。
(お母さんの黄色い花は、ユリなのかしら、チューリップなのかしら)
 誰か大切な人からもらった一輪の黄色い花を手にして微笑んでいるハトコの、化粧をすることもない顔が思い浮かんできた。十七歳だったサクラがタツヤとこっそり植えた赤いチューリップと、どこか似ているような気がした。これからどうなるわけでもない。だけど、胸の中央にそっと咲いた花。
(家事だけやってるなんて、つまらないんじゃないかって思っていたけど、もしも大切な人からもらったのだとしたら……)
 サクラはハトコだけの時間について想像する。(大切な人が誰かは分からないけど)
 薄い輪郭を持った時間が浮かんでいるように思った。
 窓の外の景色を見ると、防音壁や生垣、非常用電話など延々と変化のない風景が流れていた。昨日も見たし、明日も見るだろう風景だ。それでも今朝は心の中に、タツヤと植えた赤いチューリップが浮かび、その上に、ハトコの部屋に灯った黄色い花の姿が重なる。 
 心に咲く花が入れ代わり立ち代わりしながらバスの車窓に映り込むように思えた。(了)》

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