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長編小説 コルヌコピア 4

一章 夢の承認 

1 記憶の底から

 月尾チェルナ、もうすぐ六十歳。
 あの日見た鳥のことは、すっかり忘れたままでいる――。

 *

 その日、チェルナの勤務する博物館では市民向けのレクチャーが行われることになっていた。
 担当する博物館員はそのレクチャーの中で、南東アラスカに残存するトーテムポールについて語るつもりでいるらしく、二階の倉庫に保管しているレプリカを講堂に出しておくようにと、チェルナに頼んだ。

 ――珍しいわね。

 博物館員がこれほどまでに市民レクチャーに力を入れるのを見たことがない。数枚の画像をプロジェクターで映し、レジュメを一枚配る程度で終わらせてきた。
 長い間、そのトーテムポールは仕舞われたままだったのだ。

 ――きっと、埃だらけよ。

 チェルナはちらりと壁時計を見て、椅子から立ち上がった。定刻よりも早めに倉庫から取り出し、彫刻の隙間に溜まった煤を掃い、場合によっては亜麻仁油で磨いておかなければいけない。

 さっそく執務室を出て、エレベータに乗ろうとしたところ、表玄関から続く重厚な石階段の中程辺り、少し広くなった踊り場の上に蜜柑色の陽だまりが落ちていることに気付いた。西側にあるハメ殺しのドーマー窓からひと雫だけ射し込んでいる。
 少しの間、エレベータのボタンを押す手を止めたまま、チェルナはその光を惚れ惚れする思いで眺めた。長年の職場であり、当然、何度も通った通路であり、何度も目にしている。それなのに、なぜかその日、初めて見る思いがした。
 外側にあるドーマー窓の桟にでも止まったのか、床に落ちた温かな蜜柑色の陽に鳥の青い影が落ち、幻燈の如くゆらりと揺れた後、憧憬を一瞬で消し去る勢いで慌ただしく飛び立っていった。
 また、のどかな蜜柑色だけが滲んでいる。

 ――なんだか瑞々しい光。

 チェルナは自身があと少しで六十歳になることを思った。
 この建物の中で四十年近く過ごしたことになるが、これまで、壁や柱、窓の桟、彫刻の施された扉の随所に映し込まれる時間毎の面影に一度も飽きることはなかった。たとえ仕事の方にはすっかり興味を失ってしまっていたとしても。
 天井を見上げると、クリスタルの装飾品がふんだんに施されたシャンデリアがスペクトル光線を放って煌めいている。
 その光を体内に取り入れようと大きく深呼吸をしてから、急にエレベータに乗るをやめて、石階段を上り始めた。履き慣れたヒールの靴底が静かな建物の中で固い音を立てていく。

 ――あの陽だまりを踏んでみたい。

 近付いていくと、窓から差し込む光の上には細かな粒子が舞っているのが見えた。

 *

 レクチャーの為にレプリカを出しておくようにと頼んだ博物館員はもうすぐ七十になろうとしていて、チェルナにとって、その建物と同じように長い月日を共にした恋人だった。
 恋人? いくら思い出そうとしても直接そのように呼ばれたことはない。だけど彼は夫と呼べる存在でもなかった。博物館員には妻と三人の息子と一人の孫がいるのだから、間違いなくチェルナにとって彼は、夫以外の存在だ。
 特に不満はなかった。そもそも妻と呼ばれるよりも、むしろそれ以外の何かでいたかったのかもしれない。この背徳的な関係について誰にも話さず黙ってさえいれば、きっと死ぬまで終わりを迎える事などないのだから。
 そもそも終わるための、はっきりと名付けられた関係が存在しなければ、恋が終われば友人となり、同志となることができる。
 その方がずっといい。チェルナは誰かに卑怯と言われようとその役回りを降りるつもりはなかった。それほどその博物館員を愛していたとも言えるし、逆に言えば、いっそ別れた方がましだと思えるほどの苦痛を帯びた強い思いがなかったとも言える。
 実際にはそのどっちなのだろうと悩んで、かつて、まだずっと若かった頃、一度だけその逡巡を親友に話したことがあったが、思いっきり平手打ちを食らわされた上に、「悪魔!」と叫び号泣されてしまったので、それ以来、誰にも打明けることはなくなった。後で気付いた事だったが、どうやらその親友はパートナーの浮気に悩んでいたらしかった。
 あの日、号泣する親友を見て確信した。人は誰かに思いを話さなければ悩むことなんかない。言葉にして話したりするからむしろ悩むのだ。そして悩みの種になりそうな結婚なんかよりもむしろ、博物館の建物のように堅牢なこの関係の上には、時々落ちるあの蜜柑色の陽だまり程度の感情が通り過ぎていくだけだ。誰にも言わず黙っていれば、血や汗、涙が滲んで汚れたりすることはない。一瞬心をざわめかせる陽だまりの色は、ひょっとして誰かの幸福? だとしても、それならいっそ、きっと幸福などというものは、あの陽だまりのように触れることのできない、幻想的なものでしかないのだ。

 *

 チェルナはもうすぐそこに到達する。
 かつんと音の響く靴底で蜜柑色の陽だまりを踏みしめた。

 *

 トーテムポールのレプリカが保管されているのは文書資料室奥の立体物保管エリアで、重い扉の先は完璧な湿度と温度に調整されている。
 様々な生き物の骨や毛皮、羽根、あるいは剥製にされた兎、小さな昆虫の標本もあれば、大きなザトウクジラの全骨格もあり、何年もここに居るチェルナの眼にさえ全てがレプリカに見えるのだが、もちろん本物もある。未だに真偽が未確定のものもある。
 真偽不明と赤インクで書き込まれたカードのある棚の前でチェルナは立ち止まり、”ナウマン象の鼻の骨”とタイピングしたタグシールを貼った大きな引き出しを眺めた。

 ナウマン象の鼻になんて骨があるのかしら。
 真偽不明? 
 逆に真偽の明確なナウマン象の鼻の骨なんて存在する? 
 いっそ誰かがこっそり作って博物館の倉庫に潜ませたと言えないかしら。
 そんなことがある? 
 絶対にないとは言えない気もする。

 タグの文字を人差し指の爪でそっとなぞった。
 つんと鼻を突く防虫剤の匂いがする。レプリカであろうがそうでなかろうが、定期的に係員が中身を点検しながら、棚や引き出しに噴射して回るのだ。
 黴と薬剤の匂いが混ざり合い、その匂いと共にぴたりと流れの止まったこの空間は、ここにあるもの全ては決して軽々しくはない、触れる事すら憚られる気高いものだと信じさせてくれる。それもここまで極まれば、どこか、わざと演出されているかのようにさえ思えた。

 ――だけど、この匂い、演出力がむしろ嫌いじゃない。

 チェルナは鼻孔をわずかに細めて香りを嗅いだ。
 レプリカではないとされている中には、ホルマリン漬けにされた得体の知れない生き物の脳や、彼の地で出土したものの地上の常識では素材が特定できなかった土器や石器のようなものもある。
 チェルナは博物館の職員であるにも関わらず、それらには一度も触れたことがないどころか、目の前に取り出してじっくりと眺めてみたこともない。もしかしたら宇宙開発事業で発見された極秘の保管物なのかもしれない。
 でも、だから何? 初めて見た時には畏れたり興奮して眠れなくなったりしたものだったが、保管物に関しては今ではなんとも思わなくなっていた。
 もはや大した敬意も払わないので、やる気にさえなれば、ホルマリン漬けの硝子容器を平気で床に叩き割ることだってできそうだ。もちろん、そんなことをすれば逮捕されるだろうから絶対にしない。
 それに、万が一、魔が差してそんなことをして、いつも着用しているスーツの滑らかな手触りと光沢のある高級感が名実ともに失われるのは困る。クルミ色の上品なスーツは背の高いチェルナによく似合って、年を重ねても脂肪の少ない身体のほどよい起伏を見事な塩梅で包んでいるのだから。内側に着ているノーカラーのブラウスも絶対に汚したくはない。ひんやりと肌に貼りつくシルクの質感が仕事中でさえ優美な気分にさせてくれる。首元にしている控えめなパールのネックレスはかつて博物館員から贈られたもので、たとえ彼がはっきりとそれを凝視しなくても、ちらりとだけでも目に入りさえすれば、チェルナの感謝と親愛の気持ちが伝わるに違いない。《私はあなたを訴えたりはしない。》パールは小さな伝言をサブリミナルにでも彼に送っているはずだ。《私は何も壊したくはない。》
 チェルナはこうやって、隅々にまで細心の注意を払って、心地よい居場所を作り上げてきたのだ。

 *

 博物館員から出しておくようにと言われたトーテムポールは間違いなくレプリカだとわかっているもので、資料室の一番奥に数体立ててある。かつて南東アラスカの森の樹木に彫刻されていたトーテムポールを隈なく撮影した写真家がいて、それをもとにプロの彫刻家が作成した。ひとつは実際に博物館の中庭の樹木に彫刻してあるのだが、それ以外はレクチャー用に持ち運びができるように製作された。
 トーテムポールの立てられた部屋の一画に足を踏み入れると、まずは舌を出した妖怪の彫刻が出迎えてくれる。それを見てチェルナは思わず笑いそうになる。その舌で人間の子供の頭を舐めている。カラスもいる。そのカラスの上にクマらしきものもいる。
 現地で撮影された写真から採寸し、現物とそっくりになるよう忠実に彫られたレプリカは、他所の美術館や町の公園の入り口に設置されている美術品としてのトーテムポールとは違って、表面をヤスリで擦ってはいない。ニスも保存に必要なだけの最小限のもので、彩色も艶もなく、ハイダ族が森に生えている樹木に直接彫った状態が丁寧に再現されている。彫刻家が作成した当初から時間が経って乾燥による変形が現れ始めているのも、むしろ本物のトーテムポールの存在を忠実に伝えているはずだ。彫刻は樹木と共に生きて老い、いずれ枯れる。
 チェルナは自身が彫刻したのでもないのに実に誇らしい気持ちでそれを眺め、その日のレクチャーで使うのは数体あるうちのどれにしようかと、ひとつずつ脇に取り出して光に当てて眺めた。欠けなどがないかと凝視し、丁寧に確かめているうちに、ふと、一画のもう少し奥、祭祀用の道具類が保管されたエリアに視線が導かれていった。小さな、しかし突き刺すような光が差し込んだからだ。

 ――御面かしら。何かの貝殻細工が光ったの? 

 チェルナは目を細めて奥をじっと見た。すると、再び、細く鋭く何かが星のように光っている。

 ――何かいる? 

 まさか。そんなはずはない。ここはレプリカと、生命の遺物だらけの資料室なのだから。

 屹立しているトーテムポールの間をすり抜け、光るものへと向かった。日暮れの空にひときわ明るく灯った金星のように強く輝いて、しかも小刻みに震えている。

 ――生き物なの? 

 靴音を立てないようにそっと近づいていくと、そこには一匹の蜜蜂が居て、積み上げられた箱に施された宝石の上に止まろうとしていた。光っていたのは室内灯を反射したジルコニアで、蜜蜂の忙しい羽ばたきの影が明滅させていたのだ。
 それにしても、こんなところに閉じ込められた蜜蜂。どこから入って来たのだろう。資料庫の窓は常に閉じられていて、扉も堅い大理石の建物側にしかない。ジルコニアダイアモンドの光が出口であると勘違いして、羽根を震わせて宝石の周囲をしつこく飛んでは突き当たり、苦しそうにもがいていた。
 じっと見つめていると、蜂はチェルナが着けていた水性香水の花の香りに反応したのか、頭上を狂ったように八の字を描いて飛び回った後、胸元に向かって突進してきた。チェルナは咄嗟に、傍に立てかけてあった長い柄のはたき箒を取り、やみくもに振り回して蜂を追い払おうとしたが、いったん離れたかに見えても間を置かずに再び襲い掛かってくる。
 小さく悲鳴を上げ、持っていたはたき箒で顔を隠してしゃがみ込んだ。しんとした室内では、羽音がことさらに大きく聞こえ、とうとうチェルナの後ろ髪に止まったのがわかった。ひゃっと、いきなり立ち上がった瞬間、持っていたはたき箒の柄が細長い軸で立つコートハンガーに激突して、ハンガーは掛けてある作業用衣服や手袋ごと箱の上へとなぎ倒された。

 ――あっ、いけない! 

 蜜蜂は大きな音に驚いたのか、ゆっくりとチェルナから離れ、トーテムポールのある部屋の方へと飛び去って行った。幸い、箱は丈夫な石の素材で作られているせいか割れることはなく、倒れたコートハンガーを押し戻すと何事もなかったかのように鎮座していた。

 ――ああ、よかった。

 よく見ると、箱の側面にはレース状の透かし彫りが施されている。そこから甘やかな乳香の香りが漏れていて、どうやら蜜蜂はその香りに惹かれて近付いていたようだった。

 ――乳香なんてミイラみたい。

 何が保存されているのだろう。透かし彫りの隙間から中を覗き見ようとしたが見えない。箱には鍵穴が付いているものの、どうやら鍵が掛かってはいないらしく、蓋をゆっくりと持ち上げるとオルゴールのごとくぱっくりと開いた。より一層、熟した乳香が強く香り始める。
 中には柔らかな羊毛が入っていて、その上に人間の子供の頭くらいの、半透明のとんがり帽子の形をしたものが置いてあった。先がホイップクリームの形でつんと尖っている。
 
 ――これは。

 チェルナは一瞬、脳内に軽い地震が起きたように感じた。
 自分が何を見ているのかがわからなかった。
 わからないが、見たことがあると思った。

 ――あ、ひょっとして鳥の嘴? 

 すっかり忘れていた。
 子供の頃に見た、庭の木に止まった鳥のこと。
 嘴がエメラルド色に煌めく、そして何かひび割れのようなものが浮かび上がって文字を照らし出す、あの嘴。
 目の前の、円錐形をした半透明の物体を見つめているだけでも。八歳の頃の感情が蘇って心臓が高鳴ってくる。

 ――あれは夢ではなかったのか。

 これが本物であれば、あれは本当にいる鳥だったのだ。
 チェルナはコートハンガーに掛けてある作業用手袋を嵌めて、その嘴様のものをそっと持ち上げた。
 軽い。まるで薄い鼈甲飴で出来ているかのようで、強く持つとすぐにでも割れそうだった。灯りに透かして見ると、内側から何か楔型文字のようなものが浮かび上がってくる。

 ――やっぱり。間違いなく、あの鳥の嘴だ。

 チェルナははっきりと確信した。封印された記憶の奥底から、あの一瞬の出来事が思い出されてくる。
 そして壊さないように丁寧に元に戻し、分類としては一体何なのかを確かめようとして、箱の外側や内側に貼られているはずの表示を探したが、どこにも見つからなかった。もしも目下調査中で分類や名称が不明なら、不明と書いたカードが差し込まれているはずだがそれもない。

 ――どういうこと?

 そうしているうちに、再びあの蜜蜂が近づいてくる羽音がしたので、チェルナは慌てて箱に蓋をしてその場を離れ、トーテムポールのある所に戻って行った。

 トーテムポールに関する夜のレクチャーは満席で、博物館員は最初からいつになく上機嫌だった。
 クロード・レヴィ・ストロースのトーテミスムに関する考察を引用し、南東アラスカで本式のトーテムポールを撮影した写真家の作品を紹介する。講義の途中で博物館所蔵のレプリカを補助員に運ばせ、広い中庭の小さな森の一本にも彫刻が施されていることを示す写真をスクリーンに映しながら、「共同体というものが人間社会だけではなく自然にも及んでいることを実際に樹木に刻み込み再現することで、その信仰を保存しているのだ」と言った。現物を持ち帰って物質的なものだけを残すのではなく、そこにあるアイデアだけを学んで自身の地で再現する。依然として現地の強い文化的祈りは不足しているものの、テレパシックな情報の授受機能として、それらの記号配置は有効に働いていると力説する。
 講堂内に反響するマイクの声を聞いた聴講生たちは静かにうなずき、メモを取り、時には称賛めいた溜息をした。
「文化的な背景がどうであったとしても、また、人々が気付いていようがそうでなかろうが、自然物は人間のふるまいに関心を寄せて、恐れたり喜んだり、時には嘲笑している」というのが、日頃から博物館員の好む主張だった。

 レクチャーが終わってトーテムポールの片付けをチェルナに頼む時、博物館員は講義の成功で大いに興奮したのか、職場であるにも関わらずいつになく至近距離まで接近して肩に触れ、「本当はもう少し突っ込んだ話をしたかったのだがやめたのだ」と耳打ちした。
 整髪料のシトラスの香りと革靴を磨くクリームの匂いが混じり合って、シャツの固い襟元から暖かく漏れ出していた。彼の愛用しているカフェオレ色のツイードジャケットは博物館員にしか似合わない。商談をするビジネスマンでもなく、建物の構造を点検しては修繕する技術者でもない。ワイン色のネクタイも長年の定番で幅が広すぎて時代遅れにも思えるが、チェルナにとっては見慣れた風景として、ほっとさせられるかけがえのないものだった。
 どうしてあんな野暮ったい男にいつまでも魅かれるのかと友人に聞かれたことがあるけれど、その時すぐには答えられなかった。今この瞬間なら直ちに答えられそうだった。こんな拠り所のない人生であれば、むしろ野暮でさえある”変わりそうもないもの”に憧れずにはいられない。

 ――逆に、世の奥様方が華やかな男に憧れるのと同じことだわ。

 チェルナは捻じれたネクタイを見て博物館員に対する愛しさで胸がいっぱいになり、
「今日は特に素晴らしい講義でした」
 これ以上ない、母親みたいな笑顔を彼に向けた。
 彼女の表情と言葉にも満足し切ったのか、「後で研究室の方に来るように」と博物館員も惜しみない笑顔を見せて目配せをした。

 チェルナは自分の背丈ほどもあるトーテムポールを抱えて資料室に運び入れ、一息ついたところで、再び嘴の納められた箱の置いてある場所へと足を踏み入れた。
 今は蜜蜂はいない。
 改めて部屋の中を見渡すと、そこにはいくつかの箱が積載してあるが、ほとんどは木材か、頑丈なものでも鉄製で、白く艶やかな大理石で創られているのはその箱くらいだった。

 ――これはいつからここにあるのかしら。

 赤ん坊の入るゆりかごほどの大きさのそれを眺める。なんどかトーテムポールを準備するように頼まれたことはあったが気付かなかった。透かし彫り以外には目立った装飾はなく、見ようによっては墓石のようでもある。箱の蓋の上部に掌を当てるとひんやりとして、なぜか死を思わせた。

 ――あの時、あの鳥、死んだのかしら。

 子供の頃に見た鳥の姿を思い出す。絶滅でもして、それで嘴だけが保存されたとか。
 もう一度、箱の中を見たい。
 さきほどと同じように蓋を持ち上げようとしたが、今度は開かなかった。

 ――どうして? 

 鼓動が少し早くなる。どうやっても開かない。

 ――どういうこと? 

 どうやら、鍵が掛かってしまったらしい。

 最初にトーテムポールを取り出すためにここへ来たのが午後五時で、今は午後八時半。この三時間半の間に誰かが部屋に入って透かし彫りのある箱に鍵を掛けたのだろうか。
 この資料室自体の鍵は通常博物館員が持っていて、チェルナ自身、その日、博物館員から直接鍵を預かり、トーテムポールを取り出した後はレクチャーの間中ずっとスーツのポケットに入れたままだった。
 資料室の合鍵がないわけではないが、それは出入りし難い館長室の金庫に入っている。一般職員にしたらガラクタにしか見えないものであっても、研究者にしてみれば目をむくほどの貴重なものが保管してあるのだから厳重に管理している。もしも館長室から合鍵を持ち出して気安くこの資料室に入り込み、嘴の入った石造の箱の鍵を開けたり閉めたりすることができる人が居たとしたら、とても限られた範囲のことになる。

 ――館長自身? 

 残念ながら、館長はここしばらくはバリ島への出張で姿を見ない。館長の秘書もそう。

 ――一体誰が? 何のために? 

 チェルナはコートハンガーから懐中電灯を取り外して、石造箱の透かし彫りの中を照らし覗いてみた。間違いなく、さきほど見た例の嘴が入っている。そっと顔を近づけると、乳香の香りも漂っている。それにしても、この箱自体の鍵はどこにあるのか。誰が持っているのか。
 そう言えば、あの蜜蜂はどこから入って来たのだろう。窓はほとんど閉じられたままで開かないし、資料室のドアは固い博物館へとつながっているのだから、一匹だけの蜜蜂が玄関から迷い込んで扉から侵入し、ここまでたどり着くというのも信じ難い気がする。チェルナは箱の積んである部屋の中を調査するかのようにゆっくりと歩き始めた。

 ぎっしりと箱類の積みあがった室内は通り道が狭く、奥へ行くほど埃が積もっていて、職員であっても、こんなことでもなければ誰も中へ入ってみようとも思わないだろう。大切にしているクルミ色のスーツの柔らかい生地が少しでも積載物に触れたら、黒い煤が沁み込んで永遠に取れない汚れが付着してしまいそうだった。
 それでも、チェルナは眉間に微かな皺を寄せ、ハンカチで鼻と口を押えながらさらに奥へと入って行った。
 材質や形、大きさは異なるものの、そこにあるのは箱ばかりだった。鍵付きのものはなく、どれにも分類コードや名称、不明の印刷されたタグが貼られている。不明のものの中には、素材としては未確認だが人工的でわかりやすい特徴的な装飾が施されているタピストリーや、X線を使って調べたところ古代の樹木と石材を用いて作られた星儀様のものや、大きすぎる人間の手の骨などがある。
 どんなに奇妙なものであったとしても、「不明」と分類さえしてあれば、チェルナにとっては何も恐ろしくはなかった。
 埃と保存料の匂い。
 しんとした空気。
 寒々とした中をずっと行くと、とうとう最奥にある壁に突き当たり、そこで小さな音がしているのを聞いた。

 ――何の音?

 積み上げた箱に被せてある新聞紙の隅が震えて、わずかにかそこそと鳴っている。

 ――虫? ひょっとして、蜂? 

 チェルナは身構え、身体中の鳥肌が立った。どんなものでもひとまず箱に入っていればどうにか耐えられるが、箱の外に出て動き回るものは蟻一匹でも身の毛がよだつ。持っていた懐中電灯を音のする方へと向けても、虫らしきものはいない。もしも羽根のあるものが居たら、灯りに刺激されて飛び出してくるはずだ。

 ――何もいない。じゃあ、新聞紙はなぜ震えているのかしら。

 チェルナはそっと手を伸ばし、震えている新聞紙に触れた。

 ――ああ、風だ。

 弱い風が手に触れた。風が入ってきている。
 そこで、積んである箱をひとつずつ降ろして横に除けていくことにした。風の通り道を探す。
 ひとつ降ろすと風が強まる。通風孔があるのか。だとしたら、ここから蜜蜂が入ってきた? またひとつ降ろす。またひとつ――。
 すると、徐々に、鉄柵状の蓋が姿を現し、やはりそこから風が入っているのだとわかった。あまりに箱が積まれているので風はほとんど遮断されていたのだが、虫が入る程度の隙間はあったらしい。
 全ての箱を移動し終えてよく見ると、通風孔の先は建物を上下に貫通する通路になっていることがわかった。地上から屋上まで、ひとつの梯子が設置されている。

 ――蜜蜂だけではなく、あの箱に鍵を掛けた人もここから入った? 

 それにしては通風孔は小さすぎる。30センチ角程度の正方形で、どんなマジシャンでも通り抜けることはできないだろう。

2 現実化する謎

 一旦、博物館員の研究室に戻ると、彼が講義の中で言わなかった「もっと突っ込んだ話」についてチェルナは聞かされることになった。話の途中で、何度も「どうかしたのか」と聞かれ、「いいえ」と答えたが、博物館員は「何か気になる事でもあるのか」としつこく言う。
「今夜の君はどこか虚ろな気がするが」
 ずらした銀縁眼鏡の上からチェルナを覗き込んだ。
「素晴らしい講義だったから、頭の中がぼおっとしてしまったのかもしれません」
 チェルナは咄嗟にかわした。
「大袈裟だね。どの辺りが素晴らしかったのかね」
 博物館員はずれた眼鏡をぐっと戻した。
「全てです。何もかも。あらゆるものが」
「本当は、全ての生物を覆っているひとつのエーテルについて語りたかったのだ」
「一般の聴講生の興味に合わせて、わかりやすいところまでをお話になられたのですね」
 博物館員のネクタイの折り目を見ながら、チェルナは柔らかく微笑む。
「動物でも、生殖の為だけに生命のつながりを求めるわけじゃない」
 男はそう言って、チェルナの方に一歩近付いた。
「じゃあ、なんのために?」
 ふと口をついて出る。同じ言葉を何度も聞いてきたが、その理由についてチェルナから質問をしたのは初めてだった。
「なんのため?」
 男は近付こうとした足を止めた。
「そうです。なんのために、つながりを求めるのでしょう」
 ふむ、と博物館員は言い、眼を天上に向け、しばらく黙り込んだ。
 その静寂を五秒ほど聞いた後、チェルナは「今日はお疲れさまでした」と笑顔を向け、そっと離れて、「鍵は引き出しに戻しておきます」と博物館員の机の引き出しを開けた。見ると、鍵を入れるトレイの中に鍵がもうひとつある。前にはなかったはずだ。

 ――これも資料室の鍵? ひょっとして、無断で合鍵を作ったのかしら。

 チェルナは上目遣いで博物館員をうかがった。
「どうしたの?」
 チェルナの目線を感じた男は薄い笑顔を浮かべた。
「いいえ、何も」
 そう言うと、男にはわからないように、チェルナは持っていた鍵をその置いてある鍵の下側に滑り込ませた。
 実はチェルナが戻した鍵は、館内の洗面所に設置されている掃除道具入れの鍵であり、資料室のものではなかった。

 博物館員がカシミアのロングコートを羽織ってストールを首に巻き「君はまだ帰らないのか」と尋ね、「資料の整理をしてからすぐにでも帰ります」と自然な調子で答えた時、なぜか最後のお別れをするかのように思えた。
 いつもなら暖かいはずの彼の表情が、その時ばかりは薄くどこにでもいる浅はかな他人のものに感じられ、さっきまで乗っていた二人の時計の針を降りて、隣にある別の時計の針へと乗り込んでしまったかのようだった。依然として時計と時計は隣同士にあるが、ひとたび文字盤を覆う硝子の表面が閉じられてしまうと、もう乗り換えることはできない。
 そして、博物館員は「息子の妻の誕生日パーティがあるのでね」と言い、先に部屋を出て行ってしまった。
 午後九時半になろうとする振り子時計を見ながら、こんな幸運があるものだろうかとチェルナは心の中で微笑まずにはいられなかった。
 展示物の管理や広報を担当する従業員もすでに帰宅し、博物館員とチェルナの二人だけが居残っている時に、彼がチェルナを置いて一人で先に博物館を後にしたことは一度もない。なのに、その日に限って、博物館員は「チェルナよりも早く帰宅したのだ。
 お疲れ様でしたと送り出した後、チェルナは広く固い博物館の中でたった一人になった。こんなことは初めてなのだ。他には出入り口の隅にある警備員室に当直の誰かがいるだけだ。どうにかしてもう一度資料室に入って、あの大理石で創られた箱の蓋を開けてみたい。
 そもそも、博物館員の机の引き出しにこっそり掃除道具室の鍵を入れて、資料室のものを手元に残したのは、いつかタイミングを見計らって、あの箱の中を見なければならないとまで考えていたからなのだが、まさか、さらに運よく彼がチェルナよりも早く帰宅するなんて。
 神の計らいとでも言いたくなる。

 デスク周りを片付けながら、石箱の中にあった半透明の嘴を頭の中に描いただけでも、ひょっとして、あの嘴と出会い直す為に何十年もここで働いていたのではないかと思えるほどだった。
 あれは一体どこから届けられたのか、いつからあの場所にあるのか。なぜ、不明と書いたカードすら添えられていないのか。
 ここでは不明指定かどうかさえわからないけれど、確実にあれを知っている。あれを見た時の少女時代の胸苦しさも蘇る。
 チェルナは居てもたっても居られなくなり、早々に片付けを切り上げ資料室へと向かった。

 二階へと向かう大理石の階段は暗闇に沈んでいた。出口までの廊下を照らす蛍光灯と警備員室前の赤いランプだけが光り、明り取りの窓もひっそりと息を殺している。
 チェルナは電灯を灯さずに階段を上り始めた。夕方の、トーテムポールを取り出す時の無邪気な心の華やぎは消え失せて、何もかもが堅牢で変化することのない建物に包まれていると思えたことがなぜか馬鹿らしかった。
 それでも、一歩ずつ、靴音を立てないように慎重に足を運ぶと、胸の奥のざわめきや不安は高まるものの、むしろ現実感のある感触が足裏に伝わってきた。
 この先どうなるかわからない。
 たったひとつの拠り所に思えた博物館員の暖かな笑顔が薄い闇の中に溶けて消えた後、この建物とチェルナ自身の存在にどんな意味があるというのか。
 つかみどころのない、不明瞭で行く先の見えない階段の途中で、ところが、むしろ沸々と蘇るものを感じた。

 子供の頃はいつもそうだった。両親はどちらも忙しく不在で、一緒に住んで居た祖母は祖母という以上に年老いて今にも消えてなくなりそうだった。親に放っておかれてかわいそうにと近所の人に言われることも多かったけれど、その常に無関心で置き去りにされた感じのする色合いこそがチェルナにとっては当たり前の日常で、悪意はないものの、どこにも若さらしきもののない祖母との暮らしそのものが、自身を賢明にし、安心させ、常に堅実さを選択する根拠になり得たはずだ。老女の感情の不動性のおかげで激しく叱られたこともなく、固く乾いていて安心できる殻の中で生きていた。

 ――堅牢なのはこの建物ではなく、私自身だった。

 チェルナは資料室のドアを開けて電灯を点け、夕方に訪れた時と同じように、ホルマリン漬けや剥製にされた獣や、骨格だけになった野鳥の横を歩き、トーテムポールのある角の、その先の部屋へと向かった。

 部屋の中では相変わらず埃と消毒液の匂いが充満していた。蜜蜂はいない。夜のレクチャーで主役を務めたトーテムポールのレプリカは役目を終えて静かに佇み、講義室ではいかにも生き生きとして見えたカラスの彫り物も、恐ろし気に見えた人間の大きな顔も、すっかり物質らしく生気を内側に仕舞い込んでいた。
 博物館員はつながりを求めていると言ったが、実際には求めなくても全てのものは既にひとつにつながっているのではないか。
 トーテムポールがいくつかの彫刻を重ね合わせて一本に仕立て上げるものではなく、一本の樹木を彫る事で創られているのは、最初からつながり合っていることを表しているはずだ。このつながりと、あのつながり。それはこうしてレプリカになって物質化されてしまうと別々のものだが、実際に森の中に生えている樹木の場合には土を介してトーテムポール同士は交流している。同郷、同族。樹木の葉として存在したとして、それが枯れて大地に落ちるまでの一瞬だけは孤立している。大地に到着すればまた、土の中に混じり込んで、同郷、同族の流れへと組み込まれていくのだ。

 トーテムポールのある場所までたどり着き、さらに向こう側の部屋を見る。あの奥に、石の箱があるはず。さっきは蜜蜂が居て、羽根の動きで差し込む光を明滅させたので呼び寄せられたのだった。チェルナは近付いていくに従って、胸の鼓動が高鳴った。

 ――あれをもう一度見たい。

 ところが、そこに辿り着いた時、石製の箱はなかった。
 チェルナの心は一瞬で凍り付く。

 ――どうして。ひょっとしてあの時、幻覚でも見たのかしら? 

 いや、幻覚ではない。様々な形状ではあるものの、箱という箱が積み上げられたその場所で、ちょうど石製の箱の置いてあった場所だけが空白になっている。ここにあったとばかりに、他の箱がその不在を証明している。そして、箱の置いてあったところだけは埃をかぶっていない。だからやっぱり、確かにあったのだ。確かにあったのに、無くなっている。

 チェルナはその場にしゃがみ込んでしまった。一体、こんなに短い時間で、誰が持ち出したというのか。

 ――いつのこと? 

 チェルナがトーテムポールを所定の位置に戻して資料室を後にし、扉に鍵を掛けて博物館員の研究室へと向かい、レクチャーに関する立ち話をしたのはほんの二十分ほどのことだ。彼が珍しく先に帰宅し、書類整理もそこそこに、ここに戻ってくるまでの間、一時間もないはずだ。そして、資料室の鍵はずっとポケットに入ったままだったのだ。誰かが別の合鍵を持っていてここへ入ったのか。
 薄暗い部屋の中、懐中電灯で残された箱の上を照らしてみると、石製の箱を引きずり出した跡が着いていた。さらに床を照らし出すと、うっすらと積もった埃の上に車輪の跡が残されている。チェルナがそれを追って歩いていくと、車輪跡はさっき覗き見た奥の通風孔へと続いていた。台車は左右にある箱をぐいと押しのけて通り道を開けつつ進んだらしく、先程よりは幅が押し広げられていた。そして、通風孔の前まで来ると、車輪の跡はふっつりと途絶えている。足跡はない。
 チェルナは天井を見上げた。ひょっとしたら、天井に外への抜け道があって、そこから台車を降ろしてどうにかして石箱を乗せ、クレーンのようなもので引き揚げたのかもしれない。

 ――だけど、そこまでして持ち去らなくてはいけないほどのものなの? 

 チェルナにしてみれば過去に見た幻影の鳥を思い起こさせる特別なものだが、あのセピア色の蝉の羽根を琥珀で固めたかのごとき半透明の軽い物質にどれほどの価値があるのか。
 名称もなく不明でもないもの。
 懐中電灯で天上を照らしてみたが、天板のどこにも穴があるようには思えない。
 がっくりと肩を落とし、チェルナはもと来た道を引き返した。そう言えば石箱の鍵は開いていたにも関わらず、いつの間にか閉じられたのだった。それも、ほんのちょっと目を離した隙に。そのことも忘れてはいけない。

 ――ひょっとして、何かが居る? 

 まるでチェルナの関心を引き出すかのように蜜蜂が現れ、一瞬だけ姿を現し、それは消えた。

 あの鳥は二度消えたのだ。
 子供の頃、庭木に姿を現して飛び去り、そしてたった今、嘴だけになって箱に収まったが、それも早々に消えた。
 そう言えばあの時、祖母はこういった。「おばあちゃんも子供の頃に見たことがある。チェルナも見てしまったんだね。そうか。だけど、あれを見てしまったら――」
 あれを見てしまったら。その先は一体何だったのだろうか。忘れていた謎が再び降りてきたのだが、少なくともひとつの謎は解けていた。

 あの日、あれを見たのは、夢ではなかったのだ。

(一章 了)

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