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解読 ボウヤ書店の使命 ㉕-11

 長編小説『路地裏の花屋』の読み直し。
 続きから。

―録音された内容 蓮二朗の話―
 ぼんやりしてしまって申し訳ありません。あなたとこうしてお茶を飲んでいて、急に思い出していたのは随分昔のことではありますが、大したことではありません。よくある「昔もこういうことがあった」というあの感覚です。デジャヴというのでしょうか。
 その時も、こうして男性とテーブルを囲んでいた。この部屋でもないし、こんな薔薇の入ったガラス瓶ではないけれど、何かがやはりテーブルに置いてあって、それを巡って二人の男が話をしている。それだけです。そんな光景がふと湧いてきて、あれはいつだったかな、誰だったかな、と思っているうちに、つい一瞬、目の前にいらっしゃるあなたのことを忘れておりました。
 あれは私がまだ子どもの頃で、その時部屋にいたのは父親、それともう一人は祈祷師。実を言うと私、生まれてしばらくは角膜炎を患って目がよく見えなかったらしく、幼稚園にも通えずにおりましたが、今では信じがたいことでしょうけれど昔は祈祷師が村に一人は隠されていたものらしく、呪術のようなもので目を治してもらったと聞かされています。
 さっき心に湧いてきた景色は、恐らくその祈祷師と父親が二人で話し込んでいる光景です。テーブルの上に置いてあったものは、何かの蓋つきの瓶のような気がしますが、それ以上は思い出せません。インク壺だった気もするし、祈祷師が恭しく届けてくれた目薬だった気もする。
 まあ、それはどうでもいい。ともかく、身内の間では、その祈祷師のおかげで、私はある日突然見えるようになったことになっているそうです。いえ、私自身はね、実を言うと目が見えなかったこと自体も今ではよく思い出せない。読み書きが少し不自由だったことは記憶に残っておりますから、きっとみんなが言う通り、ある時期は目が不自由だったのだろうと納得しているだけなのです。お恥ずかしいことで。
 祈祷師のおかげで目が見えるようになったものの、直ちに読み書きに精を出すというほどには回復しなかったらしく、両親も諦めて私を学校にはやらず、母方の実家である盆栽農園に預けて奉公させました。
 あなたは盆栽をお嫌いでしょうか。先程も申し上げたかもしれませんが私は大好きでして、隣の部屋には縁側を設けて小さな日本庭園風のものをこしらえ盆栽も育てております。三つ子の魂百までと申すように、正直に言うと、私はこんなに広々とした薔薇園よりもたった一鉢の盆栽の方に興味があります。いや、薔薇が嫌いなわけではなくて、盆栽に格別の思い入れがあるのです。その中でも特に楓。というのも、奉公先の盆栽農園で初めて好きになったのが、楓でありましたから。

 ちょうど夏の始め頃だったでしょうか、楓は葉が青々として、今から思えばですが、木も衰えることなど思いも及ばない若者のように誇らしく枝を伸ばしておりました。それまでに見たことのある松や梅はこぢんまりと鉢に収まって、それはそれで風流、いかにも盆栽らしく小さな木といった風情でしたが、その楓は盆栽というのにはややふさわしくない、あまり調わぬ野性的な風情をしておりました。そのまま拡大してしまえば、普通に野山に生えていそうに自然な姿をしていたのです。子ども心に、こんな盆栽もあるのかと思った。何よりも感動いたしましたのは、そのような木を真上からも眺められることです。自分が楓の上を飛んでいる蝶か鳥になった気分で木のてっぺんを見ることができるわけですから、ちょっとした興奮を覚えました。
 だってね、あの頃の自分自身と言えば、目が見えにくい、文字が読めないということで、子ども心に満たされない思いをしていたわけです。誰に言われなくても、きっと自分は他の人が普通に知っていることさえも知らないに違いないというような気がしていたし、丁稚奉公だと言うので、こら、れん―、こら、れん―とまるで犬のように始終呼びつけられるってわけでして、周囲よりも劣っていることが当たり前、それがなんの不思議もない当然のことと思い込んで暮らしていたわけです。
 しかし目の前の盆栽は真上から見下ろせる。私なんぞに全てをあからさまに見せてくれていたのです。それは、もしも、この世に盆栽なんてものがあることを知らない人ならば、どこかお城の塔にでも上ってみなければお目にかかれないものだと思いました。盆栽って凄いものだなと心に輝くものを感じましたし、そこで初めて王様気分というのを味わうことが出来たのです。
 本当だったら、あの年頃の子どもなんて模型の自動車を床に這わせてみたり、土産物屋で買ってもらったプラスティックの剣を振り回して遊んだりして、それなりに王様気分というのを味わってそのうちに倦んでしまうものでしょうけれど、私にはそんな記憶はどこにもない。気付くと、れん、れん、とお遣いに行かされておりましたから、おもちゃというものを持ったことが一度もない。いや、邪険に扱われていたわけではありませんよ。文字の読み書きも出来ないのでは将来困るだろうと言うことで、親戚一同でこいつをどうにか使える人間にしてやろうと、盆栽造りの教育をしてくれていたわけですからむしろ特別扱い。まあそれは言いすぎにしても、私にとっては一生使える技術を授かったわけですから、おもちゃよりもいいものを与えてくださったというのは本当のことです。
 何故か楓を挟んだ時には親方や女将さんとよく話をしたこともあって、その楓を特別に好きになったし、それ以来盆栽というもの自体を好きになった。自分はこれを仕事にするのだな、なんて、あれはまだ十歳かそこらだったと思うけれども、大人びた気持ちになったものでした。

 数年後、その楓は、木蓮という茶道家に見初められて納品することになりました。なんだか嫌でしたね。それまでは楓はあまりにも自然体だったせいか嫁入り先のないまま親方の家の玄関先に置いてあり、秋になれば紅葉してもみじになってくれましたし、冬になれば落葉して枝だけになり裸の姿を晒してくれました。私にしてみれば疑うことなくこの家の楓だし、ややもすると自分のものかもしれないと錯覚しておりました。売れなければ売れないほどに、自分だけがこれの良さを知っているのだと自負していたわけです。ところがね、木蓮は、「盆栽ならば季節ごとに根を切って大きくならないようにと造り込んでいるのだろうけれど、この木のしつらえは見事な野生、自然体」と何度も褒めちぎったのです。「できれば私の庵で次の茶会のお出迎え用にしたい」などと。
 彼が話す声を少し離れた資材置き場で聞きつけた時のことは忘れもしません。なんだか所々で高く声が裏返るような喋り方でして、必要以上にお世辞を言っているようにも聞こえる。私はそれまでやっていた土の調合の仕事をやめて、慌てて近くまで行って眺めると、楓を前にでっぷりと肥えた男が立っており、身ぶり手ぶりで褒めちぎっている。それが木蓮なのですけれども、あの時ちょうど五十過ぎくらいで、頭の毛はやや薄くなっている反面、顎にたっぷりと髭を蓄えており、ちょうど七福神の恵比寿さんを思わせる風貌でありました。その時着ていた着物は肌に沈み込んでいくような地味な墨色でしたが、動くと太陽に照らされて品のいいとも悪いとも言えない光沢が見えた。これまでには見たことのない、ややもすると玉虫色に光り出しそうな生地でして、しかも、その時は判別できなかったけれど、伽羅のような香りが焚き染めてありました。とにかく、その場所にそぐわないような、お仏壇の線香とは全く異なる艶やかな香りがした。そして左手には大きな緑色の、恐らく翡翠か瑪瑙のついた指輪をしておりました。
 男なのに指輪か、と子ども心に思いました。盆栽職人は男でも女でも土をいじりますから普段は指輪なんかしませんでしょう。当時は大きな石の着いた指輪をしているのを見たのは近所のお金持ちの女性くらいですし、私の居た環境では、どう転んでも男性が石の着いた指輪をしているところなど見ることがなかったのです。丁稚奉公の自分だけではなくて、盆栽園で働く人はみんな作業着で汗水たらしてやっていましたから、その異質な風貌はどこかいやらしく見えてしまいました。だって、木蓮の服装は土に跪いて働こうという衣装ではございませんでしたから。ええ、ええ、もちろん今ではわかりますよ。誰だって、何を仕事にしようと、それぞれに汗水たらしているのだということは承知しております。でもまだ十歳かそこらでしたし、何と言っても私だけの楓に目を付けたのだから、私は木蓮には初めから敵を見る視線を送っておりました。彼が何か言うごとに、持って行かれるんじゃないかと冷や冷やしてもいたわけです。
 そんな風に、睨み付けたり心配したりしながら成り行きを伺っておりますと、親方が、「お貸ししましょうか、茶会の時だけと仰るのなら」と言いました。ひょっとしたら親方も手放したくなかったのかもしれません。一時的に貸して、また手元に置いて、ずっと自分で手入れをしていこうと考えたように見えました。傍で聞き耳を立てていた私も、そうだ、それがいい、そうなればいいなと思いました。貸すだけならば私だけの楓を貸してやってもいいぞ、なんて思っていたかもしれません。でも、そうはならなかった。
「家にも庭師を雇っておりますから、よければお譲り頂きたい」
 木蓮がきっぱりと言って、正確な値段は忘れましたが、その時の親方が黙り込むほどの破格のものを提示したようです。一瞬黙り込んでいた親方が
「そんなにお出し下さるというのなら、お断りする理由はありませんから」
 と言うと、木蓮は手柄あったというように安堵した表情をして、
「それはありがたい」と言って指先でそっと楓の葉に触れました。
 それから親方に言われて、私が木蓮の家まで楓を持って行くことになりました。というのも、聞いてみると、彼の家は、普段から私がお使いとして土を買いに行っていた農家のすぐ近くにあったからです。金銭の受け渡しなどの商談が成立し終わると、親方は早速リヤカーに楓の鉢を乗せ、
「れん、これを引いて、この方と一緒におうちまで持って行っておくれ。お宅には上がらずにすぐに戻っておいでよ」と言い、木蓮に向かって、「丁稚のお供で申し訳ありません」と頭を下げました。

 私はいよいよ楓を手放すことが決まってしまったのかと憂鬱な気持ちになりながらも、最後のお見送りに付き合えるのならまだよかったとリヤカーの引手の内側に入りました。木蓮は、「れんくんと仰るのかな、よろしく頼みますよ」などと白々しく礼をしました。
 いや、白々しくというのも、楓を取られるという子どもの恨みがましい目線で感じたものでしてね、後で考えればそんなに嫌な人間というわけでもなかったのですが。
 白い砂利道を木蓮と二人で歩きました。真昼間という時間帯を少し過ぎた頃合いでしたでしょうか。夏でしたから砂利道は日に焼けて下からの熱気も暑いものでしたが、見渡す限りの田んぼの稲はすくすくと育って爽やかに見えましたし、風が吹くと波立つように黄緑の葉がさわさわと順倒しに泳いで目には涼しくも思えました。トンボが賑やかしく飛んで私たちにまとわりついたりもしました。
 しばらく無言で歩いた後、「手伝いましょうか」と木蓮が言った。「子どもに引かせて、大人がのうのうと横を歩いているのでは見た目がよろしくないではありませんか」と声を裏返しながら言い、リヤカーの後ろに回って形だけでも押そうとする。
「大丈夫です、そんなことをして鉢が転がってもいけないから」
 私はちらっと振り返り、恐らく笑顔も見せずに言いました。
「そうですか、じゃあ、お任せするといたそうか」などと残念そうに言って、木蓮はリヤカーの少し後ろを歩いていました。不機嫌な私に気を遣っている様子が感じられ、私は子ども心にもちょっと悪かったかなと思い、再び後ろを少し振り返って、
「これは楓です」と話しかけました。すると、
「ほお、もみじかと思いましたが楓でしたか」と言う。
「楓が紅葉するとそれをもみじと言うのです」などと私は以前女将さんから聞いたことを、さも自分の知識であるかのように言いました。少しでも楓の事は自分の方がよく知っているのだと思わせたかったのかもしれません。まあ、みっともない最後の抵抗ですけれども。でも、それからは会話が弾みました。
「れんくんは物知りですね。れんくんでよかったのでしたね」
「はい。みんなそう呼びます。でも、本当はれんじろうです。ハスの花の蓮に二男の二、そして朗らかと書きます」
「いい名前ですね。ハスという字が入っているなんて。実は私の名前にも蓮という字が入っておりますよ。木とハスで、木蓮」
「僕は名前の漢字を知ってはいますが、ほんとうは読めませんし、書けません」
 私は打ち明けました。
「どういうことですか」
「さあ、わからないけれど、その名前であることは父から言い渡されているけど、僕自身は読めないし書けない」
 私はまっすぐ前を向いてひたすらにリヤカーを引いておりました。彼の表情を見ることはできませんでしたが、恐らく理解できないというように首を傾げていたのだろうと思います。私自身、その時どうして名前のことを正確に伝えようとしたのか、しかも、読むことも書くことも出来ない漢字のことまで言ったのか、さらには、だけど読み書きできないのだと訴えたのかそこのところはわかりません。楓のことを知ったかぶりして話したのが恥ずかしくなったから本当の自分について説明したくなったのかもしれない。話しかけてしまったおかげで、いつから丁稚奉公しているのだとか、学校には行っていないのかとか、両親はどこに住んでいるのかとか、いろいろなことを聞かれて、自分でわかる範囲のことを精一杯答えているうちに木蓮の家に到着しました。
 それは、想像していたような豪邸ではありませんでした。木蓮の着ているものや雰囲気から、何か物々しい建物のある住まいを思い浮かべていたのですが、庭の方はまあまあ広いし、敷地そのものは相当なものがあるものの、建物と言えば今なら文化遺産として指定されるような茅葺屋根の小さな家屋で、あれが私の住居ですよ、と言われるまでは、どこに建物があるのだろうと探しているくらいでした。門も竹を編んだだけの簡単なもので、親方の作業場程度の気軽さ。もちろん、それこそが茶室です。見る眼こそあれば立派なものだったのでしょうけれど、子どもの目には違いが判らず、なんだ、大したことないじゃないか、くらいに思ったように記憶しております。

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