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解読 ボウヤ書店の使命 ㉑

 解読『ボウヤ書店の使命』を続ける。(2023年5月16日)
 前回までに、処女作である小説『駅名のない町』と、その次の作品長詩『キャラメルの箱』を解読した。
 三つ目の作品までくると、並行して制作している可能性があるので厳密にこれが三作目とは断定できないが、当時、朝日カルチャーセンターで作家の佐藤洋二郎先生が教えていらっしゃるクラスで創作していたことを考慮すると、そこで提出した『スカシユリ』が三作目となる。このクラスでは提出後コピーが生徒に配られて互いに講評し合う。しかし先生が手直しを入れたりされないので、後で推敲をしたにせよ、完全に私が創った作品だ。
 前回も書いたが、『キャラメルの箱』の主人公であるゆうちゃんは『駅名のない町』の永尾祐一の子供時代なのだが、テーマとしては彼の視点が捉えていたのはりんごおばちゃんであり、その結婚に至るまでの情景であり、最後に「箱が好きなんだよ」とりんごおばちゃんが言ったことから、「結婚とはある意味”形”である」との隠れテーマがあると読める。
 さて、三作目の『スカシユリ』はさらに踏み込んで、女性にとっての結婚の一風景が描かれているといえるだろう。
 これは、その佐藤洋二郎先生のクラスに居た頃に制作した一作目でもあるし、花シリーズの一つ目でもある。 

 ボウヤ書店で読んで頂いてもいいのだが、一応、下に全文を掲載しておこうと思う。解読は明日。

《「スカシユリ」 文 米田素子

 リビングの窓に雨の雫がポツンとついた。
(あれ? 雨かしら)
 ハトコはつけていたテレビの音量を下げる。確かに、雨音がする。急いで二階に上がり、ベランダに出て空の方を見ると、既に本降りになろうとしている。慌てて洗濯物を入れようとしたが、一瞬、手を止めて周囲を見渡すと、他の家々ではまだ干したままになっていた。そこで、
「雨ですよぉ、みなさん、雨ですよぉ」と言った。
(だって、自分だけ取り込むなんて、そんな不作法なこと出来ないわ)
 何度か「雨ですよぉ」を繰り返し、やっと自分の洗濯物を取り入れ始めた。まだ、本降りになり始めたばかりだから、ベランダ上の庇のおかげでほとんど濡れてはいない。
 全て取り入れてしまうと窓を閉め、洗濯籠に乾いた衣類を入れた。それを持ち一階のリビングに戻っていく。テレビの音量を上げ、惰性で見続けている連続ドラマを見ながらのんびりと畳み始めた。
 十分ほど経ってから、
(どれ、みなさん洗濯物を取り入れたかしら)と考えた。
 この界隈で、これといった近所づきあいらしきものがないのに、なぜか他の家の洗濯物のことだけは気になって仕方がない。あの家はぴしっと干しているとか、こっちの家は陽が高くなってから干し始めるようだとか。
 その日も、例にもれず気になって、畳んだ洗濯物を二階の娘の部屋に持って行ったついでに、再びベランダに出て、ぐるりと近所中を見渡した。雨はすっかり本降りになって、家々の屋根を濡らし、雨樋からも水滴がポタポタと落ち始めている。
 完全な雨模様の中、ほとんどの家の洗濯物は取り入れてあったが、一軒だけは干したままになっていた。
(あぁ、残念。聞こえなかったのかしら。もう一度声を掛けた方がいいかしら)
 ハトコはベランダの柵の間際まで近づいた。斜めに降り込む雨が降りかかったので、思わず顔をしかめてしまう。
(いや、もう、今さら遅いでしょう)
 自分の顔にかかった雨のおかげでやっと割り切り、諦めて部屋に入り窓を閉めた。
 一階に戻ると、畳み終わった夫の衣類を夫の部屋に届け、自分のものはリビング横の和室にある箪笥にしまう。それから再びテレビを見始めた。連続ドラマの時間は終わってしまったが気にもならなかった。続きのニュースやコマーシャルを漫然と見続けている。どうせ夜遅くなるまで誰も帰ってはこない。しばらくして見飽きると台所に行って牛蒡を削り、牛肉と炒め合わせておかずを作り、米を研いで炊飯器で炊いて、ひと通り出来上がると、新聞を読みながら一人で食べた。

 その日は、夜になっても雨足が強まる一方で、
(あのおうちの洗濯物、一体どうなったかしら)
 またしても洗濯物が気になり始めた。
 九時頃になって娘のサクラが会社から戻ってくると、器にとっておいた夕飯をテーブルに並べたりお茶を煎れたりして、体を動かしたついでにと心の中で言い訳しつつ再び二階に上がった。あの洗濯物がどうなったかを確認するつもりだ。ベランダに出てみるものの、すでに暗くなり見えにくい。それでも、昼間、干したままにしていた家の方をじっと凝視する。まだそのままだった。
(あら、まだ干してあるわ。一体どうなってるのかしら)
 首を傾げた。それから一階に降りて夕飯を食べているサクラにそのことを話した。
「ねえ、ベランダから見て一軒先のおうちあるでしょ? そこの洗濯物がずっと干したままになってるの」
「ふうん、雨なのに?」
「そう、雨なのに」
「忘れているだけなんじゃない?」
「そうかな、声かけたんだけど。いつもは、後で見に行くと入れてある気がするんだけどね」
 サクラは返事をしなかった。気が進まない様子でご飯をつつき、おかずには手を出そうとしない。挙句の果てには湯呑のお茶をご飯の上にかけ、沢庵を乗せて食べ始めた。それを見て、
(はっはん、何か食べてきたな)
 とハトコは思う。叱られないようにお茶漬けにして流し込んでいるらしい。
「何か食べてきたんでしょう」
 すかさず指摘して、ハトコはサクラをじっと見る。
「ううん、別に」
「いや、食べてきてる。お腹がいっぱいなのに、いやいや食べてるって雰囲気よ」
「そう? そう思う?」
「うん、思うわ」
「じゃ、どうして、お腹がいっぱいなのに食べてると思う?」
「それは……」
 ハトコは言葉に詰まる。ハトコの機嫌が悪くなるから食べているのですよとサクラは言いたいのだ。「無理しなくてもいいじゃない」
「そうかなぁ」
「ええ、そうよ」
「だけど、ママ、いつも怒るわよ。食べないのなら連絡しなさいって」
「それは、そうね、してくれたら作る手間が省けるじゃない」
「でもね、急な接待とかもあるし、ヒステリックに言われると、会社でもへとへとになって帰ってきているのに疲れるのよ」
 ハトコは黙る。そう言われてみるとそうかもしれない。でも一生懸命作って、温めてまで給仕したのにと思う。せめて話を変えようとして、
「洗濯物の話なんだけど」
 先ほどの話題に戻そうとした。サクラはザザッとお茶漬けをかき込み、飲み込んでから
「ほっといてあげればいいじゃない」
 と、言った。強い語調だ。
「ほっとくって」
「洗濯物を入れ忘れることくらいあるわよ。じろじろ見られているなんて嫌なんじゃない?」
「なに、じゃあ、私がおせっかいだと言いたいわけ?」
 ハトコは声を大きくする。「暇だって言いたいんでしょ?」
「ほうら、怒った」
「なによ、『ほうら』って」
「ママはいつでも、自分の思う通りにならないと怒るのよ」
 ハトコはその言葉を聞くと我慢できなくなって、思わず立ち上がった。サクラはびくっとし、慌ててお茶漬けの残りを流し込んで飲み込み、食べ終えた食器類を持って台所まで行ってシンクの中にそれを入れ、「ごちそうさま」と言い、二階の自室に向かって階段を上がって行った。
(食べた後の食器を洗いもしないくせに)
 立ち上がったハトコの勢いはやり場を失った。呼吸も若干荒くなり始めている。ささいなことだ。わかっている。でも、勢いが止まらなかった。
 どうにか収めようと玄関の外に出た。風に当たればすっとするかもしれないと思ったのだ。しかし、ますます雨足は強まっている。風など吹いてはいない。空を見上げても月も星もなく、家の前に立っている街灯だけがぼぉっと滲むように点いている。
(私、なにやってるんだろ。いつもいつも、人のことばっかり)
 息が苦しく感じられる。胸で息をし始めている。奥歯を噛む。街灯を眺めていると、なんだか目の奥がじわっと熱くなった。泣きたくなったのだ。
(今日の私、どうしたんだろう)
 玄関の中に戻ってビニール傘を掴み取り、メリメリと開いて差し、ささいなことでイライラし始めた気持ちを冷まそうと歩き始めた。(歩いたことのない方に向かって歩いてやれ)
 ビニール傘の上に雨が降り安物めいた音がする。パラパラパラパラ。少し行くとすぐに足元に雨水が跳ね上がり始めた。サンダルを履いて出てきてしまったせいで、あっという間に靴下が濡れはじめた。
(別にいいや、私の足なんか)
 干している洗濯物が濡れることはあんなに気になったが、自分が履いている靴下が濡れることは気にならないのが不思議だった。
 歩く、歩く、歩く。アスファルトから立ち上がる油臭い雨の匂い。前から来る車のヘッドライトが濡れた道を照らす色。雨を避けて塀の傍を歩く猫の光る眼。コンビニの眩しすぎる明り。植え込みの黒い塊。どこかの家のカレーの匂い。バイクのタイヤが巻き上げる水たまりの飛沫。
 歩いても行くところなどはない。歩けば歩くほどに雨足は強まって、いつの間にか靴下はぐっしょりと濡れて、サンダルとの間で音を立てるほどになってしまった。
(えい、脱いでしまえ)
 ハトコは立ち止まって、片足立ちをし、片方の靴下を脱ぎ乱暴にぽんと道に捨てた。
(あんな古い靴下、いらないわ)
 裸足をサンダルに戻すと、ぬるっと足裏が滑る。サンダルには雨水だけではなく、道から上がった泥砂も付着していたらしく、ざらつきも感じられた。それでほんの少し後悔する。靴下、古くてもないよりましだったかしら。それでも、また片足立ちになって、もう一方の靴下を脱いだ。放り投げるようにして捨てる。サンダルに戻した裸足は、やはりぬるっとした。裸足のままサンダルを履いて歩く。びちゃびちゃと妙な音を立てている。傘に突き刺さる雨音は相変わらずパラパラパラパラと鳴っている。来ていたピンク色のTシャツもすっかり濡れてしまった。デニムのフレアパンツも膝から下は濡れてしまい、救いようのない濡れ鼠になった。ここまでくると、いっそ救いようのない方が心地よい。もう徹底的に濡れてしまおうと思った。
 当てもなく歩き、ようやく立ち止まった。なんだか見たことのない風景だったのだ。たった二十分歩いただけなのに随分遠くまで来てしまったのかと思う。普段なら歩いたことのない方向に来たせいだろう。距離は大したことがないのだろうけれど。
 もう帰ろうか。街灯の明りが濡れたアスファルトに落ちてぼやけている。その上に、さらに雨の雫が落ちて跳ね、アスファルトに映った明りの輪が道路の上で動いて見える。雨足は強まる一方だ。まるで溜め込んだ怒りを降らせているようだと思う。一体何を怒っているのかしらと、ビニール傘越しに夜空を見た。するとハトコの真上にも街灯があったらしく、ビニールの上を伝う雫を照らし出していた。そのまま道路に落ちる雫もあれば、途中で他の雫とつながってから落ちる雫もある。途中で形が歪むもの、方向を変えるもの。だけど結局はどの雫も最後に、傘の隅っこまでいって、ポタポタと道路に落ちていった。
 道路には誰もいなかった。
(こんなことをして、このままずっと歩いていくとどこに出るのかしら)
 ハトコは不安になり始めた。諦めて元来た道を戻ろうかしらとも思う。後ろに向き直ってみた。住宅街がずっと向こうに見える。家々の明りが温かそうに思えた。
(私もあの明りのひとつだったはず)
 やはり家に帰ろうと歩き始めた。
 ところが、二、三歩歩いたところで、遠くから誰かがこちらに向かって歩いてくるのが見えた。
(こんな雨の中、一体……)自分だって雨の中を歩いているくせに不思議がる。
 歩いてくる人は傘を差していないようだった。少し怖くなって後ずさりし、先ほどの街灯の後ろにそっと隠れた。徐々に近づいてくる。雨音に混じって微かに鈴の音がする。黒い犬を連れているようだ。人間の方も黒いレインコートを着ている。犬の首輪に付けられた鈴の音が雨音の中で徐々に際立ち大きく聞こえ始める。目を凝らしてみると、犬を連れている人の腰は曲がり、犬に引っ張られるようにして歩いているように見えた。リードが長く伸び、犬の方が元気よく進んでいる。人物と犬が街灯の近くまで来ると、影が大きく伸びるように映った。ハトコは息をひそめて、ビニール傘を閉じ、できるだけ身を小さくして見つからないように街灯のポールに隠れた。
 しかし、それほど案ずる必要もなかったらしく、ハトコの存在に気づくこともなく通り過ぎていった。どんどん遠ざかっている。
(ああよかった)
 安心したものの、細いポールに隠れようとして傘を閉じたせいで、徹底的に全身が濡れてしまったことに気づく。衣類が身体に張り付き、服を着ているのかどうかさえもう感覚がなかった。
 無残だわと思った。こんな風になってしまうと、干している洗濯物が濡れてしまうことをあれほど心配したことが、馬鹿馬鹿しいと思えた。同時に、振り返って見た住宅街の明りが、今度は嘘くさいものに思えてきた。ほとんど家にいない夫、食事の支度と洗濯だけを押し付けて感謝の言葉のひとつも言わない娘。どうせ、あの住宅街の家々の明りのどれをとっても、本当の明りなんてないだろうと考えた。すると歩き始める発端となった感情が甦って、舞い戻ることが悔しく思えて泣きそうになった。
(やっぱり)歩いて行こうとしていた方を見た。
 まだ、犬を連れた人物が見える。
(私も行ってみよう。どうなってもいいや)
 顔の上を容赦なく垂れる雨の雫を腕で拭い取って、もう一度ビニール傘を差した。今さら傘を差しても、無意味と言えば無意味だが、顔に落ちる雨くらいは防ぐことができる。そして、犬と人物に気づかれないように距離を保ちながら、後を付いて行った。
 どれくらい歩いたのだろうか。これまでまっすぐに進んできたのに、犬と人物は急に左に曲がって消えた。ハトコは見失いそうになり慌てて小走りになる。追いかけているわけではないのだけれど、目標がいなくなっては歩く意味も失われてしまう。
 犬と人物が消えた場所で左折すると、公園の入り口があった。開園時間ではないため扉は閉まっている。入り口の横に駐車場があって、犬を連れた人物はそこに入っていったようだった。ハトコは駐車場には入らず入り口付近に立ったまま、犬と人物が何をしているのかを眺めることにした。駐車場を照らしている街灯は二本しかない。車は一台もなく広々としていた。
 人物は座り込んだ。どうやら犬の首輪につないだリードを外してやったようだ。犬は走り始めた。何もない駐車場の中をぐるぐると駆けている。人物は立ち上がり、腰の曲がった姿勢のまま犬に向かって白いボールを投げた。犬はジャンプして上手にそれをくわえ、くわえると人物の方に戻って頭を撫でられている。何度も何度も同じことを繰り返し、恐らく十五分以上、そうやって遊んだ。
(一体、今何時なのかしら。十時は過ぎていると思うけど。こんな雨の日に、しかもこんな時間に、どうしてわざわざ)
 自分のことを棚に上げて首を傾げた。
 突然、雨空の中に轟くような音がし始めた。金属すら突き破るようなエンジン音。遠くから徐々に徐々に近づいてくる。
(なに? こんな時間に、米軍機?)
 驚いたのか、犬は人物の元に駆け寄って留まった。
(明るい。米軍機って、こんなに眩しかったかしら?)
 目を細め、さらに光を遮ろうとして腕を目の上にかざした。
 息をひそめて光の方を見ていると、いよいよ飛んでいるものが、ほぼ真上に来た。しかし、それが一体何なのかは眩しすぎて見えない。これまでおとなしかった犬が、飛行物体に向かって力の限り吠える仕草をしている。恐らく野生の喉をグルグルと震わせ、犬歯をむき出しにしているだろう。吠える声は轟音に消されて聞こえない。しかし、犬が体を震わせるほどに挑んでいるのは分かった。とうとう人物の元を離れ、駐車場をぐるぐると走りながら、飛ぶものに向かって吠えたてている。腰の曲がった人物は、犬を制することもなく、じっと立って眺めている。
 明るい。明るすぎる。ますますハトコは目を細める。飛行物体は駐車場の上を旋回し始めた。
(あれは?)
 明りで照らし出された地面の先に、黄色い花が群生しているのが見えた。
(スカシユリ?)
 光の海の中に一瞬輝くように姿を現し、明りが去ると暗闇に沈んでいく。明滅するその先は、激しい雨に打たれているせいもあって、花びらがゆらゆらと揺れて、飛行物体に拍手を送っているように見えた。歓迎している、もっと、照らしてと。所狭しと群れ咲きながら、黄色く声を発しているのか。ハトコは、その狂ったような喜びの声を、実際に聞いたような気がして身震いをした。
 一方、犬はますます吠えている。恐れているのだろうか。それとも、憎しみだろうか。雨空から飛行物体を追い出そうとして牙をむいているのだろうか。飛行物体が少し遠ざかれば吠える声が浮き上がるけれど、ほとんどは轟音に消されて、ただひたすら虚しく吠えたてている。飛行物体に向かう犬の姿が駐車場の中に光と共に現れては消える。影が伸び、また闇に溶けた。
 ハトコはスカシユリの咲いているところまで歩いていった。雨に打たれながら飛行物体に手を振る花の近くまで行って、匂いを嗅いでみたくなったのだ。柵を跨いで中に入り、ユリが群生している中に入る。誰もいないのだから叱られはしない。ビニール傘を閉じ、雨に打たれながらスカシユリの中に座り込んで、空を飛ぶものを観ようと仰ぐ。金属の音。耳をふさぎたくなる。どうして飛んでいるのだろう。顔にまともに降りかかる雨を何度もぬぐう。そんなことをしても無駄だ。容赦なく降って、ぬぐってもぬぐっても降り落ちてくる。諦めて息を吸い込む。雫が鼻にまで入ってきそうだわ。吐き出す、もう一度吸い込む。この喜んでいる花の匂いを嗅ぎたいのだから。見渡す限り黄色。生き物のように揺れている。土の匂い。葉の青臭さ。水滴の散るような息を吐き出す。でもユリは、どうして匂いがないの? また吸いこみ、吐き出した。しかし、いくらそれを繰り返しても、そこに花の匂いはなかった。狂ったように咲いて、飛ぶものに手を振るユリの生命力の中にハトコは沈み込んだ。何度も何度も息を吸い込み、吐いている。時々、飛行物体の眩しすぎる光が、ユリとハトコを照らし出す。フラッシュのように。
 群生するスカシユリの中に仰向けに倒れ込んだ。葉の先で顔の皮膚に数本、薄く傷がつく。背中は泥が滲みていく。気にしないわ。目を閉じて轟音が行き過ぎるのを待った。
 眠ってしまったのだろうか。気が付くと、飛行物体の轟音は遠ざかり、駐車場で吠える犬の声だけが聞こえてきた。目を開けて座り直す。雨は少し小降りになっていた。傍にあるスカシユリはもう、狂乱する様子はない。座ったまま、花の隙間から覗くように駐車場を見た。轟音がすっかり行き過ぎると犬も吠えるのをやめたようだ。腰の曲がった人物のところに犬は戻り、首輪にリードを付けられたようだった。もう帰るのだろうか。ハトコは目の前にある花に目を移した。ユリの花びらにはいくつも、つぅと雫が垂れている。
(匂いはないのね)
 指先で花びらに触れてみた。(こんなに群れて咲くと哀れね)
 見ると、犬を連れた人物は駐車場を出た。慌ててハトコは立ち上がり、犬と人物の行く先を確かめようとした。右折している。
(来た道を帰るのか)
 ビニール傘を差し、再び歩き始めた。その人物は腰が曲がっているわりには歩くのが早い。犬のスピードに合わせているのだろうか。最初に歩いてきた大通りに出ると、もうずっと遠くの方に行ってしまい、すぐに見えなくなってしまった。
 ハトコは道路に一人取り残されて、最初は犬と人物を怖がったくせに、なんだか寂しくなった。ずっと向こうに存在している住宅街に向かって孤独に歩いていく。住んでいるときには、あの住宅街は平凡すぎる現実だ。だけど、道路のずっと向こうに認める時には、案外理解不能な星にも見える。あの星にも、飛行物体の轟音が聞こえたかしらと考えた。歩きながら、スカシユリの中に倒れ込んで、光の眩しさを瞼の裏に感じたことを思い出していた。あれは米軍機かしら。それとも……。
 黙々と歩くこと数十分。家に着くころには雨はほとんど止んでいた。自分が着ている服はもちろん芯までびっしょりと濡れて、身体に気持ち悪く張り付いたままだったが、家のそばまでくると、不思議なことにまた洗濯物のことが気になり始めた。
(そういえば、あの洗濯物、どうなったかな)
 干したままの一軒のことを思い出す。(ちょっと、見に行ってみようか)
 ハトコは家の横の細い脇道を入り、シートのかけてあるバイクの横をすり抜けて、その家の前まで行った。裏庭に干してあるはず。塀にある穴越しに裏庭を見ると、まだ干したままになっている。
(どうしちゃったのかな)
 自分が雨に濡れてしまったことも、またサクラの言葉に触発された怒りのことも、すっかり忘れて心配し始めていた。裏庭に続く部屋に灯りはついていない。
(いないのかしら)
 洗濯物からはポタポタと雫が垂れている。
 夜も遅く、結局どうにも出来ず、そのまま家に戻っていった。
シャワーを浴びて着替え鏡の前に座り、映っている自分の姿を見た。
(どこか遠くに行ってきたようだわ)
 自分の顔に何も変化はない。だけど、スカシユリの中で聞いた轟音や犬の吠える声、光を通り抜けたせいで、もう今までの自分ではないように思った。
 
 翌朝はよく晴れていた。朗らかな鳥の声も届く。ベランダに行って、あの干したままになっていた洗濯物を見た。まだある。雨の雫が滴り落ち、ところどころ、朝日に照らされて光っている。眺めていると、その家の窓が開いて腰の曲がった老人が出てくるのが見えた。
(あ、いたんだ)ハトコは少しほっとする。(どうするんだろう)
 見ていると、老人は、洗濯物を吊り下げた状態のまま、ギュッ、ギュッと絞っていき、絞ったものを再びパンパンと伸ばした。全てやり終わると、また部屋の窓から中へと戻っていった。雨に濡れたものを、そのまま乾かす気であるらしい。
(えっ、あのまま?) ハトコは茫然とする。(雨水は大気中の汚れを含んでいるけど)
 しかし、昨夜のサクラの言葉を思い出す。
「ママはいつでも、自分の思う通りにならないと怒るのよ」
 そうかもしれない。乾けばいいのよと思い直す。

 数日後、再び一階の窓に雨の雫がポツンと付いた。
(あ、雨かしら)テレビの音量を下げた。少し雨音が聞こえる。慌てて二階に上がりベランダに出てみると、確かに雨が降り始めている。
「雨ですよぉ」と言おうとしてやめた。
(ま、別に、それぞれのやり方があるだろうし、こんなことを言うのはやめよう)
 自分の洗濯物だけを取り入れて窓をぴしゃりと閉め、取り入れた洗濯物を抱えて一階に降り、テレビの音量を上げる。ところが、しばらくすると、気になり始めた。みんなが洗濯物をどうしたのか知りたかったのだ。耐えかねて確認に行くと、やはり、あの一軒だけは干したままだった。あの老人の家だけは気づかず干したままになっている。
(そっか、言っても言わなくても何も変わらない。それぞれのやり方があるんだわ)
 妙に納得して何も言わずに一階に戻り、洗濯物が雨に濡れてしまうのを気にしない練習を始めた。やはりだめだった。
(ああだめだ、もう、いっそのこと)
 ハトコは立ち上がり、ビニール傘を差して家の外に出た。老人の家を訪ねて、洗濯物が濡れていることを直接お伝えしようと決めたのだ。
 表玄関側に回り込み、玄関チャイムを押した。何度押しても反応はない。
(いないのかしら?)玄関の引き戸に触れ、少し開けようと試みた。鍵はかかっていなかった。思い切ってすっと開けてみる。
「ごめんくださあい、いらっしゃいますかぁ」
 反応はなかった。今度はお腹から大声を出してみる。
「ごめんください、雨ですよぉ」
 すると、玄関から続いている廊下の、左側にある障子がすっと開いた。
「なんでしょうかぁ」大声だった。腰の曲がった年寄りの男が現れた。顔には深い皺が刻まれていて、髪の毛は真っ白だった。相当、高齢のようだ。
「雨ですよぉ」
「はぁ?」
「だから、雨ですよぉ」限りなく大声で言う。「洗濯物、干したままでしょう?」
「おぉ。そうですか、それは、それは。アタシはもう、耳が遠くてねぇ」大声で言う。  
 それを聞いてハトコは納得し、
「じゃ」と言って外に出ようとして、ふと玄関の靴箱の上に目が留まった。黒い犬の写真だった。前に首輪とリードも置いてある。
「これは?」
 指を指して老人に尋ねた。
「あぁ、これですか。昔、飼っていた犬ですよぉ。何年も前に逝っちゃいました」
 絞り出すような大声で言う。
 見ると、写真の横に、黄色いスカシユリが一本、備前焼の花瓶に生けてあった。ハトコはどきっとする。
「これは?」
 大声で聞いてみた。老人は、皺だらけの顔をますます皺だらけにして笑いながら、「ユリならば群れて咲くより孤独に咲くがよろしいでしょう」と言った。「それでちょっと、ある場所から拝借したまで」
 肚から絞り出すようにして笑い声を上げ、「雨を知らせてくれたお礼に」と言って、花瓶から取り出しハトコの手にもたせてくれた。両手で手を包んでくれる。ユリを持った手が、ぽっと温かくなるようだった。「雨ですよ」と伝える時には、あんなに威勢よく玄関の扉を開けたはずだったのに、小さな子どもに戻ったような気持ちになった。
 黒い犬の写真をちらっと見て、大雨の中を歩いた日の話をしたくなったが、なんの脈絡もなく説明しようがなくて、どうせ聞こえもしない小さな声で「ありがとう」とお礼を言いその場を離れた。
 ハトコはドギマギしながらユリを持って歩いた。何が起きたのだろう? あの雨の日の出来事は何もかも夢だったのか?
 歩いていると、道の端っこに土まみれになって固まったものが落ちていることに気づいた。ピンクと黄緑のストライプ。見たことがある気がする。
(私の靴下だわ)
 ハトコは目を見張る。(あの日脱ぎ捨てた靴下)
 拾い上げてみた。乾いて泥がカサカサと固まっている。まぎれもなくハトコのものだ。つまり、とすると、あの夜歩いたことは夢ではないのだ。
 手渡されたユリの匂いを嗅いでみた。匂いはしない。でも、雨に打たれたユリとは違い、花びらが凛としている。

 数日後、「雨ですよぉ」という声がした。ハトコは誰かしらと驚く。リビングに居ても聞こえるほどの大声。窓を見ると、確かにポツポツと雫の形が付いている。
 急いで二階に上がってベランダに出た。すると、腰の曲がった老人が洗濯物を取り入れている。どうやらあの声の主は老人だったようだ。二階から失礼かしらと思いながらも
「ありがとう」と大声で叫んで手を振った。気づいたらしく老人も、取り入れる手を止めて振り返してくれる。
 そこで思い切ってハトコも、
「雨ですよぉ」一帯に響く声で叫んだ。
(よけいなおせっかいかもしれないけれど)サクラの顔がちらつく。
「雨ですよぉ」
 老人が再び大声で言った。こちらを向いて笑う。まだ他の家は誰も洗濯物を取り入れに出てこない。
 気にせず、老人に向かって大きく手を振ってから、慌てて自分の洗濯物を取り入れた。 (了)

原稿用紙 三十枚 二〇一三年 七月作成》


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