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解読 ボウヤ書店の使命 番外編 ④後ろに追記しました。

 前回、土曜日(2023年4月8日)にカフェ・ド・ランブルに行った後、タロー書房でチェスタトン著『ブラウン神父の童心』を買い、最初に収録されている『青い十字架』を読んでいると、小説の小道具として「茶色の袋」が出てきたので驚いた話を書いた。ランブルで購入したばかりの珈琲豆の茶色い袋が机の横にあったのでシンクロしたのだ。
 この『青い十字架』を主観的に捉えた解釈も少し書いたが、その後、最後の辺りに出てくる「驢馬の口笛」と「あしぐろ」の意味がわからないとの意見をネット上でも見つけたので、原書をkindleで購入して解読を試みた。主観的なものではなく、ある程度客観的な解読をする場合、翻訳ものは原書をあたらなければならない。アルファベットの並びに込められたコードがあり、優れた作家が書いた短編などは特に、ダブルミーニング(二つ以上の解釈を含むこと)になっている場合が多いからだ。また、著者自身も意識していない意味が込められている可能性についても考慮に入れなければならない。

 《『青い十字架』に関するネタバレの可能性があるので、読みたくない人はここから先は読むのを止めておいてください。》

 まず、この「驢馬の口笛」は”Donkey's Whistle”であり、「あしぐろ」は”Spots”だ。以下にかいつまんで書いてみよう。
 ブラウン神父は犯人に対して「どうして”Donkey's Whistle”を使わなかったのだ。もしも使っていたら、”Spots”が付いていても太刀打ちできなかったのに。私は足が悪いのだから」と言い、犯人は「どうしてそんなに邪なことを知っているのだ」と驚く。
 この部分が多くの読者にとっては謎となっているのだ。もちろん、わたしにとっても断定できる解釈はない。ただ、この謎の部分があることを前提に、改めて全体を見渡せば、この短編『青い十字架』は単なる盗人を捕まえるトリックを披露するだけのミステリではないと考えられるだろう。
 解読してみる。
 まず、名探偵ヴァランタインは大犯人フランボウを逮捕しようとしている。その途中でヴァランタインが見かけたブラウン神父は「私は茶色い袋に青い宝石の散りばめられた銀を持っている」とそこら中に吹聴している。間抜けなやつだなあとヴァランタインは思っているのだが、このブラウン神父こそがフランボウを惹きつけて(おそらく惹きつけるために間抜けな風に吹聴していた)、あらゆる手段(わざとあちこちで問題を起こすこと)でヴァランタインを含む警察にも後を付けさせて、フランボウの逮捕に至らせるのだ。途中で機転を利かせて青い十字架はウエストミンスターに送った体を取ってもいる。

 さて、ブラウン神父は本当に物質としての青い十字架を茶色の袋に入れて持っていただろうか。もちろん持っていたと解釈してもいいが、物質的には持っていなかったが持っているふりをしてフランボウを惹きつけたとも解釈できる。実際、原文には
《he had something made of real silver “with blue stones” in one of his brown-paper parcels.》
とあり、どこにも「青い十字架」を持っているとは書いていない。 さて、やや飛躍して、その物質的には存在しない「青い十字架」をフランボウに盗られないように機転を利かせてウエストミンスターに送ったとはどういう意味か。これもどのようにも解釈できるが、青い十字架を信仰心のような非物質的価値だと読解してみると、それは個人に宿るものではなく教会のような全体的なものに宿り、納めておくものであることを暗示していると思える。とすると、あらゆる小説内の小道具は暗喩として使われていることになる。
  
 多くの読者たちの間で疑問視されている”Donkey's Whistle”は驢馬の口笛だが、アルファベットを解体して、"Don('t) key(s)Whistle" と考えられなくもない。「口笛、あるいは密告に鍵を掛けるな」となり、鍵のない思考、思考盗聴を意味していると私には思える。
 私の近頃の観察では多くの優秀な鳥はテレパシーで何でも知っていて、囀りによって意思疎通を行っている。先日も書いた通り、カラスなどは私の入力中の『キャラメルの箱』のこれから入力しようとする箇所についてまでも把握済みのこともある。優秀な鳥類は人間でいうところの超能力者のようなものだ。
 だから”Whistle”を使った限りは鳥類的な自他の垣根のない思考状態、すなわち思考盗聴のことをここでは指していると思われるのだ。囀りや口笛による思考に対して鍵を掛けるなと言っているのだから。
 もしもフランボウがその技"Don('t) key(s)Whistle"を使っていたら、そこまでのブラウン神父の仕掛けは見抜かれていただろうし、ブラウン神父が持っている非物質性の青い十字架(なんらかの信仰心)に関しても直ちに盗まれていたはずだと言っているのではないか。そして、”Spots”があっても太刀打ちできないとは、どういうことか。
 ブラウン神父は登場するや否や、背が低いことや蝙蝠傘をなんども倒すことや、度を越した間の抜けた雰囲気で、欠点とも思われる様子がこれでもかといった調子で描かれている。”Spots”は汚れやシミの意味もあり、要するに、ブラウン神父は自身でその欠点を認識し、「こんなにも目立つ欠点がいくつもあるのに、太刀打ちできなかっただろう」と言っているのだ。これはどういうことか。
 やや主観的になるが、私の優秀な鳥類たちとの付き合いで気付いたのは彼らは人間の個体を背格好だけではなく、顔のシミや傷跡で判別している。服装はしょっちゅう変わるので本人だと特定できない。鳥類から見て私が私だとはっきりするためには、厚化粧はしてはならず、できるだけ他の人とは違ったシミが濃く出ている方が特定しやすいようなのだ。そして、特定できれば鳥たちは安心し、上からピピと鳴いて道案内をしてくれたりもする。汚れやシミ、欠点こそは識別にとって大事なものなのだ。
 このような解釈で一貫性をもって考えると、”Whistle”や”Spots”を隠し味に使った限り、小説の中に「鳥」の暗示もある。そこで思う。「茶色い袋に入った青い十字架」は「茶色い羽根に包まれた青い鳥」ではないか。これはブラウン神父登場の第一作だ。見た目の冴えない神父だと嫌味なほどにしつこく書いてあるが、その中にサファイアの散りばめられた十字架と同様の価値があると密やかに込めたのかもしれない。ブラウン神父の名と茶色い袋は暗喩し合っているのだろう。
 ひときわ背の高いフランボウは盗人であり、青い十字架に象徴されるような信仰上の価値をも盗もうとしたができなかった話だと考えられるし、ブラウン神父は、そんな大犯人であるフランボウにも「思考盗聴」という極悪な技を使わなかったのならまだいい人間だと言っているのだから、尊い信仰者と大犯人のどちらが純潔なのかと、常識をひっくり返してみせている話だとも考えられる。
 また、この大犯人フランボウとブラウン神父は影と光、裏と表の関係であり、魂としては一体のものだと考えてもいい。最後のシーンでフランボウがブラウン神父に途中でこっそりとブラウン神父から茶色い袋を奪い取っていたことを明かし、それを破いて中身を取り出すシーンでは、奪い取っておいた茶色い袋の中から出てきたものは「青い十字架」ではなく「紙と鉛の棒何本か」だった。
《Flambeau tore a brown-paper parcel out of his inner pocket and rent it in pieces. There was nothing but paper and sticks of lead inside it.》
 信仰の光として「青い十字架」が用いられているのだとしたら、それを教会に預けてしまって、これから「紙と鉛の棒何本か」を使ってものを書くのだと解釈してもいい。絵画を描くのかもしれない。
 まるで青い炎で全てが燃え尽きた後、この文房具だけが残ったとでも言いたげだ。個人としては信仰心(青い十字架)を持っていると吹聴して回るよりは、ものを書くか絵を描くか(紙と鉛の棒何本か)をする方がいいと決断したのかもしれない。

 ここからは個人的なさらに主観に満ち溢れていることを書くが、「茶色い羽根に包まれた青い鳥」とはヒヨドリの事ではないか。ヒヨドリはよく見るとミルクティ色の羽根に覆われているのだけれど、パッとみるとグレーに見える。しかし実際にグレーなのは頭部ぐらいで、ほとんどは物質的には透き通る茶色の羽根の重なりだ。それなのにパッと見るとグレーに見えるので、生物としてのエーテル体が青く輝いているのではないかと思う。時々、心を開いて喜んだ時、本当にほのかに青白く光ることがあり美しい。そして、固く尖った嘴は鉛のようでもある。
 数か月前、実家に青い鳥が来たことがあったと母から聞いたが、それもヒヨドリの中身の霊鳥としての青い鳥が伝言に行ったのではないかと私自身は考えている。

追記: 

 上記を書いたのは2023年4月10日で、さきほど誤字脱字を修正した。さらに、誤字脱字を直そうとすると、ヒヨドリがベランダの角に止まり、甲高い声で激しく鳴いたので見に行くと、しばらく激しく鳴き、その反対側から雀が一羽、ぴょーんと飛び出して空に飛び、ヒヨドリはその反対方向に飛び出して互いにクロスした。それで気付いた。これは
 ――クロスのことを書き忘れるな。
 の知らせである。
 これは原題の『The Blue Cross』を見た時に、私の意識にも上がって来たことだが、忘れかけていた。この”Cross”は、ブラウン神父が登場するし、小説内の登場人物たちも十字架だと錯覚しているので、一般的には十字架と訳し、『青い十字架』と題名を付けるのは正しいが、意味としては十字架以外に「横断、試練、雑種、交差」の意味があり、内容から考えると、聖と邪の本質の入れ替えとしての交差を暗示しているだろうと思う。内容を加味して蛇足的に題を付けるとするならば『青い交差』『憂鬱な交差』、あるいはもっと踏み込んで『青い雑種』でもよいのかもしれない。"Don('t) key(s)Whistle"を巧みに使う種との混合、知的生命体ブルーとのハイブリッドである。中に文脈に沿わない形で地球外生命の話題もあるし、奇跡に関する話題も突拍子もない場所で挟んである。
 実際、小説の中で当初ブラウン神父は”something made of real silver “with blue stones””と言っていて”cross ”とは言っていない、小説の最後の方になってやっと、探偵ヴァランタインが”Valentin had learned by his inquiries that morning that a Father Brown from Essex was bringing up a silver cross with sapphires, a relic of considerable value, to show some of the foreign priests at the congress.”と言っているだけなのだ。小説内の誰かがどこかで十字架だと思い込んだのではないか。
 ブラウン神父は最後にフランボウとやり合う段になって、フランボウが十字架を寄越せと言った後で、やっと”cross ”という言葉を使う。しかし青いサファイアの付いた十字架とは言っていない。そして、”but I saved the cross, as the cross will always be saved. It is at Westminster by now.”と言っている。厳密には”Westminster Abbey”に、とは言っていない。
 これは言いようのない驚きなのだ。公開することはできないが、私の事務所を知っている人なら誰もがびっくりするだろう。
 間を端折って考えると、誰も信じないと思うが、著者であるチェスタトンはこの”cross”の解読を私、米田素子に託しているのだ。聖と邪の二元論を脱構築することのできるのは、日本にあるWestminsterにしか無理だろうと考えたのではないか。どれだけ十文字が含まれている姓名か。

 ちなみに書くかどうか迷っていたが、書くことにしよう。
 私は4月1日が誕生日で、その贈り物として、2023年4月5日に姉からラピスラズリの指輪が届いた。台はシルバー。それで驚愕したのだった。
 というのも、私は姉の誕生日にサンタマリア産のアクアマリンを贈ったばかりで、それを買う時に、隣にラピスラズリのペンダントヘッドもあったので、お店の人に効能を聞いてみたら「試練を与え、大きな幸運をもたらす」と仰ったので「姉に試練を与えたくはない」と言い、「やっぱりサンタマリア産のアクアマリンにする」と言ってアクアマリンにしたのだ。
 それなのに、姉からはラピスラズリが届いたので、私としては仰天したのだった。
 私は試練を与えないように配慮したのに、姉は私に試練を与えたかったのだ、と小さな心で悲しく思ったのだ。この時のバカげた大仰天ぶりはひどいものだった。しかし、ひとまず落ち着け、と呼吸し、私の持っているサンタマリア産のアクアマリン(楕円形のを自分にも買ったのだ)の傍に同居させ、意図を静かに問い合わせる期間を持つことにしたのだ。
 その後、上で書いた通り、2023年4月8日にランブルに行き、チェスタトン著『ブラウン神父の童心』を買い、”cross”の解読をする流れとなった。ランブルに行くことも、本を読むことも、解読をすることも試練ではない。だけど、私が詩練を与えないようにと配慮した人から、逆に試練を与えようとされることの苦痛そのものが試練だった。もちろん姉は知らないで買ったのだから、姉のせいではない。大袈裟かもしれないが、この苦痛、この試練はキリストが得たものだろうから(人々を多くの試練から救おうと奇跡を起こして懸命に生きたのに、人々から試練を与えられたのだから)、それと同じ衝撃を得ることができたのだと考えてみた。まさに、”The Blue Cross”であり、青い宝石のついたシルバーであり、チェスタトンが時空を超えて私に届けた価値のものなのだ。


 ここで書くのを中断して、ラピスラズリを選んだ経緯を素直に姉に電話で聞いてみた。そんなこととは全く知らずー、とのことだった。それはそうだろう。そして、私が高校時代に姉のお下がりのコートを着ていたトラウマについても話してみた。姉は私がお下がりのコートを着ていたとは気付かなかったらしい。それぞれに思春期は大変だったのだ。
 思えば、姫路西高校の当時のコートはサンタマリア産のアクアマリン色で、姉のお下がりの私立高校のコートはラピスラズリ色だった。みんなの中で一人ラピスラズリ色だった。忘れていたのに、何かこの我慢、違和感が心の奥底にあったのだろう。それが今出てきたのかもしれない。
 だけど、姉のお下がりの私立高校のコートを着て三年間の西高の冬を越えたことは、私にとっては思いの外大切な試練だったのかもしれない。ラピスラズリ色のコートは私学の制服だったからかお洒落だったし、私の中で素敵なブレンドがあれから始まっていたのかもしれない。
 ラピスラズリをありがとうと告げて電話を切った。

参考文献 『ブラウン神父の童心』チェスタトン著
   
     




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