見出し画像

解読 ボウヤ書店の使命 ㉕-46

長編小説『路地裏の花屋』読み直しつづき。

《十一章

〈カタギリユミカの告白〉

「八年前と言えば蓮二朗さんも四十代だったのかと思うと、ちょっと不思議な気がするわ。だって、最初っから五十代に見えた。さすがに最初にお会いした頃には白髪はなかったし、老けているわけでもなかったのだけれど、クライアントカードに書かれた年齢よりはずっと上に思えた。実際、そんなものはいくらでもごまかせるし、別に運転免許証や保険証を出してもらって確認するわけじゃないから、ご本人がカードに書いた年齢をそのまま信じるわけでもないの。
 どういう理由で老けて見えたかって? そうね、話し方よ。お店を開く前に働いていたサロンでほんとにたくさんの人を見てきたけど、肌の色つやとか骨格の歪みなんかは暮らしぶりによって決まるのであって、年齢とはそれほど比例しないものだってわかってたわ。だから見かけからほんとの年齢を知ることは難しいものよ。でもね、話し方っていうのはごまかせない。たとえばね、肌が綺麗で皺もなくて、髪も染めてマニキュアを欠かさないって感じの若作りの四十女でも、なんていうか、発声の仕方が違うの。今時の女の子のするような口の中をもごもごさせて、半ばふくれっつらをした不機嫌そうな話し方はできない。たとえシャイを装って、恥ずかしそうに小さな声で話したとしても、今時の若い子の発声とは違う。
 そういった意味でね、蓮二朗さんは男の四十代にしては、はきはきと話した。悪く言うと、ちょっと芝居じみているっていうか。私からすると、五十代より上の人の話し方って、なんだか芝居じみてるの。妙に明るくって、元気があって、この先の日本が魂を失ってどうするんだ、みたいなことを力いっぱい話す人が多いわ。どうなのかしら、昭和の半ばって、きっと日本中がそういう風潮だったのね。戦争でいったんだめになったものが、段々と経済的に上向きになり、それに合わせていっぱい仕事もしたのかしら。その時の気分のままで現代も生きていらっしゃる。心も体もはち切れそうな感じの人は多いのよ。実際マッサージをしても、がんばろうとしたまま筋肉が固くなっていたり、気が充実しすぎたりして辛い症状が出ている人がほとんど。緩めて差し上げて、有り余っている気を抜いて差し上げるのが施術の基本的な方向性になるの。ところが四十代ってなると、若いはずなのに元気がなくて、なんというか骨のないぬいぐるみのような体をしているわ。こんなサロンで緩めてリラックスなんかして頂いたらもっと辛くなってしまうんじゃないかって思うのよ。どちらかと言えば、こちらから気を入れて差し上げないといけない。そうでなければ立ち上がってお帰りになれないのではないかしらと思わせるような方がたくさんいらっしゃる。たぶん、もうこれ以上は伸びしろのなさそうな日本をあてがわれた気になって、借金もいっぱい背負わされ、その上、近頃の奴は野心がないなんてけなされて、ああ、もうほとほと疲れましたって感じなのよ。
 でも蓮二朗さんは溌剌としていらっしゃったから、ほんとは五十代じゃないかなと思ってた。それから八年、髪に白いものが混じる程度でそれほど変化はなく、クライアントカードに従えば今年で五十三になるはずだけど、やっと、まあ、そんなくらいに見えるかしらって思えるようになった。ずっと変化のない雰囲気だったから、最初に聞いた年齢とようやくぴったり合うようになったのよ。
 あ、お父さん、私、たくさん話してるけど、ひょっとしたら守秘義務違反になるから他では誰にもおしゃべりしないでね。

 それで、さっき言った赤い發なんだけど、二回目か、三回目の時に見せてくれた。その頃私、髪を赤く染めて、チリチリにパーマをかけていたのよ。よくわからないけど変わったことをして見せたかったの。一人でお店を経営するのだし、そこらの田舎者とは違うのよと思いたかったのかしら。馬鹿よね。蓮二朗さんは施術台にうつぶせになってから、君はこの赤い發のようですね、と手のひらに乗せて出してきた。見ても分からなかったわ。

 なんですか、それ/知らないんですか。麻雀の牌ですよ。ハク、ハツ、チュンのハツ。ほんとは緑色で、女性の緑の黒髪を表すとかいう俗説がある/そう。でも、お持ちのものは赤いですね/珍しいものですよ。好きなんです。赤いハツで、赤い髪。

 からかってるんだなと思ったわ。それですぐに、「お客様、ちょっと痛いかもしれませんよ」と、脚のツボを強く押したら、彼、悲鳴を上げて黙り込んだ。お客様とは適度な距離が必要だし、あまり相手のペースに乗せられてもいけないのよ。だけどこの会話のせいでなんとなく打ち解けたのかな、それ以来マッサージ中にいろんな話をしてくれるようになったの。数学の話もたくさんしてくれた。「物が落ちるスピードは、物の重さに比例するかどうか当ててごらん」って話はおもしろかったわ。「どう思う?」と聞くのよ。「さあ、どうかしら」と答えたわ。実際知らなかったし、もしも知っていたとしてもこういう時は知らないふりをするのよ。知らないふりをして、それで、まあそうでしたか、知りませんでした、お客さんは物知りですねって言うのが大事なの。ただマッサージって言っても、私そう言ったことにも気配りしてる。でね、蓮二朗さんは「アリストテレスが、物が落ちるスピードは、物の重さに比例するって言ってるんだ」と言うの。「じゃあ、そうなんじゃありません? だって、アリストテレスがそう言ったんだったら」と言うと、「ほら、引っかかった」と仰った。

嘘なんですか/いや、本当さ/じゃあ、引っかかったわけじゃないでしょ/いや、引っかかった。

 そう言ってクスクス笑うの。何がおかしいのかしらって腹が立って、また、腎兪っていう背中のツボのあたりをぎゅって押したら、痛てえって叫び声を上げて、悪かった、悪かった。いや実はね、って教えてくれた。

 アリストテレスが言ったというのは本当のことだけど、その約二千年後にガリレオ・ガリレイが、物が落ちるスピードは物の重さに比例するのではないって証明したのさ/どんな風に?/物が落ちるのは、重力があるからでね、重力は重さが大きいものに大きくかかる。重さが大きいものほど動かそうとする力は大きい。ところがね、重いものと言うのは動かしにくいという性質もある。落ちたいという力も強いが、そこにいたいという力も強い。というわけで、空気抵抗のない場所で考えると、プラスマイナス一緒で落ちる速さはなんだって一定なのさ。地球だったらこの速さ、月だったらこの速さというように、条件が揃えば速さは同じ――。

 蓮二朗さんは一生懸命説明してくれたけれど私にはよく分からなかった。よくわからないわ、というふうに答えると、重量と質量は違うものだとか、なんとか分からせようとしていろいろ説明してくれたけど、こっちは仕事もしてるんだし、集中して聞いていられなかったのよ。でもおもしろいとは思ったから、「わからないけど、興味深いお話です」と言ったわ。すると、「よかった」と言ってほっとした風になった。横になっている背中がなんだか得意げに生き生きと見えたわ。その後、「ここまでの細かな中身はよくわからなくっていい」と付け足して、「細かな部分よりもこの話で一番大事なのは、ガリレオが証明するまでは、人々はアリストテレスの見解を信じていたってことだから」と仰った。

 人間は愚かってこと?/そうとも言える。誰か偉い人が言ったというと、もう鵜呑みにする。でも言えることはそれだけじゃない/他には何が言えるの?/二千年近く、その間違った定理を信じていたとしても、人間の生活になんの支障もなかったってこと。

 そこで私たちは笑ったわ。蓮二朗さんの背中も背骨を中心に筋肉がくつくつと動くほど笑った。そうよね、この世に存在しているいろいろな定理がなくても私たちは生きてはいけるわ。でもどうして私たちあの時あんなにおかしかったのかしら。
 他にもいくつか数学の話をしてくれたわ。つまるところ、数学というのは言語の一種だというのが蓮二朗さんのお決まりの主張で、計算をしたり面積を求めたりすることではないと言っていた。音楽を表すために音符や五線譜があるように、ある仕組みを表すためには数学という言語が必要で、たとえば、音楽ではドレミなんていうけど、ドというたったひとつの音を、どんなに長い物語で説明しようとしてもぴったり言い当てることなんかできない。でも五線譜の上にたったひとつの音符で示してあればすぐにそれはわかるだろう、と教えてくれた。だけど、絶対音感のある人が鳥の鳴き声でも電車が動き出す音でも五線譜で表す記号に聞こえてしまうことがあるように、数学を知ってからは知る前ならばよく判別できなかったようなことがすぐにわかるようになって、おもしろいといえばおもしろいし、辛いといえば辛いとも言った。『辛いというのは、たとえばどんな風に辛いの?』と聞いてみたら、『ある物事の答えが数式で考えれば一瞬でわかることがあるんだ。それはそれでつまらないものさ。たとえば、普通なら一生付き合ってみて、最後にやっぱり別れるべきだったなと気付くような間柄が、もう出会った瞬間に別れるしかないと答えが見えるようなものさ。幸運だと言えば幸運だけど、味気ないと言えば味気ないだろう?』となんだか寂しげだったわ。
 それ以外には絵の話もしてくれた。セザンヌのことやルノアールのこと。お父さんは絵画がそれほど好きじゃなかったでしょ? でも私、中学時代にね、友達の叔母さんが絵描きで、アトリエに時々遊びに行ったの。そのうちに絵を見るのが好きになったのよ。そういえば、蓮二朗さんは何度もこう言ったわ。『どうしてここには絵がないの? 普通、お店には絵がかかっているものだよ』って。そう聞かれると答に困った。絵はね、実はあったの。お父さんは忘れているかもしれないけど、ほら、大きなお屋敷にお父さんの店から輸入家具を搬入したことを覚えている? とても古い邸宅で、その庭にあった別棟に、ベッドとサイドチェスト、ランプ、カーテンなどを入れてほしいって頼まれたことがあったじゃない。新しく来たお嫁さんだとか言う人が、お金を出すから以前の古い家具一式を持って帰って処分してほしいって言った。ちょうど店の従業員が夏休みだから、ユミカちょっと手伝ってくれってお父さんが言って、私、手伝った。そのとき、壁に掛けてあった絵を指さして、あれもいらないから処分しておいて、と若いお嫁さんがつっけんどんに言ってね、おとなしく外そうとして私、びっくりした。さっき言った友達の叔母さんのサインがしてあったの。よく見ると薔薇の絵で、そういえば描いていらっしゃったなと思い出したわ。叔母さんのアトリエに遊びに行った時に描いているところを見ていたのよ。それを思い出し、驚いて黙ったまま見つめていると、私がその絵を欲しそうにしていると見えたのか、若いお嫁さんが薄く笑いながら『欲しいなら、あなたのものにして構わないわよ』と言ってね、どうしようかと迷いつつもトラックに乗せて一応は自分の部屋に持って帰ったのよ。その後やっぱり捨てられなかった。一生懸命描いていたのを知っていたから。なんとなく親友にも言えなかったわ。あなたの叔母さんが描いた絵、持ち主が捨てていいと言うからもらったなんて。誰にも言えなかった。
 それからずっとその絵を大切にしていて、お店を始めた時に飾ろうかと思って持ってきた。でもね、いざ飾ろうかなと思うと、なんとなく、アロマサロンに薔薇の油絵って合わない気がして、結局お守りにと思ってベッドの下に置いたの。蓮二朗さんに絵のことを言われて、思わず出そうかと思ったけど、どうしてかな、私、『絵はないの』と言って見せなかった。絵は、あの蓮二朗さんが持ってきた赤い發に似ていた。白い背景に、ただ赤い薔薇が濃淡で描かれている。だから、蓮二朗さん、本当は私があの絵を持っていることを知っていらっしゃるんじゃないかと思って、すると却って、なんだか見せたくなかったわ。蓮二朗さんがその絵を欲しがっているような気がしたの。疑いたくなんかないし、欲しいなら差し上げてもいいし、絵に狙われるほどの価値があるとも思えないけど、なんだか嫌だった。思えば、邸宅の若い奥さんに蔑むように言われて持って来てしまった自分もなんだか恥ずかしかったし、それに、蓮二朗さん、絵のことを聞くときだけは声のトーンが少し違っていたのよ。本当に微妙な違いなんだけれど、施術を仕事にしているから、私、いろいろなことに敏感なの。身体の匂いやその日の声、触った感触のちょっとした違いが分かるのよ。でも、変な風に思わないで。たぶん、私の勘違い。蓮二朗さんがそんな絵を狙っているなんてことあり得ないわ。あの叔母さんは特に有名な画家ってわけでもないし、わざわざそれを狙うなんてことあり得ない」


 そこまで話し終えた頃には、麦酒もほとんど無くなっていました。娘は知らない間に随分と飲むようになったものだなと思いました。僕が後妻をもらわなかったのは娘のためだけではありませんが、彼女に気苦労をかけたくなかったのは事実でした。でもその分、僕は仕事以外に家事や娘の学校のことも一人でやらなくてはいけなかったから、本当に忙しくて十分にかまってやれなかったのかもしれません。それで、こんなにお酒を飲めるようになるほど寂しい思いをさせたのかもしれないと感じて切なくなりました。
 何かデザートを食べるかと聞くと素直にうなずくので、ヨーグルトに果物を混ぜたものとチャイを注文しました。今日のところはこれを食べさせ、別の軽い話題を出し気分を変えた後、すぐに家に送り届けようと思っていたのです。
 ところが、ヨーグルトが届くとそれをスプーンでつつきながら、娘は再び『蓮二朗』のことをしゃべり始めました。

「そういえばね、蓮二朗さんったら、毎年、四月八日になると赤い薔薇の花束を持ってきたの。私の誕生日でもないし、お店の開店記念日でもないのに。『この日に、なんの意味があるの』と聞くと、『別にないさ』と言う。それでも嬉しかった。ありがとうって頂いて、蓮二朗さんの目の前で活けようと花束を包んでいるセロファンを外してみると、いつだって棘が付いたままだった。不思議に思って、ある時活けながら聞いてみたわ。

棘が付いてるなんて、お店で買ったものじゃないの?/いや、買った花だよ。特注なんだ/特注って、珍しい種類の薔薇ですか?/いや、その棘が特注さ。いっぱい棘のある薔薇をくれと注文している/わざわざ?/そう。わざわざ。僕は棘のある薔薇が好きなのさ/どうして?/だって不自然だろう? 棘を抜かれた薔薇なんて/そうかしら/そうだよ。棘を取られたなんて、むしろみじめじゃないか/まあ、そうかもしれないわね/だろう? だけどおかしなもので、薔薇に棘があるのが当たり前なのに、そこまで鋭い棘が残してあるものは売っていない。だから買おうと思ったら特注しなくちゃいけない。

 どうして四月八日って思っていたけれど、それは聞かないままに、私、いつの間にか薔薇を楽しみにするようになっていた。でもね、今年は来なかった。今年の四月八日は、蓮二朗さん、薔薇の花束を持っていらっしゃらなかったわ。三月にお店にいらっしゃったときに、私が婚約したことを話しておいたから気を使われたのかしら。話した時は、『じゃあ、今年は花束の日に嫌がらせでプロポーズしてやる。そしたら、その結婚、ひょっとして気が変わるかもしれないぞ』と冗談を言って笑っていたのに、どうしてかしら。もしも花束を持ってきてくださったら私、『お客様ありがとうございます、これからもご贔屓にしてくださいね』と言えたのに、いらっしゃらなくて、そして、それから一度も来られないのよ。ねえ、お父さん、来年の春は、蓮二朗さん、来てくれるかしら」》

つづく。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?