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解読 ボウヤ書店の使命 ㉒-4

 絵画教室で出来上がったばかりのパステル画について、昨日(2023年5月28日)、以下のように書いた。

 —―この絵画は現在制作中の『コルヌコピア&クリスタルエレベータ』と関連しているが、絵単体のタイトルとしては今のところ『異次元から登場した青い人が葡萄をワインに変えた』であり、絵画教室での会話などを加味して考えると、右上の指は四国の佐田岬半島辺り、葡萄は阿蘇辺りを指しているかもしれない。自分で描いておいて(かもしれない)とは怠慢ではないかと思われるかもしれないが、シュルレアリストとはそのようなものだ。小説制作と並行して、輝くもの探しを継続したい。――

 その後、これから眠ろうと布団に入ってから、なんとなく佐田岬辺りのグーグルマップを探し出して、その佐田岬が指さしている辺りには一体何があるんだろうと、改めて九州辺りへと地図を移動した。すると、ちょうど指している辺りは大分の黒ヶ浜であり、そこに観光名所として「海へと続く線路」があった。
 ――なんだこれ?
 私はそこをタップしてみた。すると写真が画面上に現れる。
 ――おお、これは、まさに『駅名のない町』ではないか!
 オーマイガ!
 頻繁に、オーマイガ!は起きるのだが、これはかなり強烈だった。


 絵画教室で、なんとなくおしゃべりをしながら炙り出しのように描き出した絵は、最終的に『駅名のない町』の場面を体現している土地を発掘していたのだ。私がシュルレアリスムの自動筆記的に絵を炙り出している様子は先生もご覧になっているし、他の方もよくご存知だ。
「謎の絵として、今書いているミステリー小説に登場しているものを、制作しているんです」
 と告げると、それはいいな、と言われて気分がよかったのだった。佐田岬をフォーカスしたのは、先生のお父様がその辺りの出身だと仰ったので、シュルレアリスト兼その探偵でもある私は、謎を引っ張り出すトリガーとしてその土地名を覚えていたのだ。
 私は以前、リビングの一か所に『駅名のない町』の制作中に描いた絵を飾っていて、そこからピータの森へと上空の通路によってつながっているのではないかとの仮説を書いた。

 そもそも、解読『ボウヤ書店の使命』はじっくりと書き溜めてから放映する予定だったのに、第三の眼に関する様々な要請に従って、第三の眼による探索活動を記録するために推敲精度を下げてもなるべくオンタイムで提供することになったのだ。そして、とうとう、『駅名のない町』の絵画と同じ風景が日本の大分の黒ヶ浜に存在することまで突き止めて感慨深い。できれば行ってみたい。

 さて、短編小説『心に咲く花』の解読の続きに入る。サクラが母親であるハトコの部屋に生けてあった黄色い花について、あれはなんだろうと思いを巡らしているところだ。

《 団地の借り住まいから、今の一戸建て住居に越してきたのは四年前のことで、設計が始まったのはそれよりも一年ほど前、サクラがまだ十七歳になったばかりの高校三年の春だった。一級建築士が丁寧にファイリングしてある設計書を持って団地を訪れ、月に一回は要望を聞いて帰った。その建築士に、ハトコは「私の部屋は作れないかしら」と執拗に言っていた。ハトコの夫であり、サクラの父親であるサトシが
「君には台所もリビングもあるじゃないか。誰よりも広いスペースが手に入るのだよ」
 と反対する中、
「そんなの職場みたいなものじゃない」
 真剣な顔をしてハトコは主張した。「二人には、自分だけの部屋があるのに、私の部屋だけないなんて嫌よ」
 何度か同じやりとりが繰り返された後、最終的に建築士が
「今時は主婦の方でも自分の空間を持っていらっしゃる方は増えてきています」
 ハトコの味方をし、「物置にしかならないようなスペースを有効に使えるようにするのは、私にとって腕の試しどころでもありますし」と付け足してサトシを納得させ、結果、引き戸と小さな床の間までつけて、想像していたより部屋らしい部屋にした。
 そこまでして作った部屋なのに、引っ越してから母親がそこで何かをしているのを見ることはあまりなく、それなら、どうしてあの時あんなに主張したのかしらと思っているうちに、いつしかハトコ専用の「寝室」となっているのに気づいたのは最近のことだった。サトシとハトコは仲が悪いわけではなさそうだが、サトシの仕事の都合で帰宅時間がまばらになり食事を一緒にしなくなってから、寝る時間も合わなくなって、睡眠不足を嫌がったハトコがそこに布団を持ち込んだらしい。
 サクラは引っ越した当時のことを思い出しつつバス停へと向かって歩きながら、
(あの部屋の花、買ったのかしら?)
 と考えた。近頃は仕事が忙しいのでハトコの生活に興味を持つことなどなく、話すらしないことも多いのに、黄色い花のことは妙に気になってしまった。今さらサトシがハトコに花を一輪だけ買ってプレゼントすることなど考えられない。(お母さん自身が買ったのではないとしたら、誰かがお母さんに?)
 誰かがハトコに花をプレゼントしたのだとして、それが一輪だけというのなら「お祝い」ではないだろうと思った。誕生日でもないし、そうでなくても、何かのお祝いなのだとしたら、小さなブーケか、一輪の花だったとしてもかすみ草などの添え花が入っている方が自然な気がした。もしも、もらった時には添え花が入っていたとして、それが萎れてきたから捨てて生け替えたとしても、だとしたら、あの黄色い花は萎れすぎてはいないだろうか、と思う。洗濯や掃除、料理などを几帳面に取り仕切るハトコの性格から考えると、生けている花が萎れてしまったのを、だらしなく忘れて生け続けているとも考えにくい。
(大切な誰かから、もらったのかしら)
 萎れかけた花を花瓶から取り出し、水を換えて、再び生けているハトコを思い浮かべてみると、尋常ではない思いが想像されて、小さな狂気すら感じずにはいられなかった。》

 今時ではどうなのかわからないが、一昔前の「専業主婦」の地位がよく表れている。おそらく、専業であろうとなかろうと、「主婦」に個室があることは少ないのではないか。
 確かに、多くの場合、家中のどこもかしこも「主婦」が掃除をするので、霊的次元で考えるのならばその家は完全にその「主婦」のものだ。土地や建物というのは、法律上の名義や権利に関わらず、霊的次元で考えると「掃除をする人のもの」だと私は考えている。
 掃除とは動物たちのマーキングのようなもので、ケガレを祓うと共に、掃除をする人のエーテルを張り巡らすためのドットを打ち込む作業でもある。たとえば鳥類を見ていると、新しい土地を自分の領土にしたい時には、まずはフンを落とす。そして誰も掃除をしなければ徐々に進出し、自分の領土になったらそこにはそれほどフンはしなくなる。逆に掃除をする存在がいることがわかると、「ああ、ここは自分の領土ではないな」と諦めて、ほどほどの訪問客としての立場をわきまえるようになる。
 小説の中のハトコはそんな風に考えるのでもなく、自分の個室を要求したらしい。「妻」や「母」といった相手あっての立場としての自身ではなく、ハトコとしての場所を必要とした。娘のサクラは——そこまでして作った部屋なのに、引っ越してから母親がそこで何かをしているのを見ることはあまりなく、(それなら、どうしてあの時あんなに主張したのかしら)――と思っているのだが、何かをするためではなく、ハトコがハトコとして存在するための最小単位の殻なのだ。
 そしてサクラはそのハトコ自身の部屋に飾ってある黄色い花について驚きを持って眺め、いつまでも思い巡らしているのだが、ハトコが「妻」や「母親」、あるいは「専業主婦」としての側面以外の側面を持っていることに、今更ながら気付いたと言えるだろうか。そして、なんとなくそこに危機感を覚えている。
 この危機感とはなんだろうか。サクラから見て「下働きをして周囲を支えるだけの女」が今にも枯れ落ちそうな黄色い花としての自我を抱いていること。
 今のところ、「下働きをして周囲を支えるだけではない女」であるサクラにその花はない。おそらく、サクラのような「下働きをして周囲を支えるだけではない女」ならば、なんとか賞のタイミングや、歓送迎会などで社交辞令としての花束を何度でも貰う機会があるだろう。しかし、この不思議な、サクラから見て「下働きをして周囲を支えるだけの女」であるハトコが得た黄色い花の狂恋咲きの一輪を手にすることは難しそうだ。

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